先生だって、支えが必要なのである。応援してくれれば、やりがいだってできるもんじゃと思うから。今年の暮れに、「先生の不祥事」ということで話をしてくれと言われたのである学校に行ってくる。さっきオファーをいただいた。快諾した。これもまたボキなりの応援歌のつもりであるから。
先生はえらいか?と聞かれたら、なんと答えるだろうか。
ボキは即答である。「先生はえらくないかもしれないが、自分が生徒であったらえらい存在であって欲しい」と。生徒だった自分が持っていないものを、先生は持っている。知らないことを教えてくださる。あるいは教えないことで、自ら学ぶことを体験させてくださる。
だから「先生はえらい」のである。
自分が選んだ先生ではないかもしれない。あるいは、押しつけの学級担任かも知れない。でもそれがご縁である。
自分が選んだ先生というのは、大学院の博士後期課程で初めて経験させていただいた。中世国文学の泰斗であるM先生であった。残念ながら、ボキは学業劣等で中退せざるを得なかったけど。
だから、今でもボキは先生はえらいと思っているのである。
で、打鍵したいことはそんなことではない。
教師の不祥事である。
これって、マスコミなんかでは、問題を起こした先生のみならず管理責任を問われた教育長や校長まで登場してくる。
問題が起きたら、学校現場ではさっそく法律的に云々と指導が始まる。
それはそれでいい。そういう研修をしていないと、ニンゲンは易きに流れてしまうからである。
ボキが最も問題にしたいのは、教師はえらいということである。そういう自覚を捨て去った方が教師をしているのではないかと思うからである。
教師は労働者ではない。そういう側面もあるだろうが、すくなくとも子ども達との関係では教師は先生なのである。
師道というものが存在しているのだ。だからこそ、一旦不祥事をおこすとさらし者になってしまう。当たり前である。
あるいは、聖職者だとも言われる。
教師の勤務実態を見ていると、土・日もまったくない。部活の練習でめいっぱい働いている。朝も早くから、夜遅くまで仕事をしている。残業代もつかない。
教員特別手当がついているが、あれは残業を4種類特定しているだけであって、4%しかつかない。修学旅行とか行った場合は別問題であるけど。
だから子ども達が好きでないとできない仕事なのである。
ここのところが世間には理解されていないのだろうなぁと思う。
家庭生活まで犠牲にしながら、多くの教師達は努力している。しかもそんなことは一言も言わない。主張しない。
だから応援したくなるのだ。
世間は学校を責めるばかりで、応援をしない。金銭的にできないのならば、こころで応援していくことである。
先生だって、支えが必要なのである。応援してくれれば、やりがいだってできるもんじゃと思うから。
今年の暮れに、「先生の不祥事」ということで話をしてくれと言われたので行ってくる。さっきオファーをいただいた。快諾した。これもまたボキなりの応援歌のつもりであるから。
(@^^)/~~~