パトラッシュとクララ
1 はじめに 子どもは、自分の中に行動様式を取り込むときに、周囲の大人から影響されることが多い。また、映画やテレビ、童話などの主人公からも行動の善悪を学び、ものの考え方の基本を...
パトラッシュとクララ
1 はじめに 子どもは、自分の中に行動様式を取り込むときに、周囲の大人から影響されることが多い。また、映画やテレビ、童話などの主人公からも行動の善悪を学び、ものの考え方の基本を...
毎日云うことが一定してしまっている。
つまり、「暑い!」ちゅうことで、参ってますなぁ。こんなに暑いと、人間嫌いになってしまう。誰にも逢いたくなくなる。たとえ恋い焦がれたあの人、その人、あっちの人も、思い出しもしないっちゅうもんだ。できることなら、誰もいない山奥の仙境で、イワナでも眺めながら、釣り糸を垂れていたいもんだ。もっとも、イワナはオレなんかにひっかかるようばブスではないから、大丈夫だけどね。(^0^)
午前中は、もうじき孫が帰ってくるので、買い物につきあった。そして、午後はお楽しみの県立図書館に籠もった。原稿を書いている。もう90枚になった。いや、まだ90枚だ。A4でだ。このペースだと何枚になるのか見当がつかない。最後は、私家版で出すつもりだから、分量はまったく心配していない。これをやりたくて、じじい学生になったのである。
ところがだ。調べれば、調べるほど、範囲が広がってくる。参った。原稿を書いていると、「房総一覧志」という本を見たくなったから、図書館の司書の方に、お聞きした。オレのポンコツパソコンでは探せないと思ったから。そしたら、やっぱり千葉県内には無かった。国会図書館にあるんだそうだ。東京に行くのか?かーーーーと思った。カネがないからいけねぇんだ。今月は特にいけねぇ。コンピュータと中国語の電子辞書の支払いで、パンクしている。あ、それに保険がきかない医療行為をしてもらって、全額で数十万になっているから。
自己破産しているのだ(^0^)。
夏休みだから、家と県立図書館を往復しているだけでいいから、逆に良かったのだ。
カネは一切使わない。あはははははである。本はもしかしたら取り寄せ可能かとも云ってくださったから、それはそれで待っていようっと。これもまた楽しみである。
しかし、来週の月曜日は郷土史の役員会がある。これは行かなくちゃならん。これもまた楽しみの一つであるから。秋の調査について、あるいは研究発表大会がある。オレは運営側にいるから、なにかと仕事がある、仕事はあるけど収入はない。趣味だから。趣味が学問になっているのだ。こんなにすてきなことはないのだ。すてきでないのは、オレの顔だけだ。
15:53である。
さ、これからジムに行こうっと。
昨日バーベルを上げてみたら、あああああ、30キロしか上がらないのだ。
じじいになったもんだよん。
でも、今に見ておれ!
100キロに復活するから。
わははっはははははと(^0^)ながら、登場する「仮面じーたま」として芸能界にデビューするのだ。
(^_-)-☆
興福寺八部衆・阿修羅像:八部衆とは、仏の眷属として仏法守護の役目を与えられた印度古来の神々を指す。通常武装した姿で作られるが、阿修羅のみ三面六臂で上半身裸である。 帝釈天と戦争をするが、常に負ける存在。この戦いの場を修羅場と呼ぶ。twitpic.com/8mu6hh
大前研一は好きでないが傾聴に値する意見も少なくない。『プレジデント』9.2号のコラムは必読。なぜドイツは世界から尊敬され、日本は警戒されるのか。ロシアやポーランドの終戦記念日にはドイツ首脳が訪問して戦争犠牲者の碑に献花する。周辺諸国を刺激する発言を繰り返す指導者を持つ日本は不幸。
声の質は5とおり、(1)大小、(2)高低、(3)長短、(4)軽重、(5)強弱である。(1)から(3)は物理的な声、(4)(5)は表現的な声だ。訓練すべきは、軽い声より重い声、弱い声より強い声だ。重い声は軽くできるし、強い声は弱くできる。ただし、どちらも息のコントロールが基本だ。
一般の人がアクセントとイントネーションを区別できないのも当然だ。アクセントとイントネーションは地続きだからである。アクセントを単語単位に止めず、文の2音3音区切りまで考えたらよい。イントネーションはアクセントのつけ方の変化であるし、プロミネンスもアクセントの声の変化で説明できる。
王妃の衛兵の間 1789年10月の朝、宮殿に侵入してきた群衆からマリー・アントワネットを逃がすため、多くの衛兵がこの部屋で戦い、命を失ったそうです。 pic.twitter.com/gyLgGg40UD
恐いもので、「日本語は高低アクセント」と学んだ途端に、アクセントを高低でしか聴き分けられなくなる。だが、現役アナウンサーのアナウンスでも、高低が3割、強弱が7割くらいの配分が普通なのだ。日常言語のやりとりなら圧倒的に強弱である。強弱アクセントにすれば朗読の表現力は確実に上がる。
こういふ暑い時にこそ励む意味がある。マジに。さっきから、「黒い翁 民間仮面のフォークロア」をPDFにしている。単純作業がいちばんいいのだ。こういう時には。あははは。#fb
こんな書き込みを見たが、これ、どーもホントのように思えてならないのだが。日本の不幸の始まりにならないように祈りますぜ。>美人で、性格も良くて、恋愛経験ゼロといふ女子大生が増えた。#fb
わははははははは>店長に研修期間の深夜の時給いくらになってるのか聞いたら「君はお金が欲しくてやってるの?」ってドヤ顔で言われたから「はい。当然です。みんな賃金が欲しくて働いてるんです。#fb
お盆の週になった。今週だけだなぁ、暇なのは。塾もない。大学もない。あるのは、公的図書館のみ。学校だって、管理職はお盆もなんもねぇからなぁ。事故があったら、即学校に行かなくてはならんし。体育系の部活の先生は、休暇がないのだよん。かわいそうだよ。世間の人は知らないだろうけど。#fb
そもそも勉強だけ教えていりゃぁいいだろう、学校ってと言われる方が多いが、日本はそうなっていない。親の教育放棄にも対応しなくてはならない。いろいろな問題を抱えている子どもがたくさんいる。その意味で、塾はまさに勉強だけ教えていればいいというものであろう。違うんだ。学校と塾は。#fb
[政治の上に道徳を基礎づける]一方で、主観的で恣意的な未来の予見として、つまり、証拠を欠いた啓示から生まれたもの、信仰に従属するものとして、終末論が哲学者達にとって〈思いなし〉(オピニオン)の圏内にとどまるのは、ごく当然なことなのである。-全体性と無限-
賢者たちはこう言われた。「『まず、私の聖所から始めよ』と読んではならない。『まず、私を聖なるものとして崇める者たちから始めよ』と読まなければならない、タルムード『シャバト」(安息日)55aの言う通り(…)。」『エゼキエル書』9・6に関するラシの註解
道徳的意識は、戦争の明証性が平和への確信によって乗り越えられる場合に限って、冷笑するような政治の視線に耐えることができる。そうした確信は、戦争と平和を対立させるただの反定立の戯れによって獲得されるものではない。戦争に由来する諸帝国の平和もまた、戦争に基づいている。-全体性と無限-
終末論が存在との関係を取り結ぶのは、全体性の彼方、或いは歴史の彼方においてであり、過去と現在との彼方で存在との関係を結ぶのではない。全体性を取り囲む空虚と、関係が取り結ばれるのでもない。-全体性と無限-
朗読をするとき「伝える」ことを第一に意識すると道を踏み外す。アナウンスではなく、作品を「表現する」意識である。声の美しさを目指すのではなく、作品を自分がどう理解しているのかという意味の確認なのだ。そのときに、自分の声は、他人に聴かせる声ではなく、自分自身を確かめる重い声になる。
朗読に上達するコツは朗読しないことだ。中島敦「名人伝」に「不射の射」という言葉がある。この逆説は、朗読についても言えることだ。既成の朗読の観念に留まる限り、つまらない表現しかできない。拙著『朗読の教科書』に書いたのは朗読批判だ。それが普遍的な音声言語の表現への道を開くのである。
現代は資本主義社会だ。だから、多くの人がギブ・アンド・テイクの関係を求めている。政治までが政策という商品を、票と引き換えに売り込むような時代だ。だが、芸術という世界は、そんな約束はしない。師匠は弟子にサービスしない。弟子を痛めつけて、弟子自身がその痛みから学ぶことを期待するのだ。
声優を目指している人は大ぜいいる。しかし、その表現が芸術となるとまで考えている人は少ないだろう。芸術とは既成のパターンをなぞってマネることではない。人間の真実を表現するような声の表現を生みだすことだ。そのためには、上っ面ではない基礎からの学びが必要だ。拙著『朗読の教科書』を読め。
朗読に上達するコツは、まず朗読を聴いて批評できるということだ。いい表現を聴くことで、自分がこんなふうに読みたいという表現を学ぶことができる。できるなら、朗読の批評を書いてみることだ。だが恐ろしいことに、批評には自分の読みの実力までが表現されてしまう。そして、その根底に理論がある。
朗読というものはおもしろいもので、自分が読める限りの表現しか聴き取れないものだ。高低アクセントの人は、アクセントの高低しか聞こえない。アナウンスを目標にする人は、朗読もアナウンスとして聞いてしまう。だが、それも当然のことで、英語の学習でも自分の発音できる語句しか聴き取れないのだ。
ヒトラーは、嘘も繰り返していればいつか民衆に受け入れられると考えたそうだ。情報を発信する者の責任を問い詰めると同時に、そんな情報を受け入れてしまう民衆の責任も問われなければならない。まだ、日本は偏見ある思想を強制的に注入される国ではないのだから真実を批判的に求めて学ぶ余地はある。
じょせーは美人ほど、自分に甘い。なぜか。それはちやほやされてきているからだ。ほら、そこのあーた、身に覚えがあるっしょ?誰でもそうだ。男は、甘いことを言って近寄るのが目的だからだ。だから褒めるこ... goo.gl/UubTxo
歴史の総体を裁きながら、しかも歴史の終末をしるしづける戦争そのものに対しても外部的であることで、終末論的なものは、それぞれの瞬間それ自体において、その瞬間各々の十全な意味を回復させる。つまり、一切の事案は、時が満ちて審理に付されていることになるのである。-全体性と無限-