引越後の生活再開への難路にハマっているので、
世間を騒がしている話題にもとんと注意を払えない状況だが、
佐世保の恐ろしい事件について一言。
死に関心を開かれるのは、生を受けてある時期に達したら当然のことだが、
その関心が「自己の死」に向わず、「他者の死」に向ってしまえば、ああなってもおかしくない。
真に直視すべき死とは「自己の死」なのに。
私は小さい頃から死が嫌いで、夏休みに他の児童が作ってくる「昆虫標本」は、おぞましい磔刑遺体の陳列にしか見えなかった。
そういう私も一度だけ、好奇心で昆虫採集セットを買って、まず虫を殺す薬剤を注射すべく、飼っていたカブトムシに試してみた。
カブトムシは、事態を察しているかのように私の手の中で激しくあばれたが、
私の無慈悲の1刺しで、一瞬脚を開いて、そのままゆつくり脚を閉じて動かなくなった。
この数秒間の光景だけで、私には充分。二度とそのセットを使うことはなかった。
小学4年頃から、自己の死の恐怖に襲われ、夜も眠れなくなった。
人生のあらゆる希望・可能性の果てに、死の永遠の絶望が口を開いて待っている。
この事実はどう取りつくろっても、誤魔化し切れない。
ところが、大学生になってもこの問題を共有できる相手はいなかった。
皆、なんらかの客観主義的詭弁で自分の死を他人事として誤魔化していた。
もちろん宗教学を専攻したかったほどだから、あちこちの宗教の死生観も知ったが、しょせん恐怖を誤魔化す以上のものはなかった。
最後の拠り所となっているのは、無に対する存在(有)を問い続けているハイデガー哲学だけだ。