まだ願望であるけれども
最初の基礎からノートをとったり、カードを作ったりしている。最近はホトホト実力がないのが、目に見えてわかるのである(昔からか・・・トホホ)。こんな情けないことはない。なにも自虐で云っているのではない。昭和50年代後半に出たたった一冊のフォークロアの冊子すら読んでいないことを知って目が覚めたからである。こんなんじゃぁ、自称論文書きをしている場合ではない。基本ができていないからである。それにボクはあちこち穴だらけの知識しかない。完全ではないのである。パーフェクトではないのだ。なんでも知っているという天才とか大秀才とは実にほど遠いからである。だから、実はボクは情けなくて自分が嫌になっちまう。
自称論文を書くというのは、オノレの実力を世に問うことである。問うだけの資格・能力・人格識見があればである。あるいは、国籍を問わずそれなりの社会的地位があればである。ボクにはなーんにもないではないか。ただの天下の素浪人である。毎日をムダに笑って過ごしているだけである。自称論文なんぞ、100年たっても書けないということがよーくわかってきたのである。情けないなぁ。ま、これも一つの学習成果であるということもできるけれども。あるいは、教育の重要な要素として断念することもまた大事なわけであるからである。
自分の実力を知らないのである。こういう輩もいるのである。まったく身の程知らずである。ノートだけはある。あるいはカードだけはある。しかし、すぐ忘れてしまうのである。情けないですよ。わははっはははっは。
と、笑っている場合ではない。
目連救母について実際見てきたいと思ったから、あれからずっと情報収集をしていた。なんとか目処が立った。そう、まだやっていたのである。しつこい性格である。とどのつまりは、台湾で見てくるつもりである。実際の映像や舞台を見てみないと、こちらも自称論文めいたものなんぞ書けない。当たり前である。経験していなければ、書いちゃならんと思っているからである。実際見られるかどうかまだわからないけれども、なに、行けばDVDくらい買って帰るつもりである。ツアーではやっていないから、オプションでやるしかない。
中国語の学習もしなくてはならんなぁ。まだまだであるけど。場面場面で使えるようになりたい。(京大式情報カードも作ってある。あとは、学ぶしかない)なりたいというのは、まだ願望であるから、こっちも話にならん。嗤い話のようだよん。
これだもの、外面はじじいだけど、やることは若いもんと変わりがない。ただし、かなり記憶力が落ちているのに焦る。
ダメだったら、ダメで逃げ出すのは速い。ふんどし一つで全力で走る。だからできないのかねぇとは思うが。逃げ足だけ速いというのは、こりゃいかがなものかっていうわけである。
堀一郎著作集という先生の全集(全10巻)を居住地にある大図書館から借りてきて、今、ノートをとっている。同一の先生の本を読むときは、カードではなくて、ノートに限る。ただし、一冊はAmazonから買ってみた。書き込み用にである。堀先生のは、なかなか面白い。
こういうこともやらなくちゃならん。
ま、やることがたくさんあって、人生楽しいもんだよん。朝からずっと基礎学習をしていたから、これからgymに行く。気分転換である。
じゃぁねぇ~。