帰京したら、長野県警からわが携帯(電話)が届けられていた。
早速、ネットでロック解除をし、元通り使える状態になった。
以前の生活に戻っただけなのだが、その生活を支えていたモノが不在になったことで、その存在を改めて実感できる喜びに浸っている。
この体験を、前回の記事では、行動経済学の「損失回避」、すなわち利得と同額の損失の心理的価格感は2倍になるという、感情的バイアスで説明しようとしたが、
行動経済学よりもっと深い次元の、存在論レベルの問題かもしれない。
日常を効率的にパターン化してやりすごしていると、われわれは存在者(在るモノ)の存在(在るコト)をいちいち実感することなく、空気のように常に在ると前提して意識しなくなる。
そして、その存在者がアクシデントで不在になった時、自明視していたその存在者の存在を、存在の”有り難さ”を痛感する。
平常に生きているわれわれは、自分がこうして健全で在ることの”有り難さ”を忘れ、
病気や災害に見舞われて初めて、その”有り難さ”を痛感するように。
このわれわれの日常の生活態度こそ、ハイデガーが『存在と時間』で指摘した”存在忘却”だ。
われわれ人間は、”現存在”という、存在を了解できるこの世で希有な存在者であるのに、
自分が存在し、世界(あなたやあれこれのモノ)が存在していることを当たり前のことと自明視して、その存在を実感しなくなってしまう。
適応的・効率的に生きる上では存在忘却しても実害はないのだが、せっかくこの世で出会っている存在者たちの存在を忘れることは、限られた時の間だけこの世でそれらと共に在る者として、あまりにもったいなくないか。
無くなって初めて痛感する存在の価値。
これが存在忘却を避けられない現存在の、悲しい”気づき”なのだ。
だからこそ、無くなったモノと再会した時、それは経済学的にはマイナスが0に戻ったにすぎないのに、
存在を再確認できた喜びという、行動経済学よりも深い次元の獲得感を得るのだろう。
日ごろの存在忘却は避けられないにしても、せめて失った時の”気づき”はきちんと受け止めたい。