・死生学についてずっと追求してきたと標榜する以上、あるいはその観点から老いというものを考えることはこれからの私にとって貴重な試みである。
・むろん最後は唯識と能というテーマにもっていきたいのだけれど、できるかなぁと逡巡してしまう。壮大なチャレンジをしてしまったものである。
・今日は、「能楽源流考」をamazonから購入したので、えっちらこっちら大学まで持参してきた。相当に重い。金と腕力がないので、大変である。(^0^)/
・そして読み始めた。基本書中の基本書なので、これはおろそかにできない。そして、なぜ基本書中の基本書であるかよく理解できた。さすがに碩学の書かれた本である。引用文がすばらしいのである。原文について、相当の力がないと読み解くことができない。漢文だらけである。
・慨嘆ばかりしていたが、このままではいけない。チャレンジである。明日も大学にきて、ずっと読解作業である。ありがたいものである。
・そして、このタイトルのように老年について読解作業の合間に書くことで、ずっとあたためている「書きたいこと」への真相に迫りたいと思っているのである。もう気がつかれた方もおられるだろうが、このブログは私のおもちゃである。知的玩具。
・ここに書くつもりで、各種文献を読み込むのである。けっこうハードであるが、なかなかいい。わかりやすく書いていけるからである。なにアタクシの他に、5人くらいの読者である。ともかくやってみるしかないというのが、私のこれまでのモットーでもあったから。
・老いを生きるというのは民俗学的にも非常におもしろい分野であろう。
・現在の日本では「定年後」というのがキーワードで、愚生のこのブログも、定年後どう生きるかという視点で読んでくださっている方がおられると思う。その場合、マイナス思考というか下降志向というか、おとなしくしておれ!という不快感が後ろに隠されているような気がしてならないのだが。
・たしかに私のような老人は目障りであろうと思う。しかしだ。積極的に人生の最終チャレンジをしていってもいいのではないか。たとえ邪魔であってもだ。
・青森県の五戸地方には、どの村にも「よのなかじじ」というのがいる。東京の民間人校長で名をはせた藤原先生の「よのなか科」とは違う。呼び名が似ているだけである。
・よのなかじじとはどう書くのか。それは、「世の中爺」である。彼らは誰よりも時候の推移に敏感であった。いつも風の吹き方、雨の降り方、雪の積もり方、霜のおり方、川の水音など、あらゆる天然自然現象を注意深く観察していた。
・村の人々は、そういう老人に尊称として「よのなかじじ」を奉ったわけである。だから、老人はかつては共同体の運命を左右するほどの存在であったのである。
・他に「東方作さん」というのもある。作試しをする老人のことである。
・元旦の朝、小高い丘に登って、星の回り方、雲の流れを観察してその年の作柄を見極める老人のことである。極めて地位の高いものであったそうな。わかるような気がする。
・徒然草の168段には、老人についてのおもしろい記述がある。
「年老いたる人の、一事すぐれたる才のありて『この人の後には、誰にか問わん』など言はるるは、老いの方人にて生けるも徒らならず・・・『今は忘れにけり』と言ひてありなん・・・」の部分である
・老人は、たとえ優れた能力を持っていたとしても『今は忘れにけり』というちょっと離れたポーズをとった方がよろしいというのである。
・なかなかの教えである。そういう自然体がよろしいのである。
・ゆめゆめ、老害をまき散らしてはならんのである。知らない方がいいことも世の中にはたくさんあったからである。まして、それを若い人に押しつけて得意になっていたらなにをかいわんや。
・「老い」を「生い」に変えていかなくてはならんのである。そんなことも、今日は院生室で考えたのである。おっと、いんせいしつと入力したら、隠棲室と変換したのはもっとびっくりしたが。