今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

播州明石:小笠原氏史跡旅11

2020年03月06日 | 小笠原氏史跡の旅

 躍進の途上・宮本武蔵との出会

忠真(忠政)・長次
2008年1月

源氏物語にも登場する播磨明石(兵庫県明石市)は、淡路島との間で明石海峡を形づくっている、地勢的に重要なポイント。
今でも国重要文化財の巽・坤の2棟の櫓が残る明石城(写真)は、江戸時代初期に小笠原氏が建てた。
国史跡の城内は公園や運動場になっており、市立・県立図書館もある。


惣領父子の戦死

徳川氏の権力を最終的に確立させた大坂夏の陣において、われらが小笠原秀政(19)とその嫡子忠脩(ただなが)がなんと戦死した。
小笠原秀政は、家康の孫娘登久姫(福姫)を妻に迎え、その嫡子忠脩は将軍秀忠から諱「忠」の字を戴いた(以後小笠原惣領は「忠」の字を受け継ぐ)。
また忠脩の妻亀姫は、本多忠政の娘で、その母国姫は福姫の妹である(要するに従妹が妻)。
この父子の戦死によって、長時(17)の”どん底期”以来、勢力を回復しつつあった小笠原氏は急転直下、再び存亡の危機に見舞われた。

忠脩の嫡子幸松丸は、戦死後に生まれたばかりの新生児。
まだ家督を嗣げない。
幸い、忠脩の二歳年下の次男忠政(彼も秀忠から一字を賜る。このとき二十歳)は重傷ながら、一命を取り留めている。
主君のために討死をした功ある親藩の家を断絶させるわけにはいかない幕府は、忠政に小笠原家を継がせ、すでに子持ちの兄嫁(亀姫)を娶らせた。
忠政は忠脩の嫡子幸松丸の継父となる。
実際、忠政は幸松丸こそ正当な後継と思い、自分を彼の後見の位置に甘んじようとした
(兄の家督を継いで結局小笠原家を長い内訌に導いた政康(11)の轍を踏まないことにしたわけだ)。

もともと忠脩・忠政兄弟は仲が良かったらしく、父秀政が忠脩にだけ糾法的伝をしようとしたら、
忠脩自身が、昔長基(9)が子の長秀(10)政康(11)の2人に糾法的伝した故事を挙げ、
弟忠政にも的伝してくれるよう頼んだという(秀政年譜)。

これは忠政が糾法の系譜を受け継いだと主張するための作話の可能性もあるが、
長基まで遡らずとも、実際に戦国期には糾法が断絶するのを防ぐために一子相伝ではななく、あえて複数に相伝していた。
といっても次男坊は、しょせん他家への養子要員であることにはかわらず、忠政は2千石の部屋住みだった。
それが突然、信州松本8万石の領主に持ち上げられたのだ。
ところが、それで終わらなかった。


忠政の明石築城

1617(元和3)年幕府は、外様大名の多い西国への警備を強めるために、桑名藩主本多忠政(岳父にあたる)とともに
忠政(以降、本多忠政と区別するため後年の忠真(ただざね)と記す)を播磨に移封した。
本多忠政はあの姫路城主となり、忠真は2万石加増されて明石に10万石の大名となった。

ただ、当時の明石には大名が居住できる城がなかったため、最初は家臣らを船上(ふなげ)城と三木城に分散して住まわせ、本多忠政とともに明石城の構築にとりかかった。
また松本にある開善寺や大隆寺、宗玄寺なども明石に移し、逆に城の敷地内になる月照寺(写真)などを域外に移した。
1619(元和5)年8月に明石城が完成し、続いて城下町も整備していった。
現在の明石市の賑わいの基礎は、小笠原氏によって作られたわけである。

1624(寛永1)年 忠真は10歳になった忠脩の遺子幸松丸に領地を譲る決心で幸松丸の拝領を将軍家光に願い出た。
その願いは2年後に実現され、1626(寛永3)年幸松丸(翌年元服して長次)は、播州龍野6万石を賜った。

忠真の予想に反して、長次は忠真から独立した大名になったので、忠真自身も隠居する必要がなくなった。
その際、重臣の一族や伝来の武具・什器なども半分を長次に譲ったという
(長次は小笠原家に由緒ある「信濃守」を継承したが、忠真から「糾法的伝」は受けなかったようだ)。

1631(寛永8)年正月、長次は岸和田城主松平康重の娘との婚礼を迎え、忠真夫妻も龍野に出向いた。
その地で夫人は忠真との三人目の子岩松丸(長宣)を出産した。
ただ残念ながら、その留守中に明石の城下から出火して、明石城も焼けてしまった。

翌1632(寛永9)年、忠真は豊前小倉に5万石の加増で転封となり、復興した明石から去っていく。
同時に龍野の長次も2万石の加増で豊前中津に移っていく(幕府による小笠原一族の北部九州配置策による)。

かくして播磨から両小笠原氏はいなくなるが、やがて長次家の子孫が、お家断絶の危機に瀕して山の中の安志(姫路市安富町)に1万石の小藩主として戻ってくる。
忠真の配慮によってその安志家にも礼法が伝わったという。
機会があったら安志も訪れてみたい。

それにしても、2000石の部屋住み次男坊が、本人の野望もないまま、タナボタ式に15万石の大名にまでなったのは、長い小笠原氏の中でも最大出世であろう。


忠真の人柄

甥長次への無欲の態度だけでも忠真の人柄が伺い知れるが、そのほかにも忠真の人柄を彷彿とさせるエピソードが明石の地に残っている。
忠真は母方から織田信長と徳川家康の血を受け継いでおり、両英傑の気風をもっていたといわれる(黒田2)。
※:登久姫(福姫)の父は家康の嫡子信康(自害させられる)で、母は信長の娘徳姫
また煎茶と抹茶を好み、彼自身の点前で家来に茶をふるまった(黒田1)。
後年、煎茶にも抹茶にも「小笠原流」ができるのも、この忠真のおかげであろう(小笠原流の茶については「三州吉田」で言及)。

さらに、糾法(弓馬礼)はもちろんのこと、料理も得意だったという(小笠原流料理術など作ってくれたらよかったのに)。
鷹狩りでは自ら庖丁を捌いて、家来ばかりか番人にも料理をふるまったという。
彼こそ、形式にこだわらない、真に(=敬)の心をもった人だ。
やがて九州小倉で黄檗宗の卓袱料理に出会って、大皿を各自の箸でつつく中国風の楽しい食べ方(本来の和式は銘々膳)に感動したのもうなづける。


武蔵登場

小笠原忠真にとって明石は、たかだか15年間の居住だが、そこで特筆すべき人物との出会いがあった。
宮本武蔵玄信である。
武蔵は、この頃、すでに独自の兵法を完成させていて、本多忠政の長男忠刻(有名な千姫の夫)の客臣となっていた。
かれの兵法は、比類無き達人であった剣術に基礎づけられるが、それに限定されず、将の兵法すなわち軍略にまで達していたらしい。

その宮本武蔵が姫路から明石に来て小笠原家の客分となり、明石の城下町造りに参画して、町割りをしたというのだ。
すなわち今も残る明石の市街区画は、宮本武蔵の作なのだ。

それだけでなく、城内の「樹木屋敷」(現在は陸上競技場)に公園(茶室や蹴鞠場なども)の配置を、美術の才もある武蔵が担当した。
現在では城内の広場に武蔵の意匠を復元した「武蔵の庭園」が公開されている(写真)。

さらに武蔵自身は仕官しなかったものの、武蔵の養子・宮本伊織が15歳の若さで忠真(当時の名は忠政)に仕える事になった。
この伊織もすこぶる優秀で、弱冠20歳で小笠原家の家老に昇進した。
それ以後、小倉転封後も伊織は小笠原氏に仕え、武蔵と伊織父子は島原の乱にも従軍した。

明石の地において、当時並ぶ者がない剣豪武蔵と武家礼法宗家とが出会ったのなら、何かを期待してしまう。
だが小笠原家は弓馬の宗家であり、武蔵は剣術だから、武芸として将と兵との格差があった。
弓術に関しては、信州伊豆木の分家小笠原長巨(ながなお)が指導に来ていた(長巨が当時糾法に最も長けていたようである)。

武蔵が忠真に剣術を指南したり、互いに武芸を論じ合った形跡はないが、
気さくで好奇心の強い忠真が、家臣の伊織を交えて、武蔵と談義したり、演武させた可能性は充分ある
(惣領家に残る伝説に、忠真が宮本武蔵に桑の木の湯たんぽを作らせて、それを家光に献上した、とある)。
小笠原流礼法は弓馬の武芸をもとにしているのだから、相通じるところはあるかもしれない。
なのでせめても、小笠原流礼法と武蔵の剣術論との接点を事後的に探ってみよう。


『五輪書』と礼法の接点

武蔵が残した『五輪書』(ごりんのしょ)から小笠原流礼法と共通する部分(まさに点でしか交わらないだろうが)などを抜き出してみる。
出典は、武蔵研究では最もレベルが高そうな「播磨武蔵研究会」のサイト

「身のなり、顔は俯むかず、仰がず、傾かず、ひずまず」(水之巻)

小笠原流の教え歌に「胴は只,常に立ちたる姿にて,退かず,掛らず,反らず,屈まず」とある。
こちらは胴すなわち姿勢のことだが、体幹を垂直においておくことが、次の対応を誤らせないようである。

「總じて、兵法の身に於て、常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とすること肝要なり」(同)

平時の礼法は戦時の弓馬の法に由来し、その弓馬の法は平時の動作法に由来している。
武家礼法はまさに「兵法の身を常の身とすること」にほかならない。
武家礼法を儀式故実と同一視している歴史・民俗学者にはわかるまい。

「總じて、太刀にても手にても、いつくと云事を嫌ふ。いつくは死ぬる手なり。いつかざるは生くる手なり」(同)

赤澤家小笠原流の伝書『換骨法』に、「居(い)つく身とは、沈む身なり。あるいは物を持つによく取りしめんと思い、その心にとらわれ、身のはまりすぎたる身なり。また心のあやぶむ故に居つくべし」とある。
心身の執着は臨機応変の対応を阻害する。
作法は形で表現するが、ベストの形の追究であるから、形に執着してはならないのだ。
作法と儀礼の違いはここにある。

「足のはこびやうの事、爪先を少しうけて、踵〔きびす〕を強くふむべし」(同)

赤澤家小笠原流の伝書『体用論』に「歩くも、遅(ね)るも、進にも、くびすを先に踏み着ける事」とある。
礼法の歩行は完璧なすり足。踵(かかと)を常に着地していると躓きやスリップなどの粗相がなくなる。
実は方向転換もしやすい。ただし走ることはできない(小笠原流でも走る時だけ踵を上げる)。
逆に言えば武芸では走ることは前提されない。
武蔵は飛び足や浮足を否定し、「殊に兵法の道に於て、早きと云ふこと惡し」(風之巻)と身体運動としての”速さ”を否定さえする(対応の”早さ”は必要とされる)。
「足にかはることなし、常の道をあゆむが如し」(同)という。

「陰陽の足とは、片足ばかり動かさぬ物なり。きる時、引く時、受る時までも、陰陽とて、右左々々とふむ足なり」(水之巻)

もちろん、右=陰、左=陽であるが、神仏を頼まない合理的な武蔵がここ一ヶ所だけ陰陽論をいうのは意外だ。
といっても当然武蔵は、形式的・迷信的な陰陽思想に準拠するのではない。
陰陽思想に基づいて動作をするのではなく、動作の合理性が結果的に陰陽交互的であるのを発見すべきなのである。
片足だけを送り足で動かすことは、常に一面を向いて体捌きができない固定した態勢である。
二軸歩行する当時の日本人にとっては、一歩を踏出すたびに体を最大180度廻転することができる。
陰と陽を交互に繰り出す事は、陰にも陽にも臨機応変に対応できることである。これは下の話にも通じる。

「鼠頭午首と云ふは、敵と戰ふ中に、互に細かなる所を思ひ合て、縺(もつ)るゝ心になる時、兵法の道をつねに、鼠頭午首、鼠頭午首と思ひて、如何にも細かなる中に、俄に大きなる心にして、大を小にかゆる事、兵法一つの心だてなり」(火之巻)

鼠=小、午(馬)=大の意であることがわかる。
小笠原流礼法では酒などを盃に注ぐには「鼠尾馬尾鼠尾とつぐべし」(『食物服用之巻』)という。
これは鼠の尾のような細い流れと馬の尾のような太い流れの交互の使い分けを意味している。
この鼠と馬の組合せは、一部の史家が誤解しているように儀礼としての「陰陽の儀」(『中原高忠軍陣聞書』)では決してない。
確かに子(鼠)=陰、午(馬)=陽なので”陰陽の義(意味)”ではあり、陰と陽という正反対の局面を交えて使い分けよということなのである。
陰陽両面をもつこと、それがあらゆる動作に肝要(武蔵の文意とは離れてしまったが)。

「我、道を傳ふるに誓紙罰文抔と云事を好まず」(風之巻)

家元制的慣習を否定したこれは、情報管理を徹底した伝統的小笠原流礼法のあり方と対立する(「伊豆木」参照)。
小笠原家がそうしたのは、小笠原流であることの純粋性を保持するために、ノイズが入る状況を極力避けるためである。
実際、「小笠原流」と称した疑似小笠原流が江戸時代以降巷(ちまた)に蔓延したし、今でも作法の本質(合理性)を知らぬ者が、へんな動作を”作法・マナー”と称して強制しようとしている。
しかし、だからといって本来の正当が門を堅く閉じていては、このすばらしい礼法が誤解されたままであり、文化的損失とさえいえる。
日本人の共有財産である小笠原流礼法をもっと広く開示することが必要だと思う。
なので今の小笠原流礼法では「誓詞罰文」は存在しない。


参考文献

『史話明石城』黒田義隆 のじぎく文庫 1975 (黒田1)
『明石藩略史』黒田義隆編 明石葵会 1981 (黒田2)
『五輪書』(原文・現代語訳・註解)播磨武蔵研究会 http://www.geocities.jp/themusasi/index.html
『小笠原家弓法書』小笠原清信 1975 講談社
『食物服用之巻』続群書類従19下
『中原高忠軍陣聞書』 群書類従23

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下総古河:小笠原氏史跡旅10

2020年03月06日 | 小笠原氏史跡の旅

 苦難克服

貞慶―秀政―忠真、信之
2006年3月,2007年5月

下総古河(茨城県古河市)は、鬼怒川・渡良瀬川・利根川が合流し、茨城・栃木・埼玉・群馬の県境があつまる関東のヘソであり(さらに千葉県にも近い)、地図を見ても関東平野のど真ん中。
だからこの地を抑えれば関東中ににらみをきかす事ができる。

古河といえば歴史ファンなら足利成氏などの「古河公方」を思いだす。
公方はこの地を抑えていたから、関東管領上杉氏や小田原北条氏に対抗できた。
公方家はその後下野(栃木)の喜連川に移り、戦国の世を終える(古河城は一旦は破却される)。

1590(天正18)年公方亡き後、再建された古河城の最初の城主になったのが、信州松本からきた小笠原惣領家のわれらが秀政(19)
まさに関東のへそ抑えの役といっても故郷の地から離され、しかも大幅な減封である。
だが、秀政はくさることなく、徳川家に忠誠を尽す。


栗橋城趾

ただし、正確には、秀政はまず栗橋城(茨城県猿島郡五霞町の元栗橋)に滞在して、古河城の完成を待っていた

栗橋城は、古河公方の支城であったが小田原北条氏に接収され、古河側の重要拠点である関宿城攻略の拠点となる。
小田原北条氏滅亡後、家康の関東入りに同道した小笠原秀政は、古河城を再建する間、
1590(天正18)年から1599(慶長4)年までここ栗橋城に居住した(秀政年譜)。

その間1598(慶長3)年、長男幸松丸(後の忠脩)が栗橋城で生まれた。
そして古河城に移った後は、家臣の犬甘氏をここに入れた。
その後、栗橋城は廃城になったという。
というわけで、栗橋城趾はあとかたもなく、城があったという解説板(写真)と、空堀を残す程度。
なので、小笠原氏史跡の旅としてはあえて訪れるほどではない。

それでも行くなら、東武日光線の南栗橋駅から歩いて権現堂川の橋を渡って、キューピーの工場を過ぎた最初の交差点を右折し、道の右側にある日蓮宗宝宣寺が終わって右に入る小道の入口に、城址の解説板がある。
その小道(写真で奥にはいっている道)を入ると、空堀も確認できる。
その奥は民家だから入れない。
あと裏手にまわって、流れのない権現堂川の風情を味わうのもいい。
栗橋城はこの権現堂川をまたいであったという。

私はここから因縁浅からぬ関宿城(→関宿・国府台)まで歩いて行った(交通の便がないためであり、途中に見るものはない)
車なら栗橋と関宿の両城趾を楽に廻れ、さらに古河も近い。
ただ、古河市内の寺は道が細い。
さて、話を古河に戻そう。


礼書七冊

秀政に同道した父貞慶(18)は、この地古河で入道して「宗得」と号した。
その父長時(17)から伝授された礼法を七冊(元服之次第、万躾方之次第、通之次第、酌之次第、請取渡之次第、書礼法上、書礼法下)にまとめ上げ、1592(天正20)年秀政に伝授した(糾法的伝はこれより6年前)。
この『礼書七冊』こそが現在の惣領家に伝わる最も正当な小笠原流礼書である。
秀政からすれば、父貞慶と松尾系の長巨の二人から教えを受けたことになる。

また、1601(慶長6)年秀政が古河から信州飯田に去った後、松尾系の小笠原信之も1612(慶長17)年に本庄から2万石で移って城主になっている(子の政信の代に関宿へ移封)。

このように古河は、小笠原家とはダブルで縁がある地で、しかも小笠原流惣領家の礼書が完成された記念すべき地である。
ところが古河市側は戦国時代の古河公方と後の藩主土井氏やその家臣鷹見泉石(渡辺崋山が描いた肖像画のモデル)のゆかりの地と名乗っているだけで、小笠原氏には関心が薄い。
古河の基礎を作ったのは小笠原氏なのだが。


公方別館の跡

やっぱり古河に来たら、私も“古河公方”を無視できない。
まずは公方様へ挨拶に行く。
今はのんびりした古河総合公園になっているここは公方別館の跡だという
(写真:本館すなわち最初の古河城は渡良瀬川の河川工事の後河川敷になってしまった)。
近くの古河城出城の諏訪郭の跡地にある歴史博物館は鷹見泉石や土井氏が中心で、小笠原氏に関するモノはなかった。


隆岩寺 貞慶供養塔

隆岩寺は、秀政が妻福姫(あるいは徳姫)の父(岳父)岡崎三郎信泰(家康の長男で自害させられた)の菩提を弔うために建てた寺。
墓地の中を探すと、墓石を埋めて供養した立派な墓のような貞慶の供養塔があった(下写真)。
秀政の次男でここ古河で生まれた初代小倉藩主忠真(20)が建てたという。
石製の扉にこの供養塔の由来が彫ってある。
この供養塔は私にとって古河で一番大切な訪問先となったのだが、またもや手向ける花を持ってこなかった。
写真は帰りがけに花屋をみつけて再訪した時のもので、右側にだけ花束がある(ケチったな)。

隆岩寺本堂
貞慶供養塔

正麟寺 秀政創建

更に北にある正麟寺も秀政が父貞慶を弔うために建てた寺。
寺紋は三階菱で小笠原氏による小笠原氏のための寺(写真)。
墓地にまわると、三階菱の小笠原家の最近の墓が離れて2つあった。
無縁仏に献花していた住職の奥さんらしき女性に聞いたら、
小笠原の子孫家が檀家となっているという。
でも貞慶・秀政にまつわる遺跡は見当たらなかった。

実は、隆岩寺にあった貞慶の供養塔はここ正麟寺から発掘されたと、先の貞慶の供養塔の解説板にあった。

ちなみに貞慶を埋葬した大隆寺は秀政の移封に伴い、飯田さらに松本へ移り、さらに明石、最後は小倉に移ってその地で他の寺と合併されて現在は大正寺となっているという。

松本城を奪還し、礼書七冊を書き上げた貞慶は、小笠原家存亡の危機を救い、実質的に中世武家礼法を小笠原流礼法として集大成した、まさに「当家中興の英雄とも謂うべき」(溝口家記)と評される人物だ。

古河は他の地と違って小笠原氏との関係をほとんど謳っていないが、貞慶が眠るここ古河の地は小笠原流礼法の歴史にとって最重要地の一つである。

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明野 小笠原:小笠原氏史跡旅1

2020年03月05日 | 小笠原氏史跡の旅
発祥の地1
(清光―遠光)―長清?
残念ながらパソコントラブルにより、山梨の旅(明野・櫛形)では撮影したデジカメ写真をすべて消失した。
2007年2月

山梨県の北西、信州との県境に、富士山とその高さを競った伝説をもつ八ヶ岳(2899m)がそびえ、頂きから南東の甲府盆地めがけて、富士にもまさる広大な裾野を降ろしている。
その裾野が尽きた韮崎の北に、八ヶ岳を二回りほど小さくした休火山、茅(かや)ヶ岳(1704m)がある。
その茅ヶ岳の裾野、北杜(ほくと)市明野(旧北巨摩郡明野村)に小笠原という地がある。

そこは小笠原牧(まき)という古代からの牧場(まきば。官制の御牧(みまき))があった所だ。
また同県内の旧中巨摩郡櫛形町(現:南アルプス市)にもうひとつ”小笠原”がある。
これらはともに荘園となり、南北朝期以来、ここ明野の方を「山小笠原」、櫛形の方を「原小笠原」といって区別されてきた。

ここ山小笠原には、牧場だけでなく、そこの字(あざ)"小笠原"の集落には長清寺(ちょうせいじ)なる寺があり、境内に小笠原氏の始祖長清(ながきよ、1※)の墓と伝えられる五輪塔さえある。
※:この数値は総領の番号。初代が1
なので地元明野の郷土資料では、櫛形よりもこちらの方こそ小笠原氏発祥の地と主張している。


小笠原という地名

そもそも”小笠原”という地名の由来は何なのか。
『地名語源辞典』によれば、オ(接頭語)、カサ(上方)、ハラ(原)で、「上手に位置する広い原野」の意味、あるいは、オガ(丘陵)、サ(接尾語)、ハラ(原)、で「丘陵の原」を意味するとか。
あるいは『日本国語大辞典』ではオザサハラすなわち「小笹原」の転で、笹の生い茂った原を意味するとかの説がある(以上、『小笠原長清公資料集』より)。

確かに、明野の山小笠原の方は丘陵上面の原で、さらに小笠原の隣に「上手」という地名があり、
まさに上手に位置する広い原野となっている。
また小笠原内の小字に「厚芝」・「原」もある。

一方、櫛形の原小笠原の方は、山麓の平原ではあるが、地形的に特徴のある地ではない。
当然笹が群落するような山地の平原でもない。
周囲の地名には沢や水に関するもの、また集落など人工物に関する地名が多く、早くから開けていた感じがする。
といっても櫛形小笠原の南西方向の山腹側に「塚原」,「南原」が、東の釜無川沿いには「浅原」がある。
ちなみに、明野も櫛形もともに小笠原のかな表記を「おがさはら」としている。


甲斐源氏発祥の地

確かに長清以前の甲斐源氏は、むしろこちら北巨摩側(八ヶ岳・茅が岳山麓)が根拠地だった。
源氏はこの地で良質の馬(駒)の産地を支配していたからこそ、騎馬での戦いに強く(その伝統を嗣ぐのが武田騎馬軍団)、その一族小笠原氏は弓・馬術の家元になれたともいえる。
その意味で小笠原牧は小笠原流”糾法(弓馬礼法)”のアイデンティティの地といえそう。
※:小笠原氏では、小笠原氏が代々伝える兵法・弓術・馬術・礼法を総称して「糾法」という。

この地と源氏との関係のそもそもの始まりは、清和源氏の始祖経基王の孫頼信が1029(長元2)年甲斐守に任じられ、甲斐の国に下向したこと。

その孫の新羅三郎義光(頼義の嫡子八幡太郎義家の弟)も一時期甲斐に住んだと伝えられ(確証なし)、以来、この義光が甲斐源氏の祖とされる。
実質的にはその嫡子義清が常陸の武田郷から甲斐の市河に配流されていよいよ甲斐源氏が始まる。

そして義清の嫡子清光がこの北巨摩の逸見へみ:須玉町若神子)の地に住み、周囲を開拓し、本格的な領主となっていく。
清光の次世代で、逸見氏(光長)・武田氏(信義)・加賀美氏(遠光、小笠原長清の父)などが分岐して、甲斐国内に分散していく。


清光寺

JR中央線も中央高速道も八ヶ岳の裾をぐんぐん登っていく途中にある文字通りの長坂町。
中央線長坂駅と中央道長坂インターの中間にある清光寺は小笠原・武田共通の祖、甲斐源氏の清光きよみつ:長清の祖父)の菩提寺。

境内の高台、北巨摩の風景の主役・甲斐駒ケ岳(2969m)を望む林の中に清光の墓がある。
寺の向い側には清光が勧進した源氏の氏神八幡大神社もある。
つまり、山小笠原に隣接する八ヶ岳側の裾野(清里高原から釜無川まで)一帯が一族の支配地で、
長清の父遠光(とおみつ)の代になって原小笠原(加賀美)に移住し、その子長清がそちらで小笠原と名乗った。

ただし清光自身は糾方的伝(源家総領の証としての武芸のノウハウの伝授)を受けていない
(『小笠原系図』。ちなみに”糾法的伝”は清和天皇の皇子で経基王の父貞純親王から始まるという)。
なので遠光は清光の父義清から的伝されたとあるが(同)、小笠原惣領家の家譜である『笠系大系』では、義清は遠光が七歳の時に卒したからこれはおかしいとしている。

源平の戦いや承久の変で実際に武功のあった長清ならば、甲斐源氏の一族として馬の飼育は当然していたはず。
だから先祖伝来のこの地に小笠原氏の牧場があってもおかしくない。

なら、山小笠原と原小笠原の間に関係はあるのか。
あるいは、どちらが先に地名として「小笠原」だったのか。
これらの問いをかかえて先に進もう。
長坂から明野の小笠原へ行く途中には逸見の地があり、須玉町には甲斐源氏の故郷をアピールする看板もある。


明野民俗資料館

須玉町にある北杜市役所を通り過ぎ、増富ラジウム鉱泉から流れる塩川を渡ると、今度は茅ヶ岳の裾野に入る。
県道23号線に合流する地点が茅ヶ岳斜面の旧明野村の中心部。
そこに民俗資料館がある。
ただ振替休日の月曜に訪れたら休館だった。
民間だったら休日こそ開館するのだが、町村レベルの役場が直接管理している小さな民俗資料館は役場の休みと一致してしまう所が多い。
ここの資料館では、少なくとも『明野村誌』が参考になったはず。
ここから23号線で走り抜ける台地一帯がかつての小笠原牧だ。


長清禅寺

県道23号線の厚芝の交差点を谷側に入り、牧のある平原から釜無川の谷に降りた小笠原集落をめざす
(私は実際にはナビの最短ルートに従って”原”という所からの農作業用道から入ったのだが、道幅が極端に狭く、軽自動車並みの我が愛車oldミニでなんとか通れる道)。
集落奥の高台に大きな本堂がある(北杜市明野町小笠原1205)。
それが長清禅寺。
無住であるが荒れてはおらず、扉は施錠されており、時たま管理者が入る様子。

本堂の左奥には長清の墓と伝えられる五輪塔がある。
その製作年代は死後(没年は1242年)百年ほどたっているらしいが、
長清の号である「栄曾」と刻まれており、最低限、長清の供養塔のようだ。
なぜ長清と関係する寺と石塔がここにあるのか。

近くに長清居館跡といわれている遺構もあるらしい。
ここ山小笠原と長清との関係はいかに。
寺の下に、発掘された古寺跡の史跡がある。
現在の長清寺以前に寺があったようだが元の長清寺なのかは不明とのこと。

笠原山福性院

長清寺の南側の集落内にあるこの寺は、室町時代の信濃守護小笠原政康(11)が建立したという。
※:11代目総領を示す。以下同。
政康は小笠原流糾法のアイデンティティにこだわった人。
しかも彼は関東にも甲斐にも活躍の場を残している。
寺の山号はまさに小笠原を示している。

寺の入口に「小笠原牡丹(松本牡丹)」なるものが植えられていた。
小笠原牡丹といえば、信玄に信濃を追われた小笠原長時(17)の好み(→松本・小笠原牡丹の項)だったから、開基の政康とは関係なさそう。
でもまさか長時が植えたわけでもなかろう。
長時はこのあたりまで進攻したことはあるが。kaikoma

長坂から明野小笠原までの間ずっと、釜無川を隔てた甲斐駒ヶ岳(2969m)の威容が風景の中心となる(写真)。
甲斐源氏・小笠原氏はこの牧で甲斐の黒駒に股がって、この甲斐駒を見上げていただろう。


駒牽(こまびき)の歌碑

ここから塩川沿いの駒井に降りる最後の集落三之蔵の道沿いに、ここ小笠原牧を歌った紀貫之(?―945)の歌碑がある。
   「みやこまで てなづけてひくは小笠原 逸見の御牧の駒にやあらん」
 駒牽という平安時代の宮中行事での歌で、ここ小笠原の馬が平安時代から有名であったことが確認できる。
貫之の歌からも、小笠原氏発生以前からこの小笠原牧があったことは確かだ(貫之没年頃、ここの牧は冷泉院領)。

とすると、山小笠原を拠点に小笠原と名乗った長清が、加賀美の隣の地(原小笠原)を得たのでそこも小笠原と称したということか
(普通は地名が名字になるもので、逆に名字が地名になるパターンはあまりない)。
それとも原小笠原にいて小笠原氏となった長清系が、山小笠原と後から関係し、長清を祀ったのか(なんで?)。
甲斐源氏の故郷にある山小笠原と小笠原氏との関係がイマイチつかめない。

駒井から韮崎に出て釜無川を渡れば、武田氏発祥の地”武田八幡神社”へ行ける。
しかし小笠原氏の旅ならさらに南へ行こう。
櫛形の原小笠原に。

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櫛形 小笠原:小笠原氏史跡旅2

2020年03月05日 | 小笠原氏史跡の旅

 発祥の地2

(遠光)―長清

2007年2月

甲府盆地の西端に鎮座する、和櫛を伏せたような平らかな櫛形山(2052m)の麓、山梨県南アルプス市の旧櫛形町に小笠原というひらけた町があり(写真)、今では新しい市の中心部となっている。

ここが明野の山小笠原に対する「原小笠原」で、
山小笠原が山腹の牧場だったのに対し、こちらは山麓の田園地帯で、牧ではなく最初から荘園だったらしい(ただし北側には領主不明の八田牧が広がっていた)。
両小笠原は直線距離で南北に15.5km離れ、間に暴れ川の御勅使(みだい)川と釜無川に隔てられて、あきらかに別の土地だ(標高では約200m櫛形が低い)。

1174(承安4)年、加賀美遠光(とおみつ)の次男・加賀美(小)次郎が元服の時、高倉天皇から小笠原姓を賜り(確証なし)、小笠原長清と名乗ったのは、彼がこの地小笠原を拠点としていたためという(笠系)。
いわばここが(もっとも有力な)小笠原氏発祥の地
市内の史跡めぐりをするには、市発行の観光地図を入手しよう。


加賀美の法善寺

まず訪れるべきなのが、その小笠原から東へ2km、旧若草町(南アルプス市内)の加賀美という所にある真言宗の 加賀美山法善寺。
ここは長清の父・加賀美遠光の館だった。
長清はここで生まれたともいう説があり、それならここが小笠原発祥の中の発祥の地となる。
その後、遠光の孫・加賀美遠経が館の跡地にこの寺を創建したという。

遠光は1143(康治2)年若神子逸見(山小笠原の隣)で生まれ、やがてこの加賀美に住んだ。
糾法的伝は『小笠原系図』では祖父義清からとしているが、『笠系大系』によれば伝者不明としている(理由は「明野小笠原・清光寺」の項)。
1195(文治5)年、平家追討の功で源頼朝の推挙により「源氏六人受領」の一人として信濃守に補任された。
つまり遠光は、武家で最初に”国司”になった(は)えある六人の一人なのである。

「 加賀美遠光館跡」として市指定史跡になっている法善寺は、今でも水をたたえた堀でかこまれ、当時の武家館(やかた)の雰囲気を残している。
脇門には新しく遠光と長清の絵(勝山開善寺のもの)が描かれ、「礼法で有名な小笠原氏発祥の地」をアピールしている。

ここも櫛形山の麓で、その反対側には御坂の前山の上に白化粧の富士がぬっと顔を出している。
櫛形山の北にはそこだけ雪で白い肌の南アルプスの薬師岳(2780m、鳳凰三山の1つ)が見える。
南方には、南アルプスと富士山塊との間の広い富士川の谷が駿河方面に明るく開いている。
甲府の街をはさんだ北東は大菩薩から秩父の山塊。
それらの向こうは坂東武蔵の国。
北には先祖の地がある茅ヶ岳と八ヶ岳(甲斐駒は見えない)

この広大な景色の中で遠光・長清親子は暮していたんだな。
ここの本堂も庫裡も立派な作りで一見に値する。
また近代建築の不動堂があり、いつでも巨大な不動尊を拝観できる。
でも遠光の木像は公開されていない。


遠光廟所

市の観光地図によると、遠光の廟所が法善寺のすぐ南にある。
せっかくだから歩いて行こう。
古代の条里制が残る区画を通り抜けていくと、木に囲まれた遠光廟所が野っ原の真ん中にあり、やはり周囲の眺めがいい。
敷地に入ると、ペルシャ猫のようなふさふさした毛のトラネコが昼寝の邪魔をされたと私をにらむ。
敷地の中央に大きな祠が建っている。ちなみに遠光の墓は甲府の遠光寺にあるという。
ついでに宝永年間の名主宅である安藤家住宅(国指定重要文化財)へも車で足をのばした。
座敷の床の間に小笠原流に則った節句飾りがしてあった。


小笠原長清公館跡

長清の館の跡は、まさに小笠原の中央・御所庭という地にあり、現在は”小笠原小学校”になっている。
長清(1)は1162(応保2)年ここ小笠原館で生まれた(笠系)というなら、父遠光も加賀美からこちらに居館を移していたことになる。
やはり長清は(次男だから加賀美姓は継がず)独立して加賀美からここに居を構えたとみるのが妥当だろう。
いずれにせよ、ここ小笠原庄は、小笠原氏の名字の地として長清以降惣領が相伝することになる。

長清は1179(治承三)年、曽祖父義清と父遠光から”躾方相伝”され、「弓馬に達し、給法に長ず」という(家譜。書・人によって相伝名がまちまち)。

そして信濃の伴野(ともの)庄(佐久市)の地頭に任じられ、そこに移住したという(吾妻鏡:伴野系については「三洲幡豆」でも言及)。
後に、承久の乱の功により阿波国守護に任じられ,子長経(2)を守護代として派遣し、長経は阿波小笠原(後の三好氏)の祖となる(家譜)。

公館跡には、今ではその場所を示す碑だけが建っているとのことで、探してみると校庭の中にあった(しかも碑は校庭側を向いている)。
小学校の校庭には普段は部外者は入れないが、幸い休日なので校庭では大人もまじったサッカー教室の最中。
だから無関係の私が校庭の隅を歩き、写真を撮っても怪しむ人はいなかった(でもその写真はパソコントラブルで消滅)。


笠屋神社

小笠原一帯の鎮守であるここは、小笠原の北側にあり、長清の館内にあった天神社が併設してある。
それに笠屋神社の紋が三階菱。
祭りの時は、ここの 神輿が小笠原内を巡幸するという。


長清公祠堂

小笠原の南側、山寺八幡神社(八幡だからやはり清和源氏小笠原氏に関係あるはず)に車を停めて、付近を探す。
町を縦断する桜橋通りの東のちょっとはいった所に(道路脇ではない)、大きな祠堂が見えた。
畑の中の畦道を通って近づくと堂の扉は硬く閉まっている。
これは小笠原発祥の地を記念するもの。
祠堂は最初、明治になって地元の有志が建設した。

近くにある碑は、最後の 勝山藩主小笠原長守の長男長育(ながなり)子爵の撰文のもの。
長育は東宮侍従で、東宮=皇太子(後の大正天皇)の礼法教育を担当していたとか。

祠堂には長育が贈った長清佩用の甲冑・太刀を収納したという(櫛形町誌)。
ところが長清は承久の乱で幕府方として活躍したものだから、設置当時は逆徒という認識があり、反対運動が起きたという。
今の祠堂の建物は他所から移築したもの。

近くに寺が見えたので行ってみたら山号が”小笠原山”興隆院
しかも三階菱の紋。
だが、小笠原氏との関係を示す説明板などは見当たらなかった。


南アルプス市立図書館

郷土資料など地元ならではの文献情報を得るには、まずは地元の図書館へ。
かならず郷土資料コーナーがある。
真新しい図書館は小笠原から川を渡った北側にある。
郷土資料コーナーには『櫛形町誌』、『若草町誌』のほか、長清に関する郷土史家の本もある。
それの中では、旧櫛形町が”ふるさと創生資金”を使って研究した結果を出版した『小笠原長清公資料集』が基本資料となる(これは後に古書店から購入した)。
あと誰かから寄贈された礼書『小笠原流躾方』(古文書コピーとその翻刻版)もあったのはうれしい。

市をあげて長清を応援しているようで、小笠原長清公顕彰会の会報『長清公』もおいてある。
コピーするには、利用者登録が必要だが、県外者でもOK。
南アルプス北岳(富士に次ぐ日本第二の高峰)の写真入りカードをもらえる。

さて、小笠原氏は鎌倉時代になって早々に甲斐を出て、隣の信濃の国へ移住したようだ。
櫛形の真西、重厚な南アルプス山塊の向こう側、反対側から南アルプスを眺める伊那谷の伊賀良(飯田)へ。


参考文献
家譜:『勝山小笠原家譜』(勝山(松尾)小笠原氏の家譜)
笠系:『笠系大系』(小倉小笠原氏の家譜)

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伊賀良;小笠原氏史跡旅3

2020年03月05日 | 小笠原氏史跡の旅

 信濃の足場にして礼法誕生の地

長経―長忠―長政―長氏―宗長―貞宗
宗康―光康―家長―定基―貞忠―信貴―信嶺

2004年11月、2005年2月

小笠原氏は、長清の嫡子長経(2)の代に、信州伊那の伊賀良庄(現、長野県飯田市)の松尾に住んだらしい。
長経の子の長忠(3)がそこで生まれたとされているから(家譜)。

長清は信濃伴野(ともの)庄(佐久市野沢)の地頭に任じられ,そこに移住したというが(吾妻鏡)、そこは同じ信州でも飯田からは遠過ぎる。
ただ、長清が飯田の時又にある長石寺に源氏の戦勝祈願をしたという言い伝えが唯一の関連事項(久保田)。

いずれにせよこの地は、以後、小笠原氏の本拠地の1つとなる。
ただし、小笠原の惣領職は長忠・長政の代に佐久の大井氏(時長系)へ移る(→三州幡豆)。
ちなみに長忠は祖父長清から直接糾法的伝を受けている。

やがて貞宗(7)が1335(建武2)年初の信濃守護となるも、飯田を中心とする伊那は彼の子孫によって惣領職をめぐるの骨肉の争いの地となった。


長清寺

飯田市中村の中央道の脇にある(入口がわかりにくい)
長清は1242(仁治3)年81歳で没し、京都の清水坂の下に建てた長清寺に埋められたという。
しかしその長清寺は応仁の乱で消失したので、子孫の丸毛長照(長氏(5)四男兼頼が丸毛氏となり、その5世孫)
骨を飯田の長清寺と開善寺(将軍塚)、それに美濃赤坂の荘福寺(長照の出身地)に分祀したという(久保田、→美濃高須)。
あるいは、松尾小笠原の信嶺が天正年間に移したともいう。

この寺の開基は一応小笠原長清となっているので、小笠原氏関連でもっとも由緒ある寺の末裔になる。

現在の長清寺は、総門と本堂・庫裡だけの簡素な伽藍だが、総門から参道は面積を使って風格がある。
境内の墓地には現在の小笠原家の墓もある。
このように小笠原のアイデンティティの地には長清寺も置かれる(他に甲斐山小笠原・豊前小倉)。

長清寺入口
長清寺

畳秀山開善寺

長清寺から県道233号線を南東に下った飯田市上川路にある。
もとは執権北条氏系の江間氏が鎌倉時代に創建したものだが、南北長期に貞宗(7)が当代の名僧大鑑禅師清拙正澄を招聘して、それまでの開禅寺を開善寺に改め再興した。
以来、寺紋も三階菱。
寺格もその後”十刹”(五山の直下)にまで上がった。

小笠原貞宗は、それまでの弓・馬の「弓法」(糾法)に礼法を追加したという。
すなわち貞宗こそが小笠原流礼法の開祖

なぜ彼が礼法を加える事ができたのか。
そのヒントが当時の日本に禅の清規(作法)をもたらした清拙正澄との親交(実際のつきあいの地は鎌倉と京都)にある(→「禅と礼法」のページ)。
また大鑑禅師の法灯を嗣ぎ、後に開善寺の住持を勤めた古鏡明千は、明国に渡り、元代に作られた『勅修百丈清規』(唐代に作られた最古の清規で現存しない『百丈清規』とは別物)を日本にもたらした。
ゆえに、この開善寺こそが貞宗(小笠原流礼法)と清拙正澄(禅の作法である清規)との接点の”象徴”(あくまで象徴)なのである。
その意味でここ飯田の開善寺を”小笠原流礼法発祥の地”としたい。

そして開善寺入道と号した貞宗は「誓て曰く、我が子孫と為す者、禅師法系を承らざるは、我が子孫とせず、亦我が家緒を嗣ぐべからず。以って開善を氏寺と為すべし」(家譜)と命じ、以後開善寺は小笠原家の菩提寺となる。
だからその後、小笠原氏が各地に転出しても、その地で糾法(含む礼法)の教えを維持したように、それぞれの地に開善寺を造り菩提寺とした。
実際、開善寺と称する寺は、ここのほかに信州松本・下総古河・播州明石・武州本庄・下総関宿・美濃高須・越前勝山・豊前小倉に建てられ、そのうち小倉・本庄・勝山が現存している。
すなわち、ここ飯田の開善寺が、全国の(といっても4ヶ所)開善寺の総本山なのである。
ちなみに江戸在府の小倉藩主の菩提寺は浅草にある同じ発音の”海禅寺”。

ここ飯田の開善寺はその後戦乱で類焼したが、天文18年小笠原信貴が美濃の名僧速伝を招き、寺塔を再興した。
速伝は希菴(東陽和尚の講本百丈清規を相伝)から『勅修百丈清規』を贈られ、それが開善寺に現存している。
やはり開善寺は清規の寺なんだ。

開善寺の山門は南北長期の作りで、国の重要文化財になっている。

本堂の前にも裏にも庭園がある。
開善寺の裏山に将軍塚(しょうもんつか)があり、そこに長清が埋骨されたという伝説がある。
また貞宗の墳墓は、貞宗の遺骨を埋めた標として銀杏の大木にあるという。
寺の隣に飯田市考古資料館がある。

開善寺山門
開善寺前庭の大木跡

鳩が嶺八幡宮

アップルロードからJR飯田線に沿う151号線に合流する旧伊那街道沿いにある。
飯田市で一番メインの神社。
社伝によると小笠原氏が建てたという。
”鳩が嶺”は清和天皇が石清水八幡宮を移設した京の地名だから納得できる。
でも創建が鎌倉時代というと長経・長忠あたりとの関連が必要なんだが…。

境内に射礼の場があり、地元弓道家の額が掛けてあるのも小笠原氏ゆかりにふさわしい。
でも神社の人に小笠原氏ゆかりの何かないかと尋ねたが、何もない残ってないという。
それでも神社入口に建つ碑は、伯爵小笠原長幹ながよし.30)の揮毫・子爵小笠原長生(ながなり)の撰文(明治43年)。
近代小笠原氏を代表するこの両人、小笠原氏の史跡各地に碑を残している。

鳩嶺八幡本殿
鳩嶺八幡弓道場
長幹揮毫の碑

鈴岡城趾

八幡宮の南西、鈴岡城松尾城が毛賀沢川を挟んでひとつの公園になっている。
この両城は室町後期(戦国前期)に各地で一斉に起きた同族間の争いの1つである小笠原氏内訌の象徴。

鈴岡城は貞宗(7)の次男宗政の築城といわれるが、その後しばらくは判然としない。
さて、長秀(10)(→松本の井川城の項)に子がなかったので、弟の政康(11)に家督が移った。
政康は文武双方で功をなし、小笠原家をもり立てた人物だった。
しかし政康の死後、政康の子宗康がこの鈴岡に居て家督を相続しようとしたのに対し、長秀・政康の兄長将(長男)の子持長(しかも政康に育てられる)が信濃国府のある深志(府中)で家督を主張して争った(複雑!)。
ついに1446(文安3)年両者は善光寺表の漆田原で干戈を交えることとなる。
親族同士の悲しい争いで、宗康が戦死し、持長(12)の勝利となった。

でもまだ終わらない。
今度は宗康弟の光康が松尾城に居て深志と対立。
さらに光康に育てられた宗康の遺児政秀(政貞)までが、鈴岡城に居てやはり家督相続権を主張(またまた複雑!)。

ここに小笠原家は家督をめぐって深志・松尾・鈴岡の三つ巴の争いとなった。

政秀は深志を攻めて当時の城主清宗(13)を追いだすが、国人の支持を得られず清宗の子長朝(14)を形の上の養子とする。
またその際貞宗以来の伝書を鈴岡に持ち帰ったという。

しかし、政秀は隣の松尾とも干戈を交えるようになり、ついには1493(明応2)年深志・松尾連合軍に攻められ政秀が討死。鈴岡小笠原は滅びる。
南アルプスの眺めがよい鈴岡城趾は松尾城趾から深い谷ひとつ隔てた隣の丘にある。
この位置関係、まさに近親憎悪を象徴しているようだ。


松尾城趾

もとは貞宗によって築かれたとされ、ちゃんとした築城は15世紀らしいから、 いわゆる歴代小笠原氏の居館「松尾館」ではない。
とにかく、宗康の弟光康以降の松尾小笠原の居城である。
現在は跡形もなく、鈴岡城よりも公園として整備されている。

光康の孫定基は自分に的伝を授けた政秀を鈴岡城にて攻め滅ぼし(1493年)、政秀が深志から奪った伝書類を手にするが、今度は自分が深志に攻められ、一旦は甲斐の武田のもとに逃げ、その後松尾に戻る。
このような定基だが、「達者御礼(馬術と礼法に達者)、世に曰く下伊那小笠原流」(笠系)と評された。

その孫信貴は荒れていた開善寺を再興したという。
また信貴は深志との対立のため、1554(天文23)年、信玄の伊那攻略に案内誘導し、深志の長時(17)を窮地に追いやった。

しかしその子信嶺は1582(天正10)年織田軍に降伏し、織田軍の先陣となって逆に武田の高遠城へ誘導したという。

これが戦国大名の力関係の変化に順応して生き残りをはかるしかない、中小名の悲しい、いやたくましい生き方。
そして1590(天正18)年、徳川家康についた信嶺が武州本庄に移封(1万石)となり、松尾の主はいなくなる(→武州本庄)。


飯田城趾

すでに戦国の世は終わっている1601(慶長6)年、惣領家の秀政(19)が信濃守となって、古河から、もともとあった飯田城に5万石で入封してきた。
久々に惣領家が飯田に戻ってきたわけだ。

1607(慶長12)年、妻登久姫(福姫)が疱瘡で逝去した(31歳)。
39歳の秀政は悲しんで剃髪し、私的に家督を嫡子忠脩(ただなが)に譲った。
愛妻の死がよほどショックだったようだ。
1613(慶長18)年、忠脩が松本城主(八万石:内2万石秀政)になっても、秀政は亡き妻が眠る飯田に残った。
が、1615(元和1)年、二人とも結局大坂夏の陣に出陣して帰らぬ人となった。
飯田城も今は跡形もなく、長姫神社や柳田国男の館が建っている。


飯田市立図書館

地元図書館は資料収集(と複写)の重要ポイント。
史跡の旅には外せない。
市立図書館は 飯田城趾・長姫神社・美術博物館が並ぶ通りにある。
史跡見学にも便利な場所。
『下伊那史』を始めとする多数の郷土資料がある(長野県は郷土研究が盛んな土地なのでじっくり閲覧したい)。

美術博物館でも小笠原氏に関連する特別展が催されることがある。
たとえば2005年「中世信濃の名僧」展では貞宗の木像など普段は見れない開善寺の宝物が展示された。

飯田に来たなら、南にある伊豆木にもぜひ足を運ぶべき。
開善寺から西に山一つ越えた所にある飯田市伊豆木は、小笠原家の資料館と重要文化財の建造物がある”小笠原の郷(さと)”だから。


参考文献
久保田:久保田安正『伊那谷にこんなことが』 南信州新聞社出版局
家譜:『勝山小笠原家譜』(勝山(松尾)小笠原氏の家譜)
笠系:『笠系大系』(小倉小笠原氏の家譜)

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伊豆木:小笠原氏史跡旅4

2020年03月05日 | 小笠原氏史跡の旅

 今も残る”小笠原の郷”

長巨―長泰―長輝―長孝―長熈―長著―長計―長厚―長裕

2004年11月、2005年2月
惣領家ではないが、同じ飯田の地で礼法がきちんと伝わっている分家があるのでここに紹介する 。

1590(天正18)年、松尾の小笠原信嶺が家康の命令で本庄に移封後(→本庄)、飯田から小笠原家の灯火が消えた。
しかし信嶺の弟長巨(ながなお)本庄からここ飯田の地に戻ってきた。


小笠原長巨

長巨は傍系でありながら、惣領家からも「糾方的受之人」(笠系)と認められていた。
実はこの時代、惣領家が存亡の危機だっただけに、糾方的伝の一子相伝以外に、才能のある分家にも伝えたという。
長巨はその一人であり、そのため彼の子孫にも礼法が伝わっていく(情報的にであって相伝としてではない)。

たとえば、1590(天正18)年、惣領家の秀政(19)が、豊臣秀吉の仲介で、徳川家康の長男信康の娘登久姫(福姫)を娶る時、長巨の妻が介添役(花嫁の所作指導)を勤めた。
それを機に、長巨は松本に通って秀政からの糾法の質問に答えたという(秀政年譜)。

長巨は一旦は兄信嶺とともに本庄に移るが、1600(慶長5)年、旗本格千石取りで伊豆木(現在長野県飯田市の南部、三穂地区)の地(写真)に着任した。

長臣はまた当時の播磨明石城主の忠真20,秀政次男)に招かれ、城内に小笠原流弓術の矢場を作った。
その後も伊豆木系の男子の多くが小倉惣領家の家臣となった。

長臣はこのように、戦国時代に混乱した小笠原家と礼法の再編にとって貴重な存在となった。
後、隠居して「以鉄」と号し、飯田近在における礼法の顧問的存在となったという(下伊那史)。

その伊豆木小笠原氏の居館が現在も「小笠原屋敷」として残っている。
長巨系の伊豆木小笠原氏は、明治までこの屋敷に居た。
このような理由で、伊豆木小笠原は小さいながらも小笠原流礼法を守った家系であり、室町から明治までの数々の礼書を残している(小笠原資料館所蔵)。
なので伊豆木は小笠原氏の歴史の表舞台には華々しく登場はしないが、小笠原流礼法の旅としては絶対に外せない場所である。

伊豆木へは飯田の市街地から県道491号を南に行く。
湯元久米川温泉(伊豆木の旅で泊るならここがいい)を過ぎ、正面彼方に秋葉街道の偉峰熊伏山(1653m)が見えてくると、右手に風情のある和風建築、左手に砂利敷の駐車場が現われる。
ここが伊豆木。
あらかじめ飯田市内で伊豆木を含む「三穂」地区の観光案内図を入手しておくといい(下の資料館内でも可)。


小笠原屋敷・資料館

伊豆木でまず訪れるべきなのが小笠原屋敷
さきの駐車場がここの専用。
そこから、徒歩で右に折れてミニ城下町風情の集落内を進むと、右手の高台に半分はみ出た(清水の舞台状の)武家屋敷が見えてくる(写真)。
それが小笠原屋敷。
高台にあるせいか、小さな城の雰囲気で、そこめざして”登城”する。

小笠原屋敷自体が「旧小笠原書院」の名で国の重要文化財であり、有料で屋敷内の見学ができる。

屋敷の敷地内には、あまりに対照的な現代建築の市営の小笠原資料館が隣接している。
資料館には展示物のほかに小笠原家から寄贈された礼法・弓法関係の古文書も多数所蔵されている。
ただしそれらを閲覧するには、市教育委員会に事前に申し込む。

資料館の展示物もさることながら、受付け・管理をしている郷土史家久保田安正氏の郷土についてのわかりやすい著作群もたいへん参考になる(資料館で販売)。
氏の著作『伊那谷にこんなことが』(南信州新聞社)から本サイトでもいくつか引用させてもらっている(「久保田」)。
さらに小笠原屋敷と伊豆木小笠原氏に絞った伝説集である同氏の『小笠原屋敷ものがたり』(南信州新聞社)もおすすめ。


秘伝を学ぶ際の起請文

資料館の展示物の中で、礼法を学ぶ者にとって最も重要なのはこの起請文。
これは小笠原流礼法の礼書を外部の者が閲覧する際に用いた誓書である。
弓法躾判紙 
一、御相伝之儀疎略存間敷事 (御相伝の儀、粗略に存じまじき事)
一、失念之節私之儀仕間敷事 (失念の節は私の儀仕うまじき事)
一、他流誹間敷事 (他流を誹(そし)るまじき事)
一、無御免大事他伝申間敷事 (御免なく大事他に伝え申すまじき事)
一、自余之儀雑間敷事 (自ら余の儀、雑(ま)ぜるまじき事)

これは世代を重ねて合理的に考え抜かれてきた「小笠原流礼法」に、勝手なノイズを入れない、すなわち聞きかじった者が勝手に自己流「小笠原流礼法」を名乗らせないためにとられた措置である。
伊豆木小笠原氏は山村の旗本格ながら、正当な小笠原流礼法を伝承しているという自負と責任感がうかがえる。
この起請文は現代に小笠原流礼法を学ぶ人にも共有してほしい。


興徳寺

伊豆木小笠原家の菩提寺。
正門から入るには駐車場に戻る必要があるが、資料館の裏手から、この寺の上にある墓地に行ける。
そこには長巨らの墓があり(写真)、長巨の埋葬地は写真右の松の木が墓標となっている。
小さいが風情のある山門を降りると駐車場に出る。
伊豆木小笠原が創建した真照庵も同地区内にある。

伊豆木八幡宮

長巨が飯田の鳩嶺八幡から勧進したという伊豆木小笠原の守護神。
もちろん源氏一族の小笠原氏の氏神が武の神八幡神だから。
屋敷からちょっと離れた所にある。
本殿は石段の上の高台にあり、格式を感じさせる(写真)。


小さな山里伊豆木は、南アルプス(赤石山脈)の盟主赤石岳(3120m)を望む風光明媚な地で(写真)、
旗本格ながら小笠原氏の居館・古文書・菩提寺・氏神社すべてがきちんと現存している夢のような「小笠原の郷(さと)」である(ただし小笠原家は東京に移住)。

伊豆木から細い道路で背後の水晶山を超えると、伊那谷の民俗文化のテーマパーク”伊那谷道中”(温泉つき)がある。ここで一休みしても、中央道園原インターは近い。


参考文献
『下伊那史』:この地域のいわゆる市町村史。これが基本資料。
久保田安正 『伊那谷にこんなことが』 南信州新聞社
家譜:『勝山小笠原家譜 』
『秀政年譜』:『笠系大系』の一部

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京都:小笠原氏史跡旅5

2020年03月05日 | 小笠原氏史跡の旅

 京都での小笠原氏

2006年4月

小笠原氏は京の都にも足跡を残している。
初代小笠原の長清(1)は、元服後は京に居て、当時権勢だった平家一門の平知盛に仕えていた。
また後年、清水坂の下に長清寺を建てた(自分の名前の寺を建てるのか?)
嫡子長経(2)は六波羅で生まれ(つまり長清が六波羅に居住)、六波羅探題の評定衆となった。
その子長房は長清の養子となって阿波国守護となり、三好氏の祖となった(つまり小笠原家最初の守護は阿波国)。


小笠原貞宗

しかし京に現存する足跡を残しているのは貞宗(7)である。
伊賀良・開善寺の項で触れたように、小笠原流礼法の創始者といえばこの小笠原貞宗(写真この肖像は唐津の小笠原記念館在)。
貞宗は鎌倉幕府滅亡から室町幕府成立までの戦乱を、同じ清和源氏の足利尊氏とともに行動した。
その結果、貞宗は小笠原家初の“信濃守護”となり、信州府中(深志)の井川を居館としたが(→松本・井川城の項)、 1344(康永3)年に信濃守護などの家督を政長(8)に譲った後は隠居して、京の四条高倉に住んでいた。

1347(貞和3)年、居館において死す。
法名「開善寺入道泰山正宗大居士」という。
伝辞世の歌:「地獄にて大笠懸を射つくして 虚空に馬を乗はなつかな」
後の家譜では「 射・御・礼の三道に達し、殊に弓馬の妙術を得、世を挙げて奇異達人と称す」(笠系)と評価されている。
墓も京都の建仁寺の塔頭・禅居庵にある。


建仁寺

京都五山第三位の建仁寺は、日本に臨済宗を開いた明庵栄西が建立した最初期の禅寺である。
後に曹洞禅を伝えた道元もここで修行した。

この両者によって鎌倉時代に日本に伝えられた禅は、室町時代になって、禅僧が最新の知識人として公家に代わるブレーンとして将軍家をはじめとして武家と深くつながった。

そのことにより、禅は礼法をはじめとする室町武家文化に決定的な影響を与える。
政治的に公家と決別した側の糾法の宗家小笠原貞宗にとっても、禅は新しい時代の新しい発想をもたらしてくれた。
貞宗にとってその禅僧とは清拙正澄(大鑑禅師)である(くわしくは次の「禅と礼法」で)。
そしてその禅師が住持を務めたのがここ建仁寺。


摩利支尊天堂

その建仁寺の塔頭・禅居庵は非公開だが、実際に墓があるのは、禅居庵の中で唯一公開されている摩利支(尊)天堂という、そこだけ入口が別で参詣者が自由に(フリーで)出入りできる所(写真)。
ここ摩利支天堂は、禅の修行場とは別の、民間信仰の場となっている。

実は貞宗も摩利支天を信仰していた。
摩利支天とは、観音菩薩が人々を救うために姿を変えた応化身の一つであるが、武家の間で武の神とされていた。
貞宗は、鎌倉幕府滅亡・南北朝の動乱で活躍する武将の一人であり、さまざまな戦さに参戦している。
だから武の神の守護を期待して験を担ぐという気持ちも強かったろう。

小笠原家の礼書『仕付方萬聞書』には、「十月のいのこを祝ふ事…中略…猪は猛獣なり。摩利支天の使者と云。其上、子を繁昌するもの也。武家に祝うべきもの也」とあり、
摩利支天自体より猪の方が信仰の対象になっていた観がある(稲荷信仰の狐と同じ)。

ちなみに、小笠原氏の故郷甲斐の巨摩(こま)郡にそびえる甲斐駒ケ岳は、その南面に「摩利支天」という怪峰を従えている(木曽御嶽の摩利支天山も、最高峰剣が峰に次ぐ高さの衛星峰である。これら摩利支天は本峰の守護神という意味だろうか)

そしてこの建仁寺に入った歴代渡来僧のうちで最高格の清拙正澄(大鑑禅師)も、偶然摩利支天を自身の守護神としていた。
まずはこの摩利支天が貞宗と清拙正澄の縁を取り結んだようだ。
ここ建仁寺禅居庵の摩利支尊天堂こそ、まさに両者の結縁の場であり、貞宗が開基・清拙正澄が開山となっている(1329年)。


貞宗の墓

その摩利支尊天堂に貞宗が眠っているという(故郷信州にも供養塔らしき墓があるが)。
ただし案内板などはない。

受付けのおじさんに尋ねたら、裏手の墓地にあるというので行ってみた。
墓地といっても1部屋くらいの狭さ。
しかもほとんどが歴代住職の卵塔。
でも奥に石鳥居のついたやけに立派な五輪塔がある。
これぞわれらが貞宗公の墓。

ここの墓参りが目的で京都に来たので、途中の縄手通りで仏花を2束購入してきた。
墓の左右に花を献じて合掌し、膝まづいた姿勢で目の前の大きな五輪塔を見上げる(写真)。

塔は650年を経て摩耗はしているが今でも風格があり、小笠原貞宗という存在の歴史的な重みをにじみ出している。
日本最古級の禅寺にこうも厚く葬られている貞宗公はやはり相等な人物であったはず(摩利支尊天堂だけでいえば小笠原貞宗が開基だから当然)。
合掌しながら「あなたの価値をもう一度世間に広めます」と心に誓う。

貞宗の墓の隣に、同じ材質の石で形の変わった塔状の墓がある。
気になったので受付けに戻っておじさんに尋ねると、ここの開山の墓だという(写真)。
ならば貞宗が厚く崇敬し禅を学んだ清拙正澄(大鑑禅師)の墓ではないか!
二人の墓が仲良くならんでいることは、やはり言い伝えのとおり二人の生前の深い親交の証しだろう。

貞宗が新たに武家礼法を構想できたきっかけは(弓法を知っていたからでもあるが)、禅の作法である清規(しんぎ)を日本に伝えた清拙正澄の影響があったからだ。
この関係を否定する(公的証拠がないと、保留ではなく否定してしまう)学者もいるが、いずれ私が作法(礼法と清規)の内側から実証してみせる。

公の三十三回忌は建仁寺禅居庵で清拙の弟子天境霊致を拝請して営まれたという。
また貞宗は建仁寺禅居庵に長清碑を建てたという(未確認)。
堂にもどって本尊の(正澄も貞宗もともに信仰していた)摩利支天を拝み、貞宗公にあやかるつもりで、摩利支天の使いである猪の置物と御影札とお守りを買った。
小笠原流礼法にとって最重要者の墓参ができて大満足。


以降の小笠原氏と京都

ちなみに貞宗公以降も小笠原氏との京都との関係は続く。
貞宗の後では、長秀(10)が1392(明徳3)年、義満創建の相国寺落慶供養で先陣隋兵の一番を勤めた。
また長秀の兄長將の子持長(12)は深志で惣領職を主張する(→伊賀良)前は、京にいて将軍の奉公衆だったともいう。

持長だけでなく、小笠原氏には足利将軍の近習の家系がいた。
それを便宜上、「京都小笠原氏」といい、貞宗の弟貞長が祖である。
この家系は長高を経て孫の氏長から備前守となる。
その子満長を経て持長の時、1430(永享2)将軍義教の"的始め"で剣を下賜される
(この持長民部少輔は惣領家の持長民部太夫(12)と同時代の同名人物なので、事跡など混同されがち。
『射礼私記』はこちら持長の著。あるいは同一人物?)。
この時将軍の弓術師範となっていたらしい(満済准后日記)。
その子持清は1442(嘉吉2)年将軍義勝の弓術師範となる。

以上のことから、研究者の二木謙一氏は“小笠原流礼法”の本家は京都小笠原氏だという。
そして元長、元清と続いて応仁の乱を迎える。
乱後、幕府が衰微すると、元続は小田原北条氏に仕えるようになる。

その小田原北条氏だが、初代北条早雲(伊勢宗瑞)は小笠原元長(元続の祖父)の娘を妻に迎え、彼女は北条2代目氏綱の母となる。
そして早雲自身、伊勢氏の出であり(彼自身は備中の伊勢分家出らしいが、京都で幕府の申継衆(取次役)をやっていた)、妹を駿河の今川家にやり、自分も一時期今川に仕えた(また今川義元の子氏真は3代北条氏康の娘を妻にし、後氏康を頼る)。

『三議一統』が記すように、小笠原・伊勢・今川が当時の三大礼式家であったなら、小田原北条氏はその三家の礼法を統合できる位置にあったといえるのでは…(司馬遼太郎も早雲を主人公にした『箱根の坂』で同様な事を述べている)。
尤も、戦国時代の当主は小笠原総領家がそうであったように、戦乱を生き残るのに必死で、礼法どころではなかったろう。

戦国の世になると、まず長時(17)が1552(天文21)年、建仁寺禅居庵の摩利支天に戦勝を祈願した。
しかし願いかなわず信濃を追われた長時は1555(弘治1)年、同族三好長慶を摂津に頼り、将軍義輝の糾法指南をしたという(→会津)。

その子貞慶(18)も父とともに京そして越後に同道したが、1580(天正8)年から父と離れて京都に戻り、「洛陽に家を為し、公武の儀ともに相改む」(溝口家記)という(私は、貞慶はこの期間に最新の儀礼故実を吸収したとふんでいる)。

その嫡子秀政はすでに1569(永禄12)年宇治山田で生まれ、1576(天正4)年、京都五条の本国寺で手習い読書を学び、豊臣秀吉と懇意になり、聚楽第に5年住んだという(秀政の秀は秀吉からもらう)。


引用文献
二木謙一『中世武家儀礼の研究』吉川弘文館

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禅と礼法:小笠原氏史跡旅6

2020年03月05日 | 小笠原氏史跡の旅

 礼法誕生秘話

1.清拙正澄

貞宗が出たついでに、小笠原流礼法の間接的立役者というべき渡来僧大鑑禅師清拙正澄(1274-1339)の足跡を追ってみよう。
彼は元の時代の儒家の出であるという。
この出自が清規という礼式に親しんだポイントかもしれない。

1326(嘉暦1)年招聘を受けて来日し、博多の聖福寺に入る。
まずそこで会ったのが同じ貞宗でも九州の武将大友貞宗。

翌年、時の執権北条高時に迎えられ鎌倉建長寺(禅居庵)に住す。
この頃小笠原貞宗(幕府方御家人だった)が帰依したという。

鎌倉円覚寺に三年いて、1333(正慶2)年、幕府滅亡時に後醍醐帝により建仁寺の禅居庵へ招かれる。

そして1335(建武2)年貞宗の招きで信州伊賀良の開善寺へ。
開善寺には清拙正澄の肖像(頂相)がある。
1338(延元3)年京都に帰る。
建仁寺禅居庵を退院するも南禅寺へ再任。
1339(暦応2)年1月17日、奇しくも百丈忌(最初の清規を制定したという百丈慧海の忌日)の日に遷化。
この時の貞宗との親交の深さを物語る伝説もあるが略す。
彼は我が国最初の清規となる『大艦清規』を著した(1332年)。
まさに小笠原流礼法の貞宗に対応する。

聖福寺

栄西が建てた博多にあるこの寺こそ日本最初の禅寺。
来日した清拙正澄がまず入った寺がこの由緒ある聖福寺という。
また唐津の近松寺(→豊前唐津)の開祖となった湖心禅師もここの出身という。
このように小笠原氏とゆかりのある寺なので、「唐津の旅」の帰りに立寄った。
といっても修行道場なので広い寺域の各塔頭(たっちゅう)には入れない。

建長寺・禅居庵

鎌倉五山第一位の建長寺は、1253(建長5)年渡来僧蘭渓道隆の開山による、臨済宗建長寺派の総本山。
いまでも広い寺域に多くの塔頭をもっている。
といっても塔頭は修行道場だから原則非公開。

伝説であるが、建長寺の禅居庵に清拙正澄大鑑禅師が住んでいた時、貞宗は禅師に帰依して、摩利支天の尊像を作って、側の一堂に置いて礼拝したという。
そして出陣前(この頃は幕府側)に禅師に請うてこの像を拝受し、小さな厨子に入れて陣中に携えたという。
現在ここは、その摩利支天を本尊とし、貞宗の木像もあるという(非公開)。

建長寺の禅居庵は建長寺本体とは道路をはさんだ反対側にある。
しかしここも修行場のため立ち入り禁止で、門しか拝めない(写真:秋の宝物風通しの時でも)。
建仁寺の禅居庵も非公開だし、清規を学ぶ所は観光客を入れないのだろう。


2.禅と礼法 との関係

貞宗と清拙正澄は摩利支天信仰によって縁ができたが、長年続いた両者の親交によって、二人とも深いレベルでの触れ合いも可能だったはず。
歴史家は(当時の無教養な武士の)貞宗が清規を参考にして礼法を作れるわけがないと、無下に否定するが、
幕府の招聘で清拙正澄が来日した目的は、日本に清規を伝えることにあるわけだから、彼に帰依する大名クラスの武士(しかも所作の法の家元)に「威儀(作法)即仏法」という清規の精神を語らない方がおかしい。
貞宗が禅師ゆかりの清規の寺・開善寺を、子孫に未来永劫にわたり菩提寺とさせたのも、清規を礼法の思想的根拠としたからこそだろう。

貞宗公と禅師との次の対話が伊賀良の開善寺に残っている(『開善寺史』)。
「公、禅師に問いて云く、宇宙騒乱心王いまだ安からず、いずれの所にか安心立命し去らん。
師払子を竪起す。公云く、不会。師叉云く、一張の弓射乾坤を倒す。公言下に会う所有り」

「一張の弓射乾坤を倒す」とは、「お前の弓法(糾法)こそが、社会的にも心理的にも平安をもたらすものではないのか」という禅師からのメッセージであり、貞宗は師の言でそれを感得したというわけだ。
「威儀即仏法」という視点に立てば、糾法、すなわち戈(ほこ)を止めるという意味の”武”術およびその日常での応用としての礼法(威儀)の存在意義は当然納得できたであろう。

後世の『笠系大系』では、 貞宗は常に大鑑禅師の室に入り、弟子の礼を執って深く禅に帰依し、禅の妙理に達して、打切・桜狩・手綱潅頂の鞭等の馬術を工夫したと記してある。

一方、元禄時代の『大鑑禅師小清規』に、「小笠原家礼というは、想うに禅規の俗所を掩(おお)うと為す」とあり、禅側でも小笠原流礼法との関係を認めている。

実際、和食の作法には禅の清規が強く反映されているし、そればかりか、禅の”茶礼”が茶の湯(茶道)に発展するなど、禅寺での所作は(小笠原流以外にも)幅広く作法の根拠として広がっていった
(禅僧がもたした朱子学も、婚姻の儀式などを中心に武家礼法に影響していく)。
禅は馬術よりも日常の礼法にこそ影響を与えやすいのは容易に理解できよう。

中世武家礼法における禅清規の影響(もちろん禅だけが礼法の影響源ではないが)については、清規の作法学的分析を通して、いずれ明らかにする予定。

では貞宗は礼書を書いたのか。
小笠原氏の分家の赤澤氏にはその言い伝えがある。


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信州松本:小笠原氏史跡旅8

2020年03月04日 | 小笠原氏史跡の旅

 信濃の国主時代

貞宗―政長―長基―長秀―政康、持長―清宗―長朝―貞朝―長棟―長時―貞慶―秀政―忠脩-忠政

2006年2月,  2007年4 月

明治以降の長野県の県庁所在地は長野市だが明治以前の信濃の国府がおかれていたのは松本市
だから信濃守や信濃守護となった小笠原氏は当然ここと縁ができるのだが、特に「守」の頃は現地には赴かず京都に居住していた。
貞宗以降は実質的な領地経営のため現地にも居館をもった。
ただ信州には伊賀良(飯田)にも昔からの拠点があったため、伊賀良に残った一族もあった。


井川城

小笠原流礼法の開祖貞宗(7)の居館であったという井川城跡は、松本市内の小笠原氏関係では最も古い史跡。
信濃国守護となった貞宗は、建武年間(1334‐38)居館を伊賀良(飯田)の松尾から府中(松本)南郊の井川に移した。
あるいは、すでに貞宗の嫡子政長(8)は1319(元応1)年井川で生まれたという(笠系)。

現在でも、この付近は「松本市井川城」という地名になっている。
ただし城趾の場所は地図にのってないので探すのに苦労した。
「井川城」という地名に見当をつけた所まで行って、ここから先は地元の人に尋ねるしかない。

地図に載っている神社(井川城2丁目)の向いに、おいしそうなそば屋があったのでそこで昼食(おいしかった)をとり、主人に丁寧に場所を教えてもらい、畑の真ん中にある古墳のような井川城跡を見つけた(写真)。
そこには解説板などはあるが、とにかく観光名所ではないので見つけるのがわかりにくい(番地でいえば、井川城1-8 付近)。

周囲にあるまっすぐな川は当時の館の堀の跡らしく、敷地は広大だったようだ。
古墳状の丘に上がれば、そこに祠が建っている。
周囲は宅地化しているが、東に美ケ原高原を望むわれらが貞宗公の居館跡に立てば、感慨はひとしお。


深志神社

松本市の中心部「深志」にある深志神社は、信濃守護となった小笠原貞宗が、諏訪明神を勧進して建てたという。
また後に京都北野天満宮より天神菅原道真公も勧請された。

松本駅から徒歩圏内なので松本城か筑摩神社の途中に立寄ればよい。
結婚式場などがあり、社殿も塗装が新しい。
場所柄、初詣などには地元の参拝者で賑わうだろう。
社殿の左側の敷地に小笠原長幹(30)揮毫の碑があった(写真)。
それによると秀政(19)がこの神社を修復したらしい。

深志神社
長幹揮毫の碑

三議一統

貞宗以降、礼書の編纂が活発になる(貞宗作とされる礼書に関しては→貞宗と赤澤氏)。
貞宗の孫長基(9)は『馬術十六匹二十八匹之書二本』と、その嫡子長秀(10)の質問に答える『弓馬之百問答』を編したという(笠系)。
だがこれらは現在伝わっていないようだ(貞宗あるいは長秀による『弓馬問答』なる書は伝わっている。
また実物は未確認だが、伊豆木小笠原資料館に『弓馬百問答』なる書が保管されているらしい)。

その長秀は1396(応永3)年『三議一統当家弓法集』12巻をまとめたという。
この書こそ小笠原惣領家にとって礼法のバイブルとなっている。

ちなみに伝書(異本)によっては『三議一統』の「議」ではなく「儀」や「義」を用いたものがあるが、小笠原・伊勢・今川の“家が論してつにべる”という意味で『三議一統』が正当(惣領家・赤澤家ともにこちら)。

ただし「弓馬の法に於ては長基独り之を撰す」(家譜)とある。
逆に言えば礼法に関しては伊勢・今川家のものも参考にしたことになるか。

貞宗と礼書との関係を蒸し返すと(→貞宗と赤澤氏「書かれる前の礼法」)、貞宗が礼法を制定し、そのひ孫の長秀がテキスト化したという、この時間差こそ納得できる。

その『三議一統』に関しては、江戸時代の伊勢貞丈を始めとして成立過程に否定論が出ているのは有名(伊勢氏の該当者が実在しない)。
ただ異説として、小笠原長秀・今川範忠・伊勢貞行(実在した)の三人が定めた(南方紀伝)、あるいは後の長時(17)が流浪中閑暇のあまり同家相伝の給法を改判したものともいう(故実拾遺)。
個人的には最後の説にも興味あるが、小笠原流礼法においての古典的価値は変わらない。

ちなみに長秀は信濃守護としては、国人たちとの争いに破れ(大塔合戦)、守護職を解かれるなどの不適任レベルだった。

また長秀の次の当主政康(11)も『当家糾法大双紙』16巻をまとめており、これは豊津の小笠原文庫に現存している(後に翻刻に取り掛かる際、偽作と断定した)。
政康はさらに甲斐の山小笠原の長清寺の隣に寺を建て、深志の筑摩神社本殿を再建するなど、小笠原流のアイデンティティの確認に意欲をみせたが、彼の死をきっかけに、小笠原一族にとって大混乱が発生する(→伊賀良の鈴岡城の項参照)。


筑摩神社( つかまじんじゃ )

同じ神社でも小笠原氏にとっては、東方の県(あがた)の森にあるこの神社の方が大切。
筑摩神社は794(延暦13)年、石清水八幡宮より勧請を受けて創建したというから、小笠原氏どころか清和源氏よりも古い。

信濃国府の松本遷府以後は「国府八幡宮」と称し、信濃守護として入ってきた小笠原氏は当然、氏神として崇敬した。
本殿は1436(永享8)年に焼失した後、1439(同11)年に小笠原政康(11)により再建された。
その室町時代の本殿が現存してあり、国の重要文化財(旧国宝)になっている。

それにしても政康って小笠原家のアイデンティティを大切にした人だ(史跡の旅を通じて、私の中では歴代惣領の中で政康の株が一番上昇した)。
政康の活躍は小笠原氏の枠を越え、関東で起きた関東管領上杉禅秀の乱(1423-24)、鎌倉公方足利持氏の永享の乱(1438-41)の平定に活躍し、従三位・中将となった。

本殿の正面には左右に2体の神像が置かれている。
木の塀に囲まれているため本殿には近づけないが、カメラのズームで見るとこれらもけっこう精巧。
八幡宮だから像は神功皇后と武内宿禰だとか。
また神社の境内になぜか銅鐘があるのだが、これは既に廃寺となった筑摩神社別当寺の安養寺の梵鐘で、1514(永正11)年「小笠原長棟の寄贈」と陰刻にあり、市の重要文化財となっている(鐘楼は金網に覆われて鐘に近づく事はできない)。

広い境内には、社務所はあるが人の気配はなく、訪れる人が少なそうなやや荒れた雰囲気。
松本市民にとっては小笠原氏は「おらが殿様」ではないんだろうな(むしろ武田信玄を歓迎しているようだ)。

重文の本殿
本殿扉前の神像
銅鐘(右手前)と本殿(左奥)

林城趾

美ケ原温泉と広沢寺の間にある大規模な山城で小笠原城ともいう。
貞宗(7)から長時(17)まで使っていたというが、実際には伊那(松尾・鈴岡)勢との抗争が激しかった清宗(13)の頃から入城したらしい。
林城には、宿にした美ケ原温泉から歩いて広沢寺に向う途中にたまたま行き当たった(訪れる予定はなかった)。
山の上まで行く登山道があるが、遠そうだし冬で寒いので、中途まで登って周囲の展望を満喫して引き返した(写真)。
どうせ、何も残ってないし、ここは礼法とは無関係だし。

長棟(16)の代になって伊那勢との抗争を収束し、小笠原家の分裂に終止符を打つ。
貞朝(15)と2代にわたり、伝書を取り戻したという(すべてではないようだ)。


松本城

もとは1504(永正1)年貞朝(15)が一族の島立貞永に命じて築城させたもので、以後小笠原氏の居城となり「深志城」と呼ばれていた。
ただ島立氏を城代に置いて、小笠原氏自身は林城にいた。
合戦のための砦としてよりも領国経営の拠点が必要なった長時(17)から深志城にはいったという(1534年)。
長時は翌年幕府より「大膳大夫」(殿中で膳を運ぶ係)に任じられる。
まさに礼法の「通い(配膳)」作法実演の役。
といっても大膳大夫は長清のひ孫長政(4)から幾人も任じられている。

しかし、1550(天文19)年同族の武田信玄によって長時は城を追われ、以後哀れな流浪の旅を余儀なくされる(その当りの事情は「会津」で)。

その後、長時の嫡子貞慶さだよし、18)が1582(天正10)年の本能寺の変後の混乱に乗じて深志城を奪還し(この間の経緯はけっこう複雑)、それを記念して深志を「松本」と改めた(つまり貞慶が「松本」の生みの親)。

32年ぶりに故郷に帰った貞慶は、会津の芦名氏のもとにいる父長時にさっそく帰還の使いを出した。
だが長時は夢にまで見た故郷帰還の直前(1583年2月)、異境の地で逆臣に殺されてしまう。

1590(天正18)年豊臣秀吉が天下統一し、徳川家康が関東に移封されるに伴い、すでに家康に帰属していた貞慶とその嫡男秀政(19)も下総の古河へ移ることとなり、せっかくの旧領安堵も8年で終わる。
ちなみに同年、飯田の松尾小笠原氏も本庄へ移封になったので、小笠原氏の故郷ともいえる信濃の国から小笠原の領袖が突如いなくなってしまう。

しかし1613(慶長18)年、秀政の嫡子忠脩ただなが、19-2の代になり、松本城主(8万石:内2万石秀政)に返り咲く。
  忠脩は秀政(19)から家督を継いだものの、公式ではなかったため、歴代惣領には数えられていない。なので惣領ナンバーも19-2と表記する。彼はすこぶる美男だったという。

徳川の世になって、小笠原氏は本来の松本城の主としてこのまますごせるかと思いきや、1615(元和1)年、大坂夏の陣で秀政・忠脩父子がともに戦死して、2代にわたる主がいなくなってしまった!

なんでこんなことになったのか。
実は小笠原氏には大阪城主20万石の手形を家康から(間接的に)渡されていたという(笠系・年譜)。
それで張り切り過ぎたのか、軍令を無視して出陣してしまった(その後の小笠原氏への厚遇をみると、あながち空手形ではなかったかも)。
いずれにせよ、またしても小笠原家は危機を迎えたわけだが、さいわい忠脩の弟忠政が重傷であるものの生命に別状はない。
でも忠政には移封の命令が…。

これで小笠原氏は松本から去っていく。
ただし戦死した秀政・忠脩の両君は松本市内の広沢寺の墓に埋葬される。

国宝となっている現代の天守閣(写真)はその後の改築によるものだが、小笠原氏がその礎を築いたことには変わりない。
この天守閣に登って信濃守護小笠原氏の苦難の歴史を想ってみよう。


小笠原牡丹

松本城内、天守閣の入口近くに、「小笠原牡丹」の札があり、牡丹の木が植えられている(写真)。
その説明によると、1550(天文19)年、甲斐の信玄に攻められた長時は、林城にあった白牡丹が敵に踏み荒らされるのを憂えて、
これを近くの兎川寺(美ケ原温泉と林城の間にあり、私も立寄った)に託して去った。
その後同所の久根下家は、この牡丹を守り、昭和になってその株を松本城に移したという。
この話は私が習っていた頃の礼法教室のテキストに載っていた。

この話にみられるように長時は花を愛でる心が強く、花の活け方を記した『長時花伝書』なるものが残っている。
床の間飾りとしての花の飾り方は本来、武家礼法の一部であった(芸道としての華道の前身)。
この伝書を元に“小笠原流華道”が構築されるのを期待している。


竜雲山広沢寺

松本市の南東端、鉢伏山の麓にある広沢寺は、持長(12)が先代当主政康の位牌を安置した竜雲寺が前身で、
それを長棟(広沢寺殿,16)が広沢寺に改名し、林城近くから現在地に移したものである。
広い寺域の最上段に、大坂夏の陣で戦死した小笠原秀政忠脩父子(19,19-2)の墓がある(写真)。
小倉第三代藩主忠基(22)がそれぞれ別の所にあった墓をここに集めたという(1743年)。
祀堂には先代宗家忠統ただむね、32)筆の額がある(写真)。

忠統氏は松本市立図書館長を歴任したというので、300年以上たっての松本返り咲きというわけだ。
墓所は高台の上、寺域の最上部なので、冬でも達するのに汗をかいた。
二人の五輪塔は松本の街を見守るように建っている。

秀政・忠脩の墓
忠統筆の額

松本文書館

広沢寺所蔵の文書が松本文書館に複写保管されていて閲覧できるという
(下記参考文献(福嶋)で知った)。
それを知って新たに訪問予定に加えるが市街地から遠い。
上高地方面へ向う松本電鉄の「松本大学前」で降りて、南に15分ほど歩く(物ぐさ太郎発祥の地を通りすぎる)。
文書館を利用するには閲覧手続きをする(利用カードを発行してくれる)。
広沢寺文書の中に『弓馬躾の書』があった。
これは昭和の忠統氏(32)が同寺に寄贈したもので(福嶋)、内容は礼法教室で講読した『仕付方萬聞書』と同じもの(一部字句が異なっており、かつては意味不明の箇所がこちらを参考に理解できた)。
自分のデジカメで撮影させてくれた。
駅までの帰り道は常念岳(2857m)の眺めがいい。

松本市立中央図書館

開智小学校裏にある市立中央図書館は忠統宗家が館長をやっていた。
ここの郷土資料コーナーでまず『松本市史』などを閲覧しよう。
あと『松本市史研究』にもたいへん参考になる論文があった。


参考文献

福嶋紀子「竜雲山広沢寺の文書と文書整理」(『松本市史研究』14号)2004

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貞宗と赤澤氏:小笠原氏史跡旅7

2020年03月04日 | 小笠原氏史跡の旅

 礼法誕生秘話2

貞宗は礼書を書いたか

小笠原貞宗(7)が礼法の始祖というなら、貞宗は実際に礼書をしたためたのか。
彼の礼書があれば貞宗と礼法の関係は明確になるのだが。
以前は「小笠原宗家」と称していた小笠原清信氏系の赤澤家では、貞宗と赤澤常興が共同で『神伝糾法修身論』と『体用論』を著したと主張している。


赤澤氏

そもそも赤澤氏とは、小笠原長経(2)の次男清経が伊豆国守護となり、伊豆の赤澤(現伊東市、伊豆高原の南)に住んだのが始まりという、かなり初期の分家。
南北朝時代となると、小笠原惣領家から時間的にも空間的にも離れて久しいが、常興の父長興は惣領家からの養子であり、また貞宗の母が赤沢家の娘との説もあり、それなら両者に交流があってもおかしくない。

その後、長時(17)と同時期に赤澤氏から経直または貞経が出て、赤澤氏側の伝承によれば、惣領家および京都家から礼法一切を相伝され、これより礼法の本家となったという
(当然、惣領家側にはそのような言い伝えはない。その頃は実際には松尾系や伊豆木系にも相伝されている)。
また、これら中世の赤澤氏については、歴史の第一線に登場しない事もあって、子孫が主張している系譜は歴史学的には疑問が多い(検討対象になっていない)。

その後赤澤家は徳川将軍に仕えて、小笠原姓に戻り、江戸府内で流鏑馬を担当したという。
明治以降も小笠原清務が道場を開き、あちこちの学校で礼法を講じた。
それゆえ小笠原流礼法といえば最近まで赤澤氏の礼法が代表していた(江戸時代に庶民に「小笠原流」として広がった水島流は別として)。

先の2書の話に戻ると、惣領家側の資料ではそれらの書の存在自体認められてこなかった。
小笠原家の公式家譜である『小笠原系図』・『勝山小笠原家譜』・『笠系大系』のいずれも、後醍醐帝に貞宗が家伝奥義を奉ったとあるが、常興とともに礼書を著したとはまったく書いておらず、これら家譜は共通して長秀(10)あたりの『三議一統』を当家礼書の嚆矢としている。
それゆえ現在の惣領家(宗家)でも『三議一統』を最初の礼書としている
(正確にいうと、現在の惣領家側では貞宗が『修身論』を書いたと言及してはいるが、その内容にはまったく触れてない。
たぶん赤澤家の伝承を借用しているのだと思う)。


神伝糾法修身論

その1335(建武2)年に書かれたという『神伝糾法修身論』64巻は、260年後の1597(慶長2)年に(当然ながら)別人によって書かれた序文によると、欽命といいながら直接命じたのは足利尊氏であり、貞宗に頼まれた常興がほとんど中心となって編纂したとある。
その64巻の綱目内容の目録(言語令・換骨令・陶器令など)も慶長2年になって書かれた。
その中の『言語令』はすでに貞宗の著でないと主張する研究者がいる(島田勇雄)。
もし貞宗が関与したなら、彼の思想的影響関係からみて、禅的価値観(表現)が前面に出てしかるべきだが、序文を読む限り、儒教色一色でそのような雰囲気はなさそう(「修身」は儒教用語)。

そもそも、『神伝糾法修身論』はなんで260年後の16世紀末になってから序文と目録が書かれたのか。
赤澤家においても1614(慶長19)年の将軍秀忠、そして1635(寛永12)年の将軍家光の命によってこれらを閲覧させた時に、なぜか慶長2年の序文と目録だけで本体を披露していない。
1678(延宝6)年将軍家綱に家伝書を提出したリストにも『三議一統』はあっても、この書はない。

一方尾張徳川家の蓬左文庫(現在は名古屋市所轄)に『神伝糾法』なる書があるが(「糾法」だから小笠原流)、そこには「此の七巻の神伝糾法」と記され、巻数がだいぶ違う。

私自身この書の本体に接してないのでこれ以上は何とも言えない。


体用論

一方『体用論』は糾法における修行論ともいうべき書で、始祖の書というより、総合的体系化段階の書という観がある(体・用の用語も剣術書によく見られ、江戸時代的であると指摘されている)。
実際、小笠原流を含む室町時代の武家礼書と比べると記述が異質すぎ、後続するはずの『三議一統』・『礼書七冊』との連続性がまったくない。

さらに当時の貞宗の武将としての東奔西走の活躍から、そのような書をしたためる時間的余裕はありえないという意見もある(二木謙一氏は『犬追物目安』など他の書も貞宗でないとしている)。
やはり学者らがいうように、これらは江戸時代近くの赤澤家の作ではないか。

尤も、作法の家元にとって作法書を認(したた)めるのは、頭の中を文字化するだけなので、たいした労苦はない(しかも口述筆記させるし)。
実際、室町期の作法書は、構成が思いつきの羅列になっていて、体系的・構造的体裁になっていない。

といっても『体用論』および修身論の一部とされる『換骨法』は、作法素を列挙した一般的な礼書でははく、糾法(弓法)修行の奥義書といえるものであり、異質な書・後代の書だからといって小笠原流礼法の理論書としての価値は失われない。

これを読めば、糾法としての小笠原流”礼法”とは、考え抜かれた動作法のことであって、(歴史学者を含めて)通俗的に思われているような、単なる故実儀礼(冠婚葬祭)の細かな知識でないことがはっきりとわかる。


書かれる前の礼法

そうなると、貞宗の礼書は存在しないことになる。
だが、それによって「貞宗が礼法を制定したというのは嘘」、ということにはならない。
武芸としての礼法は(単なる儀礼故実とは違って)弓術や剣術と同じくその本質は動作法であるから、本来的にテキストによって成立するものではない
(たとえば、ある剣術の完成は、その剣術書の出版を要件とはしないはず。だからたとえテキスト化しても肝心の所は口伝となる)。
そもそも作法書が世に出る動機は、世の中の作法が乱れだした時に、通俗の所作と正しい作法との混同を世間に糾(ただ)すためである(まさに糾法)。
つまり作法書の成立は、その作法の成立から時間的なずれを前提とする。
たとえば『三議一統』が書かれた理由も、複数の礼法が並立している混乱を収拾するためであるというから、書かれていないが存在する礼法が前提となっている。

いずれにせよ、物的証拠はないため、貞宗が礼法を制定したというのは立証も反証も困難だろう(論理的には、所与の命題が立証不可能なら判断保留となる)。
なので私としても、小笠原流礼法と禅清規をともに作法学的に分析することによって、両者の関連性を作法素単位で論理的に示唆することしかできそうもない。

さて、その貞宗は、その『修身論』が書かれたという建武2年に信濃守護となり、信州深志、今の松本に居を構えた。

いよいよ小笠原氏の最盛期というべき信濃守護時代が始まる。
小笠原惣領家は、礼法だけやってれば済むような立場ではない。


参考文献 
小笠原清信『小笠原家弓法書』講談社 (神伝糾法修身論序文・目録と換骨法抄・体用論抄を所収)
『神伝糾法』 名古屋市蓬左文庫所蔵
『体用論』 名古屋市蓬左文庫所蔵
二木謙一『中世武家儀礼の研究』吉川弘文館
島田勇雄『小笠原流諸派の言語関係書についての試論』(島田勇雄先生退官記念ことば論文集)前田書院

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奥州会津:小笠原氏史跡旅9

2020年03月03日 | 小笠原氏史跡の旅

 辛苦の中で

長時ー(長隆ー貞頼)
2007年8月

会津(福島県会津若松市)といえば、白虎隊に代表される戊辰戦争の地で有名。
若松市内の史跡も幕末から明治の野口英世までが中心。
でもここは小笠原氏の史跡旅としても立寄るべき地で、実際訪れてみたら、小笠原氏との関係が意外に深いことがわかった。


悲劇の武将・長時

小笠原歴代惣領の中でひときわ悲劇の人であるのは小笠原長時(17)
小笠原長時は、武田信玄に負けて彼に信濃統一を許した武将として、信玄の物語には必ず登場するので、小笠原家の歴代人物の中では一番有名(僅差の次点に小笠原長行(→唐津)か)。

長時は、1514(永正11)年長棟(16)の嫡男として信州深志(松本)郊外の林城(→松本)で生まれた。
母(一華栄純大姉)は「一段の美女也」(溝口家記)とあえて家記に残されたほどの評判
(家伝には彼女は「狐の子」とも記されている。家伝に公然と狐や狸との交流を書くと、歴史学者にバカにされるんですけど)

父の代に内訌を終息し、長時は信濃の守護大名から領国経営する戦国大名への道を歩もうとするが、1548(天文17)年、隣国甲斐から進入してきた武田晴信(信玄)に、信州塩尻の桔梗ケ原の戦いで破れ、晴信の勢力に押されていく。
1553(天文22)年、とうとう武田軍に深志城を囲まれた。
その際、武田の軍門に降(くだ)れば本領安堵すると申し込まれたが、長時は「小笠原は(長清以来)代々京都に居て武田より上だった。今に至ってどうして武田に属せるか」と、
武家としての格はこちらが上として承諾せず、あえて流浪の道を選んだ。

深志城を追われた長時は、まずは晴信に抵抗している北信の村上氏を、さらには越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼ったという(これが因縁の”川中島”へつながる)。
1554(天文23)年、子の貞慶を越後に残して、いったん飯田の鈴岡城(→伊賀良)に入るも、武田軍に攻められ落城(地元の松尾小笠原は深志小笠原に対抗して、晴信に与した)、三河国境の新野(にいの)を経て、伊勢の外宮御師の榎倉武国を頼る。

1555(弘治1)年に、長経(2)の弟あるいは子の長房から分岐したかなり遠い同族の阿波の三好長慶(小笠原一族では長時より有名)を頼った。
時の三好氏は、京都を制圧する勢いであったため、その口利きでか時の将軍足利義輝の弓法(礼法)指南となり、河内の高安に領を賜ったという。

しかし1568(永禄11)年、織田信長に三好ともども攻められ、妻が捕えられる。
行くあてがなくなり、”困った時の上杉謙信”を再び頼る(これが初回との説も)。
しかし1577(天正5)年に謙信が死去し、後目争いの「御館の乱」で越後が混乱すると、翌1578(天正6)年、隣国会津に出て、まずは久方城主河原田氏のもと、その後、黒川城主芦名盛氏の食客となり、そこで弓矢の師範となったという。
居住地は稲の台(現在の米台)とも(鈴木氏のサイトより)、星野味庵の許に身を寄せていたともいう。

嫡男の長隆は、上杉景勝のもと越後に残り、上杉軍の越中戦で戦死したとも、三男貞慶側の家臣に謀殺されたとも…。
長時はもとよりかわいがっていた貞慶に家督を譲るつもりだったようだ。
冷遇されたらしい長隆の子(あるいは孫)の貞頼は、三河幡豆(はず)小笠原家(貞朝(15)に冷遇された長男の長高が祖の高天神家の傍流)に寄寓し、徳川水軍である家伝の航海術を使って 、八丈島からめっぽう遠い“小笠原島”を発見したという(小笠原氏関係で一番有名なのは皮肉にもこの島。→幡豆小笠原。
また貞頼の姉が豪商茶屋四郎次郎に嫁いだ。


礼法の編纂と伝授

信濃奪還の実現性がなく(すでに武田勝頼の支配力は衰えていたが、長時側にも力がなかった)、領地・権力を失った小笠原宗家に残る財産は長清・貞宗以来の「糾法」だけである。
そこで長時は、アイデンティティと存在価値を高めるため、礼法の編纂・集大成とその伝授にいそしむことになる。
さしあたり伝授の相手はもちろん、実子で行動を共にしてきた貞慶。

小倉小笠原家に伝わる『古老談』には、「長時より貞慶の躾方御稽古のときは、長袴の膝が抜け申したる物音申されたり」とある。
これは当時の家臣休庵(頼貞)にも秘せられた礼法伝授の緊迫した場面であるが、この話こそ、礼法とは、単なる故実儀礼の知識ではなく、身をもって習得すべき動作法であることを如実に物語っている。
また、礼法の断絶を恐れ、糾法的伝の一子相伝をやめているため、貞慶以外にもこれはという家臣や外戚にも伝えた(と「伝えられた」と称する側は主張している)。
たとえば、家臣の嶋田主税助、あるいは同族の赤澤経直(→赤澤氏)。
そして世話になっている星野味庵にも伝え、それが会津の地で「味庵流礼法」として続いたという(さらに畑興実なる者にも伝授し、それが「畑流礼法」として続いたという) 。

それゆえ、現存している小笠原流礼法の礼書は、末尾に記される伝授系譜は必ずといっていいほど「大膳大夫小笠原長時」から始まる(長時の前に父長棟から始まる場合も)。

長時が伝授した礼法を、後年に貞慶がテキスト化して集大成したのが、『礼書七冊』である(→古河)。
そのように礼法伝授者として活躍した長時なので、『三議一統』さえも「長時が流浪中閑暇のあまり同家相伝の給法を改判」したという説(故実拾遺)まで出ている。

長時を継いだ貞慶(18)は、1579(天正7)年に父長時から家宝・文書一切を譲られ(←赤澤氏の主張と矛盾)、同年父と分れて京に出た。
そして1582(天正10)年、武田を滅ぼして信濃を支配していた織田信長が本能寺の変で斃れたのを機に、信州深志城を奪還した(→松本)。

自らの大失点を見事回復してくれた息子からの待ちに待った迎え(平林弥右衛門)が来た。
長時は今すぐにでも故郷に飛んでいきたかったはずだが、冬に向うためか、来春まで待つことにした(なぜ?)。
だが、長時は待ちわびた春を見ることはなかった。

翌1583(天正11)年の2月25日、今年69歳になる長時は星野味庵宅にて家臣の坂西禅左衛門の手にかかって、妻・娘(三女?)ともに殺された(『武辺咄聞書』第101話によれば、「小姓と長時の妾心を合せ、長時を殺す」とある)
旧暦の2月25日は、今の3月後半。
日も長くなり、北国にも春の息吹が感じられる時だったろう。
長時の辞世の歌は「是程に 近き栖(すみか)を知らずして 遠く尋ねし事ぞ悔しき」

下克上の戦国の世とはいえ、なぜ坂西禅左衛門は老齢の隠居した主君を、その地を去ろうとした者を、しかも妻・娘ともに殺したのか。
松本帰還をあえて延期したことを含め、謎だ。
葦名氏自体には、この後も家臣による弑逆が続くが。
3月になって松本から平林弥右衛門が迎えに来たが、平林が連れ帰ったのは悲しい報せだけであった。

永い小笠原の歴代惣領で唯一殺害された小笠原長時は、かくも悲劇の人ではあるが、武田信玄と干戈を交え、上杉謙信・三好長慶・芦名盛氏らの元に寄寓し、織田信長に攻められるという、まさに戦国時代の主役たちの間を往き来した。
しかもその合間にしぶとく小笠原流礼法を大成して伝授したのであるから、実に波乱に満ちた生涯といえる。
この長時を主人公にした仁志耕一郎の歴史小説『とんぼさま』(幻冬舎)で、その半生を追体験することができる。


大龍寺

長時の墓があるのはここ。
飯盛山と武家屋敷の間、観光客の素通りする所にある臨済宗妙心寺派(開善寺と同じ)の寺で、江戸時代の会津の侍たちはこの寺の檀家の者が多かったという(鈴木)。
境内に入ると、左手に「小笠原長時と室・息女の墓」と立札がある。
その真後ろ、意外に古びていない立派な2つの墓がそれ(写真)。

長時の戒名は「長時院殿麒翁正麟大居士」、妻は「仙操院殿梅実春光大姉」、息女(長女or三女)はまだ幼かったようで「雲霄院殿心清智浄大童女」とある。
なぜ、いたいけな幼女まで…といまさらながら心が痛む。

向って右側の長時の墓(写真)は、墓碑によると、はじめは桂山寺(曹洞宗鷄山寺(溝口家記))という所に葬られたが、1625(寛永2)年に保科正之の会津入封に際し、桂山寺を廃し、大龍寺を此の地に置いたという。
そして1718(享保3)年、250年忌を機に墓地を現地に定め塔を建立すという。
さらに1982(昭和57)年400年忌の時、募金により修理復元し建立したという。

どおりで古びてないわけだ。
ただし、このような立派な墓を没後250年忌・400年忌に忘れずに建てたのは、小笠原惣領家なのか地元の有志によるのかは不明(後者の可能性もおおいにある)。
墓前には線香の跡と枯れた花があった。
私はまたしても(毎度のこと)花を持参せず。
せめても線香代にとコインを両墓に置いてきた。


会津の小笠原流

長時の影響がどこまであったかは不明だが、小笠原流礼法はここ会津の地に残っていった。
まず星野味庵から始まる「味庵流」。
この系譜は長時直伝ともいえる貴重な流派だが、残念ながらその後どうなったのかは不明
(ご子孫からの情報によれば、葦名氏滅亡の後、星姓となって幕末まで二本松藩の家臣となったという)。
そのほかに特筆すべきなのは次の2つである。

「日新館」での小笠原流礼法

会津の藩校日新館では、「礼式方」として小笠原流礼法が教えられていた。
基本文献『会津藩教育考』(小川渉)によれば、礼法の系譜は長時―貞慶から山家新太夫祐友へと続き(このルートが独自)、長時から11代目の中森悦蔵へと続く。
だが彼が藩校で礼法の師範を務めた記録はないという。

藩校で確かな礼法師範となったのは大沼俊直で、1788(天明八)年に礼式生役を命ぜられ、講所に出て弟子を教授したという
(本家小倉藩の藩校開校は翌年だから、会津藩の方が早く小笠原流礼法を教えたことになる)。
俊直の後は江戸で小笠原流(水島流か)を修めたという河原政心が継いだ。
1805(文化二)年に書かれた『令條・定』によれば、11歳より入門し、「慎敬礼」から始めるという。
たぶん胴造りから始めて、多種ある坐礼をきちんと教わったのだろう。

生徒の心構えとしては、「敬慎を本とし、威儀を正し、進退周旋(は)規矩に当たることを専務とすべし」とあり、礼法とは敬の心を表現した動作法であることが正しく認識されている。
藩校での礼法のカリキュラムは、次のような9段階(九等)になっている。
初等:配膳
二等:鳥目(受渡し)
三等:太刀折紙熨斗の受渡し
四等:折方結方(礼法でいう「折形」と結び方)
五等以降は軍礼で、歩射礼・騎射礼と続き、これらを習う時は、「小笠原への誓詞」を要するという(おそらく伊豆木・小笠原資料館にある起請文と同じ内容)。
それ以降は、首実検などの作法へと続く。
これらの中に、応答や会釈・饗応・切腹の作法も含まれていた
※:そういえば幼い私が、父から最初に教わったのは切腹の仕方だった。

そして、子弟となる嫡子は三等までは卒業する必要があるが、四等以降は学ぶものが少なかったという(二・三男に至ってはきわめて少ない)。
また「女礼(女性用の作法)は婦人に近くの遠慮あり、年齢四十歳に充たざれば仮にも伝うべからず」とあるのは、女性との接触を厳しく制限した日新館らしい。
このように小笠原流礼法が”会津士魂”の涵養に一役買ったといえそうなのは嬉しい。

 只見町:小笠原流の郷

同じ会津でも、城下町の若松ではなく、その西奥の越後と接する山奥の只見の地にも、なんと小笠原流が伝わっていた(以下『只見町史』における増田昭子氏の執筆部分より)。

そこでの伝授の系譜は、長棟―長時―貞慶―小池甚之丞貞成と続き(このルートはよくある)、次の小原源左衛門昌勝から会津家の者と推測され、数代後の本名村(現金山町)の渡辺之綱から只見村(当時)を含む奥会津の各村に広がったらしい。
つまり長時の小笠原流礼法は、ここ会津の地においては、藩士だけでなく、南西部の農村一帯にも広がったのである。

只見では小笠原流礼法を伝授する者を「ユルシトリ」(許し取り?)といい、なんと昭和30年ころまで青年たちがこぞって小笠原流礼法を習っていたという(こういう所は他にない)。
そして只見町の住民の家には、伝授の小笠原流礼法の巻物がたくさん残っているという。
その中では、1738(元文三)年の『凡膳部の品三汁と立てハ』という年間行事の献立についての書が最も古い。
ただし、これら書物の内容は”儀礼”に偏しており、動作法的なものは無い(それらの中でも『生花秘伝書』が気になる。
何しろ長時こそ“小笠原流生花”の開祖といえるのだから)。

この点が武士の教育場であった日新館の礼法教育との違いとして大きい。
つまり、本来の武家の平時・戦時のたしなみとしての小笠原流礼法が、農民にとってはハレの冠婚葬祭の儀礼として(のみ)受容されていったのである。
これは現在、作法といえば『冠婚葬祭』しか考えられていない日本の通俗的作法観(歴史学者の作法観も)の縮図ともいえる。

それにしても、九州小倉の殿様・小笠原宗家のあずかり知らぬ遠い山村で、まるで隠れキリシタンのように小笠原流礼法(しかも長時直伝の系譜)が独自に伝承されてきたとは、たいへん興味ぶかい。
山深い只見(若い頃、浅草岳登山の折りに通過した)も信州飯田の伊豆木と並ぶ小笠原の郷、むしろ“小笠原の桃源郷”というべきか。


天寧寺:小笠原氏との意外な接点

話を若松市内に戻して、大龍寺の南、武家屋敷の近くにある天寧寺(写真)にも足を伸ばそう(バス道に出なくても、山裾沿いのハイキングコースがある)。
天寧寺は新選組局長近藤勇の(一番目の)墓があるので有名。
会津戦争を戦った新選組副長・土方歳三も墓参したというその墓は、長時の墓と違って献花が絶えない。
私も近藤勇の墓参りのためだけ(別の旅シリーズ「土方歳三を追って」用)に立寄ったのだが、そこから本堂に下る道沿いに「豊津南高梅」なる札があり「福岡県立 豊津高等学校」とある(写真)。

福岡の豊津といえば、われらが”小笠原藩”最後の地ではないか(→豊前豊津)。
「なぜここ会津に豊津高校が…」と解せないまま、更に下ると、境内案内図の「萱野権兵衛父子の墓」の説明板がある。
それを見ると、戊辰戦争で会津藩敗戦の責をとり自害した萱野権兵衛の次男・(こおり)長正は、1870(明治3)年に会津から豊津小笠原藩の藩校“育徳館”に留学した。
そこで郷愁を母に訴えた手紙の母からの返事を学生たちに見られ、面前でののしられた。
16歳の長正はその晩(orその後)に切腹して果てた。

ある意味”士道”を貫いたみたいだが、夫と息子にともに自決された母の心境はいかばかりか
(江戸時代以降に広まった”死に急ぎ”の衝動的切腹は、我が命を主君に捧げる武士道とも、父母への孝として我が身体髪膚を大切にする儒教的士道とも矛盾する)。
この話、そういえば昨年出張で行った福岡県豊津町の図書館で、地元の人が書いた本に載っていた。
豊津には小笠原流礼法の資料を探しに行ったので、礼法に関係ないこのエピソードは図書館内で読んだだけだったが。
それにしてもなぜ会津藩の子弟が遠く九州の藩校に留学したのか。
もしや”本場”の小笠原流礼法を学びにいったとか…。
礼=敬だから、侮蔑は最も非礼な行為。
小笠原総領家の膝下なのに礼を学べなかった。

今回、会津若松に来て、長時とは別枠での会津と小笠原の縁があったことが分かった。
その藩校の後裔である豊津高校からの記念樹の意味もわかった。
それならば、小笠原に縁ある者として、長正の墓に手を合わせないわけにはいかない。
墓地への坂を登り直して、汗だくになりながら、きれいに整備されてはいるが参拝者は近藤の墓よりずっと少なそうな郡長正の墓前に達した(写真)。
花も線香も持ち合わせないが、彼の無念を少しでも慰めたく、ただ手を合わせた。
「長正、君の留学の目的は何だったのか。武士なら、小笠原長時のように、目的を達するまで屈辱にも耐え忍ぶタフな精神も必要なのに」、という思いを抱きながら。


参考文献

小川渉 『会津藩教育考』 (会津藩教育考発行会 昭和6年の複製) マツノ書店
増田昭子 『只見町史』第1巻(通史編1) 第五章第一節小笠原流礼法 
鈴木真也 「いのちの継承-会津の食から-」 奥会津書房のサイト

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私がまわる会津若松

2007年08月30日 | 小笠原氏史跡の旅

雨の裏磐梯の宿を午前10時にチェックアウトして、その足で帰ると帰宅が早すぎる。
なので会津若松に出ることにした。
会津若松と言えば、一般的には”戊辰戦争の白虎隊”の地だろうが、私にとって小笠原家ゆかりの地のひとつ。
なぜなら、そこは小笠原流礼法の大成者である小笠原長時(室町末期の信濃守護)終焉の地であり、研究半分で「小笠原氏史跡の旅」をしている私としては、ぜひその墓参をしたい。

若松駅で旅荷をロッカーに預け、レンタサイクルを借りようとしたら、降水確率で雨になりそうだからと言って貸し渋られる(予報士の判断としては、この空模様では本格的な雨にはならないのだが)。
なので駅前から出ている市内周遊バスに乗った。
ところが、この周遊バス、他地域のコミュニティバスと同じで、停留所がやたら多く、ものすごく時間がかかる。
しかも降りたいバス停でいうと反対廻りの便なのでなおさら。
後悔先に立たずだが、「慶山入口」で降りて、バス停数個分を歩く。
慶山のバス停をすぎて大龍寺に到着(白虎隊の墓と武家屋敷の間にあるのだが観光客はいない)。
境内に入ると、左手に「小笠原長時と室・息女の墓」と立札がある。
その真後ろ、意外に古びていない立派な2つの墓がそれ。
線香の跡と枯れた花があった。私はまたしても(毎度のこと)花を持参せず。
せめても線香代にとコインを両墓に置いてきた。

つぎは南の天寧寺。
ここには近藤勇の墓がある。
こっちは完全な個人的興味で、土方歳三を皮切りに新選組など佐幕派の跡も追っている。
ポケットパソコンMioのGPSナビによると、バス道を通らなくても、山側の細い道伝いに行った方が近い。
Mioのナビを頼りに、愛宕神社の参道を横切り、細い道を進むと舗装でなくなってくる。
墓地に出くわした所で、道は完全な土の山道(レンタサイクルでは無理だった)。
登る方の道は廃道みたいなので、下る方の道をとると正伝寺という手前の寺に出てしまった(つまり墓地は正伝寺の)。
登り直して、「近藤勇の墓」という道標をたよりに、山道を登ると、墓の案内板があり、近藤辞世の漢詩の碑があり、その奥に立派な墓が建っている。
その脇には、近年、地元のライオンズクラブの人たちが建てた土方歳三(会津藩のためにこの地で戦った)の供養塔が並んでいる。
近藤の墓は、三鷹の竜源寺(胴体が埋葬)と板橋にあるが、ここは頭部が埋っているという(異説あり)。
少なくとも建立時期は一番早く、生前に土方が墓参した唯一の墓。
「貫天院殿純忠誠義大居士」という近藤の生きざまそのものの戒名によって斬首された勇の霊も少しは浮かばれよう。
長時の墓と異なり、こちらは献花も真新しく、新選組ゆかりの地には必ずある墓参者が書き記すノートも数冊分たまっている。
私が去る時にも、父娘連れがやってきた。
新選組は会津の人たちには人気ないと思ってたが、今では他の地と同様な人気らしい(新選組ファンが全国からやってくるともいえる)。
今では、4月25日の命日には供養祭も行われるという。

墓を後にして、天寧寺の本堂に近づいた時、「豊津南高梅」なる札があり、脇に「福岡県立 豊津高等学校」と書いてある。
福岡の豊津といえば、われらが”小笠原藩”ではないか。
「なぜここ会津に豊津高校が…」と解せないまま、更に下り、境内の案内として「萱野権兵衛父子の墓」の説明板があった。
それを見ると、会津藩敗戦の責をとり自害した萱野権兵衛の次男、郡(こおり)長正は明治3年に会津から豊津小笠原藩の藩校育徳館に留学した(なぜそんな遠くへ?)。
郷愁を母に訴えた手紙の母からの返事を同輩たち見られ、面前でののしられた。
長正はそれを苦に切腹したという。
ある意味立派に士道を貫いたが、夫と息子を亡くした母の心境はいかばかりか。
この話、そういえば昨年出張で行った福岡県豊津町の図書館で、地元の人が書いた本に載っていた。
豊津には小笠原流礼法の資料を探しに行ったので、このエピソードはその場で読んだだけだったが。

今会津若松に来てみると、長時とは別の会津と小笠原の縁として意味をもっていることが分かった。
その藩校の後裔である豊津高校から記念樹ということなのか。
それならば長正の墓に手を合わせないわけには行かない。
墓地への坂を登り直して、汗だくになりながら、きれいに管理されてはいるが参拝者の形跡は乏しい郡長正の墓前に達した(写真)。
献花も線香もないまま、彼の無念(母の無念も)を少しでも慰めたく、ただ手を合わせた。

実は会津と小笠原との関係はこれだけではない。
長時がこの地でどれほど礼法を広めたかは、まったく不明だが、江戸時代にはいって藩校などで小笠原流礼法が教えられ、また奥の只見地方でも小笠原流礼法の巻物が残っている。
葦名氏と同時期の小笠原長時の足跡はほとんど忘れられているが、武士道を重んじる風土ゆえか、ここ会津には確かに小笠原流礼法が残っている。
県立博物館には、その巻物の展示はなかった(鶴ヶ城には昔行ったのでオミット)。
隣の図書館にいって「只見町史」を探したら、資料編に小笠原流礼法の書が少しだけ翻刻されていた。
それをコピーできたのは「小笠原氏史跡の旅」として成果。
結局、雨らしい雨は降らないまま、タクシーを拾って駅に戻った。


九州の京都

2007年02月22日 | 小笠原氏史跡の旅

今日は、行橋からワンマンディーゼルに乗って、豊津へ。
京都郡豊津町は今は合併して「京都(みやこ)郡みやこ町」。
そう、ここは正真正銘九州の「京都」(しかもWで)。

「京都」といっても、軍艦のような威圧的な駅ビルもロウソク型のタワーもない、畑の真ん中の単線(平成筑豊鉄道)の無人駅で降りる。
ここの歴史民俗資料館に、小笠原惣領家が寄贈した古文書類が山ほどあるのだ。
幕末、高杉晋作の長州軍に攻め込まれた小倉藩は、運悪く幼い藩主だったため、自ら城に火を放ち、結果的に、ここ豊津に落ち着いた。
それが縁で、小笠原惣領家は小倉から持ち去った文書類をここに寄贈した。
どおりで今の小倉城には小笠原家の文書がなかったわけだ。
といっても実はここの礼書に関しては、後から東京で買い集めたものもあるという。
それでも室町期の礼書などあるので、さっそくデジカメを取りだして、ページごとに撮影を開始。
どんどん撮影して、ふとデジカメのバッテリ状態を見て愕然とした。
バッテリの残量がもうほとんどない!

このデジカメもご他聞に漏れず、専用の充電装置が必要。
いままで、旅先でバッテリが足りなくなることはなかったので、今回も事前にフル充電すれば足りると思っていた。
しかも今回は調子に乗って、ソニックの車内・車窓風景などを動画撮影してバッテリを余分に使っていた。
このデジカメの充電装置があるのは名古屋か東京。近い方でもここから550kmある。
デジカメで貴重な資料を撮影するのが目的で、わざわざ名古屋からここ九州の京都に出張してきたのに。
それが今や不可能になろうとしている。
撮影も丁度、室町期の貴重な礼書の真っ最中。
またしても、大チョンボ!
しかも、研究活動に直に影響する重大危機。
ああ、なんとしたとこか。

そしてとうとう、バッテリ残量が0となり、撮影不能に。
こうなったら、小倉にでも行ってこのデジカメの充電装置か安いデジカメを新たに購入してくるしかない(いずれにせよ数万の出費)。
荷物をまとめて、資料館の事務室にその旨を伝えると、職員の人がそれならと事務室内のデジカメを貸してくれた。
考えもしなかった展開。

そのデジカメはちょっと昔ので画素数などでかなり劣るが、背に腹は代えられない。
撮影を再開する。
ところが借りたデジカメのこのスマートメディアは88枚しか撮れない(私のデジカメでは2GBのSDカードなので1000枚以上)。
ほどなく満杯でこれ以上撮影できなくなる。
なら自分のパソコンにデータを転送すればいいやと、パソコンを取りに宿に帰ろうとする(行橋までの公共交通機関の便は1時間に1,2本)。
すると職員の人がそれはたいへんだろうと、事務室のパソコンにデータを転送し、スマートメディアの空きを作って撮影すればいいと言ってくれた。
それをお願いして、このあと5度もそれを繰り返して、結局借りたデジカメで礼書の必要な箇所の残りは全部撮影できた。
と同時に、借りたデジカメのバッテリも0となってしまった。

さらには、明日自分のパソコンを持参して、データを転送させてもらうつもりでいたら、
取り込んだデータを全部まとめてCD-Rに書き込んでくれた。
デジカメを借り、そのバッテリを使い果たし、その上CDまでもらってしまった。
もう頭が上がらない。

そういえば、ここんことずっと災難続きだが、「電難」(冷蔵庫・パソコン・浴室電球・エアコンのトラブル)以外の”無人車”・研究費の会計ミス、そして今日のデジカメバッテリ切れはいずれも完全に自分の責任。
しかもいずれも他人を巻き込み、迷惑をかけている。
ところが、その迷惑をこうむった人は皆嫌な顔ひとつせず、誠実に私のミスをカバーすべく頑張ってくれる。
自分の不甲斐なさ以上に申し訳なさと有り難さで涙が出る。

この後、役場にも行ったが、とにかく初めて訪れた豊津の人はいい人たち、という印象で終わった。
なるほど小笠原惣領家が気に入り、感謝した地なわけだ。
公共交通機関は乏しいが、心の”豊”かさでいえば確かにここは「みやこ」だ。

それにしても、いったいいつまで我が身のピンチは続くのか。


京都:小笠原貞宗の墓参

2006年04月02日 | 小笠原氏史跡の旅

名古屋の住人が余った「青春18きっぷ」を使いきりたいなら、京都に行けばいい(米原乗り換えで片道2時間)。
「小笠原氏史跡探訪」で丁度京都に行きたい所ができたので、片道2時間かけて行ってきた。

●事前の問合せ
ただし行く前には準備があった。
建仁寺の塔頭「禅居庵」に小笠原貞宗(南北朝時代の小笠原流礼法の開祖)の墓があることを知ったのだが、建仁寺のHPをみると禅居庵は非公開になっている。
墓参りならさせてくれないかと先方に電話した(建仁寺に電話したら禅居庵の番号を教えてくれた)。
小笠原貞宗の墓参りはできるかと訪ねたら、OKとの返事。
これで余った18きっぷで京都に行くことにした。

●建仁寺・禅居庵
建仁寺へ向う縄手通りの花屋で墓参の花を買い、禅居庵の摩利支(尊)天堂へ。
民間信仰の場であるここだけは建仁寺とは別の入口になって、自由に参拝できる。
摩利支天堂の奥に墓地入口があったので行ってみる。
墓地といっても1部屋くらいの狭さ、しかもほとんどが歴代住職の卵塔。
でも奥に石鳥居のついたやけに立派な五輪塔がある。
これかなと思っても説明や刻印がなく誰の墓だかわからない(石には梵字が彫られているだけ)。

●貞宗の墓
もう一度摩利支天堂に戻って、お札などを売っている受付けのおじさんに、小笠原貞宗の墓の在りかを訪ねた。
すると貞宗の墓参りに来ることが寺から伝えられていたという(寺の配慮がうれしい)。おじさんが直々案内してくれたのはやはりさっきの五輪塔。
左右に花を献じて、合掌。
膝まづいた姿勢で見上げると、650年を経て摩耗はしているが今でも風格があり(写真)、貞宗という存在の歴史的な重みがにじみ出てくる。
日本最初の禅寺にこうも厚く葬られている貞宗公はやはり相等な人物であったはず(摩利支尊天堂だけでいえば小笠原貞宗が開基・清拙正澄開山)。
「あなたの価値をもう一度世間に知らしめます」と心に誓う。

●隣の墓
貞宗の墓の隣に、同じ材質の石で形の変わった塔状の墓がある。
ここの開山の墓だという。
ならば貞宗が厚く崇敬し禅を学んだ清拙正澄の墓ではないか。
二人の墓が仲良くならんでいることは、やはり伝説のとおり二人の生前の深い親交の証しだろう。
貞宗が新たに武家礼法を構想できたのは、禅の作法である清規を日本に伝えた清拙正澄が目の前にいたからだ。
この関係を否定する学者もいるが、私が作法(礼法と清規)の内側から証明してみせる。

堂にもどって本尊の摩利支天(正澄も貞宗もともに信仰していた)を拝み、摩利支天の使いである猪の置物と御影札とお守りを買った。
小笠原流礼法にとって最重要の人の墓参ができて大満足。これだけで2時間かけて京都に来た甲斐があった(昨日の静岡から遠方への墓参続き)。
これで小笠原氏史跡探訪の旅は一段落(完全に終わってはいないが)。
余った時間で、特別拝観中の建仁寺本堂と、霊仙歴史館を観た。