葬送を大げさにしたくないという家族が増えたという。密葬とか、家族葬というものである。高齢化が進み、70代の息子が、90代の親の葬式を出すことも珍しいことではなくなったということである。
社会を引退してからの期間が長いから、世間的な交際も減り、参列者も少なくなる。このことはある意味当たり前でもあろう。だからおおげさにしたくないという遺族が増えるわけである。特に、核家族となって葬儀についての行事関係について知る人がいなくなってしまっている。地域文化が継承されないのである。だから何をどうしたら良いかわからないのだ。
葬儀は規模がすべてではない。大規模だからいいのではない。むしろこじんまりとしたアットホームな家族葬もいくらでもある。ただし、「簡素化」だけが優先されるとなると、意味がまったく違ってしまう。
昔は、世間体もあって、あるいは遺族の見栄もあって、普通より相場を高く設定してくれというのが多かったという。ところが最近は、これが違っている。葬式なんかにカネをかけたって無駄だ、遺された方の生きる手段の方が大切だと言われてしまうのだそうだ。なんでもカネなのだ。こんなところにも、功利主義的な考え方が出てきてしまっている。カネが儲かるか、儲からないかという選択しかないのだから。
火葬する炉の前で僧侶が読経するだけの格安バーゲンもあるという。「炉前密葬」というものだそうである。
あるいは通夜のみで、すべてを済まそうという風潮もある。通夜の告別式化というのだそうである。本来は通夜というのはプライベートな性格があったのにもかかわらず、である。そのうち本葬とか、告別式が無くなってしまうではないのかと思うと心から寒くなってしまう。
喪主の側でも可能なかぎり、手間のかかる行事を拒否しているのだそうである。会食もなし、出棺の前に初七日をやるケースもある。香典も、辞退するケースがあるとのことである。特に都市生活者にとっては、老人がなくなったのだから、世間体を取り繕わなくてもいいという理由で、簡素化を目指すのであるとのことであった。
これ以上家族に迷惑をかけたくないという理由で、直葬を選ぶ老人も多いとのことである。田舎に住んでいても、先祖代々の墓は、子ども達が大都会に移っていってしまって、荒れ果てている。この先だれも管理してくれる人間もいないから、死んだらゴミと一緒だ、焼いてもらうだけでいいと言われる老人が増えているとのことだ。
自然サイクル保全事業協同組合という団体がある。火葬場に残ったお骨を骨粉になるまで処理する専門業者である。ある北陸のお寺に観音像があって、その裏手にコンテナが置いてある。そのコンテナの中には、残骨が埋葬されて永代供養されている。
遺族がまったくお参りにも訪れず、管理料も払っていなければ、「無縁墓」となる。法律も整備されていて、平成11年には「墓地、埋葬等に関する法律」が簡素化の方向で改正されている。
自分は将来無縁墓になるかもしれないという不安を抱えている人は、高齢者の25%であるという。法律の整備により、無縁墓は、納骨堂などで供養されるものの、官報への掲載と墓地内の看板に掲示(一年間)だけで、撤去できるようになった。遺骨は納骨堂で供養されるものの、墓地自体は転売可能となったのである。
供養する人がいなければ死者は忘れられる。
亡くなった方をどうするかということでは、「財産を減らしたくないから」という理由で葬儀を簡単にしてほしいと言われる遺族も増えているとのことである。
ゴミと一緒だからという理由だそうである。しかし、亡くなっていく方々は自分を本当にゴミだと思っているわけではない。人間の尊厳に関わる問題と、家族とのあり方をこの発言は示しているのである。自分をゴミだと言わなければならないという哀しい家族関係がそこにはあるからである。ある意味姥捨て山伝説よりも哀しい現代の風潮があるのだと思う。
散骨についてもふれたいが、このことはまたの機会にやってみたい。
葬儀を考えるということは、ある意味終末期医療のことであり、家族学のことであり、死生学を考えることである。誰にでも例外なく突きつけられたこの真摯なる問いが、我々には確実に迫っているのである。誰にでも、である。誰だって死ぬんだから。
誰も逃げる事ができない問題。
それが「死」の問題である。
※産経新聞大阪社会部 「死の教科書 なぜ人を殺してはいけないか」 (扶桑社) 2007年 を読んでの感想文