ワンコが亡くなったし、どうーもモチベーションが高まらない。師匠からの激励メールで昨夜は(正確には真夜中)、ちょっとはやる気になったが、いかんせん道楽学問であるからなかなか困難である。
ボクの兄弟弟子たち、というよりは年下の兄弟子さん達はいい。なりたいものがあって、目標目指してばく進しているからである。先日拝見させていただいた博士の学位請求論文は、A4で270枚(「枚」でっせ)あったのだ。ある意味、ショッキングな分量である。入学された時から、同一テーマでやっておられたのだ。尊敬をとおりこしている。凄いことである。
ボクも頑張らなくっちゃならん。でも、ナニカになるためのものではない。兄弟子達のようなわけにはいかない。就職はできないからである。雇ってくれるところは当然無い。じじぃだからだ。
自己満足なんだろうなとは思う。あるいは、ボクが死んだとき、棺桶の中に一緒に入るのが駄文の束なんだろう。それでもいいか。それでも。そんなもんだろうしなぁ。
農民芸能と宗教。これをずっとやっていくしかないんだけど。ま、楽しいからいいか。ある意味割り切っていくしかないんですな。ほんとの話。
昨日はある大型電気店で、ワードを買うか買わないかと迷っていて、ベテランのいつもお世話になっている社員さんと相談していた。そろそろ新しいワードが出てきそうなことと、ボクは一太郎のファンなのでとか、論文テンプレートが欲しくてとかやっていた。横書き用の論文テンプレートの話をしていたのだ。あまり横書きはしないから。道徳教育で書いているからいろいろ不都合が出てきたのだ。スポーツジムの帰りに寄ったのである。結果的には買わなかったのだが、良かったと思っている。無くてもできたからである。だから今朝はなかなか起きられなかったのだ。老犬ジョンもいなくなったし、起こすのがいないから。
道徳教育の駄文を書いている。在籍校とは違う大学の研究紀要に掲載予定である。だから、こちらも真剣にやっている。大学の教職課程講師(非)として、どのような理論的背景と、中学校高等学校の教員として実践を重ねてきたかという1万字程度の文章である。自分で言うのもナンダが、なかなか面白い内容になっている。村井実、正木正、ソクラテス、ボルノウ等々がベースになっているのだが、具体的にどういうように授業実践へと結びつけていくかという「問い」が基盤である。これを教職課程を学んでいる学生達と考えてきたのである。書いていて面白くなってきたのだから、笑ってしまう。自己陶酔である。わはははははははである。
今日も、孫といっしょに遊びながら、駄文書きをする。
ジョンだけがいない。
さっき、お世話になった女性獣医師の先生に報告をさせていただいた。「ジョンは大往生でした」と。先生は、しょげているボクを激励してくださったのであろう。明るく、大往生でよかったねと言われた。そうである。よかったのである。苦しまず、ろうそくの火が消えるように、すーっと逝ったのだ。ボクから大好きなパンももらって、それで最期になった。それでよかったのだ。いつまでも生きているわけにはいかない。
そんなことを学んだのだ。齢、60にして。
そういうことなのである。そういうこと。