と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

映画「再会の食卓」を見て

2012年05月19日 09時17分32秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年


2011年正月第2弾、TOHOシネマズ シャンテほか全国順次公開
中国と台湾の歴史に翻弄(ほんろう)された元夫婦の悲喜こもごもを描き、家族とはどうあるべきかを問い掛ける人間ドラマ。40数年前に妻と離ればなれになった台湾の老兵が

­、上海に新しい家族を持つ妻の元を訪ねたことから、家族それぞれの思いが浮き彫りになっていく様子を映し出す。監督は、『トゥヤーの結婚』で国際的な名声を得たワン・チュ­アンアン。第60回ベルリン国際映画祭の最優秀脚本賞にあたる銀熊賞を受賞した、深みのあるストーリーに感じ入る。
配給:ギャガ




・ここのところずっと固い記事ばかり書いてきたので肩が凝った。当たり前である。固い人間ではないからである。私はただのおっちょこちょいで、まるっきり漫談みたいな人生を送ってきてしまったからである。致し方なし。それでも、こんな人間でもいい映画には感動することもある。

・この映画は、昨日、大学の講義の空き時間に見させていただいたものである。タイトルも聞いたことがなかったが、紹介にまず興味を持ったのである。政治と文学というテーマであると思った。最初は。ドストエフスキーみたいだなと感じたのである。ドストエフスキーは学部時代の卒論のテーマでもあったから、それなりに読みこんだつもりであるからである。

・そんな感じで見させていただいた。あくまで空き時間である。それにクラスメイトも一緒であったから気軽に見始めた。字幕があるから、わかるよと同級生諸君(こんなじじぃに同級生とは死んでも言われたくないだろうケド)に言われて見始めたのだが、画面が小さくて困った。こっちに来なさいよと言われて、一番前に座らせていただいた。それでもまだ小さいので、フンフンとうなりながらである。

・遅れてきた同級生が来てからそれが一変した。なんと、手元の機械であっという間に画面を大きくしてくださったのである。リモコンというのだそうである。笑った。こんなこともオイラは知らないのかって、ね。自宅のテレビと一緒じゃないかと。もっともテレビは殆ど見ないからなぁ。。。。。

・しかしである。そこからぐいぐい引きつけられていった。政治的にはまったくの素人であるから以下の感想文は、素人の戯言として書かせていただくケド。


・二人の男性に翻弄される女性。彼女の生き方を、決して他人事ではないと思ったからである。妻として、たった一年だけ過ごした男性が、国民党で一緒に逃げようとした港で会えなくて、彼女は一人中国に残されてしまう。

・彼女はその後、大陸側で、夫と多くの子とも達と40年にわたって家庭を構築して、それなりに幸福に過ごしていく。そして、ある日突然一年だけ過ごした前の夫が、上海の彼女の家を訪ねてくるのである。そこからの描き方が抜群であった。

・女性主人公を主役として考えていくのであろう、普通は。有名な女優さんだそうで、不勉強な私は、知らなかった。彼女の陰影に富む演技は実にすばらしい。迷いや、悩み、前の夫と再婚しようと決意するまでの起伏ある心理状態を見事に演じきっている。

・それよりも、現在の夫を演じた男優さんがすばらしい。彼は、前の夫と再婚を決意する妻を許すどころか、応援するのである。これにはびっくりした。脚本の見事さであろう。そして役者の演じ方も実にいい。

・なぜそんなことが言えるのであろうかと思ったのである。そこまで見事に割り切れることができるのだろうかとも。カードをとりながら見ていたので、だんだん分析的になってきていた。素直に見られないのである、アタシャ。

・そして、気がついた。現在の夫もまた、政治的に痛みを負って生きていたのであった。台湾にいる前の夫も、戦争で引き裂かれ、政治的な争いの中で痛みを背負っていたのであった。

・二人とも、主体を生きることができなかったのである。他者に翻弄され、価値を信ずることができず生きてきたのであろう。なんともなんともいたましいことであった。それに気がついたら、実に哀しくなって、お目目からアセが出てきた。すぐ後ろの同級生もグスングスンとやっていた。私以外は全員(3人しかいないが)中国の大学の先生方である。しかも女性であるから、身につまされたのだろうか。私だって目からアセが出るのである。当時者としてはもっと切実なのだろう。もっとも、これ以上は書かない。国情の違いというものがあるだろうから。

・されど身につまされた。

・なぜか。それは、私の配偶者が、この映画の主人公のように、ある日突然、前の・・・とか言っていなくなったらどうしようと思ったのである。あっても不思議ではない。可能性として。

・それにしても急転直下。現在の夫は、脳梗塞になってしまう。それでも、この夫は言う。妻に。あなたの幸福のためにはそれがいいのだと。できた夫である。ここまで言えるかということである。アタシャ言えないです。くだらない煩悩の固まりでありますから。

・さらにできた男が、前の夫。すべてをそれであきらめるのである。これ以上は書かない。書いてはいけない。映画会社に叱られてしまう。

・いい映画だった。身につまされるという点を除けばであるが。

 

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「瑜伽行派の形成」について その2

2012年05月19日 06時50分32秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

唯識の原点をさぐる その2



「新装版 講座大乗仏教第8巻 唯識思想 平川彰・梶山雄一・高崎直道編 1982年 春秋社」所載「『瑜伽行派の形成』 高崎直道著」(同書pp.1-42)を読む。

 


1 はじめに
 唯識の伝統を考える上で、「瑜伽行派の形成」は避けて通れないものであろう。
 インドの大乗仏教は、中観と瑜伽行の両派につきる。この後者のものが唯識思想である。非常に難解な部分ではあるが、ここをいい加減に素通りすると、後がいけなくなる。

 どれだけ理解しているかという自分自身への戒めとしても重要な記事である。

 伝統的な唯識学というのは、もっとも精密な理論体系であって、ただ単に法相宗の宗学という規定だけではその枠に収まりきれない。もっとも、私は、特定の宗派をどうのこうのということが嫌いである。幅広く宗教思想を学んでいきたいと思っている。それはまるで信仰とは違うものである。それはそれで理解をしている。あってはならないことであるとも思っている。しかし、追求だけはしていきたいのである。思想として。

 だからお許しいただきたい。こんな形でいろいろと書き始めていることを。一人の信仰者としてではないからである。真剣にそれぞれの宗教を信仰なさっている方にはまことに申し訳ないとは思っている。決して信仰をないがしろにしているわけではないからである。

 さて、唯識3年、倶舎8年と言われて江戸時代には多くの学僧が奈良に勉強をしにいったものである。倶舎を8年やれば、唯識は3年で済むというのがこのたとえである。
 倶舎は、世親の「阿毘達磨倶舎論」(唐 玄奘訳 30巻)であり、唯識は「成唯識論 玄奘訳 10巻」のことである。
 この後者の成唯識論は、私の尊敬している岡野守也先生の労作によって何度も読書体験をさせていただいてきた。非常に興味深い分野である。ただし、これまでの私の学習では、正直ここまでの初歩段階であって、まだまだ追求すべき課題が多い。

 以下にそのポイントについて述べる。


2 倶舎と唯識
 世親の「阿毘達磨倶舎論」は、南都六宗の一つである倶舎宗の論典である。道昭等が法相宗を伝えた時に、「成唯識論」と併せて「倶舎論」をもたらしたのに始まる。その最初から法相宗にあわせもってスタートしたものである。
 この時期の「宗」というのは、むしろ学派に近いニュアンスを持っている。したがって倶舎宗は倶舎学というべきものであった。
 両者に「性相学」としての共通性があったのである。「性相」とは、法性と法相であって、法性とは共通する本質をいい、法相とは諸法の個別的特色である。倶舎では、あらゆる存在を七五種の基本的要素に還元し、さらに色、心、心所、心不相応行、無為の五種類にまとめ、これを五位七十五法と呼びならわしている。

 同様に唯識では、五位百法をたてる。これが法の体系である。言わば法相分類学という意味で、法相宗と呼ばれるのである。天台宗が特に法性に教理の重点を置くのに対して、名付けられたものであった。

 性相学であるが、倶舎は小乗に属し、唯識は大乗に属する。
 唯識は空性説に立脚しているからである。

3 近代の唯識思想研究
 明治時代に入り、近代ヨーロッパのインド学の手法が導入されて、唯識研究の手法も変化してきた。
 日本において最初に唯識説に関心を示したのは、宇井伯寿である。宇井は、1916年にケンブリッジに留学中に「『唯識』の原語について」を発表した。(同書 p.4)
 その後、宇井は、多くの論文を発表したが、摂大乗論研究によって、真諦の伝えた旧訳の唯識説が、無着・世親の真意を伝えるものとして、一大論争を引き起こした。
 宇井の説は、伝統批判を行ったわけであるが、かえって真諦の学説への絶対評価となってしまった。それが法相教学の絶対視につながってしまった。
 
 宇井と並んで唯識学説研究に寄与したのは、山口益である。
 山口は我が国の唯識説研究にチベット訳の重要性を唱えたこと、その結果としての後期インド仏教研究が進歩したのである。
 戦後も、宇井・山口両碩学の功績は大きい。

4 唯識思想の担い手 瑜伽行派
 唯識とは、「一切の法はただ識(=表象)にほかならない」ということで、これを唯識説と呼んでいる。この学説を創始し、継承・発展させた人々は、ヨーガーチャーラと呼ばれている。(同書 p.7)

 七世紀の後半にインド仏教の状況として、「大乗は、二種をすぐることなし。一はすなわち中観、二はすなわち瑜伽なり」(同書 p.7)とある。
 つまり、中観と瑜伽がそれぞれ中国文献に初出の語である。マーディヤミカ、すなわち「中の派」を中観と呼ぶ。そして、ヨーガーチャーラーは瑜伽である。

5 瑜伽師の系譜
 瑜伽師とは、仏教修行者のすべてを指す。(同書 p.8) 
 しかし、著者の場合は、仏教内部における特定グループを言う。関わりのあるのが、玄奘の「瑜伽師地論」である。この書籍は100巻にも及ぶ膨大なものであって、玄奘一人で成し遂げられたかどうかは不明確であるが、無着(アサンガ)が、衆の前で講じたものであるともされている。むろん、弥勒が無着に授けたものであるという説もある。

 この瑜伽行師たちのとった特有の観法が「唯識観」であった。

6 唯識観について
 喩伽行派の実践目標である。
 解深密経の分別喩伽品には面白い問答がある。
 それは、一言で言うと「心が対象と一つになるような作意」とでも言うべきことが書かれてあるからである。問うのは、弥勒菩薩である。なんともレベルの高い方々の対話である。認識の構造という問題が扱われているからである。映像がこころに他ならぬという体得を直接的に問題にしている。
 このことの意義は尊い。(同書 pp.12-14)

7 解深密
 この経の名前は、謎解きを表している。
 それではなんの謎解きをしたのか。

 「世尊よ、何の密意によりてこの如き説をなすや-一切法は皆自性なし」とあるように、X(A₁、A₂、A₃、A₄・・・・・)とあるならば、それを結びつけて、Bがあるというような論理の展開をさす。Bという表現にA₁、A₂、A₃、A₄というような意味が含まれているというわけである。そのBをサンディというのである。言外の意味、意趣と言ってもいい。密意、深密と訳す。つまりA₁、A₂、A₃、A₄を謎とくわけである。

 それでは、解深密はなんの謎解きをしたのか。それが 「世尊よ、何の密意によりてこの如き説をなすや-一切法は皆自性なし」の部分なのである。

 上記の「一切法は皆自性なし」が、Bに相当する。すでに書かれた教えや説である。それが皆自性なしという結論がここで書かれてしまっている。つまり「X」(エックス)には密意であるA₁、A₂、A₃、A₄が含まれているのである。この辺りが非常に楽しく、面白い点である。まるで数学ではないかとも私は思うのである。そのA₁、A₂、A₃、A₄とは、相と生と勝義の3点であると書かれているのである。そこまでは踏み込まないが。(pp.14-16)

8 密意としての三性説
 遍依円の三性説こそが、「一切法無自性」の密意の内容に他ならない(p.17)と著者は説かれる。

 非常に重要なご指摘である。

 「遍計所執相」とは仏の教説中のあれこれのこと=法。個別的な存在。

 「依他起相」は、縁起である。これあるとき、これあり、これ生ずるとき、かれ生ずるということである。

 「円成実相」は、一切法の平等の真如である。

 問題は「一切法相」であって、基本は縁起ということであろう。しかしながら、縁起無自性ということは、修行の結果理解可能であるということであって、私のような者が、ここで知ったかぶりをすることが許されるかどうかということについては、ただひたすらカオを赤らめているしかないことである。私自身初学者であるから、もう少し私の記事につきあっていただきたい。まだ、私の問題意識が明らかになっていないからである。

 つまり、一切の法が無自性であるならば、そこに名を冠し、名に対応する表象を仮想するのであるから、そこはあくまでも言語的な世界である筈である。それをなぜ、仏教は無自性と言うのか。これである。これこそが、私の興味を抱かざるを得ない部分なのである。

 そこに執着してしまったら、私のようなものは、無知蒙昧、あるいは迷える衆生から一歩も進まない。(迷いすぎている衆生である・・・・認めます・・・・自分でも)

 そんなことはハナからわかってはいたけれども、そしてだからこそ、執着してはいけないと思うことにしているが、これは難しい。なぜなら、私は僧侶でもないし、信仰という問題ではハズレものであるからである。先祖代々所属してきた曹洞宗はここに触れていない。(と、初学者の私は思っている)他の宗派でもそうである。法相宗がその総本山ではあるが。もっともここでどこがいいとか、なんとかということを申し上げているのではない。ゆっくりと自分なりに納得いくまで読書していきたいだけである。だから、長生きをしたいのである。あまりにも膨大であるからである。

 さぁ、ここで「能」との関連性が出てくるのである。つまり言語的表現と、舞と、劇としての能との関連性である。ここではこれ以上は書かないが、実に私には興味がある分野である。

 しかしながら、ここでは他者を仮構する、あるいは思索しているこちら側の自分というものの視点が明らかになっていない。この点は決してないがしろにできない部分である。

 つまり、主体性がない。表面に出ていないのである。これもまた面白い。なぜなら、能もまた秘ということを問題にしているではないか。表面に出ていない部分を読み取ることで能は成り立っているのである。これ以上は書かないが、またまた興味のある分野であることだけを、この記事にメモとして残しておきたい。



 

 

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5月18日(金)のつぶやき

2012年05月19日 03時51分59秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年


23:08 from Tweet Button
再会の食卓 blog.goo.ne.jp/barriosmangre/…いい映画をみさせていただいた。。。。。。。。政治に翻弄される一組の夫婦の物語である。

23:11 from web
この映画、ドストエフスキーならばどう描くかと感じていた。カードを取りながら見ていた。困難な話題である。中国国民党と共産党の狭間にあって、愛をどう貫くかという実に重いテーマであった。

23:14 from web
政治と文学という課題は、おそろしく膨大な問題であろう。。。。。まさにドストエフスキーでないと書けないなぁ。

23:16 from web
中国の人々を描いているわけであるが、同じ人間であるということである。やはり、政治の扱えない部分が文学にはあるのかもしれない。

23:22 from web
今日はクラスメイトたちと延々10時から夕方の6時まで議論や、発表や、映像をみたりしていた。実に有意義で楽しい時間をすごさせていただいた。すばらしい方々である。相当なエリートだとは思っていたが、違わなかった。母国語の中国語と、英語もできるし、日本語はプロ。

23:24 from web
凄い人が世の中にはおられるもんです。あたしゃ日本語もままならぬ。だみ声だし、ホトホト、トホホであります。

23:26 from web
一番しびれたのが、川端康成の雪国の冒頭部分を翻訳していただいたとき。これって、なかなか日本語を母国語としていても、難しいのに。説明していただいて、なるほどと思いました。

23:31 from web
それと、知性のある方々は違う。マナーも違う。

23:36 from web
村上龍あたりは、この辺を例の調子で皮肉っているが、つまり知性のある人はなんとやらということである。そもそも、私は村上龍が嫌いであるが、文庫本は全部読んだ。嫌いなのに、なんとくなく気になるのです。悪友みたいなものです。つきあいたくないのについつい会ってしまうという、悪友(^0^)/

23:46 from web
しかしです。60過ぎて、毎日勉強することになるとは、お釈迦様でもわからんかったでしょうなぁ・・・いやぁ、充実しています。なんだか、ますます心身ともに快調であります。すばらしい方々が、クラスメイトとして周囲におられるだけでも、知的な刺激になります。

23:47 from web
就寝まであとすこしあります。もうちょっと学びましょう。60の手習いであります。ありがたいことであります。

by tym943 on Twitter

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/