真の思いやりがあればたくさんの言葉はいらない。
ネイティブアメリカンの名言 @Indianteachings 2時間
■「真の思いやりがあればたくさんの言葉はいらない。」【アラバホ族】
上記のようなTwitterがあったので、非常に気にいった。まったくそのとおりで、駄弁を弄して、ぺちゃくちゃしゃべる傾向がオレにはある。全部、相手に気に入られようとするところがあるからだ。それは、前提に、オレの表情が不快であるからというのがある。
昨日も云われてしまった。配偶者に。おっかねぇ顔をしているって。そうかなぁと反論したいのだが、相手がそう思っているということだけは事実なので、反論できない。受け取り方の問題であるからだ。そういう場合は、むしろ何も云わない方がいい。云うだけ無駄だということである。
目の前に美人がいるとする。
彼女に、知っている言葉や、文学修辞法の限りを尽くして「あなたは美しい」とか「ぼくは、好意を持っている」てなことを伝えてみたい場合がある。そうした時に、どう表現するか。それは大いなる大問題である。そこのところをずっとオレはオレなりに勉強してきただのだが、なにしろ相手がいない。否、美人がいないっていうことではなくて、興味をそそる相手がいない。だから実践としての行動に結びつかないのである。つまらないことだが。
そして考えることがある。なぜオレの顔はおっかねぇのかって。
現実に絶望してきた期間があまりにも長かったからというのが、ある意味真実なのであろうと思う。だから、オレは文学というものが自己救済の対象であったのだ。よって、文学を「研究」するという行為からは埒外となってしまったのだ。研究者とか学者先生というのは、こういう不純な動機でやっちゃいけない。オレの場合は、あまりにも自己限定すぎる。つまりてめぇのために、文学を読んでいるのだ。それでいいのかとずっと思ってきたが、もう手遅れである。60過ぎちゃったのだよーーーん。(^0^)
こういう傾向は、教育実践者に向いている。
自己への絶望とか、そんなことばかりを考えているのだから。自己不信とか、生きる事に苦悩しているとかということで悩んでいる若い衆にはいい教科書になるのだろうと思う。20代前半の頃に、オレはそういう生き方をすることに決めたのだった。ある事件があって。そのことは守秘義務があってここには書けない。
そういうことである。
だから言葉については、少なくとも教育実践者としてはかなりの注意を払ってきたつもりである。その分野に関してだけは。拙ブログは違うけどね。これはもう懺悔の物語みたいなもので、退職したから相当自由自在に書いているから。学生日記として書いているのだけれども、どうも内容はそこから大きく逸脱してしまっているし。もっとも、大学生活がまったくと云っていいほど出てこないのだし。クラスメイトたちのことも書いていないし。写真も全く出していないし、たぶん出させてもらえないだろうし。
完全なメモだな、これじゃ。
それもまたいいか。それも。
今日も、表情に気をつけて、やららかく生きていきまひょ。
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