オナゴというのは、漂流しても生きていけるのではないのか。それだけ強いし、世界のどこに行っても強靭に生きていける。
6月の旅行で、ロシア美人をゲップが出るほどしこたま見てきた。なぜロシアに美人が多いかというと、人種のるつぼであるからである。言わば、漂流して生きてきたようなものであろうから。
侵略され、侵略し、今でも戦争をしているような地域にずっと住んできたからであろう。それに、ロシアの文化程度がハンパではない。すばらしい文化である。歴史もである。ヒトケタ違う。レベルがである。
もっとも、ドストエフスキーが大好きで、それこそガキのころから熟読してきたからかもしれない。だから今回のサンクトペテルブルグ旅行には感激したのである。言わば、ボキにとっての精神救済の歩みを辿ってきたからである。ドストエフスキーというのは、ボキにとってはそういう存在なのである。苦しかった苦学生時代に、意味が、価値が見いだせなかったからである。ひたすらいじけてばかりいたからである。
そういう意味でロシア文学というのは、肌にあったのであろう。あの、曇天のサンクトペテルブルグの空気を吸い、うっとうしい空を見上げながら、オノレの絶望的な気持ちをどこで癒やすのかと自問自答する土地。それに(*_*) マイッタのである。ドストエフスキー探訪の旅でもいい。ただし、カネがかかる。かなりかかる。年金暮らしでは無理である。そんなには行けない。
もっとも、漂流しないオンナもいるだろう。土地に定着して、そのまま一生を生きるというタイプ。それもまた良し。むしろその方が好ましい。子育てをして、家族を持ち、それなりの財産を構築して悠々と生きるというのもありである。反対はしない。するわけない。反対するような資格がないのじゃ、ボキには。
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今日は半日を生涯学習ごっこに費やしていた。
さっき中国語講座(居住地の方)から帰ってきたのである。
本当は、詩の書写をノートにしようと思っていた。
風呂の後に。
もう無理じゃ。
眠たい。
(=゜ω゜)ノ