ニセモノの効用というものが確かにある。ニセモノだって、悪いことはないんだと思って育ってきたから。
芭蕉の「自筆 奥の細道」というのが岩波書店から出ている。だから、入手して楽しんでいた。
そしたら、芭蕉自筆本というのはほとんどニセモノだという。そういう研究書を一昨日買って読んでいた。内容が楽しかった。陳腐な意見もあったけど。
笑ってしまった。ボキもまたニセモノを掴んで喜んでいるタイプのジジイだからである。
しかも、芭蕉である。なんとなく親しみがあるからである。それを読みながら故郷山形を思い出していた。
で、森敦のエッセーにもあった。山形県の庄内地方の集落には、高貴な方々の直筆本とかがいくらでもある、と。そして長い冬が去って、ひな祭りの時期になると村のジジイ達が、やおらそういうものを持ち出して自慢するというのである。
こういう風景を、実際に見たことがある。ボキは山形県の南部の置賜地方に産まれたのであるが(だから庄内地方とは違う)、祖父母の家でそういうシーンを何度でも見た。祖父母の近所のジジイたちが、昼間からお茶飲みと言って祖父母の家に集まってきていた。お茶が多かったが、たまには昼間から酒を呑んでいた。
いろり端で呑むのである。しょっぱい漬け物をつまみながらである。あんなしょっぱいもの、よく喰えるなぁと思っていた。
中に楽しいジー様がいた。布袋様のような愉快なお顔をなさっていて、ボキは大好きだった。話がうまいのである。それもすこぶる面白い話ばかり聞かせてくれた。エッチな話もおおいに聞かせてくれた。それで時々ボキの祖母に叱られていたが。このジー様は、時々ボキを町の温泉にも連れていってくれた。そうなのである。ボキの町には温泉が沸いていて、町営の浴場が6つあったのだ。しかも、最初は無料だった。当時でも、1円くらいで入れた。一番高くても5円だった。
このジー様の他に、富山のクスリ売りも来ていた。だから、いろり端で彼らの話を聞く会も催していた。近所のジー様やバー様たちが集まってきた。そこで、ボキのような小僧っ子達は、紙で作ったフーセンをもらった。富山のクスリ売りがくれたのである。これがなにより嬉しかった。
まったく富山のクスリ売りは、マレビトである。いろんな地方の噂話も、ここで聞けた。
LINEなんかない時代のことである。ましてやSNSもない。インターネットもない。
そして、彼らは言葉巧みに東北弁を使ってクスリの売り込みをやってくるのである。どこに行っても、その地方の言葉を巧みに使って地方地方の人々に溶け込むことが巧みであったのだ。新潟なら新潟弁を使っていたんだろう。
こいつは見習うべきコミニュケーション技術である。
言葉が大切なのだと思っていた。
でもねぇ、ニセモノはニセモノである。ホントウにその土地の方言をマスターしていたわけではないからである。
芭蕉の自筆本と一緒である。
要するに受け手が楽しければいいのである。
でも、政治家だけはニセモノであってはならない。税金の無駄遣いであってはならない。政治家といえば、我々庶民の手本となるべきすぐれた方々のお仕事だろうから。受け手が楽しければいいというわけにはいかない。不倫だとかなんとかだとか、自分が楽しんでいればいいという世界ではないだろうに。嫌味で書いているんだけど。こっちだけは騙されたくないのだよん。
庶民のボキは、騙されてニセモノ本を見ながら、芭蕉と共に奥の細道を歩いてみたい。そんな風に思うだけである。
(^_^)ノ””””