と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

山口県防府市 (野島)野島小中学校と機関車先生記念碑

2017年09月14日 22時54分06秒 | とーま君の流儀2017

山口県防府市 (野島)野島小中学校と機関車先生記念碑

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機関車先生を午後から読了した・・・・現代の二十四の瞳じゃ。オメメがウルウルして困ったよん。

2017年09月14日 22時41分45秒 | とーま君の流儀2017

『機関車先生』(きかんしゃせんせい)は、伊集院静の小説。また、それを原作としたアニメ映画および実写映画。1994年6月28日に講談社より刊行された。第7回柴田錬三郎賞を受賞。

葉名島のモデルは、伊集院静の出身地である山口県防府市の野島である。2006年3月には記念碑が建てられた。

昭和30年代の瀬戸内海に浮かぶ葉名島。この島にある、水見色小学校に北海道より臨時教師、吉岡誠吾が赴任してきた。彼は子供の頃の病気の影響で口をきく事ができなかった。子供たちは彼のことを「口を“きかん”」→『機関車先生』というあだ名で呼ぶようになる。(wikiより引用)


感動したねぇ。

まさにタイトルのとおり、現代の二十四の瞳だった。

午後からずっとソファーにひっくり返っていて、読了した。

まさにマレビトである。主人公の先生は。

ボキもこんなふうな先生であっただろうかと反省したよ。まったく。。。

 

 

 

KIKANSHA_SENSEI

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イエスと、フーテンの寅さんと、出羽三山のミイラたち

2017年09月14日 13時10分45秒 | とーま君の流儀2017

イエスも、フーテンの寅さんも、出羽三山の即身仏たちも視点を別に持って見つめなおすべきなのかも知れないなぁ~~~~

 

 

イエスもフーテンの寅さんも同じ軽みの世界に生きていたと打鍵したら、熱心な信仰を持っておられる方々に叱られてしまうだろう。

しかしである。現役の神父様が書かれたとなると冗談でもなくなってしまう。

『寅さんとイエス』 という本である。

 著者:米田 彰男

 発行者:熊沢 敏之

 発行所:株式会社筑摩書房

 装幀者:神田昇和

 印刷・製本所:中央精版印刷株式会社

 2012年7月15日発行

 

この本である。

これがすこぶる面白い。

家族との関係もそうだし、定住していなかったというのもそうだし(そうだしというのは共通しているということ)と思いつつ神父様の本を拝読していた。

ど~も聖書の中に出てくるイエスは、姦淫の教えもあって、なんだかとっつきにくい。

情欲を持ってオンナを見ただけで罪人となってしまうし、そんなことが完全にできる男性なんぞこの世にいるのかと思ってしまう。教義的にはいろいろあるんだろうが。

フーテンの寅さんはどうだろうか。

いつも片思いで、ふられてばかりいる。純情そのものである。恋や愛が成就したことはまったくない。いつもすれすれのところで、がっかりして故郷を去ってしまう。

で、ボキはハタと気がついてしまったのである。フーテンの寅さんこそ、姦淫の教えを守っていた稀有な男性であったのではないかと。

これぞこの世にまたとない男性なのではないのかと。

だからこそ、成就しない哀しみを抱えているからこそ、ボキのような一般大衆を慰めてくれるのではないのか。

ボキは、希望もかなえられなかったし、カネもないし、年金暮らしでやっとのことで生きている。欲望なんて最初からない。姦淫の罪は、そういう気持ちを持っただけで罪となるのなら、いくらでも罪がある。ただのだらしないジジイであるからだ。

だからこそ、聖書は辛い書物である。全巻通読、合計7回やったが、とうとう信者にはなれなかった。話だけは聞きに行ってみたことがある。しかし、教会組織もまた経済論理が支配していた。要するに、そういうことならば、ボキはなじめないのである。理由はわかる。献金がないとやっていけないというのは。

でもダメだった。

想念の中だけのイエス像であったのだ。

同時に、フーテンの寅も想念の中だけのヒーローである。ボキには。あくまでも映画の中だけの主人公であった。

しかし、今回のこの本はイエスもフーテンの寅さんにも誤解をしていたということをわからせてくれた。

要するに、あまりにも深刻に受け止め過ぎて、軽みという視点から見ていなかったということである。

芭蕉に対してもそうだった。悟りの境地にいたのではないのかと思っていた。こっちが勝手に。

3人とも軽みの世界も生きていたのである。「も」なのである。あくまで「も」。

要するに一面しか知らなかったのである。

ロシア文学から理解していたイエスであり、狭い範囲の聖書であったのだ。

ううううううううううううううむ。

 

だとすると、いろいろな作家たちへの理解も全部ひっくりかえるかも知れないではないか。

谷崎潤一郎然り。ドストエフスキー然り。森鷗外然り。夏目漱石然り。水上勉然り。島崎藤村然り。

・・・・・・・・・・

もうやめよう。

ボキの書庫にある全集本を得意がってここに打鍵しても、なんの意味も無い。

どうせヒマである。時間だけは死ぬほどある。それらを方眼紙仕様のルーズリーフ片手にメモを取りながら読むのもまた一興である。

今日の午前中は、そうやってかの有名な戸川安章先生の、「出羽三山のミイラ仏」 (1974年)を読んでいたのだけれども。おかげさまにて読了した。

さらにある。

またまた行ってみたくなってしまった。

出羽三山にである。冬にである。ミイラ仏に会ってみたい。

 

ヾ(*´∀`*)ノ

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9月13日(水)のつぶやき

2017年09月14日 05時58分42秒 | とーま君の流儀2017
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/