と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

武士道

2012年05月04日 21時25分28秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・こんなタイトルで書くことができるほど、武道に精進しているわけではない。もっとも、人に自慢できるような得意な分野はない。まったくない。およそ、すべてが素人芸でしかないのだ。されど、なぜこうやって読書感想文めいた駄文を書くのか。それは、書くことによって深まるからである。知識が、である。あるいは、知らないことが明らかになるからである。

・実は、専門分野の本ばかり読んでいたいのだ。しかし、20代のころから乱読病にかかっている。我慢できないのだ。いろいろな分野の本を同時並行で読んでいる。もっとも、人文科学系がもっとも多いが。

・だから、研究で身を立てることができないのである。これまでも、これからも。それはそれで仕方のないことである。大望はない。あくまで、知らないことを教えていただく、あるいは自分で学ぶというスタイルであるからである。

・しょうがない。世渡りも下手であるし、なかなかごますり根性も身につけることができなかったからである。つまるところ、かわいげのない男ってことである。

 

・今日は、同時並行で「よみがえる武士道」(東京大学大学院人文科学研究科助教授 菅野覚明著 PHP)なる書を読み終えた。なかなかである。日本倫理思想史がご専門で、葉隠の研究で名高い先生である。

・こういう先生の存在自体が私にはありがたいのである。

・「武士の仕方のすすどさよ」という序章に(pp.1-4)に近松門左衛門の「堀川波鼓」が紹介されている。誤って不義を犯した妻が自害するのを、武士である夫がとどめをさしてやる場面である。冷静で(しづしづ)で、しかも果断な(すすどさ)武士の仕方は、限り無く深い。

・近松門左衛門も当然抱いていた武士のあるべき姿というものは、どこからくるのか。それをこの書籍は明らかにしている。それは、武士の「自己」と「実力」という問題にかかわる。柔道をやってきて、まさにこのことは個人的に喫緊の差し迫った問題でもあったから、切実である。

・いろいろ疑問も感じるからである。柔道についても。なぜフランスのようにできないのかとか、競技人口がフランスより少ないのはなんで?とか、本当にいろいろ感じている。しかし、書けない。素人であるからである。4段になって30年。これじゃぁ、発言禁止。稽古をしていない証拠であるからである。(^0^)/ウフフ

・「実力とはなにか」という章がある。ここもおもしろい。武士の実力とは何かというのである。著者は「それは、自己の持っているものすべての力である」(p.43)と書いている。腕力、武芸ばかりではない。知識、才覚、身体能力、財産、家族、肩書き、容貌、性格、気質から・・・いろいろと上げてある。肉体も、精神も武士達には武器であった。だって、闘って負けたら一瞬のうちに死んでしまうのだから。

・古くは「つわものの威」と呼び習わしていたのだそうな。私の好きな「今昔物語」にもいくつも説話文学として出てくる。

・「なぜ大将と僧侶は気が合うのか」(pp.70-85)も面白い。沢庵和尚とかに興味を持っている私には、である。「甲陽軍艦」の文章をもってきて、著者は説明をされる。越後の謙信公が、曹洞宗の僧侶法興和尚に会ったときのことを例にあげておられる。栗を10にせよという謙信公の言い分に、ごりごりで10にしたという一休さんのとんち話のようなことが書いてある。(謙信公だけ尊称させていただくことをお許し願いたい・・私事ではありますが、米沢の人間ですので)

・領地拡大にむかってひた走った武士であるからこそ、名利にはことのほか拘ったであろう。しかし、名利をも超えたミチに至ってしまっては、武士というあり方の逸脱になる。一種の逃避であり、武士としては、あるいは大将としてはあまりにニヒリストすぎる。家臣団としては危険である。こういうのが、大将では。

・名利にも拘る。しかし、またいつでも何の未練もなく一切を捨てきれるのもまた武士の本質である。この点武田信玄の出家の理由もまた著者の見識が光る。「人は落ちるのが当たり前である」というのが信玄の覚悟であったのだそうだ。(p.83)・・・見識である。実にいい。だから信玄は、防御の天才であったのだろう。

・「国を滅ぼす馬鹿大将」という章も楽しい。(pp.88-137)なかでも、「得意とするところで醜態をさらす」というところは実に楽しい。まるで私のようだ。得意技は自信のよりどころであろう。しかし、かえってそれであるが故に失敗もする。体力や気力が衰えてくるとなおさら得意技に頼ろうとする。

・なるほどである。まったくいいことを言われる。

・「馬鹿大将は多芸・万能」(p.96)もいい。なんでもできることを自慢しているスーパーエリートが世の中にはごまんとおられるが、「甲陽軍艦」はそれも戒められる。うなる。自分は一国一城の主であるという自負が、多芸・万能に導いてしまうのである。

・家来に知恵を盗まれる大将もいけないと戒めてくる。家来は自分の主君がなにを考えているのかをなによりも知りたいのである。隠すべき内側を家来に知られてはならないと戒めてくるのがやはり甲陽軍艦である。

・「一生を見事に暮らす」のが、究極の生き方なのであろう。いろいろなさむらいたちの生き方を通して、まさに著者の思想を教えていただいていたが、この書籍は繰り返し読んでこそ味わいのあるものであろう。

・現役時代に読んでおけば良かったと思う。

 

 

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内田百聞先生の研究書を読む

2012年05月04日 16時13分42秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

「大谷 哲著 内田百聞論 他者と認識の原画(2012 新典社)」を読む


・研究の目的と意義について、冒頭に著者がふれている。つまり「初期幻想小説として一括りにされる第一創作集『冥途』と第二創作集『旅順入城式』所収のテクストを中心に研究対象化したものである」(P.7)とある。

・この考察はなかなかのものである。さらに、「百聞文学の<近代>における<文学>としての<物語>への志向性の一側面と、その意義を論証的に整理分析すること」とも書かれている。書き出しに非常に惹かれた。

・ということである。私の好きな視点での分析である。誰しも、物語を基盤として、考え・感じているからである。

・またまた好き勝手に書かせていただく。

・百聞先生は、いろいろなエピソードを豊かに持っておられる。実にすてきな方である。

・漱石の門下、借金の名人、酒仙、美食家、汽車旅行好き、琴を愛する。推薦された芸術院会員を「イヤダカラ、イヤダ」の名言で辞退。・・・なかなかの怪人である。不肖、と~まのもっとも尊敬している風流人でもある。

・こんな生き方がしたいもんである。もっとも、あたくし風情では、なんとか会員だの、ぐちぐちの賞だのというのとは無縁である。まったくもって、その程度の能力しかない。しかも、成果も上げていない。まったく無縁の世界で生きてきてしまったからである。

・あたくしは、学歴もなんにもない。金もない。腕力もない。なんにもない。学歴って言ったって、通信教育オンリーできた強者である。だから、知識人としての世間的な相場からはある意味正反対の立ち位置にいる。わかっていて言っているのである。そんなのが何になるんだってことを、である。

・ある意味バカである。心底からのバカである。これまでいろいろな賞状をいただいてきたが、全部要らないのである。だから周囲にご迷惑をおかけしてきた。捨てようとしたからである。この3月にこのあふぉ~な性格を知り尽くしておられる方々が、ある賞状をガクに入れてくださったのは、捨てないようにというあたかかいご指導であったのだ。ほんとうにご迷惑をおかけしている。今でもである。申し訳ないくらいである。

・元に戻ろう。

・「冥途」では、漱石の「夢十夜」との関連を筆者は取り上げ、またいろいろな学者の分析を表にして紹介もしておられる。(p.30)

・ユングとの関連性を私は思った。あるいは、死生学とのも。無意識の世界が、百間先生の作品には広がっているからである。

・冥途というタイトルから受ける感覚についての分析も鋭い。(p.105)

・冥途について、まずは山折哲雄先生の説を紹介してから一気に引き込まれる。

・山が、仏教以前から死者の霊が立ち上る特別な地域と考えられていたと言われる。柳田國男も同様な指摘をしていて、日本人は古くから死ぬと魂が遊離して山に登っていくと信じられていたという。

・感覚的に非常に思い当たるところがある。

・折口信夫の「マレビト考」からの海上他界の説も紹介している。

・折口は「なぜ人間は、どこまでも我々と対立して生を営む者のある他界を思ったか、他界を願望したのか」ということである。

・他界という物語をなぜ人間は持ち続けてきたのかということであると、私は読み替えたが、まさにこの点こそ、この大論文の言われたいことであったのではないかと思う。

・非常に構造主義的であると私は感じるのである。

・いわば、現世と異郷において、この世とあの世の境界を物語ることになるわけである。このあたりの指摘は非常に興味深い。著者も指摘しているとおり、文化人類学的な複合的な視点からの分析をされていたのである。

・この点が、この本を手に取った最大の理由である。

・冥途とは、観念の操作である。つまり物語である。観念から、物語は構成される。当然、それは他者になりすまして構成することも可能になる。であるからして、内田百間先生の作品群で、決して間違ってはならないことが、語り手=作者ではないということを意識して読まなくてはならないと思うのである。

・それにつけても、この書の研究方法はみごとなものである。真摯なる姿勢と、地道な研究の精進ぶりに感服つかまつった。

・感謝である。

コメント (2)
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/