今日はずっと大学にいて、論文書きをしていましたが、かえって疲れました。
話になりませんな。
(^-^)/
こんな程度で。情け無い。
そんなわけで、疲れマシたので、音のコスモロジーと名付けたボクのつまらん駄文を下に紹介します。今日書いていた論文の一部分であります。これでけふはお詫びを(^-^)/
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(二)音風景の存在
商業演劇にはあって当然の音声装置も全くない鬼来迎の舞台は、まさに「音風景」とでも表現すべき言語・音楽作品である。しかしながら、それはあくまで農民達が八〇〇年もの長い間語り伝えてきた伝承であり、宗教劇である。しかも、幸運なことに、語られている伝承のテクストが存在する。それが音として現象するという意味あいにおいて、鬼来迎のパフォーマンス自体が、音風景論の対象になっていく可能性がある。
物語の内部には、単なる情景描写から複雑な象徴的表現まであって、鬼来迎を見る者に、視覚的イメージを与えてくれる。しかもそれは、実際の仏教劇として弘済寺において実演される。説得力のある農民芸能である。
(三)鬼の語る声
鬼の声や音については、「今昔物語」に詳しい。
美福門院ノ前ノ程ヲ行クニ、東ノ大宮ノ方ヨリ多クノ人、火ヲ燃シテ?テ来。(巻一四 第四二話)2)
?テ(ノノシリテ)との表現等がある。鬼の声は、人の声のようではあるが、決してそうではない声であり、大きいだけでは無く小さなしゃがり声であったりもする。地震のような地鳴りに聞こえる場合もある。
つまり一般化できないのである。鬼の声は特殊性を持っているのである。そのことに注意していかなければならない。鬼来迎のような鬼の登場してくる劇については特に注意して聞かなければならない。
確かに鬼来迎における鬼の声は、大きくしかも動作が騒がしい。
これと対比するのが、地蔵菩薩と観音菩薩の声である。非常にすずやかな、細い声ですらある。網野善彦は、中世の人々の高声と微音について対比的なとらえ方をすることによって、中世人たちの宗教と生き方を説いた。4)高声は大声であり、微音はささやき声である。後者は、貴人による聖なる声でもある。つまり、声の質を変えることによって、自己の存在を誇示したグループがあったということを対比の結果として、音の世界が具現化する。鬼来迎で登場してくる地蔵菩薩や、観音菩薩はあきらかに声の質を変えて舞台に登場してくる。「聖なる存在」への変身である。あるいは宗教的な演劇としてこれ以上の効果的な演技はない。
つまり、異界との交流が声の質の変化によって可能となるのである。
鬼の声は異端である。大声で観客を威嚇する。まさに異界の世界を現そうとしているのである。閻魔大王も、倶生神も大きく足を踏み出し、ダンダンと舞台を踏みならす。観客のような常民とは違うというような迫力がある。さらに、鬼達はもっと動きが大きく、大声でかなりの強さで、しかも回数多く足を踏みならす。
この対比はまことに見事と言うより他はない。
人間の世界ではなく、まさに霊界の世界を表現しているのである。そのために、声を変化させ、歪曲させ、神や仏のような役割を設定していくのである。
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おやすみなさい。