冬の月山山麓に行ってみたい。そして、無常ということを味わってみたいもんじゃ。死者の山だから。逝きしものの面影を求めて。
この世は無常なのか?
果たしてそうなのか?
ホントウはどうなのかと思う時がしばしばある。無常だと思っているのは、我が身であって、ホントウの真実はどうなのか。
デジタル大辞泉の解説によると、以下のような説明がある。
「む‐じょう〔‐ジヤウ〕【無常】[名・形動]
1 《〈梵〉anityaの訳》仏語。この世の中の一切のものは常に生滅流転(しょうめつるてん)して、永遠不変のものはないということ。特に、人生のはかないこと。また、そのさま。「無常な人の世」「諸行無常」⇔常住。
2 人の死。「―の来たる事は、水火の攻むるよりも速やかに」〈徒然・五九〉
出典|小学館デジタル大辞泉について | 情報 凡例」
この説明の中で注目したのが、「人生のはかないこと。また、そのさま。『無常な人の世』『諸行無常』」の部分である。
果たしてそうなのかということである。
つまり、人生とはそんなにはかないのかということである。そりゃ、身内が死んでしまったら確かにはかない。もろい。
それでもボキは思う。生きている時、この今を生きている瞬間こそが大事だということである。今というのは、充実させていかなくてはならないものである。また、逝きしもの・過ぎ去ったものを懐かしんでいるよりは、目を今この瞬間に向けた方がいいとも感じる。
去ってしまったものはいなくなったのである。存在しないのである。あちらの世界に行ってしまったのである。そして、逝ってしまったものは帰ってこない。存在しないのだから、こちらのように今を生きている側としては、いかんともし難い。
ボキは霊魂不滅説を信用していない。霊の存在も、信じていない。見たことがないからだ。だから宗教が信じられないのであろう。それでも空海には興味がある。だからいろいろと関連資料を用意している。資料を読み続けている。
だからと言って、空海を信仰しているわけでもない。おもしろそうだから読んでいるだけである。
空海の生き方そのものがおもしろそうだから。空海の修行した中国の寺にも行ってみたいけど。
つまり、空海は人生がはかないから、無常だから絶望しようぜと言っているわけではないということを考えているのである。ボキは。
もっと言えば現世肯定である
あの世に救済を求めていない。あの世に救済を求めるのは、それだけ現世が生きがたいからである。
ボキは、むしろ「無常」の方に目を止めたい。「この世の中の一切のものは常に生滅流転して、永遠不変のものはない」と小学館デジタル大辞泉には書いてある。これである。これ。
つまり、無常というものを感情レベルに閉じ込めないで、理知的に見てみたいと思うのである。
ボキのようなバカでも、この世の一切のものは永遠不滅ではないということだけは、よくわかるからである。まさにそうである。永遠不滅はあり得ない。
人間関係もそうだし、カネも、組織も、不倫も(これ昨日あたりから、某女性代議士の騒ぎが大きくなっているけど)、すべて永遠不滅なんてないのである。
地球だってそうだ。
太陽だってそうだ。
いつかは無くなってしまう。
宇宙だってそうだろう。
拠ってしかるべきところなんて存在しないのである。ボキ等は、地球の上に立っているけどそれも永遠ではない。勘違いしているだけなのではないのか。
冬の月山に行ってみたい。
あの山にはそういうことを考えてみるだけの魅力がある。死者の山であるからだ。
感情論ではなくて、月山を味わってみたい。月山で芥川賞をとった森敦のように。最近は、森敦オンパレードであるから。
早く来ないかな。冬。
わははっはははっははっははっはははっはははは。
ヾ(@⌒―⌒@)ノ