学校五日制が検討されているという。インターネットのニュースで知った。いよいよ本格的に始動したのだなぁと感じた。
これをどう考えるか、ということである。
学力向上の点から考えるべきなのか、それとも・・・とやるべきなのか。マスコミは学力向上の観点から考えておるが、本当にそうなのかと疑うべきである。そもそも、ボクは、すべて疑いから入るのだけれども。
学力向上は、五日から六日にすることによって、本当に向上するのだろうか。だったら、極端だが、まったく休みなしで、七日間学校に通って勉強していれば、誰でも天才になるのだろうか。
非常に無理があるのは誰でもわかる。天才とか、秀才とか、自称学校秀才とかいうのは、絶対数が少ないからこそ希少価値があるんであって、それだけのものでしかないのである。これもちょっと言い過ぎではあるが。
下地に、勉強時間が絶対値として多ければ、成果は上がるという信仰があるのではないか。
部活で練習時間が多ければ、多いほど成果が上がるというのと一緒である。大阪の体育高校の体罰問題みたいなもんで、スパルタをやればやるほど勝てるという間違った信仰に結びついていると思うのだ。
また、六日制にすることで、教職員の人件費が高くなるということで問題視している雰囲気もある。これまた、経済学が教育を支配しようとしている証左である。根っこに教育についてどう考えるかという哲学がないのだ。行政側に。
そもそも、経済用語で教育を語り始めると、どうも胡散臭いのである。つまり、人件費の安い、できれば人件費を全く払わないでもうけたいという下心が見えてくるからである。
だとしたら、現代の日本は人件費が高いからというその一点で、毛嫌いされ、経済的に立ち後れてしまうのである。
経済の視点からは、人件費が高いということで、我が日本はもう敗北しているのであると思うしかないではないか。だから高学歴の一般ピープルはいらないのである。非常に問題がある。こんな国がどこにあろうか。なにをしているのかと訴えたい。ボクのようなじじぃだからこそ、これからの若者たちを活用して、国力を上昇させてやりたいと思うのである。ほんとうに若い人たちのパワーを活用しなくてはならないと思うのだ。
ボクのような高齢者はもうすぐこの世からいなくなる。だから好き勝手に書いているのだが、けっこう真実を言っているつもりである。
根底に、「やる奴はやる」というのがボクにはあるのである。受験だって、スポーツだってそうである。勝てる奴は勝てるんだということである。そんなことを言ったらと~まよ、身も蓋もないではないかとなるけれども。
やる奴は好きだからやるのである。受験だって、スポーツだって好きな奴は何時間でもやれるのである。英単語だって、朝から晩までやっても飽きないのである。好きだからである。それでいいではないか。向いているからである。適性があるからである。それをなんだか知らないが、「根性論」「努力論」だけで片づけてはならないと思うのである。
システムだけをいじっても、全員が天才・秀才・自称学校秀才になれるわけはない。
根性があればなんでもできるとか、努力すればいいのだ、できないのは努力が不足しているんだというのは、ある意味正しいのであろうとは思う。しかし、そういうところから脱落していった人間もいるということを、天下のエリート(自称も含む)たちは、考えてほしいのである。そう簡単に「自己責任」という美辞麗句を伝家の宝刀のように振り回さずに。エリートと言ったって、エリートの中にも段階があるのは、いかなあふぉ~のと~ま君でも知っているから余計そう思う。
学校六日制の根底にあるものを今一度考えてみたいものである。
つまらんことを書いているけど。こっちは。じじぃだから。
おはようじゃぁなくてこんにちは。もうお昼ですね。昨日の雪で電車も遅れがちでした。今、隠棲室にいます。これから今度は統合的な論文書きにチャレンジです。
相当の史料を準備しておりました。いつもながら、この大学に入れていただいて、感謝です。オレのような能力のないモンを鍛えてくださっているのですから。実にありがたいもんです。