と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

5月10日(水)のつぶやき

2017年05月11日 04時46分06秒 | とーま君の流儀2017
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退学した某大学での中国語講座に参加してきた。8名の受講生であった。いいもんじゃなぁ~~、こういうのは。

2017年05月10日 08時26分16秒 | とーま君の流儀2017

生涯学習ごっこというのは、「お友達づくり」のためで「も」ある。そう思っている。マジに。

 

 

昨日は退学した某大学で行われている中国語講座に行ってきた。8名の参加者であった。講師は西安外国語大学出身の女性助教。専門家である。去年から始まった講座である。

心配していたのがレベル。あまり高すぎると嫌になってしまう。学生でも院生でもないから。

しかし、評価がないから気楽なもんである。だから身につかないのだという御批判は甘んじて受ける。当然である。ジジイの手慰みでしかないからである。これは、いくら批判されても甘んじて受けるしかない。

生涯学習ごっこでも、きちんとした学生や院生の身分であれば成果が求められる。レポートも出さなくちゃならないし、社会人だからと言って特別待遇があるわけではない。これはコメディアンの萩本欽一さんも、同様なことを言っておられた。駒大の仏教学部で現在勉強をされている。ボキなんかよりずっと年長である。ボキは、まだまだ「小僧寿し」である(^_^)。そうなのだ。「小僧っ子」なのである。

若いのだ、ボキは。

未完成。未熟。だらしないジジイ。アホ。悪業三昧の不良ジジイ。

わははっははははっははははっはは。

 

あ、話題はそんなことではない。

中国語講座に昨年度から継続で参加されたのが、ボキを含めて3名。この方々との雑談が楽しい。久しぶりだねぇ~~~って、喜んでいた。健康?とか、元気?とか、血圧はどう?とか病気の話ばかり。

新規に受講された方々が5名。いずれ、この5名の方々との雑談もやるつもりである。今は、まだ警戒されているんだろうけど。

警戒と言えば、母と娘で参加されていたお二人は、特にボキのヘアスタイルを見て警戒されていた。こちらから、ご挨拶を申し上げたのにムシされてしまった。当たり前である。まるっきりこっちは暴力団風ではないか。もっとも痩せた暴力団員なんかいるわけもないが。貫禄がねぇから、こっちは。

講師の先生は、ボキのことを覚えてくださっていた。ありがたいことかぎりなし。いつかは中国観光旅行にも行ってみたいと、学習のきっかけを申し上げたが、これは本音である。なにしろ中国は近い。ヨーロッパとはわけが違う。エコノミークラス症候群になってからは、それこそエコノミー席では飛行機に乗れないからである。ビジネス席でないと、片道10時間も飛行機には乗っていられない。マジである。これはなってみないとわからんのである。

それでも行くのは、生きて居るうちに外国を知りたいからである。所詮観光旅行でしかないけど。そりゃそうだ。国会議員のように視察というわけにはいかない。成果もなんも求められていないからである。

中国もその一つである。観光で行きたい。かつては論文の対象でもあったが、諦めてしまったから観光で十分である。さらに、近いからエコノミー席で十分である。

インドに行った時も、中国を通りこして行った。デカイ。上空から見た中国は、さすがにデカイ。インドもデカイが、この二つの国は地続きである。空から見ないとわからないことであった。

 

今日から、居住地の中国語講座も始まる。夜である。夜7時から。

こっちも楽しみである。

友達が増えてきたからである。

生涯学習ごっこというのは、「お友達づくり」のためでもある。

そう思っている。

 

さ、今日はこれから図書館。孫が来てから行っていないし。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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5月9日(火)のつぶやき

2017年05月10日 06時01分47秒 | とーま君の流儀2017
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東洋一の巨大病院に行って、いびきの診察をしていただいた

2017年05月09日 08時06分34秒 | とーま君の流儀2017

巨大病院には、多くの方々がつめかけている。いろんな死の実相があったのだが、考えさせられますなぁ~~~

 

 

昨日は東洋一の巨大病院に行った。居住地にある。ボキの身体的な不健康のデータを全部知っている巨大病院である。

なにしに行ったのかというと、睡眠時無呼吸に陥っているからだ。いびきが凄いのだ。古女房ドノに指摘された。(*_*) マイッタねぇ。隣の部屋に寝ているのだが、それでもうるさいと言われた。旅行に行っても、さんざん古女房ドノには迷惑をおかけしている。だから、行ってきなさいよ!というわけで病院行きを宣告された。

痩せたから、いびきはかかなくなったと思っていたらそうでもなかった。

昨日診察していただいたドクターも、ボキが太っていないので、「いびきをかきそうでもないけど、かきますか?」と質問してきた。かきますと答えた。どーもアレルギー性鼻炎になってから、かくようである。春先は鼻がつまっているからだ。そういう意味では自覚がある。

アルコールも一因であったと思う。しかし、飲まなくなってもかいている。こりゃぁアカン。

そういうわけで病院に行ったのである。

 

病院に行くと、いろんな患者がいる。巨大病院だから、たくさんいる。待合室はあるが、すべてコンピュータ処理であるから早い。初診も予約再診も、銀行のATMみたいな機械でカード処理である。空港みたいなものである。

どこの診療科に行ったら良いかわからない時は、総合受付で看護師に聞く。それから各科の受付に行く。各科の受付もデカイ。ボキは耳鼻咽喉科だと思い込んでいたら、内科に行かされた。そして、受付をここでも数台並んでいるATMのお化けみたいな機械でやった。それからやっとニンゲン様に呼ばれて、聞かれる。昨日もそうだっった。

で、話をしていたら、エコノミークラス症候群になってからお世話になっている主治医のS先生が、いびきの専門家だったということを知った。初めて知った。そんな話だったら、3ヶ月に一回の予約再診の時に申し上げていればよかった。

しかし考えてしまったなぁ。ミンナ、病気になりたくて行っているのではない。仕方なしに来ているのである。なかには、死にかかった人もいる。あきらかに重症な方が。

病院に行くと、そういうモロモロのニンゲンの生き方というものを見せつけられる。

 

だから、医師の鎌田實先生のエッセーに惚れ込んでいるのだ。ずいぶんと読ませていただいている。先生は、ボキとそんなに年齢は変わらない。長野県の茅野市で公立病院を経営されて、再建をなされた。そういう経営手腕もさることながら、チェルノブイリ原発事故で被爆した子供たちを治療するというボランティアもされている。

生き方が素敵である。

惚れ込んでしまった。生き方にである。茅野市に岩次郎小屋というログハウス(ご自宅)を建てて、岩次郎という育ての父を偲びながら今もかなりのご活躍である。

鎌田實先生のエッセーには、いろんな死の実相が登場してくる。病気になって、死にかけて、そして冥途に行ってしまう方々のことがである。他人事ではないから読んでいるのである。ボキも死んでしまうからである。100%。それがいつになるか知らないだけである。無関係ではないのである。

そういう意味でも鎌田實先生は、人生の師である。ありがたいものである。

 

合掌!

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5月8日(月)のつぶやき

2017年05月09日 04時53分19秒 | とーま君の流儀2017
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藤原新也の旅 〜月の雫〜

2017年05月08日 11時46分37秒 | とーま君の流儀2017

ニンゲンナンテ・・・・・・・・・・

トホホであるけど・・・・・・・・・

 

 

藤原新也の旅 〜月の雫〜

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藤原新也 Memento Mori

2017年05月08日 11時41分58秒 | とーま君の流儀2017

恐ろしいほどの真実!

毒も十分あるけど。

座右の書なり。

 

 

 

藤原新也 Memento Mori

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犬に食われている死体のページには「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」とあった。

2017年05月08日 06時34分20秒 | とーま君の流儀2017

「あの人骨を見たとき、病院では死にたくないと思った。なぜなら、死は病ではないのですから」という台詞に考えさせられた。

 

 

人間の死体が犬に食われている写真というのを、初めて見た。「メメント・モリ」(藤原新也著 三五館)である。これも鎌田實先生のエッセーで知った。さっそくAmazonから買った。古本であった。昨日ローソンに来た。で、昨夜読んでいた。写真集なので、読んでいたというより眺めていた。考えながら眺めていた。

おどろおどろしい写真が並んでいた。短いコメントもついていた。それが秀逸であった。

犬に食われている死体のページには「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」とあった。このコメントにあっと思った。この写真を見て、惨状だと思ってはならない。たぶんガンジスの川であろうから。

別のページに「ありがたや、一皮残さず、骨の髄まで」とコメントがあった。写真は、鳥に食われているニンゲンの死体であった。骨だけになっていた。

さらに別のページには、「あの人骨を見たとき、病院では死にたくないと思った。なぜなら、死は病ではないのですから」とあった。これもまたガンジスの川辺であろう。完全な白骨であった。

ここまで眺めてきて、藤原新也さんが、生と死をどう考えているのかがちょっとだけわかったような気がした。

いのちが見えないということである。生きるということと、死ぬということは厳然たる事実としてあるのに、現代はまやかしで生きている。死も隠蔽されている。病院で死んで、そこから火葬場に運ばれてそっといなくなてしまう。死んだ方々は、最期に周囲のニンゲンたちにいろいろなことを教えてくれるのだが、それもまた隠蔽されている。テレビドラマも小説も生きることに忙しい。不倫だの恋だのと寝るヒマもないくらいに、これでもかこれでもかとボキのような庶民を騙してくる。まるで、全世界が恋愛症候群にかかっているような案配である。

この写真集は、25年以上も売れているという。本の帯に藤原新也さんがそう書いている。毒のある本かも知れない。自殺した女子高校生が、この本を片手に亡くなったとも書いてある。賛否両論あるだろうと作者も認めておられる。そうかもしれない。

しかし、この本でもって、生と死を考えるきっかけにはなるだろうと思う。その回答は簡単なことではない。一生涯かけて導き出す性質のものであろうとボキは思う。

ボロボロになるまで読んで欲しいとも書いてあった。そういう意味ではバイブルとか、仏教経典にも匹敵するのかもしれない。

それにつけても、「あの人骨を見たとき、病院では死にたくないと思った。なぜなら、死は病ではないのですから」という台詞は、真実であろう。

まさに、「死は病気ではない」からである。

考えることが大事である。生きているうちは生きているのである。その結果、死ぬのである。病気ではないのである。病気で死んでもそれは原因であって、死そのものは厳然たる事実である。

 

実に良い本に出会ったものである。鎌田實先生に感謝である。

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5月7日(日)のつぶやき

2017年05月08日 05時02分27秒 | とーま君の流儀2017
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菅谷 昭先生(現在長野県松本市長)のベラルーシ診療記 

2017年05月07日 12時16分43秒 | とーま君の流儀2017
鎌田實先生がいなかったら、ボキはこういうことを知ることがなかった。
ホンモノのドクターである。
しかも、大変な時代を背負っているのだなぁと思った。
大事にしたい動画である。
 
 
 
 

2016/09/26 に公開

自由なラジオ Light Up! 026回 「ベラルーシで甲状腺がんを治療しつづけた医師、菅谷昭・現松本市長と小出裕章さんとの特別対談! in 松本」https://www.youtube.com/watch?v=2-743...

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菅谷 昭先生(現在長野県松本市長)のベラルーシ診療記

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110ccのビジネスバイクに乗った御仁と、道の駅でちょっと話をしたら

2017年05月07日 08時15分20秒 | とーま君の流儀2017

風に追いかけられ、追いかけつつ。そういう気ままな旅をしなくなってしまった。そういうことに気がつかなくなってしまっていた。

 

 

比べないというか、他人のことが気にならないというか、そういう心境になってきた。ジジイになってきたからだ。

かつての仕事のことなんかまったく気にならない。あたりめぇである。仕事の方から相手にしてくれないからだ。定年で去ったのである。今さら、お相手をしてくだされませんかと懇願する程アホではない。

それに他人の乗っているクルマも気にならない。燃費もなんも気にならない。燃費の良いクルマに乗っても、第一出勤して行く先がない。たいていは、歩いて用足しに行くから乗らない。たまに乗って、旅に出るくらいである。都会とは違うから、どこに行くにもクルマは必需品であるけど。買い物をしたら、積んでくる手段がないから。

カミの毛の量も気にならない。気にした時代はあったが、忘却の彼方に過ぎ去ってしまった。そして、今では見事なスキンヘッドである(^_^)。気にしても仕方なし。

趣味でやっている郷土史の世界でも他人のことが気にならない。誰がどんなにエラかったとか言われても、ふんふんと聞いているだけである。そんなエライ人なんか、ボキには関係ないではないか。こちらはタダの凡人である。学者でもなんでもない。趣味でやっているだけである。それを勘違いして競争原理でもって受け止めていると、道を間違ってしまう。クワバラ、クワバラである。

いつこんな風になってしまったのかと、昨日ふと思った。そしたら思い当たった。それは30代前半だった。それこそ大型オートバイでツーリングをしていた時期であった。単独も多かったから、なにしろ朝目覚めてからフラフラと出かけたのである。

風を切って疾走するのは、なかなかである。孤独だからである。全部自分でコースを考え、どこに泊まるかも考えながら行き当たりばったりに走る。

痛快だった。こんな旅も今ではできない。痩せたからである。寒くてしょうが無い。これからの季節はいいけど、冬はもうダメである。

昨日、道の駅に県外ナンバーの110cc(ビジネスバイク)が止まっていた。中年のおっさんであった。むろんボキより若い。Walkingしていたので、ちょっとだけ話しかけてみた。荷台に大きなカーゴをつけておられた。中に地図もカッパも入っているという。楽しいでしょうねぇと言ってみた。九十九里海岸の海を見たくてと返事があった。一人旅である。なかなかである。

で、あっと思った。

退職してから、ボキは一人旅に出かけていないということに気がついてしまったのである。

だから、日常がつまらないのである。

ううううううううううううううううむ。

教えられたよん。

ビジネスバイクに。

110ccか。

それで十分ですな。

ボキもどっかに出かけてみたい。風の吹くままに。フラフラと。

 

わはははっはははっはははっははははっは。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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5月6日(土)のつぶやき

2017年05月07日 04時57分04秒 | とーま君の流儀2017
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第一回ベラルーシ日本語スピーチコンテスト その1

2017年05月06日 14時17分10秒 | とーま君の流儀2017
鎌田實先生のエッセーで知った国、ベラルーシ。
行ってみたいですねぇ~~~。
ちょっと無理かもしれないけど。
 


2016/01/20 に公開

2016年1月9日、第一回ベラルーシ日本語スピーチコンテストが開催されました。
1.ズラータ・ナイジョン「学校の仕事」
2.アリーナ・カプトゥル「アイスホッケー」

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第一回ベラルーシ日本語スピーチコンテスト その1

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ジジイの楽しみは・・・・・・・なんにも無かったりして トホホ

2017年05月06日 14時03分10秒 | とーま君の流儀2017

ホントは、楽しみのために、生きているんですなぁ~~~~。ボキの場合。

 

 

孫が帰ってしまった。毎度のことながら、若干の寂しさを感じる。孫がいたこの4日ほどは、なんもできなかったがそれでよしである。ジジイの唯一の楽しみでもあるからだ。

それしかないのかと聞かれてもいい。そうなのだ。それしかないのだ。ボキの楽しみは。

わははっはははっははっはははは。

思うに、人生は楽しむために生きているのだ。楽しいことがあるから生きていられる。普段、どんなにつまらないこと、嫌なことが多くても、ちょっとした楽しみがあればそれでいいのではないのか。

そういうのが形を変えて、出世欲とか名誉欲とかに姿を変えていっているだけである。

だから、出世とか名誉とか無縁になったら、後は楽しむだけである。楽しいから耐えられる。どんなに苦しくても、耐えられるのである。

あるいは、人生はビューティならばそれでいいのである。楽しいのである。ビューティフルということは、美しいということだから、個人によって受け止め方が違っている。人それぞれなのである。

それが「~~~~でなければならない」とやっちまったら、アカン。

人生は楽しまなくちゃならないと思い込んだら、アウトである。ノイローゼになってしまう。楽しんでいない自分を発見して、あれこれ悩んでしまったらそりゃイカン。

要するに「受け止め方次第」なのである。許容と言ってもいい。それができるかできないかということなのだ。

知人からメールがきた。ある大学でゼミを担当している先生が、大学から去らなければならないということで院生達が騒いでいるという。

いろいろと原因はあるらしいのだが、そのことにはふれない。

しかし、先生が去ったからと言って、騒ぐ必要があるのだろうか。

先生がいなくなったら、学位を取れない自分が困るから騒いでいるだけではないのか。

そうなのである。自分が困るからというその一点に限って原因があるのだ。

自分が困ろうと、他人が困ろうと、ボキには関係ないではないか。

そもそも学問をしているというのは、楽しいからやっているだけなのではないのか。だったら、先生が替わろうとノープロブレムなのではないのか。

師匠と弟子の関係というのは、利でもって動いているのではない。師匠と思ったら一生涯師匠であって、師匠がどうなろうと師匠は師匠である。弟子は弟子である。少なくともボキはそう思っている。

たとえ、師匠に捨てられても師匠を恨むことなかれ。能力のなかったオノレを恥じるべきであるとシミジミ思っているのだ。

ボキの場合は、能力がないと「受け止めた」から、某大学を中退したのである。それしか評価もいただけなかったからでもある。しょうが無いのである。それで去ったのである。

しかし、自称研究はずっと続けている。原稿書きもしている。院生時代よりかなりペースダウンしているけど。

それが楽しみであるからだ。

それでいいと思っているし。

さ、これからgymにでも行ってこよう。

昼食を挟んで、ずっと読書していたから。

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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5月5日(金)のつぶやき

2017年05月06日 05時01分31秒 | とーま君の流儀2017
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/