五百羅漢様に、自分の姿を見せつけられたから、たまったもんじゃなかったよん。
五百羅漢を川越市の喜多院で見てきた。なかなかのものであった。人気のある羅漢だそうな。川越には伯母が住んでいたから、何度も行ったが喜多院は初めてであった。そして、こっちがジジイになったから、ある意味衝撃を受けてきた。
なにかというと、有名なひそひそ話をしている羅漢様にである。
オノレの姿そのものではないか。他人の悪口を言い、それも他人だけではない。家族・親類縁者の悪口まで言いつのっているではないか。
その前提に、自分のほうが正しいという意味合いが込められているからあさましいのである。行為も思考もである。自分ほどレベルの高い人間はいないという思い上がりである。
世間に正しく評価されていないという落ちこぼれたものとしての怒りもある。
ということは、裏に自分の能力は高く、博士論文なんかスイスイと書けたし、合格できたというくだらない思い上がりがあるからだ。そして、いまだにこだわっているのだ。そういう執着心が向上心と結びついていくこともあるだろうが、精神衛生上は好ましくない。そうとしか言いようがない。
下手したら山月記の李徴のように狂ってしまう可能性も十分あるのだ。
そういう人生の諸相を教えていただいたよん。五百羅漢様に。
自分の姿そのものであったからだ。
あさましい姿を見せつけられてしまった。
人格最低、悪行三昧、欲望にまみれ、銭もいくらでも欲しい。ほしいから宝くじを買って、結果に一喜一憂しているし。それも全敗である。一回も当たったためしがないからだ。そして、くだらない夢ばかり見ている。せせこましい夢をである。
なんと、宝くじが当たったら生涯学習をしたいと思っているのだから始末に負えない。再度、学位にチャレンジしてみたいというのである。
五百羅漢様に笑われているような気がした。まったく、「と~ま君よ、おめぇさんはどうしようもない奴じゃなぁ」って。
こだわりだけのジジイ生活を送っているだけである。情けない。
こんな生活に意味があったのだろうかと思っている。世の中のためになっているとは、とても思えないし。全部テメェのことばかりである。ゴミ論文を書き散らし、焼却されているだけである。市のごみ処理場で。
情けない。
もうすこし世のため、人のためになるようなことをすればよかったなぁと慚愧の思いである。情けねぇけど。いつまでたってもこうである。だからだ。
しかし、昨日の老人大学旅行クラブはためになった。誘ってくださるだけでもありがたいではないか。在校している方々が15名くらいいた。卒業生は、ボキも含めて5名。これがいいのである。仕事仲間ではないからである。
文科省の前事務次官みたいに、やめてからもヒーロー気取りで生きているわけではないから。こっちは。もっとも、能力が違うか。
わははっはははっははっはははっは。
今日はこれから退学した方の大学で中国語を教わってくる。楽しみである。午後からである。
早く行って図書館にでもいるか。あ、あの大学図書館は有料になる。友の会会員でないと入れない。無理だ。金がないから(笑)。
( ´Д`)ノ~バイバイ