今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

『戦国武将列伝2関東編上』を読む

2024年01月03日 | 作品・作家評

正月三が日は、箱根駅伝以外にテレビは見ず、例年関東戦国史の本を読むことにしていて、今回は『戦国武将列伝2(関東編上)』黒田基樹編 戎光祥出版(2022年)を読んだ。

このシリーズは、いわゆるメジャーな戦国大名クラスではなく、そのクラスに至らない国衆レベルの全国網羅集で、関東だけでも上・下2冊になっている。

関東編の上巻は、北条氏康・上杉謙信・武田信玄の戦国大名3傑が揃う前の、足利公方家と上杉管領家との対立から始まり、それら双方が分裂していくという混沌状態の中で生きた土着の武将たちが上巻だけで38の章で紹介されている。

これらの武将レベルは、大河ドラマはもとより、映画や小説の題材にもならないので(小説になっているのは太田道灌くらい)、彼らのリアルな生き様がわからなかった。
いわば、私が一番知りたい部分を集めた本だ。

そういう期待を込めて3日の間、460ページの上巻を読んだが、正直辛かった。

というのも、結局、彼らのレベルって、実現したい国家・社会観があるわけでなく、ただ父祖伝来の所領の維持拡大に汲々としている生涯だから。
その目的のためだけに、あっちについたりこっちについたり、そして親兄弟、親類縁者、主人と家臣の間で骨肉の争いを演じる。
しかも決定的な強者がいないダンゴ状態なので、互いに勝ったり負けたりで、ちっとも事態が別次元に展開しない。
※:唯一の例外的強者は太田道灌(勝率100%)。逆にいくら負け続けても死なないのが長尾景春。

そのような煮え切らない生涯の例を40人以上(1章につき2人の例も)続けて読むのが辛かったのだ。

それだけでなく、彼らの史料が乏しいこともあって、人物・事績の学術的確認が精一杯で、人間的なエピソードなどが残っていない(これも唯一の例外が太田道灌)のも、読むのが辛い理由。

戦国末期の忍城の成田氏(「のぼうの城」で映画化)のような痛快なエピソードを期待したのだが、見当たらなかった(かように私も”物語”を求める一人だった)。

記録に乏しく、エピソードも残っていないということは、これらの人々が当時の人にとっても印象に乏しかったということの証左かもしれない。

手元にある下巻はしばらく読まないでおき、関東戦国史後半の主人公『北条五代』を先に読もうか。


ゴジラ -1.0観てきた:ネタバレなし

2023年12月04日 | 作品・作家評

あえて平日の昼に、「ゴジラ -1.0」を観てきた。☞公式サイト

ゴジラが誕生して70周年にして30作目である(なお、本作はコロナ禍によって制作が中断され、そのコロナ禍が作品のテーマにも影響を与えたという)

映画館で映画を観るのは久しぶりで、もしかしたら2016年の「シン・ゴジラ」以来かも。
すなわち、敢えて映画館で観たい映画はゴジラとかに限定されている。

そもそも映画がメジャーな娯楽であった時代に小学生だったので、近所の映画館に子どもだけで観に行った世代で、
学生時代は名画座(過去の名作専門の映画館)に入り浸って、1日に映画館のハシゴをしたくらいだったのだが、
レンタルビデオ・DVDの普及と家のテレビの大画面化によって、映画は家でくつろいで(私は寝る前に)観るものになってしまった。

その鑑賞パターンに慣れると、日中に丸々2時間映画鑑賞だけにつぶすのはもったいない気がするし、
アカの他人たちと同席して観るのも色々気が引ける。

ということもあって、人が少なそうな平日の昼に、事前にネットで席を予約して鑑賞に臨んだ。

映画館だと、まずはポップコーンとドリンクを購入するのが定番だが(私も子供の時はそれが楽しみだった)、
この歳になるとトイレが近くなるのが嫌なので、飲食はしない(家だと飲食しながら観れる)。

そういうストイックな環境で観た「ゴジラ -1.0」。
前知識は0だったので、まずは時代設定に驚いた(タイトルのマイナス符号がそれを暗示)。
VFX(3DCG)の技術もすごく、身長が初期設定の50mながらゴジラの迫力も充分。

ゴジラ映画に欠かせない要素、すなわち火器にはびくともしない強靭さ、有楽町付近で平然と走行している鉄道車両を襲うこと、戦争や環境破壊などの人類の業と関連していること、単なる恐竜的な野獣ではなく(ハリウッド版ゴジラはこのレベル)、荒ぶる神としての神々しさがあること、そして何より伊福部昭のゴジラのテーマ曲が山場で流れること、これらが満たされていた。

さらにそれらを満たした上でのオリジナリティが重要で、ゴジラ単独の場合は、人間側がどのような手段でゴジラを退治するかが問われる。

私が小学生の時夢中になった「キングコング対ゴジラ」(3作目)以来、ゴジラ映画がこうやって作り続けられ、しかも下手にシリーズ化せずに(そうなるとどうしてもキングギドラやメカゴジラを出さざるをえなくなる)、1954年以来の”ゴジラ第1作”(ゴジラの原点)が再制作され続けられていることに、ゴジラ(映画)と共に生きてきた我が身にとって、限りない幸福感を感じた。
ゴジラと共に、これからも生きていけるんだと。
この幸福感こそ、私にとってのこの映画の感想である。
この幸福感を与えてくれた監督(山崎貴)・俳優(主演:神木隆之介)を含め、制作に携わったすべての人たちに感謝の意を表したい。


キュビズム展を観た

2023年10月24日 | 作品・作家評

帰京中、上野の国立西洋美術館でやっている「キュビズム展」を観た。

ピカソに代表される20世紀絵画のあのキュビズムだ。

展示は、キュビズムを代表するピカソとブラックから始まり、キュビズムにも接近したシャガールやモディリアーニを含み、デュシャンを経て最後はなんとル・コルビュジエ(西洋美術館の設計者)まで含む(右絵:ル・コルビュジエ「水差しとコップ」館内撮影)。

そもそもキュビズムは、後期印象派でもあるセザンヌが源流で、絵画を構成する形態が円や三角形からなるという彼が示した形態の抽象化(本質化)を、セザンヌ以上に大胆に具現した絵画運動で、具象的形態の解体(ゲシュタルト崩壊)とも取れる表現手法だ。

なので、これらの絵を観るときは、元は何の形態かを探り当てる態度になってしまう(=ピカソの絵をセザンヌ段階に戻す)。
そして元の形態が判明すれば、判った気になり、判明しないと「わからん」という感想になる。

今回の展示で私の誤解が判ったのは、キュビズムの絵は決して抽象画ではなく、具象画(の極北)であり、抽象画はキュビズムに続く次の発展形であること。
なぜなら、キュビズムの絵の題材はあくまで具象的な静物・楽器・人物であるから。
※:静物画は卓上の果物などを描くものだが、キュビズムのそれは20世紀らしく新聞が加わり、解体した形態の中に新聞の文字だけが意味を備えた形態として存在感を放っている。
すなわち具象画/抽象画というのは、表現手法ではなく、絵の対象についてのものだ。
確かに、表現手法に当てはめると、幼児が描いたママの顔の絵も(写実性が全くないという点で)抽象画に分類されてしまう。
抽象画は、表題が「コンポジション」となるように(モンドリアンの絵が典型)、対象が抽象的なのだ。

ということなら、キュビズムの絵に具象的な形態を探る観方は間違ってはいないようだ。
ただこの観方は、画家があえて解体した形態を頭の中で再構成することだから、絵の表現を受け入れたことにはならない。
そこに新たなる美(表現)を見つける必要がある。

実は我々は、普通に具象的な風景の中に抽象的な形態・色彩の美を見出している(富士山の形態が典型的だし、写真を撮る際は、構図を形態の配置としてセザンヌ的に構成する)。
となると、あえてキュビズム的な表現にこだわる必要もなくなってくる(現代画家がピカソやブラックの後継者である必要はない)。
そのようなキュビズム運動の盛衰を概観できた。


山岡荘八『徳川家康』第1巻を読む

2023年08月21日 | 作品・作家評

8月中の業務・仕事を終えて、気分転換にと手にしたのは、山岡荘八の『徳川家康』第1巻。
この作品、世界最長の小説で、全26巻ある。

なので私も多くの人と同様、第1巻を開くことに並々ならぬ勇気・覚悟を要した。
もちろん、一旦読み始めたら、いつ終わるかわからない話に延々と付き合っていかねばならないから。
本作品は新聞小説だったこともあり、著者が書き上げるまでに18年を要したという(第1巻あとがきより)。

こういう常軌を逸した大長編は、日常生活下ではなく、長期入院用にふさわしい。
それ用にまずは中里介山の『大菩薩峠』が候補だったが、せっかく長期間付き合うなら、架空の剣豪ではなく、日本史上最大の傑物たる徳川家康の方がいい。

ただ文庫本でも26冊揃えるのは場所を取りすぎ(幾度も読む本なら本棚にしまう価値があるが、この小説は一生で2回は読めない)。
この理由だけで、この作品を読まないことを正当化できたが、今では電子書籍になっているので、この理由は使えなくなった。
それに、この世界最長の大長編を読んだとすれば、それだけで人生の思い出になり、他人に自慢もできる(暇人と呆れられるかも)。
という幾つかの理由もあって、とりあえず第1巻だけ、電子書籍で購入していたのだ。

読んでみた第1巻は、主人公の”前史”にあたる父母の時代の話が中心だった(主人公も誕生するが、まだまともに喋れない)。
特に家康の母である於大の方(おだいのかた)が主人公扱いで、これは私にとっては嬉しかった。
数ある戦国武将の中で、その母親に存在感があるのは珍しい(今川義元の母は別格)
しかも家康を産んでまもなく離縁されて、我が子との関係が一旦は断たれる。
その不幸な顛末がこの巻の主な内容だ。

ということでそれなりに満足して第1巻を読み終えたが、問題は第2巻に進むかどうか。
歴史小説として、登場人物の内面なども描かれていて、その点は”文学”として読みでがあるが、一方で史実でない人物を登場させるなどのフィクション性があるので、”歴史”を味わうには不要な部分がある(これは他の作家作品でも同じ)。

煎じ詰めれば、学術書と違って、小説を読むのは”暇つぶし”だ。
長大な時間を費やすことがわかっている1つの暇つぶしに取り掛かるのは、今の時点でも勇気・覚悟がいる。
そもそも研究者として現役のつもりなので、読むべき学術書だけで目白押しで、気分転換こそあれ、つぶすべき”暇”などない(はず)。
今回の気分転換もこの1冊分で終わる。
でも人生で1回経験できるかどうかの挑戦の機会でもあるし…
まだ迷っている。

後日追記:1巻を読み終えた段階で、2巻に手を伸ばしたくなったが、26巻まで手を伸ばし続けるには、時期が熟していない。長期入院という機会も訪れる保証はないので、とりあえず定年退職後という機会を待つことにした。


加門七海『うわさの人物』が示す霊能の性差

2023年04月23日 | 作品・作家評

加門七海著『うわさの人物—神霊と生きる人々—』(集英社)という本は、日本各地(青森から沖縄まで)の9人の霊能者とのインタビュー集で、だいぶ前の2007年出版だが、私自身がこういう世界に接近したのが最近なので、出会ったのが先日となったのは致し方ない。
※:著者の一連の著作『うわさの神仏』をもじったタイトル.

心霊科学や超心理学、あるいはスピ系の理論書・実技書にはない、市中で活躍している霊能者のナマの声がとても参考になった。

とりわけ、霊能の男女差に関して、女性の霊能者には身体を駆使した苦行は無意味である、という主張は、霊能を体現してきた当事者だからこそ言えるもので、さらに根源的な謎である卑弥呼などシャーマン(ユタ、イタコ)がなぜ女性ばかりで、逆に山野を駆け巡る行者がなぜ男性ばかりなのかという現象の理解にも通じる。

インタビュー対象のある女性霊能者は、水垢離などの修行をしてみたが、バカらしくなってやめたという。
これらの修行が自身の霊能にとって全く無関係であることがわかったためだ。

実際、誰でもが修行さえすれば霊能が得られるというものではないことは明らかで、
霊能は肉体を痛めつける修行では得られない、という冷徹な現実を突きつける※。
※:そんなことは、そもそもお釈迦様が実感していて、そのために”中道”の道を説いたのだが、どうしても苦行したがる人(♂)がいるもので、修験道は苦行に回帰した。天台宗の千日回峰行はその極限(苦行者の憧れ)。

別の女性霊能者は、女性は一瞬でトランス状態に入れ、基本的に快感でしか能力を高められないという。
苦行はマイナス効果しかないというわけだ。

女性には最初から神性が内在しているのだろう。

一方、2名の男性宗教家が語った(男性にとっての)山修行の意味については、私自身の問題として参考になった。
語り主は、性別を特定せずに語っているが、本題の視点でいえば、”男性”にとっての苦行の意味の問題になる。

かつて山に行く意味を喪失しかけた私にとって、新たな意味づけとして、修験道の”峰入り”すなわち行としての登山に開眼したわけだが、このような修行志向そのものが男性的嗜好であるわけだ。

上述した女性霊能者は、男性はトランス状態に入るのがヘタで、そのための手段として苦労して行をせざるを得ないという。
男は、自分を高めるのに、自分を痛めつけ、自己否定という自己超越の果てに初めて、他なる神性に出会えるのだろう。

それゆえに、著者は女性ながらも、大峰山・山上ヶ岳の女人結界の存続に肯定的となる。
なぜなら、修行が本質的に不要な女性にとっては、山修行の聖地である大峰山のその一角だけ禁足となることはなんら不都合がないから。
対して、男性の行者にとって、女人禁制の空間を設けることがストイックな修行上貴重な空間になることを、著者は理解しているから。
私は、ここの女人結界を性差別思想の名残としてのみ理解していたが、本書によって異なる理解が可能となった。

以上の性差は、雄(♂)という存在が本質(生物)的に”疎外態”であることと関係していると思われるのだが、ここではその方向に議論を持っていくべきではないので、別の機会にする。
※:存在の中心・本質から弾き出されて生きていかねばならぬ状態。その劣等コンプレックスの反動形成として、自分達こそ存在の中心・本質だと思い込もうとした(男(man)=人(man)).

もうひとつ、前々から気になっていた「狐憑き」という日本固有の憑霊現象についても、
ある女性霊能者によれば、動物の狐が本質的なのではなく、神の使い(≒眷属)の練習によるものという意味づけで、他者からはおかしな言動に見えるものの、本人の霊能発現に繋がり、あながち否定的現象ではないという話が参考になった(従来の対応は、憑いた狐を落とすのに必死になり、文字通り本人が絶命する場合もあった)。
この問題については、同じ年に出版された『日本人はなぜきつねにだまされなくなったのか』(内山節、講談社)を読んでいたので、狐という特定動物固有のパワーの問題ではないという理解が進んだ。


『謙信越山』を読む

2023年01月03日 | 作品・作家評

毎年正月三が日は、仕事は一切せずに、読む本は歴史、とりわけ関東戦国史の書を読むことにしている。

今年読んだのは、乃至政彦著『謙信越山』(JBPress)。
すなわち越後の上杉謙信による関東遠征(越山)に絞った本。

謙信は自らの意思で越山を繰り返したのではなく、北信濃(川中島)の関わりと同じく関東側の要請に応じたまでのこと。

なので、それを招いた側の関東の諸将(簗田晴助、里見義堯、小田氏治、太田資正)の記述から始まるのが、従来の謙信本にない特色。

実は、関東戦国史の主役たる彼らの情報の少なさが既刊書の不満点だった。
本書では、上記の諸将個人に焦点を当てた記述が、混沌とした関東戦国史の中で煌めく個性の紹介となっている。
実際、本書の帯には、「冲方丁氏絶賛!!『歴史の WHYに挑む波乱万丈の東国史に感服!このまま映画化されてほしい程とにかく面白い!』」とある。

本書のミソは、越山の動機を、従来的解釈である上杉憲政の依頼(管領職および上杉家の継承)に基づくよりも、京で出会った関白・近衛前久の誘いを重視している点。
それゆえ前久との離別が、謙信の関東への執着を解除し、小田原北条氏との和議(と北陸道への転進)を導いたことになる。
実際、謙信は幾度も越山してその都度関東を蹂躙したが、関東の経営(支配)には関与が低かった。
また、謙信本人についての、妻の有無・女人説・敵中突破・敵に塩を送る・越山の略奪目的説・死因なども史料に基づいて解明を試みている(謙信の特異なメンタルを理解するポイント”出奔”についても論じほしかった)。
歴史書が史料に基づくのは当然のはずだが、一部にそれを無視して個人の”常識”で論じる(「〜であるわけがない」などの言辞)著者もいることは確かで、本書は史料を駆使して脚注も膨大となっている。

本書は、謙信本人のみならず、上述した関東諸将などを個性的に捉えている点で、映画化可能というのも頷ける。
ただ、それにしても、結局謙信の越山は、謙信自身にとっても、関東諸将にとっても、そしてそれに対抗した小田原北条氏にとっても、結局は何も解決せず徒労でしかなかったということで、虚しさだけが残るのも確かだ。
映画化する場合、ラストの締め方が気になる。


池上彰・佐藤優『日本左翼史』3部作

2022年08月01日 | 作品・作家評

ネットの名言に「若い時に左翼でなかった者は正義感がない。おとなになって保守にならない者は責任感がない」というのがある。
私自身、若い頃(学生時代)は、左翼にシンパシーを抱いていた。
高校の授業でマルクスの「共産党宣言」に接し(教師の政治嗜好によるのではない)、大学生となって岩波文庫のマルクス哲学の書を読み漁ったが(ただし経済学に興味をもてなかったので『資本論』は読まずじまい)、暴力主義的な新左翼セクト、それ以上にソ連・東欧の実態に失望したため、急速に左翼から離れていき、やがて保守になっていった。
※形而上学的でないので読みやすかったという理由もある。

そこで改めて、池上彰と佐藤優との左翼史についての対談形式の『日本左翼史』3部作(講談社)を読んだ。
それぞれ「真説」(1945-1960)、「激動」(1960-1972)、「漂流」(1972-2022)と題打つ。
3冊一気に読み進めることもできるが、私でさえ「真説」は前時代の話なので、本当に「史」に興味がある人向け(ただしここを読まないとその後の展開の原点が分からない)。
多くの人にとっては、3冊目の「漂流」が同時代史といえ、2022年のロシアのウクライナ侵略も射程に入っている。

そもそもこの本を出す理由が、まずは唯一残った左翼政党である日本共産党が今年で結党100年を向かえるので、自党中心に左翼史を書き換えられることに対する危惧があり、その先手を打つため。
なぜなら、共産党がこれまで左翼の中心に位置していたわけでははく、共産党自身も変節を繰り返してきた(2022年においても)。
左翼が共産党だけになると、現共産党(執行部)に不利な歴史的言説はすべて封殺されることになりそう。
すなわち、共産党以上に左翼の主役を担ってきた日本社会党の歴史(衰亡史)、それに反日共系の新左翼セクト(革マル、中核、赤軍など)たちを抜きにして日本左翼史は語れないため。
※:今となっては見る影もない絶滅寸前の「社民党」の前身。

もっと幅広い目的もある。
衰亡する左翼をあざ笑うのが目的ではなく、むしろその逆で、
左翼そのものの退潮による政治・社会のアンバランス化に対する危惧がある。
このままでは、左翼(=マルクス主義)が堅持してきた下層民の主役化と国家・民族主義を超越する国際主義への芽が摘み捉えてしまう。
そういう意味で左翼は復活すべきといい、そのために過去の過ちをきちんと反省(自己批判)するための書という。

佐藤氏は、社会党の下部組織である「社青同」に属していたということもあって、社会党の内部事情にも詳しい。
生々しい話もたくさん出てくるが、元当事者であっただけに、論評が個人的想いに彩られる部分もある。

3冊目のあとがきで、同志社大学神学部出身でもある佐藤氏は、日本左翼は、イエスの唱えた”隣人愛”を神なき状況で実践しようとしたと結論する。
それを私は、愛ではなく、その裏返しである憎悪に由来する正義が原動力であったことの限界と不幸、と表現したい。

ただ左翼退潮現象は、”日本”に限定されるものではない。
左翼思想に代わって、他者に対する関心に乏しい”新自由主義”が跋扈しているのも世界的現象だ。

そもそも左翼における愛の欠如は、人類史を闘争史としか見なかったマルクスの視点に由来するのかもしれない。
ただ、マルクスは”多義的に読める”という氏の見解には同意できる。
マルクスに愛がなかったわけではない。
「共産党宣言」をする政治的アジテーターのマルクスではなく、哲学者のマルクスには、能天気なほどに人間性への信頼があった。
なのでマルクスが描いた共産主義社会は、憎悪が原動力の左翼人間ではなく、隣人愛に満ちた菩薩のような人間でないと実現不可能であることも証明されてしまった。
かくしてその人間観の甘さ(単純な善悪二元論)に限界をじた私は、人間心理の暗黒面を直視し、葛藤に苦しむ人間を前提としたフロイトに移行した。


ビートたけしの『教祖誕生』

2022年07月16日 | 作品・作家評

安倍元総理殺害事件以来、統一教会というカルト宗教の問題が再注目されている折り、信者からの集金システムとしての”教団”を戯画的に描いたビートたけし(原作・出演)の映画『教祖誕生』(1993年)を観直した。
※:原作も北野武ではなくビートたけし

内容は、旅行中の青年(萩原聖人)がそこで偶然出逢った新興宗教の新教祖になっていくもので、宗教好きな私にとっては、たけし作品の中では一番のお気に入り。

今回観直して気づいたのは、旧教祖(下條正巳)が、”手かざし治療”のパフォーマンス時に示した手印(ムドラー)。
この印を調べたら(↓参考文献)、摩醯首羅天(まけいしゅらてん)のものだった。

映画での教団は「真羅崇神朱雀教」という神道系(少し仏教要素も混入)の教団の形だが、上記の摩醯首羅天から”摩”と”羅”を選ぶと教団名の最初の2字と音がかぶる。
教団名の「真羅」は「しんら」と発音するが、ともに「マラ」と発音できるから、ここに作者のイロニー・遊び心が表現されているようだ。

その摩醯首羅天とは、元の音をマヘーシュバラと言い、元はヒンドゥー教の宇宙を統べる最高神を構成するシヴァ神に相当し、漢訳で大自在天ともいう。
※最高神だが、仏教内では天部(守護神)なので、仏道の本道を行く如来や菩薩より格下。その証拠に如来の化身である(降三世)明王にシヴァ神が踏みつけられている。
シヴァは破壊神としても有名で、インドではシヴァはリンガ(男根=マラ)によって祀られる。

そして映画では、「真羅崇神朱雀教」の影の支配者で、金儲けのために教団組織を利用するだけのビートたけし扮する男の名はなんと「司馬」(しば)
この司馬は、教団内で破壊者となる(司馬がシヴァに重なる象徴的シーン)。

宗教教団といえども、人間が構成する集団ゆえに避けられないドロドロした通俗性。
その通俗性を宗教教団は、独自の宗教的論理(地上天国、世界平和など牽強付会的辻褄合せ)で誤魔化す。
もっとも信者自身が、自身に内蔵する通俗的欲望をその高尚な論理に託して満たそうとする。

この作品が示したのは、宗教教団こそ、もっとも人間臭い場所だということだ。

内村鑑三が無教会派を通したのもうなずける。

参考文献:藤巻一保 『密教仏神印明象徴大全』 太玄社


吉本隆明の『反原発異論』を読む

2022年03月11日 | 作品・作家評

東日本大震災から11年目の今日、あえて吉本隆明の『「反原発」異論』(論創社)を読んだ。
※:よしもと・たかあき(私の周囲では「よしもと・りゅうめい」)。この本での紹介は「日本が世界に誇る文学者・革命思想家」。私は氏に影響を受けた世代よりやや下だが、『言語にとって美とは何か』『心的幻想論序説』『マス・イメージ論』などは読んだ。実は氏の居宅は近所で、自転車に乗る氏の姿を谷中銀座で目撃したこともあった。

11年前の福島原発事故直後、その時すでに各地のラドン・ラジウム温泉で放射線を計測してきた私は、当時次々と報告される放射線値について、このブログで解説をしていた。

あくまで放射線医学に準拠し、また日常生活での放射線量を計測してきた立場から、客観的に計測値を評価する姿勢を堅持していた点が、ネットでも評価されていた。
原発事故に対して、東電と政府には怒りを表明していた一方、政治的意図で危険性を煽る陣営には与(くみ)しなかった

問題は、事故を起こした原発対応が一段落した4月以降である。
世間は、「こりごり」という感情で、脱原発にどっと傾いた。
その気持ちはよくわかる。
航空機事故が起きた直後は、私でも飛行機に乗りたくない。
また遺族が飛行機を忌避し続けても理解はできる。
ただ、それでこの世から航空機を廃止せよとは思わない。

世間が、脱原発に傾く2011年、86歳になった吉本隆明は、独り敢然とその空気に異を唱えた。
老いてもなお視点をずらさない氏の面目躍如である。
文学者・革命家以前に、筋金入りの”化学者”であった吉本は、科学という人間の営為の進歩(問題解決能力)を信じ、そして宇宙の謎の解明に資する E=MC^2という、物質(M)からエネルギー(E)への転換メカニズムを手にした人類にとって、この核技術は絶対に推進すべきもの(ただし安全の確保を伴って)と主張している。

すなわち核技術は、特定の政治イデオロギーや一時的な気分で、葬り去るべきどうでもよいレベルのものではなく、人類史レベルの視野できちんと確実に手にすべきものと主張している。
もちろん能天気に礼賛しているのではなく、強大な技術を手にしてしまった人類の原罪として、それを背負って覚悟をもって制御技術を発達させるべきという。

時代の気分に左右されず、人類史レベルの視野でこの強大なテクノロジーに付き合っていくことを主張していたことを今更ながら知って驚いた。

こう主張して東日本大震災の翌年の2012年3月16日に87歳で亡くなった吉本は、最後まで「考え続けること」を実践してきた。
考え続けることこそ科学の探究に通じる。
吉本は人間の知力、知的前進を信じるという基本スタンスを貫いたため、人間(他者)不信を前提にした悲観論を批判したのだ。
マルクスやレーニンに準拠した「革命思想家」でありながら、いわゆる既存の左翼勢力と袂を分わったのも、彼らに巣くう”思考停止”癖と相容れなかったためだろう(逆にいえば、多くの”吉本信者”が氏についていけずに脱落していった。吉本が変節したからではなく、時代の気分(その時だけの正義)に阿(おもね)らない頑(かたく)なな吉本についていけなくなったのだ)

吉本の論から離れるが、そもそも原発は、核の”平和利用”という目的で推進された。
この”平和利用”とは、表向きは電力利用に見えるが、裏の目的は潜在的核保有能力の維持である(石油エネルギーの代替や近年の温暖化対応などの理由はすべて後付け)。
いうなれば、核実験をせず、核ミサイルを所持せずに、その能力を保持する、安全保障戦略である(国の安全保障の一環なら、民間電力会社にまかせる事業ではないのだが、表の理由が”電力の安定供給”であったため、電力会社に運営させた)。
だから、日本の軍事力強化の否定を最重要とする左翼勢力が、”反核・反原発”とひと括りにして反対したのだ(電力会社が原発の安全性をいくら強調しても、地域住民でない左翼勢力が反対の旗を絶対に降ろさなかったのはこのため)。

もちろん吉本の主張は、核技術が発電だけでなく兵器に使われることも認めた上での事である(核兵器に対する80年代の世界的な「反核運動」に対して、当時すでに『「反核」異論』を唱えていた)。

地球に住まう生物にとって起こりうる最大の危機は、白亜紀末期に起きたような巨大隕石の衝突であるが、それに対処できるのは核爆弾しかないのではないか。
こう思う私は、(視野が同じため)吉本の主張に基本的に賛同する。
ちなみに核廃棄物については、吉本は、宇宙に打ち上げて代謝(放射)させるという案を出している。宇宙線がばんばん飛び交っている宇宙では核反応は通常の代謝現象だから。かように吉本は宇宙的視野で核を眺めている。

現在の廃炉という文脈においても核制御技術の進歩が要請されている(たとえば半減期を短縮する技術開発が進行中)。

ただし、東京電力が原発を運営することには反対する。
それは福島原発事故を起こしたからではなく、その後の柏崎刈羽原発でのずさんな対応が明るみに出て、原発事故を起こした体質が依然改善されていないことがわかったから。


ロボットに意識を与える危険性

2022年02月27日 | 作品・作家評

M.ソームズの『意識はどこから生まれてくるのか』(青土社 2021)を読んだ。
この本は原著が2021年3月に出て、翻訳が同年8月という素早さ。
一刻でも早く日本人に知らしめたいという訳者(岸本寛吹史・佐渡忠洋)の意気込みを感じる。

著者のソームズは、神経科学と精神分析を融合した神経精神分析学会の創設者。
つまり、最新の神経科学とフロイト理論とを融合させようとするもの。
言い換えれば、フロイト理論は最新の神経科学の知見と矛盾せず、今でも有用であるとする立場。
そのポイントとなるのが、私自身が気になっていた「心的エネルギー」というフロイトの概念。
心的活動をエネルギー論的にとらえる発想は、今はフリストンの「自由エネルギー原理」で定式化されている。→関連記事
ソームズは当のフリストンと組んで、その数学的理論とフロイト理論を融合させようとしている。
ただここで紹介したいのはそこではない。

ソームズは、意識の本質現象を「感じ」(feeling)、外界の認知ではなく内発的な感情と捉えた。
そしてその中枢を脳幹に比定し、従来の大脳皮質主義を批判。
私がこのブログで紹介した”浅野・フリーマン理論”も大脳皮質主義を批判して意識の中枢を辺縁系(海馬や扁桃体がある)に置いたが、そこより根源的な脳幹(睡眠・覚醒の中枢と同じ場所)におくことは私の多重過程モデルと一致する。

ただソームズの理論はフロイトに留まる限界があり、浅野・フリーマンのようにトマス・アクィナスの”志向性”に意識の起源を見出した視野の広さがない。
さらに、最新の脳神経科学では、ニューロンだけではなく、グリア細胞の機能が着目されているのだが、そのグリアル・ネットワークが浅野にあってこちらのモデルに入っていない。

ソームズは「あなたが見ているものは外から受け取ったものではなく、脳が生成したもの」と看破したものの、視野がフロイトに留まっているため、意識を超越するシステム3やさらに超個的なシステム4への展望がなく、浅野のように”唯識”に向かうことがない。
そう、上の言説はとっくの昔に仏教の唯識思想で看破されていて、唯識はそこが出発点になっている。

かように私から見れば、フロイトに自縛しているがゆえのデメリットを感じるが、本書の中で唯一膝を打ったのは、意識の本質を感情におくことで明らかになる、ロボットに意識を与える危険性についての提言。
この提言こそ、この本を読んだ者が取り急ぎ世間に紹介したくなる。

もとより感情は、生物の生きる意志によるもので、個体として生き長らえ、複製を生産する生物固有の”志向性”に由来する(志向性は、単細胞生物の走光性などでも発現し、必ずしも意識で”感じ”られない)。
だからロボットに意識(感情)を与えることは、ロボットに生存本能(生きる意志)を与えることに等しい。
そしてロボットは、”肉体”は人間よりはるかに強靭で、記憶や演算能力さらに感覚センサーなどのいわゆる認知機能も人間をはるかに凌駕する。
このような心身ともに人間を凌駕するマシンに意識(感情)という生きる意志を付加しようとしている能天気、いや末恐ろしい科学者がいるのは、まさに図らずも人類に敵対する”ターミネーター”を造ってしまうサイバーダイン社(映画「ターミネーター2」)を地で行くつもりにみえる
※人間に反抗しないシステムをロボットに付加しても、生物として生きる意志を与えられれば、”自己組織化”によってシステム自体が能動的に改変される。映画「ジュラシックパーク」で、繁殖を不可能にしたつもりのクローン恐竜が、生物としての志向性により、繁殖可能に自己組織化したのと同じ。

ソームズは意識を工学的につくり出すことは可能としている(実際、早晩可能になるだろう)。
ただし、その場合、まず最初にすべきことは、機械の電源を切り、内蔵バッテリーを取り出すことだという。
そして非営利団体として特許をとり、技術を管理下におく。
そして有識者を集めてシンポジウムを開き、この意識をもちうる機械の電源を再び入れるか、検討をすべきと提言している。
※:ロボットに意識=生きる意志を付与することは、ロボットに生きる権利(人権)が発生することを意味し(リベラル派の人間が味方してくれる)、人間がむやみにスイッチをオフできないことになる。そしてこのロボットに付与された権利(生存権)がロボット自身の自己組織化(心の自立)を容易にする。

ここまで具体的に考えていることに感心したのだ。
サイバーダイン社的な営利追求の民間企業に、この恐ろしい技術を与えない措置を事前にとることが必要である。

意識をもったロボットというと「鉄腕アトム」や「ドラえもん」しか思い浮かばない能天気な日本人研究者の方に、私は前々から危険性を感じている。
意識とは何か、感情とは何かを理解せずに、安易に技術化してその機能を付加することのないよう、意識や感情を理解する者が率先して動くことが、社会的責務といえる(ソームズ同様に、技術の進歩そのものは否定しない)。


スウェーデンボルグという先駆者

2022年01月27日 | 作品・作家評

スウェーデンボルグというスウェーデン人は、スピリチュアル研究の先駆者として名前だけは知っていたので、きちんと知りたいと思い、高橋和夫氏の著作『スウェーデンボルグ—科学から神秘世界へ―』(講談社学術文庫の電子版)を読んだ。
以下、それを読んでの感想。

スウェーデンボルグ(地元の正しい発音はスウェーデンボリ)は18世紀のヨーロッパで活躍した人で、まずは科学理論家として、脳や心の科学の先駆者として評価される。

脳については、大脳皮質の機能局在性、右脳と左脳の機能分化、それに脳波活動を示唆した。

心については、『合理的心理学』という著作で、肉体、自然的な心(記憶、感覚、情動、本能)、合理的な心(判断、思考、想像)、さらには霊的な心(超意識)、霊魂という階層構造を言及した。
これには驚いた。

なぜって、私の「多重過程モデル(システム0〜4)」に対応しているから。
すなわち、システム0=肉体、システム1=自然的な心、システム2=合理的な心、システム3=霊的な心、システム4=霊魂、とぴったり対応する。
私のモデルは、既存(といっても21世紀)の「二重過程モデル」(システム1,システム2)を上下に拡張したものだが、なんと科学的心理学が誕生する(19世紀中葉)ずっと前の18世紀にほぼ同じモデルが提唱されていたのだ。
ということで、まずはスウェーデンボルグは心の「多重過程モデル」の先駆者でもある。
もっとも、「多重過程モデル」の先を行くモデルは、さらに千年前の弘法大師空海がシステム10にまで達するモデルを『十住心論』で構築しているが。

スウェーデンボルグの功績は、むしろこの後、既存のキリスト教批判を通した、普遍宗教の構想にある。
21世紀のスビリチュアリティも特定宗教に依存しないグローバルな視野を前提にしているが、スウェーデンボルグはキリスト教しか知らなかったにもかかわらず、キリスト教に潜むローカル性(非普遍性)、たとえばアダムの神話的原罪や”怒る”神の擬人性から脱して、恐怖に基づく善行ではなく、愛に基づく善行を説いた(彼は、カトリックもカルヴァン派もルター派も批判している)。
※愛は存在を支える宇宙原理であり、怒りのような人間的感情ではない。
彼なりに宗教をつきつめていけば、その原理は、①悪を避け、②善を行ない、③神を信じる(信頼する)というシンプルなものになるという。

これって、唐の詩人白楽天が仏教の真髄をある仏僧に尋ねたら、その仏僧が答えた「諸悪莫作 衆善奉行 是諸仏教」というセリフ(悪い事はするな、良い事をしろ、それが仏教)と同じ。
それを聞いた白楽天は、平凡な回答にがっかりしたそうだが、麻原彰晃やイスラム国が命ずる事よりもはるかに普遍性がある。
※:もっとも世俗道徳での善悪ではなく、宗教レベルの善悪(戒慄)を言っているはず。ちなみに仏教では「神を信じる」は不要。

だからスウェーデンボルグの宗教観は、それを知った鈴木大拙にとっては仏教とも共通したものと映り、彼をして日本最初のスウェーデンボルグの紹介者にした。

私も今後は、神道に潜むローカル性(日本民族にしか通用しない論理)を取り除いて、神道における普遍宗教性をアピールしていきたい。

なにより21世紀は、従来のユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、神道などがもつそれぞれのローカル性を乗り越えて、互いに異教徒視していがみあう必要のない、人類全体の普遍宗教に達するべき時期である。
このように特定宗教に依存しない視座が本来のスピリチュアリティ(霊性)であり、
その先駆者がスウェーデンボルグなのだ。


映画『八甲田山』で気づいたこと

2022年01月24日 | 作品・作家評

勝手ながら、1月25日を、明治35(1902)年に起きた青森県の八甲田山での199名遭難死事件を悼む「八甲田忌」としている(その理由→1月25日は八甲田忌)。

山を愛する一人として、世界最大の山岳遭難死事件を悼み、とりわけ若くして死んだ兵卒たちが眠る山麓の記念墓地には訪れるべき子孫がいないため、私がこの日に彼らの子孫に成り代わって冥福を祈るようにしている。

そしてまた、新田次郎原作の映画『八甲田山』を観ることにしている(3時間弱の長編なので数日に分ける)。
ただし、原作『八甲田山 死の彷徨』の時点で創作(まず人名がすべて変更)が入っていて、映画はさらに原作と異なる創作(女性案内人(秋吉久美子)に対する心温まる対応)が加わっている。
真実を伝えているのは、八甲田の資料館で買った『八甲田連峰 吹雪の惨劇』(小笠原孤酒著)など地元資料(それによれば”神田大尉”のやけっぱちになった集団自決への叫びは事実に基づく)。

創作であってもこの映画は日本映画史に残る名作なので、観るに値する(私はDVDを所有)。

八甲田忌を前にその映画を観て、改めて気づいたことがある。
23日に出発した青森五連隊210名が、麓の田茂木野村で小休止の際、村長からの案内人の申し出を拒否して自力で八甲田に入り込もうとする連隊を見ながら、村長役の加藤 嘉が「よりにもよって山の神様の日に…。命知らずのバカなまねにもほどがある!」と吐き捨てたシーン。

今までさして気に留めなかったシーンだったが、昨年末から山岳宗教の勉強をしていたので、「山の神の日には、山に入ってはいけない」という信仰が前提となっていることに気づいた(宮家 準『霊山と日本人』)。
この掟を破ってこの日に山に入ると、山の神は喜怒哀楽が激しいので、怒りを爆発する。

明治35年の1月23日が本当に山の神の日であったかは疑問だが、このシーンを入れたことで、青森五連隊の運命が暗示されたことになる。

ちなみに「山の神の日」に対する畏怖は、最近の映画『WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~』(矢口史靖監督)でも表現されている。

山への敬意にもとづく登山(峰入り)を志している私自身、山の怒りに触れないよう心がけたい。


心とは何か:浅野孝雄氏の著作紹介

2021年12月29日 | 作品・作家評

暮も押し詰まった29日、自室の大掃除が終ったので、今年中に書くつもりで残しておいた記事を仕上げる。

それは浅野孝雄氏の一連の著作の紹介。
氏は脳神経外科の医学者で、埼玉医大名誉教授。
世間的には”脳科学”と言われる脳神経科学の臨床的立場の研究者である。
いわば心の科学的研究の最前線で活躍してきた人。
その立場の人が「心とは何か」を問い続けていて、その一連の著作が私にとってとても参考になった。
以下の4冊を原著の出版年順に紹介する。


まず氏が訳したフリーマンの『脳はいかにして心を創るのか—神経回路網のカオスが生み出す志向性・意味・自由意志—』(産業図書、2011、原著は1999)から紹介すると、
フリーマンは心の基本作用を”志向性”とする。
志向性とは現象学よりずっと以前の(中世スコラ哲学の)トマス・アクィナスによれば、「身体の世界への突き出し」であり、
それは意識はもちろん欲求にも先行する、生命力の発現を意味する。
その志向性の人類における中枢は(海馬や扁桃体がある)大脳辺縁系であり、そこから運動系と感覚系(ともに大脳皮質)へ信号が送られる。
つまり、感覚(大脳皮質)が最初の経験ではなく、志向性が感覚を組織化し有意味化する(志向性にひっかからない感覚刺激はスルーされる)。
これら2つの経路が循環的な相互作用システムをなし、それが”心”であるというのがフリーマンの理論。

ちなみに、フリーマンも引用している、意識(気づき)は行動反応の神経活動のに経験されるというリベットの研究は、
すでに脳や心の研究界では常識になっている。
すなわち、我々は気づいてから行動するのではなく、脳内で行動指令が出た後に気づくのであり、
意識ができることはその開始されようとしている行動を停止することだけである。

また、心の中枢を大脳皮質(しかも前頭前野)ではなく、辺縁系においている点も新鮮。


そして浅野氏は、『脳科学のコスモロジー』(藤田哲也氏との共著、医学書院、2009)で、
脳神経科学の最新成果である、グリアル・ネットワークの役割を紹介する。
従来は脳の活動はニューロン(脳神経細胞)の活動と同一視され、脳の容積の半分を占めるグリア細胞はほとんど無視されていたのが、
最近になってグリア細胞はニューロンとは別個のネットワークを構成し、グリア細胞の1種アストロサイトのシナプス可塑性に対する役割が注目されている(アストロサイトはシナプス活動を背後から制御している)。
すなわち、従来型のニューロンのみの発想では脳活動の理解は不充分で、ニューロンとともに脳を構成するグリア細胞の理解が必須なのである。
残念ながら、フリーマン自身も年代の制約のためグリアル・ネットワークには言及していない。
※:グリアル・ネットワークだけ知りたいなら、毛内 拡(著)『脳を司る「脳」—最新情報で見えてきた、驚くべき脳のはたらき—』 講談社ブルーバックス、2020がお勧め。
この本を読んでから、私は集中する時、電磁ネックレスを頭に巻くことにしている。


つぎの『プシュケーの脳科学』(藤田哲也氏との共著、産業図書、2010)では、
心(psycho)の原語であるプシュケー概念の変遷から、心についての二元論的視点(プラトン、デカルト、科学)と相互依存性の視点(アリストテレス、ヘーゲル、ジェームズ、メルロ=ポンティ)の系譜を紹介し、
一方で脳におけるニューラル・ネットワークとグリアル・ネットワークの機能の比較から、前者を意識、後者を無意識過程に比定し、
両ネットワークの相互作用的統合の方向(すなわち氏自身は相互依存性アプローチに属す)を示した。


そして『(古代インド仏教と現代脳科学における)心の発見—複雑系理論に基づく先端的意識理論と仏教教義の共通性—』(産業図書、2014)では、
フリーマン理論と仏教、とりわけ唯識思想との照合が試みられた。
氏の探究の原点といえるフリーマン理論は複雑系理論をベースにしており、心という複雑系を語るにふさわしい論理系である。
さらに経験=心(脳)の中の過程=認識論的独我論とみなせるなら、それを精緻にモデル化している唯識に代表される仏教思想(当然、相互依存性の視点)が最適であるとして、それらを紹介している。


以上、最新の脳神経科学と複雑系理論と精緻な仏教心理学を統合する氏の視点は、心の多重過程モデルを構想している私にとって学ぶ点がとても多い。
※心の多重過程モデル:”心”を以下のサブシステムからなる高次システムとみなす私のモデル
システム0:覚醒/睡眠・情動など生理的に反応する活動。生きている間作動し続ける。
システム1:条件づけなどによる直感(無自覚)的反応。身体運動時に作動。通常の”心”はここから。
システム2:思考・表象による意識活動。通常の”心”はここまで(二重過程モデル)。
システム3:非日常的な超意識・メタ認知・瞑想(マインドフルネス)。体験可能ながら、体験せずに終る人が多い。
システム4:超個的(トランスパーソナル)・スピリチュアルレベル。ニュートン的物理法則を超える量子力学的サイキック・パワーの領域?体験できる人とできない人に分かれる?


氏が心のアプローチとして(心理学ではなく)”現象学”を置いているのも、私と一致する(私にとっては現象学=心理学のつもり)。
まず脳神経科学という氏の専門は、多重過程モデルにおいては特にシステム0〜システム2の低次過程の理解の参考になる。
ただし、システム0の中枢は辺縁系というより視床下部を含む脳幹であり、心の概念は私のモデルの方が広い。
一方で氏は、慈悲の根拠の論考で(私自身、仏教における慈悲の論拠に釈然としないものをもっていた)、
慈悲の出所を個我を超えた超越的な精神(スピリチュアリティ)に見出していることで、
システム4に繋がっている(通常の自我意識(システム2)と超個的精神(システム4)を仲介する過程として、
私のモデルにはシステム3があるが、氏は仏教にまかせているようだ。確かに仏教の行でシステム3は創発される)。

心の多重(複雑)過程における脳神経科学的根拠、そしてトランスパーソナル(超個)的過程まで視野に入っている点で、
私にとってこれほど視野が一致する理論は他にない(自分の進んでいる方法が決して間違いではなかったと安堵した)。
ただし読みこなすにはそれなりに敷居が高いので、少なくとも複雑系理論の基本概念(アトラクターなど)は知っている必要がある
※複雑系理論の基本参考書:吉永良正(著)『「複雑系」とは何か』講談社現代新書


ユーザーイリュージョン:意識という幻想

2021年09月11日 | 作品・作家評

最新の科学をきちんと解説してくれる科学ジャーナリストは貴重な存在で、この『ユーザーイリュージョン』の著者トール・ノーレットランダーシュはデンマーク人ながら、国際的な活躍をしているようだ(デンマークというとヨーロッパでもマイナーな印象だが、実存哲学者キルケゴールを輩出し、量子力学の中心地にもなっている)
和訳(柴田裕之訳、紀伊国屋書店)で500ページを超えるこの本は、電磁気学のマクスウェルから始まり、情報理論のシャノン、数学者のゲーデル、そして脳内の0.5秒の遅れを明らかにしたリベット、あるいはこのブログでも紹介した意識は3000年前に発生した説(→その記事)のジェインズの研究を紹介している(ジェインズの説を補強するものとして、ヨーロッパでは西暦500-1050年の間も意識は消滅したという説が紹介されている。これがいわゆる”中世の暗黒時代”)。

論点は多彩ながら、メインは、我々が自分自身だと思っている意識(自我=私)が、いかに「自分」の上澄み部分でしかないかを(フロイトやユングと異なり)科学的に説いている。

最も分かりやすいのは、意識の情報量と感覚の情報量の比較の箇所。
意識というのは、注意集中という情報の選択(=捨象)を伴うものであるから、感覚より処理する情報量が少ないのは当然だが、bit換算すると視覚情報においては百万分の1にすぎないという(他の感覚相ではそれほどではない)。
われわれが絵画や映画を幾度観ても見飽きないのは、意識が一度に処理できる情報量があまりに少ないためである(観るたびに発見がある)。
逆にテキストは一読で情報が100%伝わるので、繰り返し読む必要がない。

著書は1997年発行なので、21世紀の「二重過程モデル」以前、ましてや私の多重過程モデル以前なので、意識とそれ以外(補集合)という二元論的発想段階ゆえ、多重過程モデルから見ると「それ以外」が未整理(システム0,1,3が混在)だが、二重過程モデルでのシステム1とシステム2に置き換えると、システム1の情報量はシステム2の情報量の100万倍ということになる。

要するに、心を構成している2つのシステムがあるのに、システム2だけに依存していることがいかに非効率的かということだ。
たとえば「意識による管理がないときに、最高の頭脳労働がなされることがある」、「人生は意識していない時のほうがずっと楽しい」という。

ちなみに、表題の「ユーザーイリュージョン」とは、「パソコン」のコンセプト(パソコンは計算機ではなく、パーソナルでマルチなメディア)の提唱者アラン・ケイ(マーシャル・マクルーハンのメディア観をスティーブ・ジョブズに伝えた仲介者)の用語で、本来は複雑なブログラム(マシン語)で動くコンピュータをユーザーにはそれを意識させずに、日常的な発想(たとえばファイルやフォルダーなどの文具)で反応するマシンと思わせる仕組みのこと(それを製品として最初に実現したのがApple社のMacintosh。私がマカーであり続けているのも、アラン・ケイの「パソコン」コンセプトに共感しているから。ビル・ゲイツにはこういう哲学もジョブズのような美意識もなかった)
著者は、意識そのものも、感覚経験のほんの一部を概念的に解釈しているという意味で、ユーザーイリュージョンにすぎないという。
ちなみに、ユーザーもイリュージョンもない状態が「瞑想」だという(これは多重過程モデルでは「システム3」として明確に位置づけている)

著者は、意識がいかにわれわれから世界を切り離し、自己疎外をもたらしているかを説き、意識を自己と同一視している(3000年来の)現代人の在り方に警鐘を鳴らしている。

だがこの問題(意識の幻想性)は、すでに2000年前の大乗仏教で指摘されていることで、だから仏教はシステム2に依存しないためにシステム3(瞑想)を主たる行としている。
私の多重過程モデルでも、ここでいう意識(システム2)は、システム0〜システム4の中の1つ(心のほんの一部)にすぎないという相対化がベースとなっている。

だが未(いま)だに意識を自己(私)と同一視している人は多いだろうから、この本の存在価値は衰えていない。
なにより、意識現象を脳科学の世界に閉じこめず、情報理論や数学(非線形数学、カオス理論など)で論じることで、科学一般の現象として扱っている視点がいい(先に紹介した自由エネルギー原理もそれに該当する)。


『菜根譚』の知恵

2021年09月02日 | 作品・作家評

心理学の知識は、メンタルヘルスなどには役立つが、残念ながら”人格の陶冶”には向かない。
人間の完成を目指すには、参考になるべき人類の知恵といえる書物がたくさんある。

その代表は東洋では『論語』だが、それと並んで江戸〜昭和の日本人に影響を与えたのが『菜根譚』だという。
本書(『菜根譚コンプリート』野中根太郎訳・解説 誠文堂新光社)の前書きによると、著者である洪自誠は明末の人で(徳川家康と同世代)、まず中国で刊行され、それが日本に伝わって加賀藩の儒者・林蓀坡によって復刻版が広められ、結局、地元中国よりも日本人の精神性に深い影響を与えたらしい(菜根譚の愛読者:新渡戸稲造、五島慶太、田中角栄、野村克也など)。

著者・洪自誠は、儒家を任じているが、道教(老荘の教え)と仏教(特に禅)の視点にも立って、東洋の知恵をバランスよく配置している。 
このバランス感覚は、ややもすると常識的な適応主義に見えてしまうが、威勢のいい極論に走らず、また高尚すぎて実践困難な理想主義でもない、等身大の行動指南を与えてくれる。

まず感心したのは、すでに500年前からパワハラを諌めていること。

「厳に難からずして悪(にく)まざるに難し」(厳しい態度で接するのは易しいが、人格を否定するのは難しい)、とパワハラ・モラハラになりがちな事は認めている。
だからこそ、慎まねばならない。
どうすればいいか。
「人の悪を攻むるは、はなはだ厳なることなかれ、その受くるに堪えんことを思うを要す」(人の悪を責めるときは、厳しすぎてはいけない。相手が受け容れられる程度を考えよ),ということである。
パワハラが日常化していた昨今の日本を見ると、本書の教えは庶民の間には浸透していなかった事を痛感する。

それから共感したのは、突き詰めない、満ち足りた状態を目指さないという態度。
「花は半開を看、酒は微酔に飲む」と、楽しみに溺れない(満開の桜の下で大酒飲んでどんちゃん騒ぎをしない)。
これは小笠原流礼法における「残心」に通じる(まだ居たいという心が残っているうちに訪問先を辞去するのがよい=まだ居てほしいと家人が思っているうちに客は帰るのがよい=互いに名残惜しい気持ちを残して別れるのがよい)。
まずは節度を守るわけだが、かといって節度を守ることを自己目的化しない(「操守は厳明を要して、しかも激烈なるべからず」)。

もちろん禁欲を勧めいてるわけではなく、
「欲にしたがうも是れ苦、欲を断つも亦た是れ苦なり」と、そのどちらにも傾かない釈尊の”中道”を紹介している。

基本は精神の自由を謳歌し、「家庭に個の真仏有り、日用に種の真道有り」(家庭に一個の仏がおられ、日常に一種の道がある)と、俗世間の中に道(タオ)を見出し、隠遁主義・超俗主義の自己満足性を批判する。

それでいて「安きに居りて危うきを思う」と、日頃の防災の心得もできている。

人格の陶冶を目指すのはいいが、高尚さが出過ぎるのもよくないという。
さすがバランス感覚。
「行誼は宜しく過ぎて高かるべからず」とあり、行誼を行儀と読むと、礼法の話になる。
小笠原流礼法の教えに「躾とて、目に立つならばそれも不躾」とあり、正しいからといって作法通りの所作をこれ見よがしに示すのは、場の雰囲気を壊し人に違和感を与えるという理由で、高次の不作法とされる。
正しい作法は、”作法が見えて”はいけないのだ。

あと自分の心に響いたのは、「水木落ちて石痩せ崕(がけ)枯れて、わずかに天地の真吾を見る」ということば。

茶の湯の祖・珠光の美意識「冷凍寂枯」は、利休的な「和敬静寂」に比べて理解しにくいものだが(わが小笠原流の茶は珠光直系)、
このことばによって、花も葉も落ちた冬枯れのその姿こそ、余分なものをすべて削ぎ落とした真実の姿であり、一見最も美から遠いそこにこそ美を見出せ、ということだとわかる。

本書のような箴言集は一気に読み進めるべきものではなく、
日めくりカレンダーのように、一日一文ずつじっくり"噛みしめて味わう"のがいい(なので”菜根”譚)。

 ただし、原文(漢文)の書き下しだけでは、現代日本と表現が異なるため、意味が通りにくい。
本書のような、用語解説と現代語訳が必要。