愛するイエスよ。あなたを宣べ伝えさせてください。ことばによってではなく、わたしたち自身の模範によって、人をとらえる力によって、人のこころに共感を呼び起こす行動によって、わたしたちのこころに満ちるあなたへの愛の証しによって、あなたを知らせることができますように。
イエスよ、光はすべてあなたから発するのです。わたしたちからではありません。わたしたちをとおして人を照らすのはあなたなのです。わたしたちの周りにいる人を照らし、あなたの一番望まれる方法で、あなたを称えられるようにしてください。
愛するイエスよ。わたしたちと一緒にいてください。そうすれば、あなたと同じようにわたしたちも輝きだし、隣人を照らす光となることができるからです。
愛するイエスよ。わたしたちの接する人が皆、あなたの現存をわたしたちのこころに感じ取り、わたしたちではなくあなたを見つめることができるようにしてください。
愛するイエスよ。わたしたちのいのちのすべてが、あなたのいのちの輝きそのものになるほどに、わたしたちの中には入り、完全にあなたのものにしてください。
愛するイエスよ。わたしたちがどこにいても、あなたの香りを、ただよわすことができるように助けてください。あなたの霊といのちで、わたしたちのこころを満たしてください。
調子のいい時、悪い時、病気の時、悩みの時があります。それらはみな、十字架の一部です。イエスに完全にならおうとするなら、主の御受難にもあずからなければなりません。だから祈らなければならないのです。だからいのちのパンが要るのです。だから礼拝するのです。だから罪のゆるしを受けるのです。
いのちのほかならぬ初めから、いのちが生じたその瞬間から、受胎のときから、そのいのちは神のいのち。---生きている神のいのちなのです。だからこそ、いのちの抹殺はひどい悪事なのです。---それは神の似姿の破壊だからです。
わたしたちは神の似姿として、人となられたイエスの似姿としてつくられています。すべての子供は、もっとも偉大なことのためにこの世に生まれます。---愛し、愛されるためです。
子供たちはじっと見ています・・・そして、見ながら成長していくのです。自分たちの生き方の大切さを、子供たちは親の生き方を見ながら学んでいくのです。
祈ること、互いに愛し合うこと。悲しみを分かち合うこと、一緒に喜ぶこと。両親が手本を示せば、子供たちがこれらのことを忘れることは決してないでしょう。
すると、体中をむしばまれた一人の男の人が、わたしのサリーをつかんでこう言うのです。「もう一度、もう一度おっしゃってください。この病気は神様の愛なのですね。マザー・テレサ、苦しんでいる人たちは、あなたの話しの意味がよくわかるのです」苦しむ兄弟姉妹の中にカルワリオを見ることができます
あなたたちが味わっている孤独感は、イエスがこの世に来られたときに味わわれたものと同じなのです。イエスは人間として父のもとを離れておられたので、人として生きられたので孤独になられたのです。
クリスマスにハンセン病患者に話しをしました。あなたたちの負っている病気は神からの贈り物なのです。神はあたなたちを強く信頼しておられるから、その苦しみをお与えになったのです。
何も持たず、だれにも一緒にいてもらえない人たち。彼らの生活そのものが祈りです。その人たちは、わたしたちのために知らずにとりなし続けているのです。だからこそわたしは、「死を待つ人の家」が、カルカッタの教会の宝の家だと思っているのです。
では、神への愛をどのように行動に移せばよいのでしょうか?それは自分の家族への忠実と、神からゆだねられた任務への忠実をとおしてです。たとえ有能でも無能でも、金持ちでも貧乏でも。大切なのは、どれほど多く行ったかではなく、行うにあたってどれほど多くの愛を注いだかなのです。
いくつの資格をとったか、いくら稼いだか、どれほど偉大な業績をやり遂げたか、生涯の終わりにわたしたちが裁かれるのは、これらのことについてではありません。