と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

ハゲを受け入れてから、ボキは変身した・・・アタリメェだが(^_^)

2017年05月05日 06時02分41秒 | とーま君の流儀2017

受け入れることが、平常心を保つ(のかも知れない)と思っているので。・・・・・フフフフフフ。

 

 

受け入れることができるか。すべてをである。幸福は受け入れることができる。しかし、不幸も不運もである。ボキのような貧乏もである。あるいは、意図していない出来事もである。病気もである。これも意図していないからである。誰も病気になりたくてなっているわけではない。しょうがないからなっちまったというだけである。

しみじみそう思うのだ。

思うようにならないのが世の中である。ハゲかかってきたときに、かなり焦った。で、いろいろな整髪料にチャレンジした。チャレンジしながら、これでいいのか?ってぇ疑問が忍び寄ってきた。

結果的に受け入れた。受け入れるしか手がなかった。ジタバタあがいているうちに、アホはアホなりに考えた。こういうように外面だけ飾っていていいのかと思った。飾っても、もう無駄であった。頭頂部からドンドン禿げてきた。今日は何本毛が抜けたかとサミシイ思いもした。しかし、途中からエィ!とばかりヘッドスキンにした。

さわやかだった。

受け入れたからである。でも、周囲が受け入れてくれなかった。今までどおり、からかいの対象にできなくなったから、むしろ残念な気持ちでいたのだろう。それが伝わってきた。

ヘッドスキンにしたら、案外これが素敵なのだ(^_^)。自称だけど。似合っているのだ。もっともボキは、柔道部を長いことやっていたから高校時代は3年間坊主アタマであった。だから違和感はなかった。むしろ、仕事をしていてヘアーを伸ばしていた時代の方が違和感があった。

出世に影響があるかなぁと考えたからヘッドスキンにできなかったのだろう。でも、そんなことはなかった。天性禿げていたら、生まれつきである。時代も良かった。差別することが否定された。ことごとくだった。外見や身体的なハンデをクチにすることは、世の中の風潮として否定された。ありがたかった。

なにも、すべてが変化したわけではない。外見が変わっただけであった。だから、ボキという人間が変化したわけではなかった。内面はである。けっこう寒くなったから、冬は大変になったけど。そんなもんは、帽子をかぶればよかった。帽子代がかかってきたが、ご愛敬である。昨日も居住地のショッピングセンターで二つほど買った。夏用である。Walkingをやっているからである。熱中症になってしまう。それだけは怖い。

受け入れるということは、そういうことである。中身は変化していないのである。それをである。イチイチ外面を気にして、悩んでいたら時間がもったいない。そんなことでクヨクヨやっていたら、あっと言う間に死んじまうではないか。やることはいっぺぇあるのだ。

死ぬまで勉強である。これからボキは、死ぬ。死ぬための覚悟を勉強しなくちゃアカン。

楽しみですらある。マジに。

なんでも前向きに捉えたい。

できれば、前のめりに死んでみたい。

わははっははっははははっははははっははは。

冗談だけど。

 

 

今日はこれから孫と一緒に佐倉市の草笛の丘という所に行ってくる。ミニSLが走っているのだ。おにぎりを持ってである。楽しみである。

孫を持つようになったのである。

そうなのだ。ジジイになったのである。それをも受け入れるということである。

あ、孫が起きてきた。

もうこれにて終わり。

出かけてきます。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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5月4日(木)のつぶやき

2017年05月05日 04時59分29秒 | とーま君の流儀2017
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孫とグランパのスキー旅行

2017年05月04日 07時37分04秒 | とーま君の流儀2017

昨日我が茅屋にやってきた孫が今朝早起きしたので、記事のアップをしているヒマがない。

この動画でもって今日の記事とするしかない。

わははっははははっははっはは。

しかし、こういう動画を今年の冬にアップできたらいいなぁと思った。

そうなのだ。

もう冬の話を楽しみにしているのじゃ(^_^)

ヾ(@⌒ー⌒@)ノ

 

孫とグランパのスキー旅行

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5月3日(水)のつぶやき

2017年05月04日 05時06分31秒 | とーま君の流儀2017
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オットセイ将軍の11代家斉様に、実に教えられることが多いと思うのだが(^_^)

2017年05月03日 11時45分52秒 | とーま君の流儀2017

非公式で40人の愛人がいても、健康のためには酒も三献まで、バターを愛用して、朝は汗をかくまで散歩するというスタイルに学ぶことじゃなぁ~~~

 

 

5.5キロ。Metsで7095歩。通常の歩きならば7859歩。午前中の成果なり。

今日はお昼に孫二人が遊びに来る。あまりのかわいさに、walkingもできなくなる。だって、「ジージ遊ぼぉ!」と言われるからである。誘われたら断れないではないか。孫である、孫。世界で一番かわゆいのだ(^_^)。

今朝起きたら、今日も休日なのだと気がついた。なにしろこっちは休日もGWもない。いつでも休みである。古女房ドノに笑われた。良いご身分だよ~~んって。確かにそうだ。毎日毎日やることがねぇからだ。決まった仕事を持っていて、眉間に皺を寄せてビジネスバッグかなんか持って仕事なんかに行くというのは、まったくない。

そんな自堕落な生活である。もう6年目である。仕事していた時代の話なんか忘れてしまったよん。

アルバイトしている大学や塾に履歴書を出せと言われたので、実績書も含めて昨夜まとめていた。しかし、なんだか寂しくなってしまった。こんなもんを書いてどうするんだろうって思ってしまった。

もっとやることがボキにはあるからだ。

長編小説でも読みたいからである。リビングのソファーに座って、日向ぼっこしながらである。幸い、ボキンチは日当たりがいい。庭もけっこうあるから、古女房ドノが手入れしている花々を眺めながら、読書している。なによりの楽しみである。

あまりにも快適で、ついつい居眠りしてしまうのが欠点であるが。

どうせ元々起きているんだか、昼寝ばかりしているんだかわからないような、だらしないジジイである。起きていても、昼寝しているんじゃないの?と古女房ドノに叱られてしまうからである。顔に書いてある。「そうです、ボキはだらしないジジイでしゅ~~~~~」って。実際顔を見ていただいたらわかる。ご納得いただけるだろうから(^_^)。

こういうのを「がんばらない生き方」っていうんだろうなぁ。あるいは「いい加減な人生」とも言うんだろう。なんとでも言ってくれである。結構毛だらけ、ネコ灰だらけである。

縛られていないし、好きなように生きているからである。

好きなことをやめてしまったから、今があるんじゃよん。

徳川家斉という将軍様がおられたのを、突然思い出した。確か11代将軍でなかったか。正式なカウントだけでも正室・側室16人。非公式では40人。子供が55人。オットセイ将軍と揶揄されることもある御仁である。この将軍様、好きなことばかりやっていたのかもしれない。確かに、跡継ぎを作るのは将軍の至上命令であろうから。

しかし、辛かっただろうなぁとボキは思う。女性にまるっきりご縁のないただのジジイであるから。こっちは。

69歳で亡くなるのであるが、将軍としては江戸幕府最長記録である。子作りだけをやっていたわけではない。将軍の仕事を休んだのは、たったの三回だけ。

健康作りも相当な実力者である。なにをしていたのかというと、酒である。三献までと決められていたのである。乳母の存在が大きかったらしい。

その乳母が、朝起きたら汗をかくまで庭園を散歩させた。八代将軍の吉宗公が愛用していたバターも、クスリだと思って毎日食べたらしい。

超絶していたのである。健康と子作りでもって、ある意味スーパーマン将軍であったのだ。

普段からの健康管理である。これでこそリーダーである。

大いに、学ばなくちゃアカンですなぁ。

 

わはははっははははっははははっは。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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5月2日(火)のつぶやき

2017年05月03日 05時00分14秒 | とーま君の流儀2017
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かなりいい加減である。専門もへったくれもない。好きなように生きている。好きな本をデタラメに手当たり次第に読んでいる。

2017年05月02日 08時12分42秒 | とーま君の流儀2017

朝から、惚け防止のために打鍵して、歩いて、好きな小説でも読む。こんな生活が待っていたとは、三木清先生にも申し訳ない。しかし、自堕落な庶民ジジイにはふさわしいですなぁ~~~~~

 

 

三本ある原稿書きがほぼ形を整えた。孫が来るまでには第一稿を終えたいと思っていたから、まずは一安心である(^_^)。文芸賞の選評についての原稿は昨日送付してある。メールで送ることができるから便利なものである。こんな時代が来るとは予想することすらできなかったが。

孫が来たら、打鍵なんかしていられない。打鍵なんかしているより、楽しいからである。

孫とは今しか会うことができない。一瞬のことである。後になって、彼らが(男児二人)ボキのことを思い出してくれればそれで本望である。

死んでも思い出してくれるということが、生きがいにもつながる。三木清の「人生論ノート」には、死のことについてそんなことが書かれていたっけ。もっとも三木清の場合は、亡くなった奥様のことであったが。三木清は、40代で亡くなっている。戦争中、共産党の友人をかくまっていたという罪で投獄されていた。獄中であった。なんとも暗い時代があったものである。

「人生論ノート」には、死のことについてわずかではあるが書かれている。40代で亡くなっていなければ、もっともっと珠玉の言葉を我々に遺してくれたであろうにと思う。残念でならない。

今のボキと同年くらいまで生きていたら、どんな文章を書かれたのであろうかと思うからである。つまり、死のことをどう受け止め、考えていったのであろうかと。

「人生論ノート」は、Kindleにも入っている。けっこうヒマにまかせて読んできたのだが、もっと知りたくなった。だから、今日県立図書館に行ってくる。すでに予約をしてある本を借りだしてくる。三木清関連の本である。午後からである。午前中はwalkingをするからだ。

原稿もほぼ目処がついたし、他にやることもないから(^_^)。

もう、かなりいい加減である。専門もへったくれもない。好きなように生きている。好きな本をデタラメに手当たり次第に読んでいる。

長編小説にもチャレンジしようと思っている。再チャレンジである。ドストエフスキーにもである。ちょっとしんどいなぁと思ったが。ドストエフスキーは。けっこうしんどい。彼だけは。十代後半に新聞店の二段ベッドでほぼ全作品を読了して以来である。懐かしい。実に懐かしい。だから再チャレンジだと言っているのである。

なぜか。ロシアにも憧れているからである。行ってみたいのだ。美人も多いし。まったくロシアには美人が多い。体験上。

わはははっはははっはははははっはは。

そのためには、ロシアの歴史も学びたい。事実、もうやっているけど。

 

年金生活者である。ということは、なんでもやりたいことを好きなようにやっていくことである。それが生きがいになっているんだから、これでよしである。

朝から、惚け防止のために打鍵して、歩いて、好きな小説でも読む。

こんな生活が待っていたとは、思ってもみなかった。三木清先生にも申し訳ない。しかし、自堕落な庶民ジジイにはふさわしいようである。

さ、これくらにしましょう。

歩いてきます。

健康のために。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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5月1日(月)のつぶやき

2017年05月02日 05時02分35秒 | とーま君の流儀2017
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人生は「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」の四つに分けられるそうだが・・トホホ

2017年05月01日 06時48分39秒 | とーま君の流儀2017

林住期である。今、ボキはこれである。退職してからの時代をさす。人生のクライマックスである。家庭をつくり、子供を育て上げた後は、せめて好きなことをして生涯を終えたい。リセットしてみる時期なのである。

 

 

習慣化ということが大事であるとしみじみ思う。毎朝、早く起きている。これだ、これ。なんのためにかというと、NHKの英会話講座を聞き始めたのだ。退院してからである。だから、もう2年ちょっとになる。朝の6時30分から始まる。2本聞いているから、終わるのがちょうど7時。聞く以上予習をしてから聞いているから、ちょっと早く起きているのだ。

アルバイトでやっている塾のために聞いているのだが、習慣化してしまった。だから、けっこう惚け防止になる。なぜか。忘れている単語なんかもかなり多いからである。

さらにシャドーイングもやっているので、声を出す。これもまた良し。黙ったまま一日過ごしていてはならない。病む。精神的に。けっこう大事なことである。

もっと大事なことがある。

それはwalkingである。毎日10キロ以上は歩いている。一日にである。合計の距離である。ちょっと打鍵したら、憑かれたように外に出て歩く。スタスタと歩く。これがいいのだ。

血圧も正常になっている。上が120台になっているから、こんなことは考えもしなかった。ありがたいものである。

酒もヤメタからであろう。晩酌と自称して毎日呑んでいたら、血圧は当然上がる。酒をやめると人間関係が若干希薄になってしまうのが、デメリットであるが。しかし、もうメリット・デメリットで生きる時代は過ぎた。仕事中心ではナイからである。樹林の中に分け入って、死を見つめる時期になったからである。

言わば「林住期」である。

>アーシュラマ(āsrama)または住期(じゅうき)とは、インドのヒンドゥー教社会において、再生族(ドヴィジャ)のヒンドゥー男子に適用される理念的な人生区分のこと。 4つの段階を経過することから四住期とも訳される。 成立は古代インドのバラモン教にさかのぼる。(Wikiによる)

 

Wikiの説明ではよくわからない。

古代インドでは人生を4つの時期に区切るという。

 「学生期」(がくしょうき)

 「家住期」(かじゅうき)

 「林住期」(りんじゅうき)

 「遊行期」(ゆぎょうき)

以上である。

つまり、学生期はまさに学んでいる時代。こいつは生涯学習ごっこの時代でもあった。あったと言っても、まだヤメタわけではないが。それに、ボキはこの学生期が異常に長かった。カネがなくて、苦学ばかりしていたけど。これがあったから、その後喰っていくことがデキたからありがたかったが。

家住期は、家族と共に過ごした(過ごしている)時代でもあった。しかし、あまりも仕事仕事で家族のことに配慮が及ばなかった。モーレツを通り越していた。土曜も日曜もなかった。部活の練習試合で家には殆どいなかった。長女・長男に恵まれたが、子育ては古女房ドノが全部やった。だから、アタマが上がらないのである。マジに。なんにもやってこなかったのだから。

林住期である。今、ボキはこれである。退職してからの時代をさす。人生のクライマックスである。家庭をつくり、子供を育て上げた後は、せめて好きなことをして生涯を終えたい。リセットしてみる時期なのである。人生80年。もっと、長生きになるかもしれない。人は生きるためにもエネルギーが必要だが、死ぬときもこころ構えが必要である。哲学なんてぇものではない。そんなもんは、インテリの必須科目であって、ボキのような庶民には理解不可能である。だからといって、生涯をなすべきこともなく、雑事に追われながら死にたくはないものだ。最期まで仕事仕事でメリット・デメリットだけを考えて、そろばんはじきだけをしていたら後悔する。自分が本当にやりたかったことは何なのかということを自問自答すべきである。その結果後悔があったらあったでそれでいいではないか。所詮、悪業三昧で生きてきたのである。最期の最期まであがいて、悩んで、後悔しつつジジイとして生きていきたい。

悟りなんかとは無縁であるからだ。

悟りなんて言ったらバカかと言われてしまうではないか。それに悟ったという自覚もないのである。そもそもアホである。

このようなことを考えるのを習慣化していきたいものである。

それしかやることがないのだから。

わはははっはははっははははっはは。

 

今日も天気がいい。朝からピーカンである。ただし、gymも図書館も休館である。午前中は原稿書きをして、間で歩く。午後も原稿書き。そしてまた歩きに行く。

原稿は、生きてきた証、記録のためにやっているだけである。これもまたよし。あれもまたよし。趣味だから。


ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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4月30日(日)のつぶやき

2017年05月01日 05時07分27秒 | とーま君の流儀2017
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/