今日から通学したので(暑かったケド)
今日から大学は実質的に動いている。まだ学生さんは多くはないが、院生室と図書館にはたくさんいた。うかうかしていられない。ダブン書きを専門としているんだから、資料にあたらないといかん...
今日から通学したので(暑かったケド)
今日から大学は実質的に動いている。まだ学生さんは多くはないが、院生室と図書館にはたくさんいた。うかうかしていられない。ダブン書きを専門としているんだから、資料にあたらないといかん...
ドクターの名言
退職してからじり、じりっと血圧が高くなっているので、8月の7日に病院に行っていた。その後、朝晩二回ずっと血圧手帳をつけていた。なかなか面倒だが、健康のためならやるっきゃない。それで、二週間たったから、今日の午前中に専門医のところに出かけた。
結果はクスリを呑むほどのことではないということであった。
しかし、これはいい機会である。毎日血圧を測って、血圧手帳に記録するってことが、いいのだ。つまり、オレ自身の健康に対する関心度が高まるってことだ。
オレの年で、常備薬をナンニモ飲んでいないというじじいが珍しいのだけれども。ジムの仲間たちと、いつも馬鹿話をしているが、その中にクスリ自慢をしているのがたくさんいて、そういう意味ではオレはじじいのクスリ愛好会から仲間外れにされているからだ(^0^)。
本当にオレはしぶといなと思う。そういう意味では。
ま、禿のクスリがあったらもらいたいくらいであるが、そんな禿げに効くクスリを発明したらノーベル賞ものだそうな。オレは自分の禿なんぞまったく気にしていないからどうでもいいけど。かえって、禿げていることで、随分得したなぁ。
女の子のいる飲み屋に行っても、全くモテナイから、一番モテたやつが今回は支払うことっていう賭けでも、オレは一度も負けたことがない。そのワケは、参加することすらできなかったからだよん。あははははは、ざまーみろだ。自称ドンファンを気取っていた、あのバカ、このあふぉ~には悪かったなぁと思っているけど。今更、カネを払えとは云わねぇだろうから。
ドクターといろいろと話をしていた。
「先生、退職前の現役時代は血圧はむしろ低かったんですがねぇ」
「そうでしょうね」
「なんでですか?」
「定年退職した方は、あれですよ、あれ。家庭内にいてもなにもすることがないから、ストレスで血圧が高くなるんですよ」
むぎゅーである。
このドクター、見た目はおわけーのに、なかなか世間のしがらみをよくご存じである。定年で退職したら、なるほど、家で古女房ドノとアサから晩までにらめっこしていたら、そらストレスですわなぁ。たまりにたまって爆発します。古女房ドノもおんなじですわな。家になんにもできねぇ古亭主がいたら、ハラが立ちますよん。殴りたくなるでしょうよ、古女房ドノたちは。それこそ、圧縮袋に布団をつめるのではなくて、古亭主をつめて捨てたくなるでしょうよん。
オレはあまりの名答に感動していた。
だから、実はオレ、61になりますが、現役の大学生であります、とは云えなくなってしまった。
やることぁたくさんあるんですが、と云おうと思ってはっとなった。
そうか、オレの場合、大学生であることも血圧が高くなる一因なのかもしれないと思ったのだ。なぜか。それは、クラスメイトたちが、楊貴妃とも見間違うほどの「美女」であるからである。これは困った。ま、いくら綺麗でも、気にしなければいいことであって、大したことではない。どうせオレなんか相手にされていないのだから、まったく無念無想でありたいもんだ。できねぇけど。あはははははは。
美女よりも、オレの場合は、あれだな。「駄文書き」が一番の理由だよ。アサまで書いていることもあるし、うんうん唸っていることも多い。能力ねぇからなぁ。表現ということを考えるようになってから余計そうだ。
つまり、睡眠時間が不足していたのだ。
毎日10時間くらいは寝ようってことだ。
さ、午後からは県立図書館に行って、computerとにらめっこだ。
そして、夕方にはジムに行って、鍛えてくる。
夜はかわいい孫と一緒に食事して、早く寝る。明日、孫が帰ってしまうから。残念だけど。泪が出るほど残念だけど。10月にまたくるからと云っていたけど、今から待ち遠しいですな。マジに。
(^_-)-☆
県立図書館から帰る予定。16:27になるから。寺院縁起を入力してからはかどる、はかどる。千葉氏と椎名氏、真言密教と中世、もう書くことが山ほどある。100ページを超えるのももうすぐだ。この分では。研究と読書とは違うっていうような指摘もありがたかったから。研究は表現である。#fb
今日から塾のアルバイトも始まる。夜だ。ちょっと早く行って数学の問題で気になっているのがあって、確認をしてから勤務する。これもまた楽し。専門外だけど。頭の活性化ですよ。(^-^)/ #fb
研究のじゃまになるのは、宴会と、異性とのおつきあいと、読書だって書いていた方があったが、読書はともかく、オレは前者のふたつとはまったくご縁がないから、これだけ没頭できるのだなぁ、感謝ですよ。醜男に産んでくれたおふくろさんに。あはははははは。#fb
今日は夏の高校野球史上初の休養日でした goo.gl/1SwSuQ 明日は初の決勝を目指す4校がぶつかります。準決勝2試合のみどころや、これまでの熱戦の写真特集などはこちらから→ goo.gl/jEKD6f
心理分析などというものは、どこまでやってもきりがありません。この世のはてまでも続けられます。深層心理を追っていってごらんなさい、いくらでも自分の中に奇妙なものが見つかる。 『エンデと語る』
いつもながら憎たらしいことを云うなぁスニフ君は@ ムーミン谷の名言bot @moomin_valley ぼくはここに座って、さびしいなあ、ともだちがほしいなあ、と思っていたところなんだ。 - スニフ #fb
憎しみのこころは毒素ですわい@瀬戸内寂聴bot @jyakucho_bot 人に憎しみを持たないようにすると、必ず綺麗になりますよ。やさしい心と奉仕の精神が美しさと若さを保つ何よりの化粧品なのです。#fb
確か東北には古くから亡くなった霊が、山に帰るという考え方がある。山に帰った霊は、山の神になるんだったような。して、年の節目節目に子孫のいる里へと降りてくる。これ自然の信仰ととても密接に関わっていて、それが豊穣をもたらし、やがての子孫繁栄に繋がるというような考え方だったような。
盆提灯。今年は弟不在のため、先導を私が務めた。
「ご先祖様御一行~。皆様迷わずこの光について、家までおいで下さいまし。」との具合。 pic.twitter.com/AJ7MaeGdZd
ふるさとの「誰そ彼刻(たそがれどき)」日本の原風景です。
フィルターで画像加工せずとも、この美しさ。
「トワイライト」でも似合う風景かな。 pic.twitter.com/GQvrKPs1Pm
[戦争の秩序の中]では、力の試練こそが現実的なものの試練である。とはいえ暴力は、傷つけ無化することにあるのではない。むしろ人格の連続性を中断させ、そこに自分を見出すことがもはや不可能であるような役割を人々に演じさせることにある。-全体性と無限-
形式をもった遊びを続けようとするなら、それが音楽であれ、物語であれ、その遊びは、内的な構造を必要とします。私にとっては、そもそもこの構造の方が、同時に生まれる作中の人物よりも、ずっと重要に思えるのです。 『ファンタジー神話と現代』
人間は万能の神でも仏でもないのですから、人を完全に理解することもできないし、良かれと思ったことで人を傷つけることもあります。そういう繰り返しの中で、人は何かに許されて生きているのです。
劇はその本質に従えば、悲劇であろうが喜劇であろうが、儀式的なものです。そして、儀式的である限りにおいて、つまり心理学化されない限りにおいて、他の形式と交換できないのです。これはまたもや、儀式化された題材、つまり、神話、メルヒェン、超越的出来事を扱うことを前提しています。
私には本来イメージ物語を物語ることが重要なのです。なぜなら、イメージは概念よりずっと多くのことを語ると信じているからです。人間の根源的な言語はイメージ言語です。私たちの夢はイメージの中で行われます。そして、ある意味で、あらゆる人間は夢を見ているとき詩人なのです。
古典時代の思考にとって、有限性というものの内容は、ただ無限性の否定だけであった。ところが18世紀末に形成される思考は、有限性というものにポジティヴなものの力を賦与する。その時に出現する人間学的構造は、限界を設ける臨界的役割と、起源をつくる役割とを、同時に果たす。-臨床医学の誕生-
幼さと幼稚さとを区別しなければなりません。人間の中の幼さは、感動でき、自発的で、経験に開かれた、もっと進化する能力です。人間はこの幼さを本来決して「克服」すべきではありません。それに対して幼稚さは、大人に現れるとき、ちょうど停滞し、発展しない、硬直したハビトゥスです。
■「すべての暖かい夜 月光の下で眠れ その光を、一生をかけておまえの中に取り込むのだ おまえはやがて輝きはじめ いつの日か 月は思うだろう おまえこそが月なのだと」【クリーインディアンの詩】
デモーニッシュなものを可視化し、命名することは、私たちに、それと対峙し、それを凝視し、それによって、すでにその本来的な危険性を取り去る可能性を与えるのです。闇と不安を秘密にする文学は、本当には治癒的に作用できない、言い繕いの文学でしょう。 『Magische Welten』
私たちは、まずまっ先に、時間のなかだけでも、空間のなかだけでも成り立たないような同時存在ということが、物質を通じて招来されることを知る。時間だけなら、並存ということを知らないし、空間だけなら、先、後、今の区別を知らない。
この「人」を「孫」と言い換えてもいい。
孫とは、いつか別れなければならない。何年後には、こっちが死んでしまう。ついこの間に、孫と初めて会... blog.goo.ne.jp/tym943/e/b8b25…
【造仏黎明期と鞍作止利】鞍作部は馬具を制作する渡来系の一族であったが、一族には仏教に精通するものも多く、蘇我氏との関係も深い止利が朝廷より造仏の命を受けたのは当然であった。模範となる仏像が存在しない上に、元来仏師ではない止利にとって、飛鳥時代の仏像造営はストラグルの時代であった。
芝居を見るという経験には、心を救う効果、つまり治療の効果がある。そういう経験の属する次元を変えない限り、それは人生に必要不可欠なものだ。ところが経験の成立するレベルを混同すると、経験は、人生に危険なもの、人生を破壊するものになる。
読者は本の中の黒インキの文字を読んで、心のなかでその情景を思い浮かべねばなりません。心の中で言葉を聞かねばならない。読みながら、本当はその言葉を一緒に話さなければならないのです。これは他のなにものにも代えがたいある親密さ、近密さなのです。 『MOE 1993年2月号』
普通のニュースをみているとそうでもないのですが、新幹線の中の一行ニュースを見ていると、この数ヶ月ファシズムが台頭して来ているような錯覚(じゃなかったりして…)を覚える。で、そんなときこそ哲学者の思考が冴える時なのである。そして御用哲学者とそうでない哲学者が分かれる時でもある。
歴史的に言えば、道徳が政治に対立し、賢慮の働きや美の基準を乗り越えて、無条件的で普遍的なものであることを主張するに至るのは、メシア的な平和についての終末論が、戦争をめぐる存在論の上位に置かれる場合であろう。哲学者たちは、けれども終末論を信じていない。-全体性と無限-
こう言えるんじゃないかな。私がファンタジーを生み出すかたちは常に舞台のシーン的なものに向かって考えられていると。だからこそ、私は対話体をたくさん使い、それを重要視しているのです。 『MOE 1993年2月号』
歴史が二十世紀に近づくにつれて、人間は内にも世界を持つことを忘れ、周りを取り囲む外の世界にだけ関心を集中するようになる。でも、この私たちの中にある、内なる世界も同じように実在するのです。 『MOE 1993年2月号』
深層の意識は単なる思考ではなく、絵を通じて語りかけます。それが語ることは夢や幻想的ヴィジョンの性質を帯びるのです。おとぎ話や神話というのは、そのどれもが夢想的ヴィジョンの性質を持っていますね。この夢想的なヴィジョンには意味が沢山ある。 『MOE 1993年2月号』
祈りとは、キリストにわたし自身を完全にゆだねること、キリストと完全に一つになること以外の何者でもありません。そしてこのことが、わたしたちを、この世のただ中において観想的にさせるのです。
主体を問い直すということは、その現実的な破壊、その解体、その破壊、全く別なものへのその転換、こうしたものへと到るような何かを経験することを意味している。-M・フーコーとの対話-
高度に様式化された表現形式は自然主義的なことがらを表現できない。(内容としての)ことがら自体にも原ヴィジョン的な性質が必要になり、何らかのかたちで魔術的なものでなければなりません。 『MOE 1993年2月号』
■「命とはなにか。それは、夜の闇にまたたくホタルのきらめき。凍てつく冬の空気にバッファローの吐く白い息。草原を走りまわり日没とともに消えてしまう小さな影。」【インディアンの言葉】