今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

玉川上水を歩く2:玉川上水駅〜羽村

2017年09月18日 | 川歩き

北日本を除いて台風一過の今日、早くも朝から30℃を超える。

もともと”3つヤマ越え”後の連休には、運動不足解消の足慣らしとして「里川歩き」を予定していた。

歩き残していたのは「玉川上水1」だったので、今回はその2だ。
ただし、玉川上水核心部は以前幾度も歩いたので、そこは省略。
拝島から上流のまさに多摩川からの取水口を歩いた記憶がない
(実は完歩したつもりでいたのだが、拝島〜羽村間は、多摩川本流の川歩きの記憶とごっちゃになっている)。 


西武拝島線のその名も「玉川上水」駅で降りる。
この駅は、以前、国立音大のモーツァルトのオペラ公演を観るため幾度か降りた。
久しぶりに降りたが、多摩モノレールが上に交差している。
駅前も道路が広くなり、新興住宅地の雰囲気。

この駅前から玉川上水の緑道に入る。
緑道は川の両岸にそっているのだが、肝心の川には金網のフェンスがかかって近づけない。
そういえば、昔玉川上水で入水自殺した作家さんがいたっけ。
今の浅さでは考えられないが、昔はもっと深かったのだろう。
道は土で足にやさしく、また川沿いは疎林なので、直射日光も防げる。
さらに開削した上水なので、屈曲することなく、まっすぐで歩くのに無駄がない(写真)。

西武線の線路を通り越し、拝島に近づくと川から離れ気味となる。

拝島駅前に出て、立派なトイレがある公園で一休み。


ここから先は、さらに川から離れてしまう。
車の行き交う一般道を歩いて、五日市線の熊川駅を通り越し、
その先の広い河川の手前の段丘に立つと、目の前に奥多摩(秋川周辺)の山々の景色が拡がる(写真)。
奥多摩の名峰大岳山(写真右端の山)の左から馬頭刈尾根が延び、鶴脚山と馬頭刈山が並ぶ左奥に秋川源頭の三頭山が双耳峰で控え、
その最奥に大菩薩嶺がテーブル状で横たわり、その左に浅間尾根、その左に緩い双耳峰の臼杵山が構える。
私が、高校三年間見つづけてきた風景と同じもの。
地面の建物は多いに増えたが、山々の姿は変わっていない(正確には、武甲山の姿だけは変わった)。

福生駅からの道と交差したあたりから、また川沿いの道になる。
左に大きな屋敷が見えるが、これは田村酒造。
咽喉を鳴らして立ち寄ったが、残念ながら本日休業。

やがて多摩川との間にある小丘陵の公園沿いの道となり、気分がいい。 
その丘が終ると、歩いている上水沿いの道の左に、いよいよ多摩川本流が近づいてくる 。
最後は多摩川と玉川上水の間の細い陸地を歩く。


多摩川が右から左に向きを変えている姿が正面に現れ、ここが上水のゴール。
四阿があり、そこには玉川兄弟の像が多摩川からの取水口に向って、兄が立ち、弟が座っている。 
目の前の多摩川は川底が整備されて、遊べるようになっている。

今回は玉川上水の旅なので、多摩川には向わず、上水の開始点である取水口に向う。
取水口の上は立入り禁止で、その手前までしか行けない。
取水口の多摩川側には大きなアオサギが一羽悠然と立っている(写真)。

さらに玉川上水の最初の流れの上を渡り、階段で岸上に上がれば、取水口の全貌が見渡せる。


ここからは青梅線の羽村駅に向うだけ。
途中、地元羽村出身の小説家・中里介山の墓に立ち寄る。
彼の大作『大菩薩峠』は、市川雷蔵主演の映画で観ただけで、小説の方は長期入院時にとっておく。
道脇の酒屋で、買い損ねた田村酒造の銘酒「嘉泉」を購入。 

今宵は、これを飲みながら、今日の上水歩きを思い起こすことにしよう。 


野川を歩く3:深大寺〜国分寺駅

2017年06月04日 | 川歩き

国宝指定によって国立博物館で展示されていた深大寺の白鳳仏(釈迦如来倚像)が寺に戻ってきたのを待って、
野川歩きを再開した☞前回「野川を歩く2」


すなわち、前回は深大寺で終えたので、今回は深大寺から再開。
そうすることで前回はレプリカの展示だった白鳳仏を”国宝”として拝観でき、
さらに何より嬉しいのは、もう一度深大寺そばを味わえる。

まずは深大寺そば。
まだ11時なのだが、一番人気の店「湧水」はすでに大行列だったので、
その近くの「大師茶屋」で数量限定の「粗挽き天もりそば」(1180円)を食べた。
”天ざる”ではなく”天もり”にしてくれているところが良心的。

深大寺そばの店は増え続けており、それぞれ個性を競っている。
おいしい深大寺そばを食べながら思うに、せっかく来たのだから一軒(一食)ではもったいない。
本当はそばのハシゴをしたいくらい。

結局、すべての店で食べ尽くすまでは深大寺を訪れる価値があるということだ。


腹を満たして、深大寺を詣でる。
ちょうど正午の鐘が撞かれていた。
めざす白鳳仏は以前とおなじ場所での展示だが、国宝になってからの変化は、
撮影禁止になった点と、両脇に同じ頃の似た造りでどうやら同じ仏師によるらしい関西の菩薩像のレプリカが並んでいる点と、
それをもとにテープでの解説がついた点で、あいかわらず拝観料は取らない(志納)。
このように深大寺は都内でも有数の観光的価値がある寺院で、創建の古さこそ浅草寺に一歩ゆずるが、
こちらには東日本最古の国宝白鳳仏があり、名物深大寺そばがある。
せっかくなので、翡翠と水晶のブレスレット(気を高めるため)と『住職がつづる深大寺物語』を購入。 


さて中央高速道が上に通る野川に出て、地元の人たちが草に覆われた河原でバーベキューを楽しんでいる横を通り抜け、川歩きの続きをスタート。
野川は川沿いの舗装された歩道もあるが、草原状の河原の踏跡を進めるのがいい。
つまり、それができる分、自然が残っているわけで、コンクリの護岸が続く神田川やその支流とでは川の風景が異なるのだ。 

三鷹市に入り、向いの左岸の奥には国立天文台の森が続く。
ここから左岸は、”国分寺崖線”といってずっと野川の左岸が高台状に続き、その崖から湧水が多いという
(その崖線に沿ったウォーキングルートもあるらしい)。
そして左岸の川沿いに、「長谷川病院」が見えてきた。
この病院、精神病院として有名で、まずは私の心の師である安永浩先生が勤務していた所。
そして、実は私が人生で最も苦しい時に、
小田晋先生(故人)の紹介を経て、この病院に非常勤での職を得ようと、面接に訪れたことがある。
残念ながら、先方が求める条件を満たさなかったので、むなしく帰った思い出の病院。


今度は自分が歩いている右岸側に「大沢の里 水車経営農家」という古民家があったので入ってみる(入場料100円)。
この民家は江戸の文化年間の造りで、その時代に水車小屋内の歯車を駆使した米の精米と麦の製粉が全自動化されていたというからすごい。
しかも歯車(名称は「万力」)までが地元産の木で造られている。
歯車の組み合わせで多彩な動きを構成し、しかもその動力エネルギーはずっと流れ続ける水流なのだ。
これは太陽光や風車よりも定常・安定したエネルギーで、24時間稼働できる。
この農家での歯車の組み合わせ技術が、「からくり」人形細工の元となったという。
19世紀初頭の農家でさえこの技術レベルに達していたのだから、そりゃ明治維新後の近代化はスムースに行くはず。
この施設は三鷹市の管轄だが、実は深大寺のそば店脇にも調布市による「水車館」があった
(あっちは無料で、規模も小さいが川ではなく湧水の水車)。
つまり、野川流域はかくも水が豊かだったのだ。

三鷹市大沢の地からさらに野川を遡ると、近藤勇の菩提寺(墓がある)龍源寺がある。
以前、新選組史跡探訪として、龍源寺から野川を歩いて深大寺に向かったことがある。
この地は近藤勇の生家もあり、子ども時代の勇こと宮川勝五郎も、あの水車小屋の見事なメカを見ていたことだろう。


さてここから野川は、周囲が公園状となり、楽しい風景に囲まれる。
野川公園とそれに続く武蔵野公園を貫く野川は、その間ずっと親水広場と化し、人と川との幸せな交流の場となる。
ここが野川のハイライトであり、他の川においてもこれに勝る親水地帯は存在しない。
ただ惜しむらくは、雨量が少ないためか、川が干上がっていること(写真)。
前回来た時の記憶では、私は川の中をバシャバシャ歩いて(徒渉して)進んだことになっている。
考えてみれば、履物がそれに対応していなければ無理な行為なので、
これは野川の親水性に感動したことによる記憶の捏造かもしれない。

野川がこの状態のまま水源まで続いてくれれば幸せなのだが、残念ながら、現実は冷酷だ。


小金井市に入ると、前原小学校が川の上にまたいで建っていて、迂回を強いる。
今までの都内の他の川歩きでも、川の上を敷地にして通行止めにするのはたいてい公立小中学校だ。
なぜあえて川の上に建てるんだろう。
いいかえればここから野川は、普通の住宅地での邪険な扱いを受ける哀れな川となる。
今までの自然で広い河原が夢であったかのような街中のコンクリに囲まれ、
さらに国分寺市に入ると、川沿いの道すらなくなり、家々は野川に背を向け、無視されるというより邪魔者扱いされる。
野川は存在感を最小にし、なんとか暗渠だけは免れている。
ときたま現れる「一級河川 野川」の標識すら不自然に映るほど、川は貧弱になっている。
かような状態なので、ここから先は、日ごろは入れない水源だけしか興味がもてない。
その水源に足を運べるのは11月の特別公開日を待たねばならない。
その部分だけを残して、川から離れ、国分寺駅に向かう。

幸せな野川を通った後の不幸な野川はいただけない。
野川歩きは武蔵野公園・野川公園より上流はおすすめしない。

野川を歩く4


玉川上水を歩く1:久我山〜三鷹

2017年04月30日 | 川歩き

  GWはたいてい天気も良く、新緑が映え、かといってまだ暑くはないのでウォーキングにはベストシーズン。

まずは足ごしらえに、里川歩き。
野川の残りはお預けにして、今回は玉川上水。
玉川上水は江戸時代初期に、多摩川中流の羽村から江戸府内の四谷まで開削された飲料水用の人工河川だが、前近代の工事なので、
無粋なコンクリ堤防などなく、直線的である以外は自然の里川と変わらぬたたずまい。
そもそも私が里川歩きを最初に楽しんだのが、この玉川上水の小平市周辺部分で、そこは以前から川沿いの遊歩道があって、
三鷹から西武線の「玉川上水」まで、幾度か歩いた。


今回は、その三鷹から先の下流部を歩く。
といってもさらに下流の都市部はずっと暗渠なので、その暗渠が始まる地点を起点に三鷹まで歩く。 
その起点は、杉並区・久我山の中央高速道の真下(高井戸IC付近)で、そこに行くには京王井の頭線の「富士見ヶ丘」で降りる。

駅を降りてまずは神田川にかかる月見橋を渡る。
つまり、昨年10月の「神田川を歩く3」 (高井戸〜井の頭)で通過した道と交差するのだ。
このあたりの神田川は川幅が狭く川床もコンクリで印象に残っていない(上の記事でも記述がない)。

ほどなく中央道の下に達して、そこに玉川上水の暗渠の入口があり、そこから直線状の上流に沿って遊歩道が始まる。
ただ、歩道と川の間には当然ながら柵が続き、深い土手には草木が繁茂して川面は見えない。
それでも歩道は日陰だし、道もコンクリでなく自然状態なので、歩くには快適。
杉並区ではこの遊歩道付近の電柱・電線も地中に埋める工事をしていて、完成したら更に景観がよくなる。

三鷹市との境の牟礼橋は交差する車道の工事中で、道の中央にある名物の大ケヤキには近づけなかったのが残念(写真)。


三鷹市に入ると、杉並区のようなきれいな整備ではなくなり、よくも悪くもほったらかし(自然)状になるが、沿道の家は遊歩道側に意識を向けだして、民家をレストランにして、遊歩者を誘っている。
周囲に畑地が現われて、風情が増し、特に若草橋付近は武蔵野的な雑木が並んでいて思わず立ち止まる(私は”武蔵野”の風情が大好き)。

その先には、農家の私設販売所があったので、土がついている筍3本セット(500円)を購入。

ゆるい段丘があるせいか、川はそれなりに蛇行して北上する。
やがて広い公園(神田川の水源である井の頭公園の続き)に入り、
右岸は「小鳥の森」という自然林になる。
自然林に沿った歩道を歩けるのは、都内の川歩きでは滅多にない。
そもそも自然林を持った公園自体が、都内では数少ない。

里川歩きは、川に沿ってひたすら歩くのが基本だが、周囲に寄り道して、地域を堪能することも楽しみのひとつ。

この小鳥の森の奥に、「ジブリ美術館」があるので、寄り道する。
といってもそこは事前申込が必要で、しかもいつも申込が殺到しているから、予約無しでは入れないのはわかっている。
実際、入り口には「本日の入場分は完売」との表示があり、外国人の親子が立ち尽くしていた。

外から眺めるしかない美術館の屋上には、大きな(実物大?)ロボット兵が見える。
私は熱心なジブリファンではないが、宮崎作品の幾つかは好きなので、いつかローソンで予約をしたい。


さて玉川上水に戻る。
万助橋で、公園から出て、川は人工的な直線に戻り、歩道も堅いコンクリとなる。
道脇に「山本有三記念館」があるので、立ち寄る。

記念館は、大正時代の洋館で、氏が家族とともに10年間ほど居住していたもの(写真)。
山本有三といえば「路傍の石」が一番有名だが、実はそれを幼少時に映画館で観た記憶はあるのだが、
主人公が吾一という名だった以外はさっぱり覚えていない。
映画で感動すれば、喜んで原作を読むのだが、映画を観た年齢が幼な過ぎたのが災いして、
いまだ原作を紐解いていない。
氏の作品はずいぶん映画化され、「路傍の石」だけでも4度も映画化された(昭和30年代だけで3度)。 
氏の作品には無縁でも、この洋館(フランク・ロイド・ライトの影響を受けた部分もある)に入る価値はある(300円)。


ここから「風の散歩道」と名のついた道路の中央部分(川の部分)を歩いて三鷹駅に向かう。
途中、むらさき橋で、川を見たら、大きな黄色い鯉が悠然と泳いでいて、
川岸には甲羅の直径が30センチはありそうな大きな亀がいた。
この付近はすっかり街中だが生存に適した環境らしい。 

玉川上水は、 JR中央線の三鷹駅の下をそこだけ暗渠になって斜めにつっきっている。
なので駅の反対側に出て、川が地上に出る所を確認して、今回の終了とした。

ここまでの玉川上水は、川幅が狭く川岸が深いため、遊歩道からはほとんど川を見ることはできなかった。
ただ国指定の史跡になっていることもあって、遊歩道がきちんと続いて、車道を歩くことがないというのも珍しかった。 


葉桜の目黒川を歩く

2017年04月16日 | 川歩き

帰京した後の日曜、桜を愛でながら川歩きをしたい。

桜並木沿いの川とくれば、目黒川だ。

都心部の川なので、川そのものは人工的様相だろうが、桜の季節なら歩き甲斐がありそう。


もちろん河口から歩き始めるので、羽田空港行きモノレール駅の「天王洲アイル」に降り立つ。
河口部に当たる東京湾岸は、殺伐としたビル群で道路は広く、人通りは少ない。
人工島の天王洲から目黒川の河口部に行くと、
ほとんど黒の深緑によどんだ水に、桜の花が群となって浮いている。
この付近には桜がないので、上流から流れてきたのが溜まっているのだ。
いかにも桜が豊富な目黒川らしい河口だ。
といっても都市部にある河口の川は死相を呈して、見るに忍びない。 
先を急ごう。


品川区の運動場から歩道の橋で目黒川の河口(写真)を眺めながら渡ると「東品川海上公園」となる。
その名の通りここはまだ臨海部だが、目黒川の桜並木はここから始まる。 
残念ながら、数日遅く、葉桜になっているが、その分緑が多いので春の気分となるには不足はない。
目黒川はこの河口部から川沿いの歩道が両側にあり、しかも桜並木になっている。
品川区のこの姿勢は、川に背を向けている神田川の河口部(中央区) とはおおいに異なる。
川沿いに歩いて橋の中央に和風の屋根付きベンチのある品川橋に達する。

そこはなんと旧東海道の橋。
橋の北側は旧東海道の品川宿の町並みになっている。
町中の無料休憩所脇では地元の主婦たちがなにやら小麦粉を練って料理の仕度中。
街道歩きの人たちが橋を渡っていく。
そうか、川歩きの他に街道歩きという手もある(東海道も中山道も名古屋からの方が楽しめるが)。
街道歩きの楽しみは数年後に預けるとして、
今回は東海道と直交する目黒川歩きなので、宿場風情を堪能せずに先を急ぐ。

すぐ上流にある地元の鎮守・荏原神社に詣で、鳥居前の赤い欄干の鎮守橋を渡り、
京急線の下をくぐり、第一京浜の広い道路を渡って、
東海橋沿いの三重塔のある本光寺に立ち寄り、対岸の東海禅寺(沢庵和尚の寺)にも立ち寄る。


JRの鉄橋(京浜東北、東海道、山の手)を次々くぐって、
品川御殿山のビル群を行く手に仰ぎ、川沿いの道は大崎ニューシティという高層ビル群沿いになる。
同じ都市的風景でも人工島の湾岸沿いの殺伐さとはうってかわって、
この一帯は、高層オフィスだけでなく高層マンションが建ち並んで人の生活感があり、
しかも並木の緑も豊かで職住近接の快適なアーバンライフが送れそう。
といっても目黒川自体は、両岸はコンクリート壁で、川も深緑によどみ、魚影も鳥の姿もない。
御成橋脇にあった説明板によれば、以前の目黒川は下水がそのまま入って悪臭を放っていたという。 
今では水質が改善して鮎も遡上しているとのこと。
でも川は透明でないけど。 

五反田の国道1号(現東海道)を渡ると、桜並木の密度が増してくる。
葉桜の中に満開になっている桜があったので、咲き遅れた木かと思ったら、八重桜だった。
ソメイヨシノは葉桜だが、この八重桜やピンクの濃い関山桜の満開は楽しめた。


東急目黒線の鉄橋を過ぎると、ここから先が桜の名所として有名な地帯となる。
うちの菩提寺である五百羅漢寺に行く時いつも通るから知っているのだ。
ここまで来てその五百羅漢寺に立ち寄らないと、霊廟で眠っている父に申し訳ないので、
羅漢寺に立ち寄って屋内の霊廟を開けて線香を立てる。

ついでに親戚が供えたままの缶ビールを拝借(酒類は持ち帰るのが原則)。 

対岸の目黒雅叙園の桜の並木が川にせり出して、目黒川ではいちばん見ごたえがある風景を作っている。 
川には立ち漕ぎサーフィンで川を遡上している人たちがいる。
波がなく、流れもゆるいので楽しそうだ。 

目黒通りを渡ると、右岸が公園続きとなり、そこに腰を下ろして、さきほどの缶ビールの栓を抜く。
川歩きでは完歩後にビールを開けることにしているのだが、
今回は桜の花見が目的でもあるので、こうして花見らしいことをするのだ。

白く高い煙突が目立つ目黒清掃工場付近の桜もきれいで(写真)、
中目黒公園付近の風情も川への愛情を感じる。

船入場広場に達すると、歩道は川から離れ気味になるのだが、
川には人工的な石が置かれて、川の様相が一変する。
河原が中途半端な公園風になるのだ。 
といっても人が降りることはできない。
その代り、サギが数羽たむろして、鴨の群も見える。
河口から遡行して、はじめて生き物に出会えた。

駒沢通りに出て正覚寺に立ち寄り、公衆トイレを借りる。
目黒区の目黒川沿いにはトイレの案内が随所のあるがのありがたい。
目黒川が下流からさらにこの先の上流までずっと桜並木だから、歩く人が多いのだろう。


周囲にしゃれた店が増えてくると中目黒駅。
ここから目黒川もぐっと狭くなり(両岸が接近し)、親しみやすくなる。
川をみると、なんと水が透明になっている!
しかもしっかり流れている。
さきほどの鳥がいた船入場から変わったのだろう。 
ただ川床は昭和初期の改修による、コンクリートの人工的凹凸。
当時はあえてそうすることがかっこよかったのだろう。

中目黒から先は、川沿いにしゃれた店や出店も立ち並び、吉祥寺的雰囲気となる。
こういう道は歩くだけで楽しい。
それがずっと続いて、右手に円形状の大きな建物が見えて、その先で目黒川は暗渠となる(写真)。


暗渠となる池尻大橋(国道246上)が目黒川の終点。
円形状の建物は首都高の大橋JCTで、その最上部は「天空庭園」となっているので、行ってみた。
屋上の庭園からは本来なら目黒川が一望のはずだが、風景はビルだらけ。

ここから先は目黒川は2つに別れてその両方とも暗渠の上の緑道となる。
つまりその2つの川(烏山川と北沢川)が合流してここ池尻から目黒川になるのだ。 

目黒川は河口からここまで、ほとんどが桜並木で遊歩道がついている。
川そのものは都市部の人工的な川で見映えがしないが、桜の時季なら最高に楽しい川歩きができる。 
次回は、ぜひ満開の時に歩きたい。 


野川を歩く2:柴崎〜深大寺

2017年03月31日 | 川歩き

東京での春休み最後の日、あいにく午後から雨の予報。
しかも桜にはまだ早い。

なので、川歩きの野川(☞野川を歩く1)の続きといきたいが、
雨が降る前に終れる短い寄り道コースにした。


まずは京王線の柴崎で降りて、野川の前回切り上げた地点に行く。
前回気づかなかったが、野川のここから先の数百メートルは工事中で、川沿い(川岸上と河辺上の片側2本の通路)が通行止め。
その部分は迂回して、京王線の線路を渡り、甲州街道を横断して再び河辺(礫地の”河原”に相当)に降りる。
この付近の野川は、川も浅く、また所々狭くなっているので、石伝いに対岸に渡れる(写真)。


河辺沿いの踏跡をすたすた歩き、近くの琥珀神社に立ち寄る。
もうこのあたりは、古刹深大寺の伝説の地。

中央高速道路が野川の上を通る所が、深大寺に最も近いので、今日の川歩きはここで切り上げる(ここまで2km程度)。
すなわち次回の野川歩きはここが再開地点となる。

丁度川沿いに、産直販売の大きな店(調布のやさい畑)があるので、地元調布で作られた「のらぼう」という多摩特産の葉物野菜を買い(今晩食べる)、地元の湧き水をペットボトルに詰める。

深大寺側に向かうと、「深大寺温泉」という日帰り施設がある(湧水だけでなく、温泉も湧いている)。
歩き疲れていたらぜひ入りたいが、今は先を急ぎたい。

南参道伝いに坂を登って畑地を下ると、深大寺の門前に下り立った。

さっそく、深大寺そばの店を物色(気持ちは温泉よりも”そば”だった)。

深大寺は寺としても好きだが、それ以上に門前の深大寺そばが楽しみ。
正直、深大寺に行く目的はどうしても「そば」の方がメインになる。

さすが深大寺は、平日の昼でも観光客がいる。
そばの店はたくさんあるので、毎回違う店で食べたい。

今回は、天せいろが安い「青木屋」。

そば湯も飲んで満ち足りた気分になって、寺に参拝。
ここは本尊ではないが、東日本では珍しい白鳳時代の釈迦如来倚像がある。
なんとその白鳳仏が、今月10日に「国宝」に指定されたばかり。
正直その報せは今日知ったのだが、いいタイミングで深大寺に来たものだ。
この寺はこのような貴重な古仏が拝観できるのに、拝観料を取らず、自由に参拝できる。 


今回、野川から離れて深大寺に立ち寄った目的はもう1つある。
それは、私のもう1つの趣味”山城巡り”の対象である深大寺城址

寺の南東側にある神代植物公園・水生植物園内の西側の高台がそれ(ということは休園日の月曜は行けないのか)。
坂を上がってそば畑(かように深大寺そばは地元産)を過ぎると、大きなケヤキ(武蔵野を代表する木)沿いに土塁が連なっている(写真)。
空堀の上にかかる土橋(写真左)を渡ると主郭で、櫓台(写真左の丘)の麓に城址の石碑がある。
主郭奥の虎口を見て、広い第二郭の建物跡(写真のケヤキ付近の地面のボツボツ)やその奥の虎口、外側の二重の土塁を巡る。 
ここ深大寺城址は、戦国前期の扇谷上杉氏の出城で、国指定の史跡になっている。


門前に戻り、バスを待つ間、「鬼太郎茶屋」で時間をつぶす。
鬼太郎の作者・水木しげるは調布に住んでそこに仕事場があった。
そしてわが愛するつげ義春も調布に住んで、水木しげるのアシスタントのバイトをしていた。
鬼太郎に出てくる幾つかのキャラ(女性)はつげ義春が描いたという(いつかそれを確認してみたい)。

今にも雨が降りそうな雲の下、つつじヶ丘駅行きのバスに乗って深大寺を後にした。
野川歩きの次回は、バスの便がいい、ここ深大寺から再開するつもり。
歩く前の腹ごしらえにまた深大寺そばを食べるから。 ☞「野川を歩く3」


野川を歩く1:二子玉川〜柴崎

2017年03月28日 | 川歩き

東京北部の石神井川(豊島園〜東伏見)は楽しくなかった。
なので、 次なる川歩きは、行き先を東京南部に移し、多摩川支流の野川にした。
そもそも多摩川自体が川歩きの対象としてやり甲斐があった(河口〜奥多摩湖まで)。
その支流の野川も実はすでに昔踏破しているのだが、 その時は上流からだったので、今回は下流から遡行する。


東急田園都市線の「二子玉川」で降りる。
幼い時、ここにあった「二子玉川遊園」のお化け屋敷で泣いた記憶がある。
今は、ご存知の通り、高いビルが立ち並ぶ。
なので、いつもの歩き前の腹ごしらえに「駅そば」を探したが、ハイソなレストランばかりで、見当たらない。
仕方なしにコンビニでおにぎりを買う。
駅前はハイソだが、すぐに緑豊かな多摩川畔に出られる。
多摩川の手前に野川が流れており、鉄橋の下で一部が合流している。


その野川は多摩川に合流する最下流ですでに澄んでいる。
これはうれしい。
しかも川床はもちろん両岸も自然のまま(写真)。
東京区部(といっても西の端だが)で、自然状態の川があるなんて嬉しい。

さて、野川と多摩川に挟まれた兵庫島(写真中央:公園になっている)に行き、
そこで座っておにぎりを食べ、右岸沿いに野川を遡る。
野川は浅く透明で、あちこちで鯉が背びれを水面に出して泳いでいる。
両岸に歩道があるが、北側の左岸は車道に面しているので、専用歩道の右岸(南側)の方が歩くのにいい。

川筋はじわじわと北西に延びていき、東京外環道の頭上のトンネル工事をくぐり、
やがて「次大夫堀」という、家康入府の頃に野川から小泉次大夫という人が作った用水路跡の公園に出る。
野川沿いにこういう史跡があるとは知らなかった。
ここには民家園があるので立ち寄る。
この付近にあった江戸時代の民家を3棟集めており、ちょっと江戸時代にタイムスリップした気分(写真)。
でも農家の古民家って外装も内部もどれも似たり寄ったりだから、見学は1棟すれば充分。
民家園発行の民俗資料記事である『あるじでえ』のバックナンバーが置いてあり、民間信仰がテーマのもの数点もらった。 

ここから川沿いに小田急線の喜多見に向かう。
左岸の奥は高台が続いていおり、これは国分寺のハケで有名な国分寺崖線というもので、野川はこの崖線に沿って流れている。
ただ、生活排水が流れ込んでいて、この付近の水は濁っている。

小田急線の鉄橋をくぐると、自分が歩いている右岸は小田急の喜多見電車基地(内部は見えない)に沿った公園になる。
対岸の土手の冬枯れの桜の樹の下で、坊主頭の若者が結跏趺坐で瞑想している。
彼の頭上の桜が満開なら、絵になったな。
また、ここから川岸上(段丘の上)の歩道の内側、川べりの土の部分(段丘の下)に人が歩けるスペースができている。
ただ、そこへの下り口が見当たらないので上の歩道を進む。 


調布市に入り、両側が大きな団地になる(神代団地)。
団地の真ん中を野川が流れ、両岸にそれぞれ二重の歩道が続く。
生活風景と川が馴染んでいて楽しい。

もっと川に近づきたくなったので、外側の歩道から、川べりの踏跡(正式な歩道ではない)に降り、ここからは川を間近に見て歩く。 

対岸の草むらでは子鴨が数羽遊んでいて、近くの親鴨が、猛禽から子鴨を守るためか
子鴨に位置を知らせるためか、わざと翼を拡げて注意をひいている。

そういう鳥たちを見ているうち、道の先に、人間ほどのすごく大きな黒い鳥がいるように見えて、眼を見張った。
よく見たら、人だ(写真:では錯覚のしようがない)。
あれ、この”人を鳥と見まがう錯覚”って、つげ義春のマンガ『鳥師』にあったぞ。
実は私が一番好きな漫画家つげ義春はここ調布市に住んでいて、そのマンガはこの地が舞台になっている(そしてつげ義春原作・竹中直人監督主演の映画『無能の人』も)。
しかも、野川はつげ義春の散歩コースだったのだ。
彼が住んで作品にした土地で、彼の作品の1シーンを図らずも追体験した。
ファンとしてこれほど嬉しいことはない。
私にとって「野川」はこういう意味もあったのだ。


さて、野川の行く手に京王線の鉄橋が見えてきた。
今日の予定は、ここまでだ。
野川の下流部を歩いたことになる。

野川の本当の楽しさはこの先にあるのは判っている。
それを次回の楽しみとするために、今日はここまで歩いたのだ。
そう自分に言い聞かせて、川から離れて、京王線の柴崎駅に向かった。 

「野川を歩く2」に続く


石神井川を歩く:豊島園〜東伏見

2017年03月24日 | 川歩き

昨年、杉並区を流れる川(神田川、善福寺川、妙正寺川)を歩いたので、
春休みで帰京している折り、次の川歩きをしたい。
東京区部の北部(練馬、板橋、北区)を流れる石神井(シャクジイ)川(北区では音無川)は、だいぶ以前に王子から板橋を抜けて豊島園まで歩いたので、そこから上流にしよう。

石神井川の水源はてっきり石神井公園の石神井池・三宝寺池だと思っていたら、これらの池は石神井川の水源どころか川に接してさえおらず、その上流の武蔵関公園の富士見池も川が貫通して水源ではなく、本当の水源は小金井公園の西方だという。
このように意外に長い川なので、今回は川としては実質的な水源に近い富士見池まで歩くことにする。

とういわけで、池袋から西武線に乗り、本線から1駅だけ北に伸びている支線の豊島園駅に降り立った。
豊島園は、子どもの頃は近場の後楽園より好きな遊園地だった。
でも、石神井川歩きにとっては、川(沿いの道)の通行を妨げる障害物でしかなく、大きく迂回を強いられる。

やっと川沿いの道に出て上流に向かって西行する。
川は、水藻こそ繁茂しているが、水が濁っていて、水鳥はいるが、魚影は見えない。
川岸も鉄の土留めが使われていたりして、川に対する愛情がみられない。

環状八号線を横断して練馬大橋を渡り、川が左に折れて南行し、西武池袋線・練馬高野台駅のガードをくぐる。
駅前的風情になると、桜並木となるが、まだ冬枯れ状態で、今日の北風の中でいっそう寒々しい。
今までの経験上、都市および郊外の川沿いは桜並木であることが多く、必然的に川歩きのベストシーズンは桜の時季となる(残念ながらその時季は私は東京にいない)。

気がつくと、川の水が赤土色に染まっている。
この色は土砂(関東ローム層)の色だから、大雨の後ならわかるが、一昨日に普通の雨があったくらいなので、この濁り様は説明できない。
いずれにせよ、川を見ながらの川歩きにとっては興が削がれることこの上ない。

長光寺橋を過ぎると、両側が新しい都営南田中アパートで、にわかに川沿いが公園状になる(写真)。
川に背を向けていた時代から、川に向き合う時代への変化を象徴した風景だが、杉並区にくらべると対応が遅く、範囲が狭い。 
川べりは整備されているのだが、肝心の川が赤土色で濁っており、風景として興が乗らない。

石神井公園の南側に達したので、蛍橋から川を離れて、公園南にある道場寺と三宝寺を訪れる。
道場寺は石神井城主だった豊島氏(太田道灌に滅ぼされた)の墓所があるのだが、 修行道場的な寺のためか、墓所には一般人は入れない。
寺の向い側の石神井小学校では、卒業式が終わって4月から中学1年になる卒業生とその母親たちが校門付近に溢れている。
三宝寺近くの団子屋は地元名物らしいが、 店の人が奥に入ったままなので、一本だけ買うには忍びなく、あきらめた。

ここから団地のある右岸が工事中で、そのあおりで左岸の川沿いの道も通行止めなのでまた迂回を強いられる。

そして、工事区間が終わった上御成橋に立つと、なんと川が澄んでいる。

そうか、下流の川の濁りは、ここの工事による土砂のせいだったのか。
それにしても、その下流への影響は広い(長い)。

ということでここからやっと石神井川は、本来の澄んだ流れとなる。
といっても水深が浅いため、川の豊かさは感じられない。

西武新宿線の武蔵関駅を斜めに横断して、南北に長い富士見池に達する。
富士見池には島が2つあり、ボート乗り場があって、鯉も泳いでいる。
この大きな池こそ水源となっておかしくないが(湧水もあるのだろう)、石神井川はこの池を南北に縦断して(水路は池に並行している)さらに西に遡る。
ここから川は早稲田大学の東伏見運動場(野球部とサッカー部がそれぞれの専用グラウンドで練習中)の南縁を流れ、地図では道が無いが、大学の厚意によるのかきれいな遊歩道で敷地内を通り抜けできる。

だが、隣接する都営団地(この流域にやたら多い)に入ると、川が干上がって水がなくなる。
安全のための人工的埋立て(伏流化)によるのか、地形は立派な川なのに水がない風景は、とても残念。

行く手に東伏見稲荷(伏見稲荷の東京分祀)の鳥居が見えたので、ここで川歩きを切り上げ、東伏見稲荷に参拝して、西武新宿線の東伏見駅に向かった。
実は、ここから先の石神井川は、地形としての川道はあるものの、水がない区間がつづくらしい。

地域(住民・行政)に愛されている川を歩くのは楽しいのだが、愛されていない川は歩くとかえって不機嫌になってしまう。 

石神井川は、下流の北区や板橋区の区間は楽しかったが、練馬区内は一部を除いて楽しくなかった。
練馬区から外れる上流も川としての面目が保たれず、楽しくないようだ。
可哀想な石神井川。
次は別の川にしよう。


妙正寺川を歩く2

2016年11月23日 | 川歩き

勤労感謝の日は、意地でも仕事をしない。
今年は、会議のない週だったので、東京の実家にいる。
ではどこに出かけるか。
東博の特別展と温泉と山城に行ったばかり。 

思いつくのは、やり残した妙正寺川歩きの後半。
本流である神田川もまた最大支流である善福寺川も歩き通したので、なおさらやり残しが気になる。

そもそも神田川流域歩きの嚆矢が、2015年9月の妙正寺川の源流からの歩きだった。
源流の妙正寺池(杉並区)から始めて、野方(中野区)まで歩いて、下流に興味をなくして切り上げたのだ。→「妙正寺川を歩く1」

 川歩きは準備もいらず、早起きせずに実行できるのがいい。
なんと起きたのは9時半だったが問題ない。
西武新宿線に乗り、昼前に野方で降りる。
コンビニで昼食用のおにぎりを買い(ずっと歩くので、たらふく食べることはしない)、
環七の陸橋を渡って、昨年の中断地点から川歩きを再開する。
上流と同じく、両側に歩道があるので楽。
ただ川の両岸はコンクリの護岸で、川床もコンクリ。
なので風情もなく、見て楽しくもない(だから途中でやめたともいえる)。 

水は澄んでおり、鴨の群が遊んでいる。でも魚影は見えない。

川は微妙に湾曲し、人工の護岸も両岸の道もそれに沿って湾曲している(写真)。
強引に直線化しない点は好感がもてる。
川沿いの「平和の森公園」という広い公園に入り、ベンチでおにぎりを平らげる。

住宅街の川歩きルートは、公園が所々に現われるので、トイレと小休止・水分補給(自販機)には事欠かないのがありがたい。

このへんになると川床が自然の石のようになり、少しは風情が出る。
上流からずっとコンクリだった川もこの緑の川床を味わうかのように、流れが停まっている(高低差がないだけ)。 
時たま、川床が急な斜面となり、その時だけ、川はせせらぎの音を立てる。
ずっと無音の流れだったので、川歩きの身としては、いいアクセントになる。

だが、そのせせらぎの真横の家では、一年中、昼夜別なく川音が鳴っているわけだ。
私も時たま川の音の環境CDをかけるが、のべつまくなしに聴いていたいとは思わない。
なにしろ、水量の多い川音って音質的に”雑音”に近いから。
きっと窓を閉め切っているだろうな。  

ここから川は北に向かい、流域の最北端で支流の江古田川が合流してくる。
江古田川はすごく短い支流なので、あえて歩くほどのものではない。

この合流点から江古田公園になり、そこに「江古田古戦場」の石碑がある。
江古田古戦場は、江戸城にいた太田道灌が今の23区北西部を支配していた豊島氏(石神井城を拠点)を破った所。
川歩きの途中で私が大好きな関東戦国前期の史跡に出会えたのもうれしい。 

対岸の北野神社に詣で、下田橋を渡ると、哲学堂公園に入る。
ここは小学校卒業後の春休みに、別の中学に行く友達と来て以来(小学校最後の思い出に、友達とここから文京区の家まで歩いて帰った)。 
小学生の分際で哲学的思索をしたいためではなく、友達の一人がこの近く出身て、公園として遊びに行ったのだ。
川沿いの広場には、最近できた、ハンガリー出身の彫刻家による世界の哲人たちが集う彫刻がある。
釈迦や老子が向かいあい、聖アブラハムがひれ伏す脇を通行人が通り過ぎる(写真)。
妙正寺川の右岸は大きな調節池になっている(2005年に水害が発生した)。

哲学堂を抜けると、北原橋という新しい橋(このあたりも水害があった)から、行く手に新宿の高層ビル群が見える(写真)。
流域で一番の眺めだ。 

上流から続いた中野区を脱け、新宿区(中井)に入る頃になると、両岸ともうす汚れた感じになる。

幾度か川を横切る西武新宿線の線路近くには歩道がなくなることがある。
その場合は、迂回路を取らねばならないが、そういう場合も、途切れた川沿いの道をあえて往復して、川歩きをできるだけ通す。 

下落合(妙正寺川が神田川に合流していた地名)に達するとまた気を取り直したかのように川の周囲がきれいになる。

そして下落合駅の先で、妙正寺川は(本来の神田川と合流する流れが変更されて)暗渠に入る。
普通はここが妙正寺川の終点とされている。

だがそれは違う。
妙正寺川は暗渠になっただけで、まだ終わっていない。
川の終点は本流との合流点か河口のどちらかしかない。
妙正寺川のゴールは(変更された)神田川との合流点だ。
それはこの暗渠の先にあるのだ。
私は、暗渠の上になっている新目白通りをさらに東進する。
山手線のガードをくぐり、向こうに都電が見えてくると、そこは神田川の高田橋。
暗渠だった妙正寺川が再び顔を出して、神田川に合流する地点なのだ。
ここが真のゴールである(写真:手前が暗渠出口、奥が合流後の神田川)。

高田橋と合流後の神田川にかかる高戸橋の周囲を一周して、合流地点を360度から見まわした。 
ここまで正味2時間半。
達成感も得られたし、ウォーキングとしても丁度よい。 


神田川を歩く3:下高井戸〜井の頭公園

2016年10月10日 | 川歩き

体育の日の今日は、雨は降らないものの雲が全天を覆って秋晴れにはほど遠い。
こういう日は山に行っても眺めは得られない。

では、どこに行こうかと考えると、行き先は1つしか思い浮かばない。
過去2日をかけて遡行した神田川の残りだ(→前回の記事)。

そこなら、早起きも装備の準備もいらず、しかも3日分の達成感が保証されている。

前回切り上げた下高井戸から出発。
下高井戸からの神田川は、杉並区らしく藻が繁茂してその間に鯉が泳いでいる。

歩道が両岸にあり、いかにも体育の日らしく、両岸ともに走る人が多い。
曇りなので、30℃を越えた前回と違い、日差しも水分も気にならない。
歩道には中野区境からの距離のほかに、目指す水源までの距離が記された道標がときたま現われて励みになる。

右岸の八幡神社(ここも源氏に関係するのか)に参拝し、塚山公園に寄り道する。
この公園付近は、縄文早期(12000年前)からの遺跡が点在しているという。
すると神田川は、江戸時代どころか、日本開闢以前から人々の生活を潤してきたのだ。

この付近(浜田山)は周囲の家も裕福そうで、ヘヴィな杉並の雰囲気を味わえる(写真は塚山橋)。

京王井の頭線の走行音が聞こえてくると、行く手に高井戸にある清掃工場の白く高い煙突が見えてくる。
そこを目ざすように歩くと、高井戸駅前に出る。
環八を歩道橋で渡って、名物「高井戸せんべい」の店の脇から再び川沿いの歩道に入る。
このあたりは鯉が群れをなしており、歩道から川面に顔を出すと、鯉たちが寄ってくる(ちゃんと水面から上が見えているんだ)。

ここから先は、集合住宅が多くなり、同じ杉並でも庶民的でライトな雰囲気となる。

久我山駅を過ぎ、杉並区から三鷹市に入る(下流の23区から武蔵野の市部に入ったわけだ)。
そうしたら、川床が人工的になり、文字のような造形になったり、わざとらしく蛇行させている(写真)。
意図不明な公共工事で、見て楽しくないし、もちろんこの区間は鯉も棲めない。 

ほとんど川の上にある三鷹台駅の手前で歩道が途切れるが、駅の先からまた両岸に歩道が始まる。

そしていよいよ川は井の頭公園から伸びている緑地帯にはいっていく。
小学生男子が川床に降りて、水面に網を揺らしている。

更に公園内を進むと、これまでずっとあったコンクリの側壁がなくなり、歩道も土となり、川の水面沿いとなる。
ほぼ100%自然の川になった。
東京の平地の川でこうなるのはめずらしい。
コンクリの川床しか知らない妙正寺川に比べて、神田川は幸せ者だ。
川には飛び石があって、対岸に渡れる。
そこにも小学生男子がいて、川に入って網をすくっている。
小学生男子という人種が無類の川好きであることは、今までの川歩き経験でよくわかった。 

井の頭線の井の頭公園駅脇をすぎると、私がたどってきた神田川最後の橋である「水門橋」が川にかかっている。
この橋の下が神田川と井の頭池を分けている水門になっている。

すなわち、この橋の下から流れ落ちる水が、神田川の最初の姿なのだ(写真:左端が水門橋)。
この場所が、隅田川と合流する中央区柳橋からの24キロの神田川遡行のゴールとなる。
下高井戸からここまで丁度2時間。
もっとも私がゴールにしているのは、ここ(川の始点)ではなく水源なので、細長い井の頭池をさらに進む。
ここからは完全に井の頭公園内になり、池には足漕ぎボートがたくさん動いている。

一人でどこ(社会空間)まで平気で行けるか(心理的に抵抗ないか)、という問題に関心があるのだが、
公園のボートは一人では乗れない。
河口から水源までずっと一人で歩いてきたのに、水源の池をボートで渡れないというのも悔しいものだが、無理しても乗ろうという気にはなれない。 

井の頭公園は、上野公園に匹敵するような大きな池を中心とした公園で、園内にはレストランや食堂が複数あり、中央線最大の繁華街である吉祥寺に近いこともあって、外国人を含めた観光客が多い。

私にとっても再訪のはずだが、記憶にある風景とは全然違っている。
記憶にある風景は、もっと遊園地的で、石垣の高い壁があった。
記憶にある井の頭公園は夢で見たものだったのか…。

川沿いの神社にはすべて詣でることにしている私は、玉光神社への案内標があったので、公園から外れて上ってみたが、入口は閉ざされていた。
別の入口はないかと付近を歩きまわると、「国際宗教・超心理学会」なる表札のある建物に出くわす。
その建物には別に 「生命物理学研究所」の表札もある。
しかも両方とも同じ博士の名が※。
なんだか昔のSFチック(家に戻ったらネットで検索してみたい)。 

※この1年後、私はスピリチュアルな世界に目覚め、この本山博(博士)の書に出会うことになる。

さて公園に戻り、水源の池に達したので、ボート乗り場横の売店で、フランクフルトと缶ビールを買い、池畔のベンチで池を眺めながら祝杯をあげた(踏破するまでビールはお預けだった)。

池の奥にある弁財天(≒水神)の寺を参拝し、さらに最奥の「お茶の水」の湧水(写真:これが真の水源)に達する。

これで神田川を河口から水源まで完全踏破したことになる。

里川歩きは、平坦な歩道をただ歩くだけだが、いちおうウォーキングの運動になるし、ふだん訪れない地域を知ることができるし、最後に達成感を得られるのがいい。
実は、井の頭公園から西の玉川上水や野川はだいぶ前(ブログデビュー前)に踏破している。
武蔵野の川と多摩川(ただし奥多摩湖まで)をやってから、都区内の川に向かったのだ。
次はどこにしよう。 


神田川を歩く2:馬場〜下高井戸

2016年10月02日 | 川歩き

東京の中心部を貫通する神田川に沿って下流から遡る散歩の第二弾(→前回の記事)。

前回の終着点である高田馬場から出発する。

まずは駅構内のそば屋でぎんなん入りの天ぷらそばを食べて、これからの燃料を補給。

駅から北西の道に入り、神田川に向かう。

馬場の鉄道橋の下だけは川幅が狭くなっているが、そこ前後の通行不能地帯から最初に川を渡れる清水川橋からは再び広くなっている(以下、下流から遡行してきた場合の表現)。
といっても清水川橋は渡ると遠回りになるので、 東京富士大学脇の田島橋(橋の由来が解説してある)を渡る。
このあたりも依然川沿いの道がないので、橋ごとに渡り返す。 

落合橋を南(戸塚)から渡り、神田川を離れて北に向かう。
そこには妙正寺川が西から流れてきて、神田川に合流しそうな所で暗きょに入っているのだ。
なるほどここは「落合」。 
それぞれ西から並行して流れてきた妙正寺川と神田川が落ち合う地形なのだ。 

妙正寺川は以前、水源の妙正寺池から環七まで歩いて中断したままで、そこから下流に足跡を残していない。
ここ落合の暗きょがゴールになるのだ(いつかやらねば)。 

さて、神田川に戻ると、新堀橋から川沿いの歩道が始まる。
歩道を管理している新宿区の案内板を見ると、ここから中野区境までずっと歩道が続いている!
つまり、高田馬場周囲を除いて、江戸川橋からずっと川沿いの歩道があるのだ。

 川を見ると、水は澄んでいるが、川床はコンクリで魚影はおろか植物の気配もない。
川というより水路(といって、舟もなし)。 

広い道路が合流している小滝橋を過ぎ、中央線の東中野の鉄橋をくぐる。
行く手に西新宿の高層ビル群。

鉄道の感覚では、東中野は新宿の先なのだが、地理的には、東中野は馬場と新宿の間に位置する。
そして「淀橋」を渡る。
あの「ヨドバシカメラ」の発祥地である淀橋はこの神田川に架かっているのだ。
ここからは西新宿の高層ビル群が指呼の間(写真)。
神田川は今でも東京都心の脇を流れているわけだ。

中野区に入り、山手通りに達し、すこし脇に「成願寺」という目立つ寺があったので、寄り道してみる。
この寺は、中野長者という室町時代の長者が建てた寺で百体観音(西国、坂東、秩父)を祀ってある。
中野といえば新井薬師近くに”百観音”(明治寺)があり、ここを合せれば二百観音になる。
中野区は隠れた観音霊場だ。

山手通りに架かる長者橋から再び川沿いの歩道に入る。
2つめの桔梗橋からは神田川の下流の向こうに都庁の双子ビルがそびえている(写真)。
今日の区間に限っていえば、上流から歩いた方が眺めがいい。 

さらに川沿いを進むと、コンクリのビルの1階に神社があった。
八津御嶽神社という。
入ってみると、自動チャイムが鳴って、家の人が出て来た。
個人宅と神社の社殿を兼ねた建物だ。
せっかくなので参拝を申込み、靴を脱いで2階に案内される。
室内の拝殿に向かって参拝する。
神社本庁系の神社と異なるが、かといっていわゆる御嶽系でもない。
詳しく尋ねなかったが独立した宗教法人という感じ。

珍しく赤い欄干に擬宝珠(ギボシ)がついた橋に出くわした。
中野新橋という。
脇の公園にある解説によると、地下鉄の駅ができた時の橋を再建したものというが、こういう形にしたということは付近にそれなりの社寺があるはず。
タブレットの地図で確認すると、氷川神社がある。
氷川神社といえば、埼玉の大宮に本社がある武蔵国の鎮守。
ここのは末社の1つだが、 格は高い。

氷川神社に詣でて、さらに進むと川幅は半分以下に狭まる。
しかも川沿いの歩道もなくなる。
川への関心が薄い現われだ。
実際、町全体が川に背を向け、邪魔に感じているようす(写真。左側のトラックの尻が川にはみ出ている)。
その状態のまま、中野富士見町に出た。
ここの先に、神田川と善福寺川の合流点があり、善福寺川の歩きの出発地点だった(→善福寺川を歩く)。
川沿いの歩道こそ復活したが、狭いコンクリの川床に押し込められてなおざりにされている神田川を見るのがつらい。

善福寺川畔の大宮八幡に関係する多田神社(清和源氏関連)に寄り道し、中野区から杉並区に入ると、川が一変した。
川幅が新宿区の頃のように広がり、しかもそれとちがって川床がコンクリでなく自然の石などになっている。
川には、藻がたっぷり生えて、なんと藻の間に大きな鯉が泳いでいる。
さらに、アオサギなどの大きな水鳥も水中に出入りしている。
つまり、急に自然の生きた川になったのだ。

はっきり言わせてもらう。
これが中野区と杉並区の違いだ。
妙正寺川の時もそうだった。
下流の新宿区も神田川を大切にしていた。
中野区だけが…
とにかく杉並区にはいって川歩きが再び楽しくなった。

川畔の「釜寺」にも立ち寄った。
永福付近も周囲に緑が多くていい感じ(写真)。
このいい感じの所が、馬場から水源までのほぼ中間地点で、京王線が最接近して駅にも近い。
つまり、切り上げるには、そして再開するにはここしかないという所。
正直、歩きも限界だった。

京王線下高井戸の駅前は、私鉄沿線らしい雑然とした雰囲気。
西友で、イカの握りを買い、通りのベンチに腰かけて、ノンアルコールビールで流し込んだ。
次回は、ここ下高井戸から出発する。→次回へ


神田川を歩く:河口から馬場まで

2016年09月12日 | 川歩き

体重を減らすため、長距離の歩きに出たい。
その実益に趣味を重ねるため、どうせなら歩き甲斐のあるルートにしたい。
東京の平地なら、都内の川に沿って歩くというテーマがある。
前回、善福寺川を完歩したので、次はその善福寺川を支流とする本流・神田川の番だ。

江戸っ子にとって、川といえば隅田川ではなく、神田川。
隅田川は江戸においては境界の川であって、神田川こそ府内を流れる内なる川なのだ。

その神田川は武蔵野の”井の頭池”を源流として、江戸城の北側を廻って両国橋の所で隅田川に合流する。
全長24.6kmあるので、一日では歩き通せない。
川歩きは、源流から下流に向かうより、源流を目ざして遡上した方が気分的に盛り上がることがわかったので、今回はまず河口から歩き始めることにする。
ただ河口はダウンタウンの産業地域なので風情もなく、今時分はアスファルトの照り返しが強そうで魅力に乏しいのが意欲を削ぐ。
でも始めるなら、河口からでなくては意味がない。

というわけで、神田川の河口を目ざして、総武線の「浅草橋」で降りる。
外国人観光客も幾人か降り立ち、つっ立ったまま地図とにらめっこしている。
「浅草」に行くつもりでこの駅に降りたのでなけばよいがと勝手に心配する。

 さて神田川に向かう。
あえて川筋に向かわず、裏道を通って神田川の河口にかかる「柳橋」に出る。
もちろん、”河口から”歩き始めるためだ。
この付近の神田川は、屋形船が両岸に繋留されており、夜の宴席の場となっているようだ。

船は木造なので、それなりに情緒がある(夜なら提灯が灯ってなおさらだろう)。
柳橋の袂(タモト)には名物の佃煮を売っている船造りの店がある(写真)。

こういう江戸情緒を堪能できるアイテムがあるのだが、いかんせん周囲は無粋なビルばっかり。
そもそも肝心の神田川自体が、深緑に濁り、流れていない(流れがないのは河口だから仕方ない)。
一旦、隅田川にかかる両国橋に行き、隅田川側から神田川の合流部を眺め返す。 
柳橋という地名と屋形船だけは江戸情緒を残すが、それ以外は全て現代の人工物に覆われた景色と濁って淀んだ神田川の姿は、この川に関心を失った別の文明世界に属している(私は江戸時代の江戸にタイムスリップすることが夢)。

ここから神田川に沿って西へと歩きたいのだが、川べりはビルが川に背を向けて並んでおり、そのビルの外側の舗装道路を歩くしかない。
川に面することができるのは、川を渡る橋の上だけなので、橋ごとに川を渡り返すことにする。

それぞれの橋は、江戸時代からの由緒あるもので名前だけは風情がある(浅草橋、左衛門橋、美倉橋、和泉橋)。
あと、近代建築特有の装飾が残っている橋柱があると少しは救われる。

そうやって浅草橋→秋葉原→お茶の水を通過する。
途中の万世橋(駅)の煉瓦造りの建物や、昌平橋聖橋にある湯島聖堂などは初めての人なら立ち寄る価値はある。
お茶の水橋付近では神田上水の遺跡の碑があった。

水道橋に達し、固有の繁華街を形成している後楽園(遊園地、東京ドーム)の横を通りすぎる。
実は、秋葉と後楽園には神田川に船着き場があった。
それは防災用で、江戸・東京が歴史的に幾度も経験してきた大規模火災の避難路として使われる(大地震の時は津波が遡上するので使えない)。 

飯田橋に達すると、神田川は大きく北寄りに流れをかえる。
神田川は江戸城の外堀と別れ、ここから純粋な川になるのだ。
ただ川は広い車道の中央にあり(川沿いには歩けない)、川の上には首都高速道路が覆いかぶさってる。
神田川は江戸時代には水運にも使われていたのだが、現代の東京では邪魔者でしかないようだ。 
その上、川の屈曲にそって幹線道路も湾曲が強いられる。
その名も「大曲り」を経て江戸川橋に達する(川は神田川なのに)。 

ここから、神田川は水源地のある西方に再び向きを変え、そして丘陵麓の左岸(北側)が公園となり、初めて川べりの遊歩道が始まる。
川に沿って、椿山荘・芭蕉庵・鉄砲坂・水神社と風情ある景色が続く(写真)。
川をみると、なんと水が澄んで、川底が見える!
しかも、大きな鯉の群が悠然と泳いでいる。

ここより下流の総武線に沿った域での濁りは皇居の外堀から来ていたようで、
神田川自体はこのような都会の清流だったのだ。
神田川の歩きを、河口からの完歩にこだわらず、ただ楽しむなら、江戸川橋からスタートすることを勧める。

文京区・豊島区・新宿区の境目あたりをひたすら西に進む。
途中、「東京染ものがたり博物館」という染め物工房に併設された資料館に入る。
そこで知ったことには、神田川沿いにはその”清流”を利用した染め物業が今でも盛んだという。
こういう川と向き合った姿に出会うと嬉しくなる。

道が工事中のため、一旦川沿いから離れ、また遊歩道に戻る。
すると「山吹の里」という如意輪観音の石仏が彫られている碑があった。
最初に江戸城を造った太田道灌(徳川家康の150年前)にまつわる碑だ。
その碑の前にかかる橋は「面影橋」。
文字だけなら、風情たっぷりなのだが、実際には、山吹の里の面影はまったくない。
ただ、橋から見下ろす神田川は透明できちんと流れている。
東京の山手線内なのに、川床も川の周囲の木々も自然が勝っており、江戸川橋から下流に比べれば別世界だ。

 都電の線路を渡って、高田橋から下を見下ろすと、神田川がなんと瀬音をたてている。
川床は人工的だが、この付近は落差があるのだ。 

さらに進んで、西武新宿線の鉄橋が見えてくる頃、川に面した親水広場があるのだが、柵に覆われ「閉鎖」の看板が…
それによると、ここで近所迷惑な行為が続いたため、止むなく閉鎖にしたという。
マンションなどが並んでいる中で、夜に酒を飲んで花火でもやって騒いだのだろう。
都心部にいて川と直に接する貴重な空間が奪われた代償は大きい(私のような川歩き愛好家にとっても残念至極)。

さて、神田川は戸塚の神高橋から先は、鉄道の下を通っているのだが、そこだけ両側が側壁となり川幅が狭くなっており(沢登りでいう「ゴルジュ」)、そこに沿う道がない(写真)。
その橋の隣に新宿区の施設があり、中に神田川コーナーがあるというので入った。
つまり、ここにいたって川沿いの遊歩道がなくなり、川のまとめの情報が得られるということなので、どうしても川歩きを切り上げる気分になる。
2時間で8キロ強歩いた。 
時刻的には、まだ余裕なのだが、久しぶりに歩いたせいか、臀部の筋肉が痛く、靴もまだ足に慣れていないので両足の指先が痛い。 
ということで体の限界なので目の前の高田馬場駅から帰路についた。 
今回で河口から1/3を歩いたので、あと2回続きをやる。 

この続き(馬場から下高井戸)


善福寺川を遡る:後半

2016年03月30日 | 川歩き

 

満を持しての善福寺川の川沿い歩き。
先月は、まだ冬枯れの中、下流側合流点から出発し、中ほどの緑地公園の天王橋まで歩いた。→記事

残りの後半部は3月下旬にやろうと思っていた。
その間、母の脳梗塞発症で実施が危ぶまれたが、
従姉が来てくれて、家を空けられるようになったので、
再び満を持して、桜開花の声を聞いた今日、後半部をやりとげることにした。

といっても街中の川沿い歩きなので、準備も覚悟もいらない。

まず開始地点の天王橋へは、地下鉄丸ノ内線の「南阿佐谷」で降りて、徒歩で向う。

善福寺川が北に大きく屈曲する頂点の天王橋付近は桜並木になっており、今が絶好のシーズン(写真)。

ここから上流に向って歩きはじめる。
水源までは6kmとの表示を見る。

さっそく近くの「尾崎熊野神社」に立寄る。
「尾崎」とは川の屈曲地形を指しているとのこと。
ここには樹齢400年の大きな黒松があり、区指定天然記念物になっている。
木が高すぎてカメラのファインダに入りきらない。 

さらに川沿いの公園内を進むと、調整池の工事をやっており、残念ながらその区域だけは川沿いに歩けない。

神通橋で川沿いになるが、和田堀公園から続いたここまでの長い公園は終わり、ここから先はずっと民家の裏側を通る感じになる。 
iPadminiで携行する「MapFan+」(オフラインで使えるから便利)では、ここから先は川べりには道がなくなるが、実際には人1人がやっと通れる(すれ違いできない)細い歩道が両岸に続いている。
環八の大通りは歩道橋で越える。

川自体は水が澄んで、サギやカモなどが所々にたむろしている。
ただ魚影はまったく見えない。 
あの鳥たちは、川底の虫でも食べているんだろう。
川床は妙正寺川のようなコンクリではなく、かといって自然状態でもない。
一旦作ったコンクリの川床を壊して自然に近づけたような感じ。

そんな中、川草の茂ったある地点で、金色の大きな(80cmくらい)鯉が一匹だけ悠然と尾びれをゆらして泳いでいた(写真)。
橋の上からズームで写真を撮っていると、自転車に乗ったおじさんが止まって、同じ鯉に目をやる。
おじさんに「大きな鯉がいますね」と話しかけると、「この川は、(下流の)神田川とちがって、水はきれいなんだが、生活排水があるためか、魚がいない」という。
魚影が見えなかったのもうなずける。

JR中央線の高架を川とともにくぐり、右に左に蛇行する川沿いの歩道を進むと、正面に井荻中・小学校の建物が川を覆うように建っていて、その間は道はあるものの通行止めになっている。
妙正寺川でもやはり川沿いの歩道を遮断しているのは、川をまたいでいる区立学校だった。
迂回路の案内図があり、それに従って再び川沿いに出ると、行く先に木立が見える。

そして最後の蛇行を曲がると、行く先の木立の下に川の終点が見えた。

近づいていくと、そこは水源である善福寺池からの流出口で緩い滝状になっている(写真)。

そこが善福寺川の開始点であり、下流からの遡行の終点だ。

最後の美野山橋(写真に写っている橋)を横断し、善福寺池からの流出口すなわち川の開始点に達する。
そこは池から川へ流れる水がいったん溜まった状態になっており、小学生の男の子たちが遊んでいる。
ということで、水源の善福寺池に着いた。
すなわち、善福寺川の遡行が完了した。

ただし、善福寺池は上下二つに分れており、川への流出口があるのは”下の池”。

真の水源があるのはこの先の”上の池”だ。

はやる心を抑えて、また寄り道をする。
この付近の総鎮守・井草八幡に参拝するのだ。
下流の大宮八幡には及ばないものの、水源の井草八幡もなかなか立派(あちらは源義家、こちらは源頼朝にゆかりがある)。
ただ併設の民俗資料館は日曜のみの開館のため入れなかった。
あと、境内の隣りに浅間神社と小さな富士塚があり、境内にも富士講の石像があった。

善福寺池に戻り、自販機でアイス(ソフトクリーム)を買い、上の池に行く。
上の池の方が面積が大きく、日曜にはボートも出る(写真)。
この池が善福寺川の真の水源なので、池畔のベンチに腰かけ、池を眺めながらアイスをなめる。
だが訪れる先は最後にもう一ヶ所ある。

善福寺川の真の水源のさらなるピンポイントとなるのは、善福寺池の上の池の西側にある「遅野井の滝」。
頼朝が「遅い」と言った湧水からの滝なのだが、残念ながら今は枯れて機械で地下から汲上げている。
人工湧水であっても水源であることには変わらない。
こうやって水源それ自体を目で確認できるのも遡行した甲斐があるというもの。

すなわち、善福寺川は神田川との合流点から水源の滝まで、ほとんどすべてを通して見ながら歩ける貴重な川である。
たった一ヶ所、井荻中・小学校の迂回路を除いて…。 

この後、近所の「善福寺」に詣で、西武新宿線の上石神井駅まで歩いた。
歩数は2万歩を超え、久しぶりのウォーキングなので中殿筋に痛みを感じた。 

これにて春休みの予定完了。


善福寺川を遡る:前半

2016年02月21日 | 川歩き

気楽なウォーキングでお勧めなのは、川沿いの道だ。
郊外に遠出することもなく、街中なのだが、川沿いなのでそれなりに自然があり、景観も楽しめる。
第一、平坦なので、距離だけを指標にでき、しかも任意の地点で切り上げることもできる。

つまり思い立ったらすぐに実行でき、準備も装備もいらず、計画も適当でいい。
とにかく川沿いに歩けばいいだけだから。

都内を流れる川でこれを実行している。

前回、妙正寺川を水源から歩いてみて(→記事)、その逆ルートの方が終わりが盛り上がると思ったので、今後は下流から遡ることにする。

さて、今回は満を持しての「善福寺川」。

なぜ、「満を持して」かというと、そもそも都内に面白そうな川があることを知ったのが善福寺川だからだ。
善福寺川は、杉並区の北西端にある善福寺池を水源として、区の南東端で神田川に合流するまで、杉並区のど真ん中を北西から南東へ斜めに横断(=斜めに縦断)している(すなわち神田川の支流なので海には出ない)。
だから杉並区民にとっては全面的に”おらが川”だが、それゆえ、他区民にはまったく馴染みがない。

さて、昨日は甥っ子の中学合格祝いでたらふく糖質を摂取したこともあり、今日は川歩きでそれを解消したい。

下流から遡るということなので、神田川との合流点が出発点になる。
そこに一番近いのは、地下鉄丸ノ内線の「中野富士見町」。
駅は中野区だが、駅前の神田川の左岸(北側)はもう杉並区。 
まずコンビニでおにぎりとお茶を買って神田川の左岸沿いの道を進む。

ほどなく善福寺川との合流点(遡行の視点でいえば分岐点)に達する(写真:手前が善福寺川)。
写真では神田川より善福寺川の方が川幅が広く見えるが、これはアングルのせいで、川幅(水量)はほぼ等しい。
神田川は、水源が武蔵野市の”井の頭公園”で善福寺池よりも遠いので、本流になっている。 

さて、ここが本当の出発点。

道沿いに案内板があり、水源(善福寺池)まで11.3kmという 。
今回は、その半分くらいが目標。 

道沿いには、立正佼成会の巨大な施設が居並ぶ。
このあたりは立正佼成会の本拠地なのだ 。

環七を横断すると、佼成会の勢力圏を脱し、今度は大きな取水施設が川に平行している。
これは環七の道路の下を神田川・善福寺川・そして妙正寺川の増水時の地下調整池にする施設だ(実際、妙正寺川沿いにも同様な取水施設があった)。

このあたりから、善福寺川は川幅を拡げ、コンクリートの平坦な川底から丸石状が浮き出た 川底となり、アオサギやカルガモなどの野鳥が石の上で体を休めている(写真はアオサギのズーム)。
こういう野鳥とすぐに出会えるのも川歩きならでは。 

周囲に木立が増え、「済美公園」 の一画となる。
ここから川がおおきく180℃蛇行する所で、「和田堀公園」という長い公園に続く。

善福寺川は両岸がずっとのどかな公園状になっていて、川沿いの歩道は格好のジョギングコースになっている。
今は枯れ枝状態の桜並木になっており、満開の季節だったら壮観だろう。

川道が南行している地帯に、杉並区立郷土博物館がある。
訪れている地域の情報源として郷土博物館にまさるものはない。
さっそく100円払って入館。
善福寺川沿いには縄文時代から人が住んでいたことがわかった。
敷地には古民家もあり、私が小学生の時芋掘りで訪れた農家を思いだした。
また備付けのパンフで周囲の名所の情報も得られた。

和田堀公園の一画で、おにぎりを食べ、川道が西向きになったところで、一旦川から離れ、大宮八幡神社を詣でる。
区内最大の神社で、源義家ゆかりの地でもある。 
ここも以前から訪れたかった。
境内の施設をすべて巡って(小笠原の弓道場もあった)、再び川に出ると、そこは長い和田堀公園の中心部で、池がある。
付近には食堂もあり、昼食をとるならこのあたりがいい。
近くに、松ノ木遺跡の古墳時代の復元住居があるのを博物館で知ったので立寄った。
善福寺川は周囲に立寄りスポットがあるのも楽しい。
その代わり、遡行がはかどらないので、一度で水源までは行けない。 

その後も、地元の開発者野口成宗にちなむ成宗鎮守白山神社、地元諸社の別当寺・宝昌寺(区内最古の石仏がある)に立寄り、時計も14時をまわり、疲れてきたので、川が北にヘアピン状に蛇行する天王橋で切り上げることにした。
水源までまだ6.4kmあるが、中間地点あたりの切り上げ地点として駅に近いのはここしかない。
善福寺川にかかる橋上に、阿佐谷~浜田山の駅を結ぶバス停があるのも、次回の再開地点として好都合。

今回は、JRの阿佐谷駅までさらに歩くことにした(最寄駅は丸ノ内線の南阿佐ケ谷)。

残った水源までの後半部は、もっと緑の多い季節に歩きたい。→その後半に移動

 今回のウォーキング、家から家までで2万歩を越えた。
昨晩の糖質の分は解消できたことだろう。 


妙正寺川を歩く1

2015年09月27日 | 川歩き

予定では関東で一泊の温泉旅(論文完成の慰労)の日だが、同じ関東で洪水被害が出たため、行く気になれず、かといって通っていた国会図書館の休館日なので、急きょ、準備のいらないウォーキングに出た。
といっても行き先が、山城、名刹、岬などのテーマからは決まらず、しばらくテーマとして採用していなかった「川沿いの道」から、妙正寺川を選んだ。

東京区部を流れる川で、水源も都内にあるのは、神田川(井の頭公園)、善福寺川(善福寺池)、音無川(石神井池)などであり、妙正寺川も妙正寺池(杉並区清水)を水源としている。
しかも妙正寺川は川にそって歩道がずっと続いているので「里川歩き」にぴったり。

川沿いの歩道を歩く里川歩きは、道は平坦で、適当に曲がり、水の風景に沿っているので、きつくもなく、退屈もしない。
雨でさえなければいつでもふらりと歩けるのがいい。

西武新宿線の井荻で降りる。
まずは、せっかく馴染のない地で降りたので、地元の店で昼食をとろうと思い、入りたい店も見つけたが、明後日に健康診断を受ける身であることを思い出し、
せっかく今から歩くのだから、あわよくば体重を減らしたいという気持ちが勝り、一食分の食事をあきらめ、これから行く妙正寺公園で軽く食べるサンドイッチとのり巻きをどこにでもあるコンビニで購入。

妙正寺公園に達し、水源である妙正寺池畔のベンチに坐って、軽い昼食をとる(右写真)。
水源の池には、噴水が高く上っているが、そんなに勢いのある水源ではなく、実は今は水も涸れているので、人工的に地下を掘って水を出しているという。

おおざっぱな地形で言えば、西の関東山地で降った雨が地下に浸透し、それが東に向って低下している武蔵野台地に幾つかある窪地に湧水となっているのが、ここ妙正寺池であり、上にあげた池たちなのだ。 
台地上の湧水だから、貴重な農業用水として武蔵野台地の発展に貢献してきた。

実際、周囲はいかにも杉並区らしい閑静な住宅地で、自然な樹木も多く、コンクリートジャングルの都心部に近い住宅地とは全然雰囲気が違う。
もともと武蔵野の風情が大好きな私にとっては、自然と人工のバランスがとれた丁度いい雰囲気(多摩に行くと逆に郊外型の大型店舗やぶっとい道路が目についてしまう)。 

名前の元となった妙正寺(日蓮宗)に詣で、妙正寺公園に戻る。
公園の東から、いよいよ妙正寺川が流れだす。
公園の真下の地下道から出てきて、コンクリートの川床と護岸がここから始まる(右写真)。
そう、残念ながらこの川は自然の石や土を知らずに流れていくのだ。 

川の両岸が遊歩道になっていて、ところどころに掛かる橋で両岸を往き来できる。

両岸の住宅は川に背を向けているので、住宅の裏道を通っている気分。

時たまバス道を横断するが、片側一車線の狭い道路で、交通量も少ないので、信号なしで渡れる。
1km強歩くと、川自体が北東に上がって鷺宮駅(中野区)に達する。

ここで帰宅の途についてもいいが、歩き足りないので、南東に方向を変えた下流に進む。
まず駅近くにある福蔵院(真言宗)に立寄り、珍しい十三仏の石仏を拝む。 

中野区に入ると、周囲の雰囲気が変わり、コンクリのビルが出て来て、ダウンタウン風になる。
都営アパートのビル群近くの地下には大きな調整池が広い地下駐車

場のように広がっているのが見える。
このように周囲は風情がなくなるが、川自体はかえって清流となり、カモが透明な流れに逆らって泳いでいる(右写真)。
水源から続いていた妙正寺側両岸の遊歩道は、 敷地が川の両岸にまたがる「中野四中」で途絶えてしまう。
ただ、四中を迂回すると両岸とも復活する。
そして環七通りの広い道路と初めて交差する。

このへんの風景は、風情もへったくれもない雑然とした都会周辺部の姿なので(かといって都心の人工美にも達していない)、歩く楽しみはなくなる。
丁度「野方」駅が近いので、ここで切り上げる。
両岸の道は、この先もいくつか途切れはするものの、川自体が暗きょになる下落合(新宿区)まで続いている。

ただ、どうせ歩くなら、今回の私のように水源から風景が悪くなる下流に向うのではなく、下流の適当な所から上流に向って歩き、最後に水源の妙正寺池に達した方が、風景もだんだん良くなるし、エンディングがドラマチックになるのでお勧め。

妙正寺川を歩く2 へ


見沼田んぼ

2013年05月05日 | 川歩き

晴天が続くGW後半、今日あたりに富士五合目に行って残雪の「奥庭」の散策を画策していたのだが、
世界遺産登録祝いで混雑すると思い、
こちらもいつか訪れようと思っていた「見沼田んぼ」に行き先を変更。
山歩きもいいが、川歩きも散歩気分で楽しい。
だいいち装備もいらず早起きしなくていい。

見沼は、主に今の”さいたま市”を中心に利根川から荒川を結ぶ水路として江戸時代に開鑿された農業用水路で、
それ以前は「見沼」という大きな沼があった。
実質的な首都である江戸の水害対策と食糧供給のために、
幕府は南関東(利根川以南)に広大な土木事業を施した。
前近代的ながら、当時の最高技術で、世界最初の閘門型運河(パナマ運河方式)をここに作った。
とまぁ、歴史の講釈はほどほどにして、むしろ本来は水が豊かな関東平野を偲ぶ地として、ここを歩きたかった。

地元さいたま市にとっても市民のいこいの場にして、あわよくば観光地として整備中(未完成)。 見沼田んぼは大宮の北から、正確には利根川沿いから始まっているが、
今回は下半分を歩こうと、「さいたま新都心」駅から南下した。
江戸時代に作られた代用水に沿った並木道を東へ進む。
周囲の低地が見沼田んぼの跡で、宅地開発はせずに今では広大な家庭菜園の地となっている。
道は平坦だが、用水に沿っているので、地形に沿った曲線となり、距離はかせげない(上写真)。

あまりに大回りな所はショートカットして、氷川女体神社へは近道を選ぶ。
結構な名称だが、女神を祀る訳で、社務所脇には、巫女の人形がずらりと並んでいる(中写真)。
願いが叶ったら服を着せて奉納するのだそうだ。
見るからに女性用だが、私はこの手の守り人形は迷わず買う事にしている(1200円とちと高い)。
ここからは南に方向を変え、武蔵野線の東浦和駅を目指す。
途中、大回りして民家園を巡り、 更に大回りして唯一「見沼」の名残といえる調整池を遠望する(下写真:近くには行けない)。

池の南端で非正規ルートの踏跡を通って武蔵野線を渡り、木の橋を渡って駅に向う。
途中、道上でカモの番いがのんきに日向ぼっこをしていた。

平坦だがほとんど休まずの10kmほどの歩行は、それなりに疲れた。