・愚生にも一丁前に孫がいる。男児である。3月に生まれたばかりである。すくすくと育っていて、実にかわいい。ただし、実に残念であるが、県外にいる。よって、なかなか会えない。長女の子である。
・人並みに、爺馬鹿ぶりを発揮している。かわいくてならないのだ。だっこしてもかわいい、寝顔を見ていてもかわいい。まったく馬鹿である。他人が見たら、嘲笑の対象である。
・で、しばし考えた。
・なんでだろうかということである。
・しかも、爺と婆では、かわいさが異なっているのではないかということに気がついた。配偶者(こっちは婆)とそういう意見で一致したのである。男の方(こっちは爺)が、異常にかわいがるということである。肯定する。私自身は。間違いない。義兄もそうだし。
・老いの問題がそこにあるのではないかと、ふと思った。
・孫がかわいいのは、自分が、もう子孫を残すことができず、生物としての能力に欠けるということに気がついたからである。老いたからである。自分の子どもまではいい。自分の生物としての能力の証である。しかし、孫は子どもの子どもである。隔世なのである。
・そこには大きな隔たりがある。寂寥とも違うような気がする。だんだんと、それこそ真綿で首を絞めるように、生物的な時間が失われていくのである。それを寂寥と言うならそうであろう。あるいは、死ぬということへの恐怖。あるいは、周囲のもの全てを失っていくという無力感。
・そうしたものが、老いということの強烈な衝撃であるのかもしれない。それに気がついたのが、孫の誕生である。もう、世代としては終わったのだという宣告をされたようなものである。
・だから、自分よりもずっと若い世代には、応援したくなるのである。いい人生を送りなさいよ、電車の中であふぉ~なゲームばかりやっていないで、ちょっとでも勉強しないといけませんよと言いたくなる。ただの説教爺である。ま、じっと我慢しているが。説教しても無視されるだけでしょうからなぁ(^0^)/
・だいたい、若い世代の親たちが情け無い。金儲けのことしかアタマにない。なんでもかんでも、浮き世のつまらないことばかり。クルマ、豪邸、貯金の額、美食、ファッション、スマホ、ブランドもの、髪の毛があるかないか、不倫、セクハラ、恋愛、適齢期、学歴、ライセンス、身長、体重、健康オタク、最後に出世・・・・・・・・・・・ああ、もう止めた。髪の毛が特にそうだが、ここにあげたものみんなアタクシには無いものばかりである。(あの・・わたくし禿頭なんです=(^0^)/)
・みんなどうでもいいことばかり。孫ができると、そういうことがどれだけ無意味であったかを知らされる。だって、孫ができたということは、オノレが滅亡するということを目の前で知らされるのであるから。
・私は、生まれ変わりを信ずることがまだできない。よって死後のことは楽観的に考えることができない。これからどうなるかはわからないのだが。それでも、浮き世というものが永遠でないということだけは信じている。孫は、そういうことを天に代わって私に説教してくださっているのである。
・だから愛しいのである。言い換えれば、失われていく我がいのちへの哀惜である。いまからそれを自覚して生きていくしかないのである。若いときに、そう10代のときに、そのことだけは気がついていた。老いの問題についてである。だから、高校時代に印度哲学に憧憬したのだろう。他にはなんにも気がついていなかったから、こんな中途半端な人生を送る羽目になってしまったのだケド。
・本当になんにも自慢できるものがない。みんな中途半端である。柔道がその頂点である。15歳からやってきて、まだ4段。これでは話にならん。しかも、痩せてしまって、受け身をとると、ケツが痛いのだ。自虐だ。笑ってしまうくらいに情け無い。ベンチプレスで140キロもあげていたのが信じられない。プロティンも呑んでいたんでっせ。信じられません。
・勉強もそうである。城西国際のレベルの高さに怯えている。本当になぜ死ぬほど勉強してこなかったのかと自責の念にかられている。死生学でも、国文学でも知らないことが多すぎて困っている。中途半端である。
・人格的にも中途半端である。まったく人間ができていない。喜怒哀楽が未だにカオにでるのである。
・さらに、むこうから美人がくると美人に見えてしまうのだ。どうしても骸骨が歩いているように見えないのである。まったく情け無い。
・どうやったら、過去の高僧達のように、あるいは哲人たちのように老いることができるのかと悩んでいるのである。修行不足である。まったく。
・孫にわらわれっちまうですな・・・(^0^)/ウフフ