伝えたんく

日々の何気ないできごとに感じた幸せ

兄弟2

2008-06-15 22:51:26 | Weblog

 前回「兄弟」は史跡のつながりを兄弟に例えて書いてみた。
今回は兄弟について感じたことを書いてみようと思う。
もっともゆきたんくは一人っ子なので、息子達についてのことを書いてみたいと思う。

 共働きだったゆきたんく夫婦は次男のつっくんが生まれると0歳児保育になった。もちろん長男のおーちゃんもそうであった。おーちゃんが4歳の時につっくんが生まれた。保育所では、「僕の赤ちゃん」ということで、いつもつっくんの部屋に遊びに行ってかわいがっていたと保育所の先生は話してくれた。

 兄の耳の聞こえの具合もあって、兄弟は小中学校は違う学校へ行った。それでも家ではいつも一緒にいた。

 それが今では別行動が多くなった。兄は陸上競技、弟は演劇と、自分の情熱をかけるものを見つけたからである。この数年間を考えてみると、休日に兄弟が一緒にいたのは旅行の時ぐらいかもしれない。 


福井県永平寺の傘松閣にて


兄の傍にはつねに弟が・・・

 今はもう、声変わりをしてしまったが、かわいい声で常に「おにいちゃん、おにいちゃん」と追いかけていたことを覚えている。兄貴もよーく弟をいろいろな意味でかわいがっていた。


伊香保グリーンランドにていとこ達と

  兄が中学へ入学し、部活動を始めるようになって、生活が変わってきた。
学区外の中学に通う兄は、朝7時15分に始まる部活に一番乗りできるように、6時半のバスに乗る。つまり、それまでに朝食を済ませるのである。無論、奥方ののりたんは早起きをするのである。これを高校卒業までやってくれたのだから本当に頭が下がる。弟は部活動などはやらず、ゆっくりとご登校である。

 それでも、夜は一緒に何かやっていた。それも中学までで、高校では帰りが夜の8時を過ぎることが多かった。弟の生活時間とかみ合わなくなってきたのである。

 弟は高校入学と同時に演劇に没頭した。兄は夜10時過ぎ、弟は9時過ぎということも多くなった。夕食を夫婦2人で食べる日もあった。その時に20年前のまだ子供がいない時のことを思い出した。

 ここ数年で子供達は自分の道を歩み始めるだろう。その時は今住んでいる、この家にはいないかもしれない。ゆきたんくも一人暮らしを始めたのは23歳の時だった。長男は今、20歳なのでもうそろそろと考えてもおかしくはない。

 まあ、今のところ彼女がいる訳でもなく家と学校の往復のようだ。まあ、それはそれで困るけれど・・・


2004年島根大社、ゆきたんく一家だ 拝殿前

 もっとも、ゆきたんくに兄弟が離れるということについての免疫がないのかもしれない。女房ののりたんは3人兄弟だ。兄はインドネシア在住、妹は福井に嫁いでいる。ものの見事にバラバラな訳である。その距離も半端ではない。

 みっともないことかもしれないが、ゆきたんくは2人の息子に兄弟のような感情を持っているかもしれない。それを測る物差しを持っていないので正確な表現ではないが・・・

 まあ、その時が来たらこのプログに心境を書き込むことにしよう。

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大地震

2008-06-14 21:14:35 | Weblog

写真は、宮城県奥州市の中尊寺境内に立つ柱(正式名称を失念した。)だ。青空に血気盛んな雲が散らばり、それに向かって伸びている柱。

 かつて衣川の合戦があり、多数の命が散ったこの地の和平を願う象徴でもあったことだろう。その奥州市が震源地の大地震があった。


中尊寺前で
奥方ののりたんと、次男のつっくん


 自分が千葉県に住んでいるので「あっ、地震だ」という意識はなかったが、何か揺れている。少し耳鳴りもしていたので、また血圧が上がっているのかな、少し横になろうかなと思っていた時に目に入ったのは揺れている照明機器であった。揺れ幅が大きくて、時間も長かった。急いでテレビをつけると東北地方が震源地であった。

 家屋の倒壊、山肌の崩落、道路の寸断などの大被害で亡くなった方々冥福を祈り、被災された方々のために救援に何らかの形で手をさしのべたいと思う。


金色堂などで有名な観光客の集まる奥州市

 先日、火山噴火の映画(雲仙・普賢岳の火砕流被害を映画化したようなやつ)をやっていたが、その救助の方法としてヘリコプターしか考えられない状況に現地は陥っているようだ。

 宮城県栗原市栗駒では、周辺の道路がすべて通行止めとなり孤立した地区もあったという。
 日帰り温泉を楽しむため、栗駒山を訪れていた方の話では山頂付近の水飲み場で仮眠していた際に地震に襲われ、「下からドーンと突き上げられて飛び起きた。わき水が茶色く濁ってきた」ことで大きな危険が迫っていることが分かったと言う。周辺道路のアスファルトが山の形に盛り上がり、あちこちに亀裂が入っていたため、車で引き返すのを断念して徒歩で下山を試みたが、道路が完全に陥没しており、身動きが取れなくなったという。足止めを喰った群馬県からの観光バスの乗客約30人やほかの登山客約15人とともに路上で救助を待ったそうだ。

 「明日はわが身」、被災にあった方々の身を案じるとともに、私たちの命を守る意識を強く持つべきだと思った今日の地震であった。

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勾玉

2008-06-13 23:56:50 | Weblog

 写真は勾玉。旅行に出かけた時に造った自作の勾玉である。

勾玉ってなんでこんな形をしているのだろうか。古墳時代(3世紀)から権力の象徴や、護符として使われてきたというが、仏教が伝来して浸透していくと使われなくなったと言われているから、宗教的な意味合いが強かったのかもしれない。

つけていた人たちも、祭事を司る者、位の高い者だそうだ。形には定説がないが、知っているところでこんなところである。日と月、牙、胎児、腎臓などである。

 
 島根県の玉造温泉はあまりにも有名な玉の産地で、「玉造」「玉作」は、その工房のあった土地と言われている。写真は宍道湖沿いの道を走り、玉造温泉の辺りにあったガスタンクである。なんと勾玉の形をしている。「まがたまの里 玉造温泉」と書かれている。手前にある白と緑の看板には「勾玉といで湯の里 玉湯町」と書いてある。 


玉造温泉のガスタンク

  さて、勾玉について何も知らないゆきたんくが旅行で勾玉つくりをした話であった。黒曜石の矢じり、弓矢など数種類の中から選ぶことができたのだが、迷わず勾玉を選んだ。


勾玉セット。石ととめ玉と紐と水やすりである。

 勾玉の意味を知っていた訳ではない。なんとなくこの形が好きだったのである。かわいいという気持ちになるのだ。


水やすりで丁寧に角を取っていく

 水やすりは、若き日のゆきたんくの趣味のプラモデルでいやと言うほど使った。水やすりで磨いた後にプラカラーのスプレーをすると、接着部が全く分らなくなるのである。


平面部から側面部にかけて丸くしていく

 この角をとる作業をしていると、安心感が出てくる。この小さな石に愛おしさを感じるのである。少し削っては出来具合をチェックする。


だいぶ水も濁ってきた。

 ここまでくると削りすぎは失敗を招く。中には石がポッキリと折れてしまって、小さい作品に修正する人もいるようだ。慎重に慎重に少しずつ確認しながら石を削っていく。小一時間して、出来上がったのが最初の写真である。

何か災いから身を守ってくれるような気がするのはなぜだろうか。

 

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歳を取ったら

2008-06-12 23:49:27 | Weblog
 前は考えたことがなかったことを、このごろ考えることが多くなった。このごろ実感していることは、体力の衰えである。加齢によるものなので仕方はないが、今まで体力的にできていたことが、いつの間にかしんどくなっていることがある。 先日筑波山に登った。女体山の方だったので険しくはないほうだが、疲れが出て、抜けるまでの間に1週間もかかってしまった。 不思議なことに、今まで馬鹿にしていたわけではないがあまり聞かなかったヒーリングミュージックなるものを聴いて体の疲れが取れたり、ちょっとした栄養剤を飲むだけで調子が良かったりする。  よく、おばあちゃんが縁側でお茶をすすりながら日向ぼっこをし、そばで猫が丸くなっている、その風景だけでも気が安らぐようになってきた。  また、かつて旅行した場所の写真を見るだけでも、気持ちが安らぐことがあることを感じ始めたのだ。  そして、自分の中の一番がイギリスはコツウォルズのビブリー(バイブリー)だ。マイサイト「幸たんく」や、ここで記事にしたことがある場所である。1枚目の写真は、ナショナルトラストが管理しているアーリントン・ローという13世紀から時間が止まっているようなところである。この建物の中では地元の人が生活をしているのだ。


コルン川沿いの住居

 この写真はビブリーのメインストリートとアーリントン・ローを結ぶ通りからビブリー村の住居を写したものだ。緑の中に西日に照らされた蜂蜜色のライムストーンが映えている。そしてアーリントン村とビブリー村を分けるように流れるコルン川にはいつも鴨が泳いでいる。


アーリントン・ロー

 アーリントン・ローの最西部分で旅行誌などに載ることの多い場所である。芝の中に、細い通路が印象的である。この時間がゆっくりと流れている場所で晩年をすごせたらなんと良いことか・・・。  歳を取るまでに、ロイヤル・イングリッシュが話せたらいいなぁ。
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弁財天

2008-06-11 23:58:48 | Weblog

 このトンネルを抜けると宇賀福神社の境内である。通称銭洗い弁才天と呼ばれている神社である。

 源頼朝が、1185年(文治 元年)巳の年、巳の月、巳の日(*注)、夢の中に宇賀福神が現われ、『この水を汲んで神仏を供養すれば天下は平和に栄えるであろう』とお告げを受けたので、早速この地におまつりしたといわれています。 その後、北条時頼がこの霊水で銭を洗い、一家繁栄を祈ったのが今日の銭洗信仰の始まりだといわれています。

 こんな解説が境内にあったかな?
 まあ、いいや。本宮前をスルーすると奥宮がある。こちらはのお金を洗うね銭洗い水のある奥宮である。


奥宮の様子、千羽鶴が下がる

 こちらの銭洗い水でお金を洗うと、何倍にもなり、お金持ちになるという話があると聞いて早速銭洗いをするゆきたんくである(下写真)。


左手に江ノ電の財布を持ち、
銭を洗うゆきたんく

 しかし、お金が溜まる前に、みやげ物に小銭が消えてしまったゆきたんくである。

まあ、アクセスが悪い割りに、観光客が多いということは、銭洗いのイベントが付加価値をもたらせているのだそうだ。

 

 

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神主?

2008-06-10 23:56:29 | Weblog

 神主、水木しげる・・・・なんだそりゃぁ。

写真は鳥取県の境港市にある神社である。奥の方のお堂は何か形が崩れているが、鳥居があってれっきとした神社である。

 そんな神社の鳥居の下で、男3人が戯れている。白いシャツがゆきたんく、赤いシャツが長男のおーちゃん、間にいるのが次男のつっくんである。そして女房ののりたんは、そうカメラでその3人を撮ってくれているのである。

 ゆきたんくとおーちゃんが上を指差して喜んでいる時に、つっくんは一人不安そうな顔をしている。結構この手のものには弱いのである。で、この手とはどんな手・・・

上の写真よりも、下の写真の方が良く分るかもしれない。この神社を良く見てほしい。何か見たことあるものがないだろうか。そう、神社の鳥居の形が「一反木綿」ではないか。


鳥居の形が一反木綿である

 そう、ここは鳥取県は境港市の「水木しげるロード」にある「妖怪神社」である。それで神主が、「ゲゲゲの鬼太郎」の生みの親、水木しげる氏なのである。2004年夏に全国総合体育大会が島根県の大社で開かれた。その時にお隣の鳥取県にもでかけたのである。鳥取県で最初に訪れたのが、境港市だったのである。


御身体の目玉石

 これは御身体の目玉に当たる部分から突然落ちた石だそうです。水木しげる氏も、この御身体になる石の場所に「ここに目玉があるといいなぁ」と話していたそうです。このような妖怪神社、一度は出かけてみると良いだろう。

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気球

2008-06-09 22:33:06 | Weblog

 ゆきたんくの住んでいる千葉県松戸市には、有名な玉三白玉粉を製造している川光物産がある。その関連会社の川光倉庫が管理している倉庫が市川市千葉市にある。千葉市にある倉庫だが、なんと戦時中に陸軍気球連隊が使用していた気球格納庫である。 なぜ千葉にあるのか。日本での軍用気球の歴史は、1877年の西南戦争で、薩軍に包囲された熊本城救援作戦に気球を利用する計画に始まった。熊本城攻防戦に決着がついたため実用化は見送られまである。 1904年の日露戦争の際には、臨時気球隊が旅順攻囲戦に投入されて戦況偵察に活躍した。 翌1905年には、東京中野の電信教導学校内に気球班が設置された。 1907年に、気球班は改組されて陸軍気球隊となり、鉄道連隊、電信大隊、気球隊を合わせた交通兵旅団の一部となった。 1913年、気球隊は陸軍の航空基地であった所沢飛行場に転出した。 1927年、所沢の混雑のため鉄道連隊に近い千葉市作草部町に移転。      このときの兵力は2個中隊であった。 1936年陸軍気球聯隊に改組され、それまでの航空科の所属から砲兵科所属に移管された。 1937年、日中戦争に動員、南京攻略戦に参加。 1941年に防空気球隊が編成され、翌1942年、タイ、仏印、シンガポール作戦に参加するなどした。  しかし、気球隊の任務は航空機の発達により次第に失われ、その後は内地にあり華々しい作戦とは無縁であった。  大戦末期の1944年、対米攻撃のため風船爆弾の計画が持ち上がり、気球聯隊を母体とした『ふ』号作戦気球部隊が編制された。 1945年4月、作戦終了した『ふ』号部隊は解隊され、隊員は原隊に復帰し終戦をむかえている。 ざっと日本に一つしか存在しなかった陸軍気球聯隊の歴史を紹介した。その実績については詳しいサイトが多々あるので探してほしい。


川光倉庫会社の東の畑から見た倉庫

  写真の格納庫は千葉県作草部町のものである。とすればこの建物は建築後80年近い年月が経っていることになる。もちろん世界遺産などと比べてれば歴史は浅いのだが、5階建てくらいある高さで堂々としている。


背の高い倉庫

 このような建物が解体されず、民間の施設として使われているのは大変嬉しいことである。戦後六十余年が過ぎ、戦争の証言者である方々も数が少なくなってきている。それらの方の証言とともに、戦争遺跡とも言える施設を保護して残すことができないだろうか。日本の各地にある戦争遺跡とも言える物件は、解体により減りつつあるのだ。もちろん重要文化財にでもなれば、自由に出入りは出来なくなってしまうのだが、建物に危険性がない限り残すことが望ましいのではないだろうか。

 戦争の歴史を忘れてはいけない。戦争賛成の姿勢ではない。戦争が遺した爪あとから学ぶことって沢山あると思うのだ。 

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富里のスイカ

2008-06-08 23:53:51 | Weblog

写真は千葉県富里市の市役所である。その市役所の前には巨大なスイカのオブジェがある。
オブジェと呼ぶには、本物のスイカと違わぬ色が使われている。

富里市は、千葉県の北部中央に位置し、スイカの産地として、現在では生産高、出荷量ともに全国第2位である。
 また明治期に御料牧場が設けられた「競走馬のふるさと」として有名だ。
この町のイベントを調べてみた。
すいかまつりとスイカロードレース大会が好評のようだ。


いいねぇ、「ようこそ とみさとへ」

 すいかまつりは富里の特産物「すいか」の魅力がたっぷり楽しめるそうだ。
「すいか」を使ったゲームやイベント、採れたて新鮮な野菜や西瓜の即売がある。また、品質・技術の向上を図ることを目的とし、生産者が自慢の「すいか」を競い合う「すいか共進会」の実施もあるという。今年は6月15日(日)に開催されるそうだ。千葉県民の日なので予定の候補にしよう。
 


市役所入り口ですいかが出迎えてくれる

 そしてもう一方は、スイカで乾いた喉を潤しながら走るユニークなロードレースである。名前を富里スイカロードレース大会という。「給水所」ならぬ「給スイカ所」。10km・5km・3kmレースの残り1.5km地点設置するそうだ。ゴール後の会場にもスイカサービスコーナーを開設するという。完走後に食べるスイカの味はどんなにうまいだろう。老婆心ながら、スイカの皮はどうするのだろう。最初からないのか、捨てるところが設けられているのか。喉が渇いた時の水分、ビール(ゆきたんくは飲めない)は格別だというが、スイカだとどうなんだろう。自分で試すことが一番いいんだな。

きっと甘みが強く感じるような気がする。

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なまこ壁

2008-06-07 23:54:57 | Weblog

 なまこって、知っているだろうか。平面世界にいる昆布を膨らませて3Dにした生物である。中国では高級食材として扱われているが、日本ではその容姿から嫌われているようだ。

 そのなまこを冠した名前の壁がある。そのものずばり、「なまこ壁」である。静岡の西伊豆を旅した時の予習で出てきたものである。冒頭の写真は江戸時代から残っているなまこ壁の家である。家の横の細い道は。全部が壁と面しているため、「なまこ壁通り」という名前がついた。

 なまこ壁とは平に焼いた瓦を壁に張り付け、瓦と瓦の境目を漆喰で埋めたものである。その漆喰はなまこのように盛り上がった形である。そのことから「なまこ壁」と名づけられたそうだ。

  このなまこ壁を見学して以来、ことあるごとになまこ壁の存在を目で捉えることができるようになってきた。何気に見ていた時代劇の街中の場面で、なまこ壁を認識することができた。そして様々な種類があることも知った。今日の写真2枚に使われているのは標準タイプである。


街中にある土産屋「なまこ壁」の表示

 このタイプは瓦を斜めに貼り付け、その隙間を漆喰で塗り固めたものだ。漆喰の部分が斜めにしてあるのは、この方が雨などが瓦と漆喰の隙間に溜まらず、斜めの漆喰の部分を伝わって流れるため、壁の痛みを軽減するためだそうである。

 先人の知恵というのは、このように旅のランドマークとして存在する物によって考えることができる場合もある。

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重要文化財…旧守衛所

2008-06-06 23:48:10 | Weblog

 京都の龍谷大学大宮学者には、11の建物があるが、そのうち5つが重要文化と財に指定されている。その中でも戦争遺跡チックな旧守衛所が素敵なので紹介しようと思う。建てられてから約130年経っているのだが、その造りから、いかに当時の守衛所が重要かが分かる。 


旧守衛所の全景


旧守衛所東側、奥に現守衛所が見える。

 


旧守衛所正面
現在は大学のオリジナルグッズの展示場である。

 最初の写真を見てもらえば分かると思うが、他の建物と比べると、小さな建物である。しかし、その意匠というのか、窓や入り口のアーチ作りは見事な出来である。どこの国方式を真似たのであろうか。
 

 

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自然の妙

2008-06-05 23:51:27 | Weblog

 いきなりグーグル・アースだ。
義理の兄の会社の別荘があり、抽選で当たったので出かけた。
写真中央より右下に赤い屋根の建物が見えるだろう。そのマンションの7階を会社が借り切っている。景色が良くて人気が高いのだ。

 場所は千葉県和田町(現南房総市)。花の生産で有名な地域である。
なぜ花の生産が盛んなのか。答えは写真の中にある。
写真右下の海は太平洋である。
写真左上は山地である。
太平洋を流れる暖流と冷たい北風をブロックする山地により、一年中温暖な地方なのである。

 マンション7階の東側のベランダから見た風景である。 


太平洋である。この日は雪が降った。

 そしてマンション7階の部屋入り口側でマンション西側を撮ったのがこの写真である。


すぐ近くに山地がある。

 この2枚の写真を、別々に見て、同じマンションの東西のそれぞれの景色ということを想像できる人は少ないことと思う。海や山があまりにも近いからだ。この自然が作り出した自然の温室のおかげで、毎年綺麗な花か沢山咲き、地場産業にもなっている和田町。花の咲く春、特に5月辺りに行ってみてほしい。 

 

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見いつけたぁ

2008-06-04 23:58:32 | Weblog

 皆さんは自分の代名詞に当たるものがあるだろうか。
唐突な質問であるが、そんなことをゆきたんくは考えたことはない。
第一自分が何者であるのか、何で生かされているのかなんて考えるような風土の中で生きている訳ではないのだ。

 それは京都旅行の時であった。宮本武蔵の決闘場で有名な一乗寺の下り松。その松ノ木を見たくて訪れた一乗寺町。昨晩からの足の痛みが激しく満足に歩けない状態だったが、見たいものがあるので頑張れることができた。後で考えるとシップも塗り薬も効果はなかった。

 詩仙堂から八大神社に移動する時、小さな祠に気がついた。その傍らには説明の碑があった。どうやら布袋様が奉られているようである。
石仏が布袋様であることが記してある。


説明板?

 そしてその中を見た時、探しに探していたものに出会った感じがした。石仏であった。しかし、布袋様というより、ゆきたんくのイメージに近い気がした。大きな体に柔和な表情、ゆきたんくの理想である。


これぞ幸たんくと思った布袋様


 年をとった時、こうでありたいと思う理想像に出会えたゆきたんくは幸せである。

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無謀か?

2008-06-03 21:28:19 | Weblog

 ラウンド・アバウトを読んでいただいた方には、ゆきたんくの無謀さが分っていただけたと思う。事故を起こさなかったのは幸運だったのだ。
 そして1日目の夜は友人宅であった。友人宅からイングランド南西方面へ旅をし、ウェールズとイングランドに跨る尾根「ハージェスト・リッジ」に行くために、近くの宿に泊まらなくてはならない。外はまだ明るいが午後6時を回ったところである。

 その宿は・・・・予約していなかったのである。どうにかなると思っていたゆきたんくである。ははっ、下手したら野宿だ・・・
 その時である、B&Bという看板が目に入った。Bed & Breakfastの略で、一晩の宿と朝飯を提供してくれる安価な宿のことである。こういう宿はhotelとは呼ばない。accommodationt(アコモデーション)という。その看板には14£50とあった。日本円にして1人3000円である。これで宿と飯は安いなあ。ということで決めた。それが、冒頭の写真にあるB&Bのパンディ・インである。

 自分で決めたのに、宿主との交渉は奥方ののりたんに任せた。いい気なやつである。そして写真にあるチムニーのついているレンガの宿ではなく、その右奥にあったブラックマウンテン・ロッジという12人が泊まれる建物に通された。ここに4人で泊まるのだ。なんという贅沢だ。ブラックマウンテンというのは、ここウェールズのブレコン・ビーコン国立公園の中に実在する山の名前である。


ブラックマウンテン・ロッジ 


ロッジの中、天井の様子
とても広い空間であることが分る


テレビも見放題
テレビの右側の棚にビデオが載っている。
この箱を持っていくと有料でビデオが借りられる。
つっくん(次男)は子供子供していたからただで貸してもらったようだ。

 まあ、宿が決まったということで一安心。次は夕飯である。近くに食堂なんてありゃあしない。直線距離で24km離れているヘレフォードまでお出かけである。それも帰りはどうするかを考えないでだ。インディアンレストラン(インド料理のレストラン)でカレー料理に舌鼓を打ち、どうにかパンディ・インまで戻ってきた。


食後の様子

 のりたんは洗濯機もないので手もみ洗いのお洗濯。つっくんは椅子でダウンしている。ゆきたんくはのんきに写真に写っているテーブルにUKマップを広げ、次の日の名所の物色をしている合間の写真撮り。

 まあどうにか宿は決まったが、この無計画さに危機感が増すどころか、「これで言葉が自由に操れたらいうことないじゃん。」なんて感じ。


パンディの朝 写真中左にパンディの建物が見える
音を立てて、雲状のものが通り過ぎていった。

  これはゆきたんくの旅行につきものの朝の散歩の時のものである。熱波に襲われた2003年のヨーロッパだが、この朝は気持ちが良かった。さて、何の話だったっけかな。あっそうそう、ゆきたんくの旅行の仕方が無謀かということだった。もうお分かりのことだろう。

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当たり前なことに気づいた

2008-06-02 20:11:32 | Weblog

 いやあ、自分ってつくづく日本人だと思ったことがある。
 街中を歩いていて、外国人が近づいてくると軽く微笑みながらやり過ごしてしまったことである。話しかけられても返せるだろうかと不安な気持ちで一杯になるのである。
 今はそこまではない。環境は人を変えるというが、それはとても納得がいくことである。海外旅行をすると周囲に日本人の数が減る。まぁ当たり前だが、数の論理でいくと圧倒的に不利だ。何がって、強気でいられないのである。別に取って喰われる訳ではないのだから少し大げさである。
 さて、ツアーではなくて海外旅行をすると、周囲は外国人だけになる。まして聞きたい事があって頼れるのは自分だけだというシチュエーションだと火事場の馬鹿力が出る。

 自分から話しかける。
 語彙が少ないので身振り手振りである。
 聞き取りにくい言葉を聞き返す。
 持っている本に写真があると、それを利用する。

 そう、2003年夏のイギリス旅行はツアーではなかった。
 上に書いたことをやる機会が多かった。
 日本語を話す機会が極端に少なくなり、英語を使わざるを得ないからである。
 写真はコツウォルズのボートン・オン・ザ・ウォーターである。
 街中をウインドラッシュ川が流れ、水の都ベニスの小さい版どリトルベニスと言われている。


ウインドラッシュ川で遊ぶ子供達

 その街中を川に沿って歩いていた時である。一人の外国人が話しかけてきたのである。
 
This is a fish. catched by me.

 のような内容だったと思う。私に話しかけてきたのは下写真の少年である。
 その時に思ったのが、今日の表題でもある「当たり前なことに気づいた」である。
 こんな小さな子が使っている言葉は英語である。
 別に構えるわけでもなく、外国人の大人に自国の言葉で話しかけてきたのである。
通じるとか、通じないとかを考えて物を言ってる訳ではない。この子供が持っている姿勢を大人が真似できればいいのだろう。この旅では、言葉の使い方を間違っても、相手が正しい言い方を教えてくれる場面が多々あったのだ。


小さな友だち

 

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ラウンド・アバウト

2008-06-01 23:51:18 | Weblog

 唐突だが、物事は簡単ではない方がいい場合があると思っている。
ラウンド・アバウトというのをご存知だろうか。日本では、まず見ることはない。欧米諸国で採用されている方式と言って良いだろう。

 実はゆきたんくのサイト幸たんくの旅の項で「これが地獄の入り口云々」が書きっぱなしになっていたことに今日気づいたのだ。その地獄について今日は書きたい。

 イギリスに行く。ジュネーブ条約の関係で、国際免許を持っていれば車の運転ができることを知ったゆきたんくは、近隣の免許センターで国際免許を取得した。どんなにむずかしいことをやるのかなぁと思っていたら、書類審査と3000円弱(2003年当時)で手に入ったのである。イギリスは左車線の右ハンドル。この2つのことでもう大丈夫な気でいたゆきたんくである。

 借りた車はプジョー、フランスの車である。ウィンカーは左、ウインドウォッシャーは右、おまけに久しぶりマニュアル車だ。

 自信は、すぐに崩れた。いざ道路に出るとどの車も速いこと速いこと。方向指示を出すつもりが、石鹸液を出してしまったのである。窓はきれいなった。はぁ・・・。

 そしてついに初体験のラウンド・アバウトである。ゆきたんくが、この名称を知ったのは、その夜のことであった。詳しいことは、リンクに飛んでいただけるとお分かりになると思う。

 あれこれ苦戦しながら、ロンドン・ヒースローからポーチェスターに着いた。
成田からのフライト12時間、ヒースローからの直線距離約100kmのドライブが3時間、フライトする前の時間を合わせると24時間以上の間寝ていない。


ポーチェスターの町。この時なんと20時30分


テンカウントでノックアウトのつっくん

 初心者に戻ったような気分でハンドルを握った3時間であった。それとスピードメータがマイル表示である。イギリスの高速道路をモーターウェイという。なんと無料である。そこを時速100kmで走った。他の車も同じくらいのスピードで走っている。なんか速いと感じたゆきたんくである。のりたんとつっくんも速いと言っている。そして気づいた事実は、時速100マイルで走っていたのである。つまり時速160kmくらい出ていたことになる。慣れないづくしで頭がパニックであった。よく事故を起こさなかったものである。

 友人の家に一泊し、次の日はイングランド南西部を目指す。また、あのラウンドアバウトを走らなくてはいけない。シュミレーションをした。ラウンドアバウトは信号のない交差点だ。サークル部分の右側から来る車が優先である。「左折は左に寄ってから」問題なし、直進は左に寄り、左折道路をやり過ごして直線方向の道へ行く。右折は進行方向の右車線に寄り、左・直をやり過ごしてラウンドアバウト入り口から見て右方向へ進む。同様にして右をやり過ごせば、ターンをしたことになる。
 と言うことは、くるくる回ることで行き先が一瞬分らなくなった時はいつまでも回っていればいいという考えに達した。次の日は朝から快調である。昨日あれほどパニックを起こしていた頭がすっきりとしているのだ。最も睡眠不足もあったかもしれない。
 道路地図を見るのも楽になってきた。目指すはストーンヘンジ、ウッドヘンジ、ソールズベリ大聖堂である。


大聖堂の尖塔が写真中央より左下に見える

 かくしてラウンドアバウトを克服したゆきたんくは、この後3日間を楽しくドライブをして過ごした。4日目にロンドン入りをし、車を返したが走行距離は2000キロメートル(1250マイル)になった。良く走ったものである。

 ところでロンドンでは車は使わなかった。なぜかと言うと、この年から渋滞税なる税金が発生したからである。そしてロンドンは渋滞が多かったのだ。

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