私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいる。
昨夜のひととき、家内は明日に駅前のスーバー、専門店に買い物に行くと言うので、
本日は午後より小雨が予測されていたので、
午前中のひととき、私はホディーガード兼お供で、家内と共に出かけた・・。
私はスーパーで家内が買い物している間、この店内にある本屋に寄ったりした。
そして単行本、新書本、文庫本のコーナーを見て、三冊ばかりの本を買い求めた。
この中の一冊は、文庫本のコーナーの最前列に並んだ中で、
松山善三、高峰秀子ご夫妻の『旅は道づれアロハ・ハワイ』〈中公文庫〉の表紙を見て、
懐かしいような心情となり、購読することにした。
http://www.chuko.co.jp/bunko/2011/11/205567.html
☆【中央公論新社ホームページ】<==【文庫本】高峰秀子/松山善三 著『旅は道づれアロハ・ハワイ』☆
私が二十歳の時は、東京オリンピックの開催された1964〈昭和39〉年の秋の時であったが、
大学を中退し、映画青年の真似事をしていた時期で、
オリンピックには眼中なく、京橋の近代美術館に通っていた。
戦前の邦画名作特集が放映されていたので、
数多くの昭和の20年までの名作を観ることが出来たのである。
この中の作品の中で、山本嘉次郎・監督の『綴方教室』(1938年)、
そして『馬』(1941年)も観て、天才子役、少女と称せられた高峰秀子さんの存在を実感させられた。
私はこの当時の1964年に於いては、
少なくとも木下恵介・監督の『二十四の瞳』(1954年)、
成瀬巳喜男・監督の『浮雲』(1955年)、
木下恵介・監督の『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)、
松山善三・監督の『名もなく貧しく美しく』(1961年)等は当然のように鑑賞していた。
そして封切館で松山善三・監督の『われ一粒の麦なれど』(1964年)で観たばかりの年でもあった。
私は女優の高峰秀子さんの存在は、天上の女神のような存在であり、
『二十四の瞳』と『浮雲』がほぼ同時代に演じたこのお方には、ただ群を抜いた女優であった。
子役、少女、そして大人としての女優としての存在は、
私のつたない鑑賞歴に於いて、このお方以外は知らない。
その上、脚本家、ときには監督もされた松山善三さんには、
まぶしいようなあこがれの存在の人であり、秘かに敬意をしていたのである。
このような過ごしていた間、確か冬の日だったと記憶しているが、私は東宝の撮影所で、
宣伝部の方と話し合っていた時、
たまたま高峰秀子さんがこちらに向かって来た時があった。
宣伝部の方が飛び出て、
『この青年・・大学を中退し、この世界に・・』
と話されていた・・。
『こんにちは・・でも・・もったいないわ・・大学をお辞(や)めになるなんて・・
でもねぇ・・大変ょ・・この世界は・・』
と高峰秀子さんは私に云った。
私はこの当時も大女優であった高峰秀子さんとは、
これが出会いであったが、これ以降はお逢いしたことがない。
この後の私は、映画・文学青年の真似事もあえなく敗退し、
やむなく私は中小企業のサラリーマンに身を投じた・・。
その後、いつの日が忘れてしまったが、本屋の店頭で、
このお方の本にめぐり逢い、数冊の随筆集を読みはじめ、これ以降は本屋で見かけるたびに、
購読してきた・・。
今回、本書は私が見逃した随筆集の作品のひとつであり、
昨年の年末に高峰秀子さんの死去を知り、私も落胆したひとりであった。
こうした生前に綴られた随筆、そして敬愛している松山善三さんの綴り、
共に若き50代の頃からの季節ごとにハワイで過ごされたの思いを学びたく、
何かしら懐かしいような心情につつまれて、買い求めたのである。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村

にほんブログ村
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいる。
昨夜のひととき、家内は明日に駅前のスーバー、専門店に買い物に行くと言うので、
本日は午後より小雨が予測されていたので、
午前中のひととき、私はホディーガード兼お供で、家内と共に出かけた・・。
私はスーパーで家内が買い物している間、この店内にある本屋に寄ったりした。
そして単行本、新書本、文庫本のコーナーを見て、三冊ばかりの本を買い求めた。
この中の一冊は、文庫本のコーナーの最前列に並んだ中で、
松山善三、高峰秀子ご夫妻の『旅は道づれアロハ・ハワイ』〈中公文庫〉の表紙を見て、
懐かしいような心情となり、購読することにした。
http://www.chuko.co.jp/bunko/2011/11/205567.html
☆【中央公論新社ホームページ】<==【文庫本】高峰秀子/松山善三 著『旅は道づれアロハ・ハワイ』☆
私が二十歳の時は、東京オリンピックの開催された1964〈昭和39〉年の秋の時であったが、
大学を中退し、映画青年の真似事をしていた時期で、
オリンピックには眼中なく、京橋の近代美術館に通っていた。
戦前の邦画名作特集が放映されていたので、
数多くの昭和の20年までの名作を観ることが出来たのである。
この中の作品の中で、山本嘉次郎・監督の『綴方教室』(1938年)、
そして『馬』(1941年)も観て、天才子役、少女と称せられた高峰秀子さんの存在を実感させられた。
私はこの当時の1964年に於いては、
少なくとも木下恵介・監督の『二十四の瞳』(1954年)、
成瀬巳喜男・監督の『浮雲』(1955年)、
木下恵介・監督の『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)、
松山善三・監督の『名もなく貧しく美しく』(1961年)等は当然のように鑑賞していた。
そして封切館で松山善三・監督の『われ一粒の麦なれど』(1964年)で観たばかりの年でもあった。
私は女優の高峰秀子さんの存在は、天上の女神のような存在であり、
『二十四の瞳』と『浮雲』がほぼ同時代に演じたこのお方には、ただ群を抜いた女優であった。
子役、少女、そして大人としての女優としての存在は、
私のつたない鑑賞歴に於いて、このお方以外は知らない。
その上、脚本家、ときには監督もされた松山善三さんには、
まぶしいようなあこがれの存在の人であり、秘かに敬意をしていたのである。
このような過ごしていた間、確か冬の日だったと記憶しているが、私は東宝の撮影所で、
宣伝部の方と話し合っていた時、
たまたま高峰秀子さんがこちらに向かって来た時があった。
宣伝部の方が飛び出て、
『この青年・・大学を中退し、この世界に・・』
と話されていた・・。
『こんにちは・・でも・・もったいないわ・・大学をお辞(や)めになるなんて・・
でもねぇ・・大変ょ・・この世界は・・』
と高峰秀子さんは私に云った。
私はこの当時も大女優であった高峰秀子さんとは、
これが出会いであったが、これ以降はお逢いしたことがない。
この後の私は、映画・文学青年の真似事もあえなく敗退し、
やむなく私は中小企業のサラリーマンに身を投じた・・。
その後、いつの日が忘れてしまったが、本屋の店頭で、
このお方の本にめぐり逢い、数冊の随筆集を読みはじめ、これ以降は本屋で見かけるたびに、
購読してきた・・。
今回、本書は私が見逃した随筆集の作品のひとつであり、
昨年の年末に高峰秀子さんの死去を知り、私も落胆したひとりであった。
こうした生前に綴られた随筆、そして敬愛している松山善三さんの綴り、
共に若き50代の頃からの季節ごとにハワイで過ごされたの思いを学びたく、
何かしら懐かしいような心情につつまれて、買い求めたのである。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪


