私の日々の読字行動の半分以上は紙でははなく、電子化された画面だ。
電子化は、書籍の脱物質化(脱空間化)という本としての在り方を劇的に変えている。
ただ今話題にしたいのは、本の在り方ではなく、”読書”という行動の方。
電子化が読書行動(電子書籍に限定)をどう変えるか。
まず、読書空間の拡大、読書ストレスの軽減。
電子化によって携帯性が拡大し、Retina化などで画面の精度が上がっているので、小さい字もだいぶ読みやすくなった。
むしろわれら老眼世代にとっては画面の文字が拡大できるのがありがたい。
縦長横長を切り替えられるし、バックライトも調整できるので 可読性を向上できる。
すなわちどんな空間でも(暗闇でも)読書ができる。
iPadなどのタブレットであれば、1つの装置で音楽を聴きながらの読書もできる。
ただ、文字を読むという本質的行動は変わっていない。
あえて変化を求めるなら、音声化という手がある。
これはネット記事など、最初からテキストデータ(文字コード)であるのが前提だが、
読み上げ機能によってテキストを聴くことができる。
もちろん漢字の読みの不正確さは解消できないが、ニュースのように単に読み流すものなら、そのまま聞き流せる。
ただし、聴く速度は読む速度より概して遅いし、読む場合はその速度を自由に変更できるし、不要な部分は読み飛ばしたり、分かりにくいところはいつでも繰りかえせる。
聴くより読む方が自由度が高く、効率的だと痛感する。
なのできちんと理解したいテキストはやはり”読む”しかない。
結局、文字を読むという行動は、人類が獲得した最も洗練された情報行動であるようだ
(イメージ情報より記号情報の方が伝達効率が雲泥の差で高い)。
だからこそ、見る・聴くという生物学的に獲得してきた自然な行動と比べて、不自然さがあるわけだ。
文字を自ら発明した人類は、側頭葉に文字・記号処理の部位をあてがい、不自然な読書に耐える脳に作り替えた(文明が脳を変えたのだ)。
ならばわれわれはさらに情報処理の効率化ができるのではないか。
ここまで書いて気づいたことがある。
この記事シリーズの始めに「読書は不自然な行動だ」と述べたが、その読書の不自然さが開いた可能性を正当に評価すべきだ。
この記事シリーズは電子書籍のインパクトを論じたかったので始めたのだが、電子化によっても変わらない「読む」という行動の意味を正しく捉えることからやり直したい。
へんな流れになって申し訳ない。