今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

日本語キーボード

2008年04月19日 | 雑感
学内の一室にiMacを設置してきた。
最新のiMacはさすがにかっこよく、MacBookユーザーの私もつい欲しくなってしまう。
でも、わがノートパソコンは研究室内ではモニターとキーボードを外部につなげてデスクトップとして使っており、ノートパソコン主体のこの使い方の方が実用的にすぐれてる(何しろ、パーソナルなコンピュータ=携帯できるノートタイプなのだから)。

それにしても思ったのは、かっこいい最新デザインのキーボードなのに、なぜ相も変わらず「かな」がついているの?

今や、自治体でのお年寄り向けのパソコン講座でも、ローマ字入力を教えているというのに。
JIS配列の「かな」を使うなんて大昔の和文タイピストだけでしょ。

かっこいいキーボードに、誰も使わない「かな」が表示されているだけで、デザイン的にうざくなる。
だから、「かな」なしの英字キーボードも売られているのだが、これはまさに英語圏での製品なので、全体的なキー配列が日本語キーボードと異なって使いにくい。
われわれが欲しいのは、「かな」が刻印されていないローマ字だけの日本語キーボード!

もちろん、機能キーの配列などをカスタマイズできるものも売っているが、キーボードそのものの魅力が乏しかったら買わない。
そういう「変わり種」としてではなく、メーカー純正のキーボードが「かな」無しをデフォルトにすべきでしょ。
どうしても「かな」で打ちたい少数派にこそ、そういう「変わり種」を提供すればいい。

士への道

2008年02月29日 | 雑感

「もんじろう」という言葉・方言変換サイト(http://monjiro.net/)では、今「武士語」変換が一番人気がある。
たしかに、武家言葉(武士語)がもっと抵抗無く使えるようになるといい。

今しがた読んでいた深谷克己著『江戸時代の身分願望―身上りと上下無し』(2006年 吉川弘文館)の「あとがき」にこう書いてあった。

「ここ何年来、サムライ、武士、武士道などの言葉がよく使われるようになった。
歴史への関心の深い底には、不安感とか未来への怯えのようなものがあるという理解に立てば、そのことは、自分を何らかの自己規定や形ある形姿に鎧(よろ)いたいという、大げさにいえば主体形成への願望が奥底にあることの表現であろう。
「士」という文字が誇りの自己意識を与えることは、近年末尾に「士」をつける社会的資格がふえてきていることからもあきらかである。」

たしかに、日本人として誇らしいアイデンティティを求めるなら、その行きつく先は国際的にも人気ある人間モデルである「武士」だ。
かくいう私も、少年期には父からの”武士教育”に反発していたが、いつのまにか自ら武家礼法に携わっていくうちに、それなりの(非暴力的)武士道に目覚めてしまった。
それだけでなく、「気象予報士」にあこがれ、今ではそれをアイデンティティとして誇りとしている自分を思うと、深谷氏の指摘にあらためて、「それがしはもうすでに”士”になっているではないか」と気づかされた。
あとはよりいっそう武家礼法を身につけることだな。


不可解なトラックバック

2007年10月01日 | 雑感
自分のブログサイトに来る、コメントやトラックバックで、
品性を欠いたものと業者の宣伝は載せずに削除している。
最近きたトラックバックに、ベネズエラの治療薬のサイトからのがあった。
しかも貼られたのは、ずっと以前の2006年の節分の記事(別窓表示)
私の記事は日本語なので読めないだろうし〔読めたら健康問題とは無関係とわかるはず)、そこの写真に反応したのかな。
まともなサイトみたいだが、業者の宣伝サイトであることにはかわりないので、貼らなかった。
ちなみに、以前は健康問題を載せたりすると、業者からトラックバックを貼られたものだが、
自己紹介の欄に”その手のトラックバックお断り”の旨を書いたら、ほとんど来なくなった。

怖いもの見たくなさ

2006年12月10日 | 雑感
以前、このブログで正体がわかった「肉の蝋人形」(9月7日、ジャンル「雑感」)のDVDをネットで購入したのだが、
なかなか観れないでいる。

そもそもホラー映画って趣味じゃない。
以前、評判を聞いて「リング、らせん」のDVDを自宅で観たが、映画館で観なくてよかったと思ったし、再度観たいとも思わない。
恐怖心だけを喚起するヤツってどうもね。
そんなに恐怖心に浸りたいとは思わないから、楽しめない。

でも一番好きなジャンルは、自然災害パニックもので、これも確かに死に瀕する恐怖シーンが売りともいえる。
それにフランケンシュタイン以来の異形の怪人・怪獣・異星人ものも大好き。
単純な恐怖というより、対象が畏怖すべき神秘さを秘めていないと不満なのかな。

実は、先日仕上げた論文のテーマが「恐怖感情」。
そこでもホラー映画のような実際の危険を伴わない恐怖(これを”純粋な恐怖体験”と規定。?と思う人はもうじき公開する論文を読んで)を率先して味わう心理を問題にした。でも自分自身がそのようなタイプでないので、解釈が難しかった(精神分析でいう「対抗恐怖」とは異なる)

ちなみに、自分のケータイには、お化け探知器ストラップ「バケタン」をつけている。

BOSEのサービス

2006年07月25日 | 雑感
ノイズキャンセリング・ヘッドホンに目がない私は、その最高峰ボーズ社の QuickConfort2を一番愛用していた(我がHPの「おれんちの世界」>「イチ押し製品」参照)。

でも屋外で持ち歩くヘッドホンとしては耐久性に欠け、頭にかぶせるプラスチックのアーム部分が力に負けて破損。
テープで補修していたが、それもダメになって、もうイヤーカップがぶらぶら状態。
これじゃ使えない。4万円もするのでそう簡単に買い替えるわけにはいかない。
修理できるかどうか確認しようと、土曜に秋葉にあるボーズのショールームに持ち込んでみた。
見せたら、修理可能だという。
でもとっくに保証期間はすぎているので、有償を覚悟。

火曜の朝、ボーズ社からの宅配便が届いた。
開けてみたら、外見が違う。頑丈になった最新製品に取り換えられていたのだ。
そして輸送費はもちろん、修理費・部品代も無料。
本来、製造上の問題であったともいえるが、太っ腹のサービスの良さにうれしくなった。
これでまた、リスニングルームを持ち歩ける。

速読の価値

2006年04月15日 | 雑感
昔、速読の教室に通ったことがある。
結局思ったのは、
速読トレーニングで速く読める本て、実はそもそも読む価値がないのかもしれない、ってこと。
そういう本は速読することさえ無駄だったりして。

綿密な思考過程をトレースするために一字一句を吟味して精読する必要のある哲学書や、何度も読み返す必要のある数式が多い理系の本。そういうじっくり読むに値する本こそ、価値ある本ではないか。
現代数学の書や微分方程式がずらずら出てくる理学書を速読できる人、いる?
私が速読に求めたのはそれ(高度な学術的知識・思考を簡単に頭に入れること)だった。
別に速読が無意味だとは言っていない。
世の中の大半の本は、速読で済むだろうから。
(あと読んでいることを楽しむ文学書も速読したくないよな。)

忘れ去られる人々

2006年04月10日 | 雑感
実家近所の桜の名所を散歩しようと、昨日は谷中、今日は染井(ソメイヨシノの発祥地)に行った。
どちらとも広い墓地だ。なので桜以外に墓にも目が行く。
けっこう立派な墓が手入れされずに荒れつつある。
昨年から、小笠原氏やウチの先祖の墓参りに行くようになって、身近な無縁仏を目の当たりにしてきた。
これは山根や寺島家だけの問題ではなく、日本全体が、
少子化によって家の墓を受け継ぐ者がいなくなっていることを意味する。
2つの家の一人っ子同士が結婚して1つの家になるとすれば、それだけで残る家は半減する。
更に家でなく個人の墓だと(有名人でないかぎり)、絶対に継承されないのでもっと悲惨(管理者には邪魔)。

あと谷中や染井などの大きく歴史のある霊園には、江戸時代からの碑がたくさん建っている
(曽祖父の碑に出会ってから、にわかに碑に関心をもったわけ)。
それらは個人(儒者や医者など)の業績を讚えたものだが、
その碑を読む人がまったくいない(花見客はなおさら)。
確かに碑文は漢文(白文)で句読点もないから読みにくい。
さらにこのままだと風雨にさらされて物理的に判読不能になる。
故人に対する特別な思いやエピソードを刻み込められた碑は、
歴史的にも意味があろうし、まずはその思いを知りたい。
霊園に建つ碑ひとつひとつを、読み下して解説してくれると、
その故人や建てた人の思いを忘れないで済むのに。
本ではなく、碑の横に解説板があるといい(碑として公開しているんだから個人情報は問題ないはず)。
こういうことやってくれる NPOとかないものか。

憂鬱のゆくえ

2006年04月06日 | 雑感
新年度の業務が始まった。
といっても新入生の”交流遠足”という、親睦のためのお遊びの付き添い(大学でも遠足がある)。
私にとっては移籍先の教員との交流でもある。
他者との”交流”、すなわち自分の関心を他者に照射し、他者の関心の照射を受けることは、他者と気分を交流することであり、一人の時に感じた私だけの憂鬱という気分を変えてくれる。
憂鬱の対象である”他”(自己に覆いかぶさってくる非自己)なるもの。
他者が、その”他なるもの”に私と共同で立ち向かってくれる時、私は憂鬱ではなくなっている。
憂鬱を忘れさせてくれるのは、時間そのものではなく、他者であったのか。

ただ、他者が”他なるもの”でしかない場合、その他者は私をよけい憂鬱にさせるが…。

春の憂鬱

2006年04月04日 | 雑感
春(4月)は憂鬱だ。
春という気候のせいではなく、年度が変わるという社会的変化のせいで。
前の年度との別れがつらいのではなく、新たな年度が始まるというプレッシャーのせいで。
また1から始めなくてはならないという、むなしさ・おっくうさ。
特に教育現場だと、学生ががらっと入れ替わるので、昨年の労働の蓄積感がない。

もっともこの憂鬱も、始まりを前にしている時に感じるのであり、
実際に業務がはじまってしまえば、忙しさに没入して忘れてしまうだろう。
時間に流され、時間とともに走ることで。

この憂鬱はその時間の流れ(忙しさ)に飛び込むことに臆していることなのか。
自分の何かが時間に奪われることを悲しんでいることなのか。

憂鬱になっていない時の自分が、本当のあるべき姿なのだろうか。

時間をどう生きる

2006年03月27日 | 雑感
また桜の季節になった。
開花した桜が教えてくれるのは、毎年の春の訪れ・昨年とは違う新しい年度の始まり・たった一度のはかない生という「時間」。
われわれ生きる者にとって、時間は循環性を備えた直線的(つまり振動的)なもの。

明日、名古屋に帰り、大学の業務に復帰する。
10日あまり実家にいて、いつもながら大切な時間が過ぎて去っていくのを痛感。

過ぎていく時間を止めることができないのはわかっている。
でもなんとかしたい。
流れに身を任せればいいのか。それとも、流れを止めようとすればいいのか。
私は時間の流れを止めることも、速度を変えることもできない。
私にできるのは、流れを深く受け止めるだけだ。
時を忘れるだけのこざかしい思考を停止し、五感を鋭敏にして、一瞬一瞬を心に深く刻んでみよう。
今この時を、一生忘れまいと思いつつ。
大切な人と「共に在る」時のように。

それに対して、今を受け止めないとは、今が過ぎるのをひたすら待つこと。
その時、生は無駄になっている。
残念ながら、このような状態を要請する「仕事」は多い(たとえば無駄な会議)。
生きる糧を得るために時間(生)を売るのは仕方ないのか。
仕事もまた深く受け止めれる時間だったらどんなに幸せだろう。
自分がやる90分間の講義も、学生にとって、終わるのをひたすら待つものであってはならないわけだ。

大学時代の友人

2006年03月06日 | 雑感
大学時代のクラブ仲間たち数人と半年に一度の割で会っている(飲み食いするだけだが、中心となる幹事役がいてこそ実現)。
卒業後数十年もたつと、互いの生活の接点がなくなる一方。
なので、会う頻度も多くてこの程度になる。
でも、単につきあいの時間的長さでいえば、実の妻子よりも長いわけだ(しかもその差が縮まることはない)。
亡父の法事の時、父の学生時代の友人という方から当時の父の話しをうかがって、不思議な気持ちになった。
なぜなら、父と最も近いと自認している息子や母にとって、自分たちが父と出会う前から父と懇意の人がいて、
われわれ家族が知らない若き日の父の思い出話をしてくれるから。

人間関係というのは、現在や未来に接点がなくても、
過去に大切な接点があれば、それを保っているだけでよいのだろう。