躍進の途上・宮本武蔵との出会
忠真(忠政)・長次
2008年1月
源氏物語にも登場する播磨明石(兵庫県明石市)は、淡路島との間で明石海峡を形づくっている、地勢的に重要なポイント。
今でも国重要文化財の巽・坤の2棟の櫓が残る明石城(写真)は、江戸時代初期に小笠原氏が建てた。
国史跡の城内は公園や運動場になっており、市立・県立図書館もある。
惣領父子の戦死
徳川氏の権力を最終的に確立させた大坂夏の陣において、われらが小笠原秀政(19)とその嫡子忠脩(ただなが)がなんと戦死した。
小笠原秀政は、家康の孫娘登久姫(福姫)を妻に迎え、その嫡子忠脩は将軍秀忠から諱「忠」の字を戴いた(以後小笠原惣領は「忠」の字を受け継ぐ)。
また忠脩の妻亀姫は、本多忠政の娘で、その母国姫は福姫の妹である(要するに従妹が妻)。
この父子の戦死によって、長時(17)の”どん底期”以来、勢力を回復しつつあった小笠原氏は急転直下、再び存亡の危機に見舞われた。
忠脩の嫡子幸松丸は、戦死後に生まれたばかりの新生児。
まだ家督を嗣げない。
幸い、忠脩の二歳年下の次男忠政(彼も秀忠から一字を賜る。このとき二十歳)は重傷ながら、一命を取り留めている。
主君のために討死をした功ある親藩の家を断絶させるわけにはいかない幕府は、忠政に小笠原家を継がせ、すでに子持ちの兄嫁(亀姫)を娶らせた。
忠政は忠脩の嫡子幸松丸の継父となる。
実際、忠政は幸松丸こそ正当な後継と思い、自分を彼の後見の位置に甘んじようとした
(兄の家督を継いで結局小笠原家を長い内訌に導いた政康(11)の轍を踏まないことにしたわけだ)。
もともと忠脩・忠政兄弟は仲が良かったらしく、父秀政が忠脩にだけ糾法的伝をしようとしたら、
忠脩自身が、昔長基(9)が子の長秀(10)と政康(11)の2人に糾法的伝した故事を挙げ、
弟忠政にも的伝してくれるよう頼んだという(秀政年譜)。
これは忠政が糾法の系譜を受け継いだと主張するための作話の可能性もあるが、
長基まで遡らずとも、実際に戦国期には糾法が断絶するのを防ぐために一子相伝ではななく、あえて複数に相伝していた。
といっても次男坊は、しょせん他家への養子要員であることにはかわらず、忠政は2千石の部屋住みだった。
それが突然、信州松本8万石の領主に持ち上げられたのだ。
ところが、それで終わらなかった。
忠政の明石築城
1617(元和3)年幕府は、外様大名の多い西国への警備を強めるために、桑名藩主本多忠政(岳父にあたる)とともに
忠政(以降、本多忠政と区別するため後年の忠真(ただざね)と記す)を播磨に移封した。
本多忠政はあの姫路城主となり、忠真は2万石加増されて明石に10万石の大名となった。
ただ、当時の明石には大名が居住できる城がなかったため、最初は家臣らを船上(ふなげ)城と三木城に分散して住まわせ、本多忠政とともに明石城の構築にとりかかった。
また松本にある開善寺や大隆寺、宗玄寺なども明石に移し、逆に城の敷地内になる月照寺(写真)などを域外に移した。
1619(元和5)年8月に明石城が完成し、続いて城下町も整備していった。
現在の明石市の賑わいの基礎は、小笠原氏によって作られたわけである。
1624(寛永1)年 忠真は10歳になった忠脩の遺子幸松丸に領地を譲る決心で幸松丸の拝領を将軍家光に願い出た。
その願いは2年後に実現され、1626(寛永3)年幸松丸(翌年元服して長次)は、播州龍野6万石を賜った。
忠真の予想に反して、長次は忠真から独立した大名になったので、忠真自身も隠居する必要がなくなった。
その際、重臣の一族や伝来の武具・什器なども半分を長次に譲ったという
(長次は小笠原家に由緒ある「信濃守」を継承したが、忠真から「糾法的伝」は受けなかったようだ)。
1631(寛永8)年正月、長次は岸和田城主松平康重の娘との婚礼を迎え、忠真夫妻も龍野に出向いた。
その地で夫人は忠真との三人目の子岩松丸(長宣)を出産した。
ただ残念ながら、その留守中に明石の城下から出火して、明石城も焼けてしまった。
翌1632(寛永9)年、忠真は豊前小倉に5万石の加増で転封となり、復興した明石から去っていく。
同時に龍野の長次も2万石の加増で豊前中津に移っていく(幕府による小笠原一族の北部九州配置策による)。
かくして播磨から両小笠原氏はいなくなるが、やがて長次家の子孫が、お家断絶の危機に瀕して山の中の安志(姫路市安富町)に1万石の小藩主として戻ってくる。
忠真の配慮によってその安志家にも礼法が伝わったという。
機会があったら安志も訪れてみたい。
それにしても、2000石の部屋住み次男坊が、本人の野望もないまま、タナボタ式に15万石の大名にまでなったのは、長い小笠原氏の中でも最大出世であろう。
忠真の人柄
甥長次への無欲の態度だけでも忠真の人柄が伺い知れるが、そのほかにも忠真の人柄を彷彿とさせるエピソードが明石の地に残っている。
忠真は母方から織田信長と徳川家康の血を受け継いでおり※、両英傑の気風をもっていたといわれる(黒田2)。
※:登久姫(福姫)の父は家康の嫡子信康(自害させられる)で、母は信長の娘徳姫
また煎茶と抹茶を好み、彼自身の点前で家来に茶をふるまった(黒田1)。
後年、煎茶にも抹茶にも「小笠原流」ができるのも、この忠真のおかげであろう(小笠原流の茶については「三州吉田」で言及)。
さらに、糾法(弓馬礼)はもちろんのこと、料理も得意だったという(小笠原流料理術など作ってくれたらよかったのに)。
鷹狩りでは自ら庖丁を捌いて、家来ばかりか番人にも料理をふるまったという。
彼こそ、形式にこだわらない、真に礼(=敬)の心をもった人だ。
やがて九州小倉で黄檗宗の卓袱料理に出会って、大皿を各自の箸でつつく中国風の楽しい食べ方(本来の和式は銘々膳)に感動したのもうなづける。
武蔵登場
小笠原忠真にとって明石は、たかだか15年間の居住だが、そこで特筆すべき人物との出会いがあった。
宮本武蔵玄信である。
武蔵は、この頃、すでに独自の兵法を完成させていて、本多忠政の長男忠刻(有名な千姫の夫)の客臣となっていた。
かれの兵法は、比類無き達人であった剣術に基礎づけられるが、それに限定されず、将の兵法すなわち軍略にまで達していたらしい。
その宮本武蔵が姫路から明石に来て小笠原家の客分となり、明石の城下町造りに参画して、町割りをしたというのだ。
すなわち今も残る明石の市街区画は、宮本武蔵の作なのだ。
それだけでなく、城内の「樹木屋敷」(現在は陸上競技場)に公園(茶室や蹴鞠場なども)の配置を、美術の才もある武蔵が担当した。
現在では城内の広場に武蔵の意匠を復元した「武蔵の庭園」が公開されている(写真)。
さらに武蔵自身は仕官しなかったものの、武蔵の養子・宮本伊織が15歳の若さで忠真(当時の名は忠政)に仕える事になった。
この伊織もすこぶる優秀で、弱冠20歳で小笠原家の家老に昇進した。
それ以後、小倉転封後も伊織は小笠原氏に仕え、武蔵と伊織父子は島原の乱にも従軍した。
明石の地において、当時並ぶ者がない剣豪武蔵と武家礼法宗家とが出会ったのなら、何かを期待してしまう。
だが小笠原家は弓馬の宗家であり、武蔵は剣術だから、武芸として将と兵との格差があった。
弓術に関しては、信州伊豆木の分家小笠原長巨(ながなお)が指導に来ていた(長巨が当時糾法に最も長けていたようである)。
武蔵が忠真に剣術を指南したり、互いに武芸を論じ合った形跡はないが、
気さくで好奇心の強い忠真が、家臣の伊織を交えて、武蔵と談義したり、演武させた可能性は充分ある
(惣領家に残る伝説に、忠真が宮本武蔵に桑の木の湯たんぽを作らせて、それを家光に献上した、とある)。
小笠原流礼法は弓馬の武芸をもとにしているのだから、相通じるところはあるかもしれない。
なのでせめても、小笠原流礼法と武蔵の剣術論との接点を事後的に探ってみよう。
『五輪書』と礼法の接点
武蔵が残した『五輪書』(ごりんのしょ)から小笠原流礼法と共通する部分(まさに点でしか交わらないだろうが)などを抜き出してみる。
出典は、武蔵研究では最もレベルが高そうな「播磨武蔵研究会」のサイト
「身のなり、顔は俯むかず、仰がず、傾かず、ひずまず」(水之巻)
小笠原流の教え歌に「胴は只,常に立ちたる姿にて,退かず,掛らず,反らず,屈まず」とある。
こちらは胴すなわち姿勢のことだが、体幹を垂直においておくことが、次の対応を誤らせないようである。
「總じて、兵法の身に於て、常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とすること肝要なり」(同)
平時の礼法は戦時の弓馬の法に由来し、その弓馬の法は平時の動作法に由来している。
武家礼法はまさに「兵法の身を常の身とすること」にほかならない。
武家礼法を儀式故実と同一視している歴史・民俗学者にはわかるまい。
「總じて、太刀にても手にても、いつくと云事を嫌ふ。いつくは死ぬる手なり。いつかざるは生くる手なり」(同)
赤澤家小笠原流の伝書『換骨法』に、「居(い)つく身とは、沈む身なり。あるいは物を持つによく取りしめんと思い、その心にとらわれ、身のはまりすぎたる身なり。また心のあやぶむ故に居つくべし」とある。
心身の執着は臨機応変の対応を阻害する。
作法は形で表現するが、ベストの形の追究であるから、形に執着してはならないのだ。
作法と儀礼の違いはここにある。
「足のはこびやうの事、爪先を少しうけて、踵〔きびす〕を強くふむべし」(同)
赤澤家小笠原流の伝書『体用論』に「歩くも、遅(ね)るも、進にも、くびすを先に踏み着ける事」とある。
礼法の歩行は完璧なすり足。踵(かかと)を常に着地していると躓きやスリップなどの粗相がなくなる。
実は方向転換もしやすい。ただし走ることはできない(小笠原流でも走る時だけ踵を上げる)。
逆に言えば武芸では走ることは前提されない。
武蔵は飛び足や浮足を否定し、「殊に兵法の道に於て、早きと云ふこと惡し」(風之巻)と身体運動としての”速さ”を否定さえする(対応の”早さ”は必要とされる)。
「足にかはることなし、常の道をあゆむが如し」(同)という。
「陰陽の足とは、片足ばかり動かさぬ物なり。きる時、引く時、受る時までも、陰陽とて、右左々々とふむ足なり」(水之巻)
もちろん、右=陰、左=陽であるが、神仏を頼まない合理的な武蔵がここ一ヶ所だけ陰陽論をいうのは意外だ。
といっても当然武蔵は、形式的・迷信的な陰陽思想に準拠するのではない。
陰陽思想に基づいて動作をするのではなく、動作の合理性が結果的に陰陽交互的であるのを発見すべきなのである。
片足だけを送り足で動かすことは、常に一面を向いて体捌きができない固定した態勢である。
二軸歩行する当時の日本人にとっては、一歩を踏出すたびに体を最大180度廻転することができる。
陰と陽を交互に繰り出す事は、陰にも陽にも臨機応変に対応できることである。これは下の話にも通じる。
「鼠頭午首と云ふは、敵と戰ふ中に、互に細かなる所を思ひ合て、縺(もつ)るゝ心になる時、兵法の道をつねに、鼠頭午首、鼠頭午首と思ひて、如何にも細かなる中に、俄に大きなる心にして、大を小にかゆる事、兵法一つの心だてなり」(火之巻)
鼠=小、午(馬)=大の意であることがわかる。
小笠原流礼法では酒などを盃に注ぐには「鼠尾馬尾鼠尾とつぐべし」(『食物服用之巻』)という。
これは鼠の尾のような細い流れと馬の尾のような太い流れの交互の使い分けを意味している。
この鼠と馬の組合せは、一部の史家が誤解しているように儀礼としての「陰陽の儀」(『中原高忠軍陣聞書』)では決してない。
確かに子(鼠)=陰、午(馬)=陽なので”陰陽の義(意味)”ではあり、陰と陽という正反対の局面を交えて使い分けよということなのである。
陰陽両面をもつこと、それがあらゆる動作に肝要(武蔵の文意とは離れてしまったが)。
「我、道を傳ふるに誓紙罰文抔と云事を好まず」(風之巻)
家元制的慣習を否定したこれは、情報管理を徹底した伝統的小笠原流礼法のあり方と対立する(「伊豆木」参照)。
小笠原家がそうしたのは、小笠原流であることの純粋性を保持するために、ノイズが入る状況を極力避けるためである。
実際、「小笠原流」と称した疑似小笠原流が江戸時代以降巷(ちまた)に蔓延したし、今でも作法の本質(合理性)を知らぬ者が、へんな動作を”作法・マナー”と称して強制しようとしている。
しかし、だからといって本来の正当が門を堅く閉じていては、このすばらしい礼法が誤解されたままであり、文化的損失とさえいえる。
日本人の共有財産である小笠原流礼法をもっと広く開示することが必要だと思う。
なので今の小笠原流礼法では「誓詞罰文」は存在しない。
参考文献
『史話明石城』黒田義隆 のじぎく文庫 1975 (黒田1)
『明石藩略史』黒田義隆編 明石葵会 1981 (黒田2)
『五輪書』(原文・現代語訳・註解)播磨武蔵研究会 http://www.geocities.jp/themusasi/index.html
『小笠原家弓法書』小笠原清信 1975 講談社
『食物服用之巻』続群書類従19下
『中原高忠軍陣聞書』 群書類従23