唯識の原点をさぐる その1
「新装版 講座大乗仏教第8巻 唯識思想 平川彰・梶山雄一・高崎直道編 1982年 春秋社」所載「『瑜伽行派の形成』 高崎直道著」(同書pp.1-42)を読む。
1 はじめに
唯識の伝統を考える上で、「瑜伽行派の形成」は避けて通れないものであろう。
インドの大乗仏教は、中観と瑜伽行の両派につきる。この後者のものが唯識思想である。非常に難解な部分ではあるが、ここをいい加減に素通りすると、後がいけなくなる。
どれだけ理解しているかという自分自身への戒めとしても重要な記事である。
伝統的な唯識学というのは、もっとも精密な理論体系であって、ただ単に法相宗の宗学という規定だけではその枠に収まりきれない。もっとも、私は、特定の宗派をどうのこうのということが嫌いである。幅広く宗教思想を学んでいきたいと思っている。それはまるで信仰とは違うものである。それはそれで理解をしている。あってはならないことであるとも思っている。しかし、追求だけはしていきたいのである。思想として。
だからお許しいただきたい。こんな形でいろいろと書き始めていることを。一人の信仰者としてではないからである。真剣にそれぞれの宗教を信仰なさっている方にはまことに申し訳ないとは思っている。決して信仰をないがしろにしているわけではないからである。
さて、唯識3年、倶舎8年と言われて江戸時代には多くの学僧が奈良に勉強をしにいったものである。倶舎を8年やれば、唯識は3年で済むというのがこのたとえである。
倶舎は、世親の「阿毘達磨倶舎論」(唐 玄奘訳 30巻)であり、唯識は「成唯識論 玄奘訳 10巻」のことである。
この後者の成唯識論は、私の尊敬している岡野守也先生の労作によって何度も読書体験をさせていただいてきた。非常に興味深い分野である。ただし、これまでの私の学習では、正直ここまでの初歩段階であって、まだまだ追求すべき課題が多い。
以下にそのポイントについて述べる。
2 倶舎と唯識
世親の「阿毘達磨倶舎論」は、南都六宗の一つである倶舎宗の論典である。道昭等が法相宗を伝えた時に、「成唯識論」と併せて「倶舎論」をもたらしたのに始まる。その最初から法相宗にあわせもってスタートしたものである。
この時期の「宗」というのは、むしろ学派に近いニュアンスを持っている。したがって倶舎宗は倶舎学というべきものであった。
両者に「性相学」としての共通性があったのである。「性相」とは、法性と法相であって、法性とは共通する本質をいい、法相とは諸法の個別的特色である。倶舎では、あらゆる存在を七五種の基本的要素に還元し、さらに色、心、心所、心不相応行、無為の五種類にまとめ、これを五位七十五法と呼びならわしている。
同様に唯識では、五位百法をたてる。これが法の体系である。言わば法相分類学という意味で、法相宗と呼ばれるのである。天台宗が特に法性に教理の重点を置くのに対して、名付けられたものであった。
性相学であるが、倶舎は小乗に属し、唯識は大乗に属する。
唯識は空性説に立脚しているからである。
3 近代の唯識思想研究
明治時代に入り、近代ヨーロッパのインド学の手法が導入されて、唯識研究の手法も変化してきた。
日本において最初に唯識説に関心を示したのは、宇井伯寿である。宇井は、1916年にケンブリッジに留学中に「『唯識』の原語について」を発表した。(同書 p.4)
その後、宇井は、多くの論文を発表したが、摂大乗論研究によって、真諦の伝えた旧訳の唯識説が、無着・世親の真意を伝えるものとして、一大論争を引き起こした。
宇井の説は、伝統批判を行ったわけであるが、かえって真諦の学説への絶対評価となってしまった。それが法相教学の絶対視につながってしまった。
宇井と並んで唯識学説研究に寄与したのは、山口益である。
山口は我が国の唯識説研究にチベット訳の重要性を唱えたこと、その結果としての後期インド仏教研究が進歩したのである。
戦後も、宇井・山口両碩学の功績は大きい。
4 唯識思想の担い手 瑜伽行派
唯識とは、「一切の法はただ識(=表象)にほかならない」ということで、これを唯識説と呼んでいる。この学説を創始し、継承・発展させた人々は、ヨーガーチャーラと呼ばれている。(同書 p.7)
七世紀の後半にインド仏教の状況として、「大乗は、二種をすぐることなし。一はすなわち中観、二はすなわち瑜伽なり」(同書 p.7)とある。
つまり、中観と瑜伽がそれぞれ中国文献に初出の語である。マーディヤミカ、すなわち「中の派」を中観と呼ぶ。そして、ヨーガーチャーラーは瑜伽である。
5 瑜伽師の系譜
瑜伽師とは、仏教修行者のすべてを指す。(同書 p.8)
しかし、著者の場合は、仏教内部における特定グループを言う。関わりのあるのが、玄奘の「瑜伽師地論」である。この書籍は100巻にも及ぶ膨大なものであって、玄奘一人で成し遂げられたかどうかは不明確であるが、無着(アサンガ)が、衆の前で講じたものであるともされている。むろん、弥勒が無着に授けたものであるという説もある。
この瑜伽行師たちのとった特有の観法が「唯識観」であった。
※ 長くなったので、唯識観については、次回の宿題にすることとする (3258字になってしまった、しまったしまった。これじゃ5人しかいないブログの読者が逃げていってしまう・・・とほほ・・・)