・私の旧ブログをほったらかしてある。つまり、そのままにしてある。新規の記事はまったく書かないことにしている。当たり前である。前職の時に、広報活動でやっていたからである。未練がましく、前校長の日記とやったら、これは現校長に悪いではないか。それほど恥さらしではないつもりでいる。
・ところが、まだアクセス数が高い。このと~ま君の還暦老学生日記よりもはるかに人気がある。なぜか?・・・これを考えていた。
・挨拶のデータベースになっているのかもしれない。実際に、前職の学校で話したことであるから。もっとも、ほとんどは基本形というものであって、変化させておしゃべりしていた。式でも、来賓が急遽こられなくなったら、アドリブで変化をさせていた。これは聴いている方に、わからないようにやっていた。
・ありがたいものである。本当にありがたいものである。
・他に考えられることは何か?・・・現在の在校生諸君がのぞいてくださっているのかもしれない。これはいけない。もし、生徒諸君が見ていたら止めましょう。私と関わりのある生徒たちは、この3月に卒業した生徒までである。これからは、新校長のもと、おおいにがんばっていただきたい。こちらは在校生は見ていないでしょうけど。
・閑話休題。
・今日は雨である。実は膝が痛い。おしりの両サイドも痛い(^0^)/ウフフ
・原因は柔道である。年々からだが堅くなってきている。実に恐ろしい現象である。武術を語ることはできないのだろう、もう。つまり確実に身体的には、老いたのだ。しかし、それ故にこそ、稽古が大切であるとも思っている。身体的な要素の大きい武術は、衰えがすぐくる。それでも、なおかついわゆる使える身体を維持するのが、私のこれからの義務である。
・下手な精神論をここで展開するつもりはない。
・それでも、古来の優れた武術人の精神的境涯には憧憬する。上泉伊勢、柳生石舟斎、宮本武蔵、嘉納治五郎等々の方々に、である。(沢庵和尚も)
・自分にはまったく無い、とうてい及びもつかない方々である。文献を探し出してきて、ふっとため息をつきながら眺めていると、また日頃やっている文献や論文読みに戻れるのである。
・私だって、なんのために生涯学習をやっているのかと問われれば、そのことの回答を見つけるためであるとしか答えようがない。迷いの多い、自分自身を知るためである。繰り返し言うが、なにかになってやろうという気はさらさらないのである。つまらないことに拘って生きてきた自分を分析してみたいだけである。
・誰かに教えたいとか、そういうつもりはない。ただし、このブログの背景のような居酒屋で、銘酒を含みながら雑談はしてみたいと思うが。ささやかな願いではある。
・だから私は専門というものが無いと言ってもいいのだろう。強いて言えば、雑学。(^0^)/ウフフ
・あるいは、本学に入学させていただいた時に申し上げたニヒリズムの快癒のために、とでも言うのだろうか。
・学部卒論では、ドストエフスキーと椎名麟三であったから、このタイトルだけでおわかいただけるのかもしれない。
・Twitterで東京女学館大学の撤退を知った。いくつか拾っておいたので、明日またこのブログには反映されるであろう。多くの識者の分析があった。興味深いものがあったが、いろいろと疑問に思うこともあった。
・専門的な経営者を導入すべきという意見もあった。
・それはそれで問題設定としては結構なことであろう。それでも私には違和感がある。はたしてそうであったのだろうかと。経営者の視点だけでいいのだろうかと、思うのである。
・福澤諭吉せんせいは、その点を熟知しておられたのではないだろうか。現在の慶應義塾大学の成功は、まさに福澤諭吉せんせいの「物語性」にあったのではないかと思うからである。その物語を福澤せんせいは、多くの場所で、手法で語られたのである。後から考えれば、戦略上見事なものであって、それこそ学校経営上の大専門家であろう。
・しかし、福澤先生を思想家と呼ぶ人はあっても、学校経営専門家とは言わない。
・このあたりに、奥義があるような気がしてならないのである。
・大学の募集停止ということに、こころ痛む日々である。(おまけに柔道の古傷の膝も・・)