音に寄り添うということは、ありがたいものである。
音というものに興味関心が移っていって、それからというもの短詩型文学にエライ興味がある。俳句然り、詩もそうだ。短歌もそうだ。読んだときに、音を出すからである。音読というではないか。朗読ということである。
ところが、これまでは音読ということ、朗読ということをやってこなかった。スピード重視であった。速読であった。だから味わって読むことがなかった。目で追っていただけである。
もっと言えば受験勉強の弊害であろう。問題文を意識しつつ論説文や小説を読んでいた。短詩型文学においては、もっとも良く無い手法であった。
これじゃぁモノにならないわけである。
寄り添うような文学作品との関係でありたい。そんなふうに思ってきた。最近である。実に最近。
寄り添っているのが、ボキなのか、あるいは文学作品の作者なのかはわからない。
確か、遠藤周作だったと思うのだが、イエス・キリストもまた寄り添う存在であるから救済の可能性があると書いていた。そこまで求めなくても、そばにそっと寄り添ってくれる存在があればそれにこしたことはない。なにもイエス・キリストでなくてもいい。
ボキの場合は、ドストエフスキーだったのかも知れない。苦しい時代に、確かに寄り添ってくれた唯一の作家であったからだ。10代後半から22歳までの苦学生時代にである。貧しく、なんの希望もなかったからである。将来展望もなにもなかった。ひたすら毎日新聞配達をして、集金をしていただけであった。その意味で、今回サンクトペテルブルグに行けたということは自分を見直すきっけになった。そういう時代を経てジジイになったからである。
文学作品というのは、寄り添ってくれるものに十分なり得る。だから作品を大事にしなくてはならないと思うのである。
昨日、宮沢賢治の「オツベルと像」を読んでみた。気になる部分があったのを思い出したからである。最後に書かれている「おや、■、川へ入っちゃいけない・・・」の部分を思い出したからである。■の部分には、昔なら「君」が入っていたような気がするが確認していないのでなんとも言えない。で、この文章は誰が誰に向かって言ったのかという疑問をずっと感じていたのである。それを思い出したのである。(最近の本にはこの■すらないらしいが)
まだ解決していなかったのだ。20代の頃に、その疑問をいだいてそのままであったのだ。
そして、寄り添っていてくれた「オツベルと像」に感謝した。ジジイになってもこんな課題がふとボキの胸によみがえってくれるのである。だからである。
自分なりに解決した。今日はそれですっきりしている。ありがたいものである。
これから、ゆっくり芭蕉でも読む。音読しながらである。ゆっくりと読む。奥の細道を味わうということは、そういうことである。時間をかけてゆっくりと音読していきたい。
オツベルと像のような再会があるかもしれないからである。
(。・_・)ノ