運が尽きたら、いずれ死んじまうのであるが。これまで生きてこられたのも運が良かったからだなぁ~~~~としみじみ感じる。マジに。
人生は運である。努力を基盤として、真面目に生きていたらなんとかなる。
そう思って生きてきた。
健康もまた運である。まだ死んでいないから、運が良かったというだけなのだ。健康法をきっちりと守っていたからではない。デタラメな生活を送ってきたし、アルコールも一生分飲んじまった。まるでアホである。アホの極み。
それにもっと言いたいことがある。それは、誰でも死んじゃうということである。100%である。死にたくないと思っていても、必ず死ぬ。死ぬ理由はヒトそれぞれであるが。
運が支配しているとシミジミ思う。まだ死んでいないからである。
ボキの人生では、まだ経験していないことがある。それは死ぬことである。当然である。こうやって打鍵しているからである。
でもそういう逆からの発想でもって、人生を考えることもまた一興である。一興どころか、かなり重要なのではないのか。
しかし、本当に死んでしまったら怖いもクソもない。自分が死んでしまったら、死ぬことを心配している自分もいなくなっているからだ。死ぬまでの道程が怖いのであって、死んでしまったら生きることも死ぬことも考えること自体が無駄になるってぇもんだ。
無駄と言うと、いくら死にたくないと思っていても無駄である。100%だからである。確実に死は迫ってきているからである。どんな高貴な身分の方でも、それから逃れることはできない。寿命というモノがあるからだ。命は限定されているのである。
定年後、けっこう飛行機に乗ることが多くなった。その時にもし今乗っている飛行機が墜ちたら、怖いだろうなぁと思うことがある。そしてこれまた殆ど助からないだろうとも。飛行機事故というのはそういうことである。エコノミー席だろうが、ビジネス席だろうがまったく関係無しに死ぬときは死んでしまう。その時に、どう感じるだろうかと考えるから怖いのである。
死体になってしまったオノレを考えるから怖いのである。しかし、死体になってしまったら、考えたり感じたりするオノレがいないのである。死体になってしまった自分というのは、それだけなのである。
死ぬという言葉は、動詞である。しかし死体は動かない。動けないから死んでいるのだ。死んでいるのに動いていたら、かえってご迷惑をおかけしてしまう。幽霊になっちまうからだ。恐怖心を他人に与えていたら、そりゃ申し訳ないではないか。
死体は名詞である。死体になるまでは死んでいないことがここからもわかる。
ううううううううううむ。
こだわっているですなぁ、ボキは。
釈迦も、孔子も、イエスもミンナ死のことは考えるなと言われた。
そりゃそうだろう。
そんなもんを考えていたって、死なないうちは生きているからである。
こだわっているボキは、やっぱりアホなのである。
あああああああ、バカである。バカそのもの。
今日も気楽にあちこちと出没する。しかし、図書館は休館。Gymもである。
歩いてくるか。午前中から。
それしかやることがないから。
わはっはははっははははっははは。
ヾ(@⌒―⌒@)ノ