モノはモノであってそれ以外のなにものでもない、とマジに思っている。
だったら、ボキというニンゲンはモノなのであろうか。確かに、死んだら死体になる。死体というモノである。そこのところをどう考えるのか、理解するのか。生きているからこそ、精神性とかこころとかを考えるのであって、死んだら、それは横たわっているモノでしかないのではないのか。
もちろん、ボキは死んだらもう一度よみがえって最後の審判があるってぇことを信じない。さらに、生まれかわりの理論も信じない。
なんでそんなことを考えたのかというと、今日の午前中のウオーキングで鳥の死骸を見たからである。なんで死んじゃったのかはわからない。田んぼ道の脇で亡くなっていた。鳥がである。そして、その鳥は別の鳥か、動物にでも食われてしまうのであろう。だから、モノである。かわいそうにとは思った。
しかし、ボキだって同様である。田んぼ道で死んでいるかもしれないではないか。
さらにある。
つい最近のことだが、田んぼ道でひっくり返っている老人を見かけた。死んでいるのかもしれないと思って、急いで家に帰ってスマホを持ってきた。警察に連絡するためである。
そしたら、その老人は、元気に起きて歩いていってしまった。酔っ払っていたのかと思った。人騒がせなジジイである。なにをしているのかね。まったく。話にならんとはこのことである。
で、その時ふと思ったのである。死んでいるのかもしれないと思ったのは、ボキの方で、当人は気持ち良く田んぼ道でひっくり返って天を仰いでいたのかもしれない。酔っ払っていたとしたら、まことに気楽なもんである。しかも、昼間からである。アル中なのかもしれない。あるいは、昼間から、天を仰いでいるのが好きなのかもしれない。けっこうなご身分である。
死ぬのは100%である。誰でもミンナ死んじまう。逃れようがない。そのことを思うと、うかうかしていられないぞと思うのである。
死んだらモノになっちまうのか、あるいは幽界に旅立っていくのか、死んじまったボキの死体を眺めてなにか感じることでもあるのか。
まったくそんなことはわからない。
だって、死んだことがないのだから。
わははっははははっははっははははっは。
今日も良く歩いた。
モノとしてのボキの身体機能はかなり良好である。明日は退学した方の大学に行く。中国語講座である。さっき宿題を完了した。明日、testがあるからだ。不勉強なボキでも勉強したのである。奇跡が起きてしまうぜな。
(=゜ω゜)ノ