夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

老ボーイの私は、ときには早春の花のめぐり逢いを求めて、さまよい歩けば・・。

2016-02-07 15:44:00 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身であるが、
いつもように平素の買物メール老ボーイの私は、家内から依頼された品を求めて、最寄のスーパーに行った後、
さて本日は、どの辺を歩こうかしら、と少し思案したりした。

やがて中学校、そして小学校の隣接は道を歩いたりしている時、
市立の『実篤公園』を寄ってみようと、と思い立ったりした・・。
            
               ☆掲載したすべての写真は、本日の散策の時に撮った☆

私は1944年(昭和19年)に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
この当時、祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

そして、この頃の生家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。

その後、私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954(昭和29)年の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、やがて没落しはじめた・・。

そして1955年〈昭和30年〉の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉であるが、
この頃になるとベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。

こうした中で、私が小学5年生の頃、付近の国分寺崖に面した傾斜地に、
日本では有名人らしい人が引っ越してきた、と大人たちの間で話題のひとつとなっていた。

この当時の私は、『金子』駅(現・つつじが丘駅)の付近ある小学校から旧街道で登下校したり、
下校時の時は、ときおり遠回りして隣接駅の『仙川』の商店街を歩いたり、
或いはこの中間の田んぼの多い畦道を歩いたりして帰宅したりしていた。
            

このようなある日、私は田んぼの多い畦道を歩いたりしていたが、
国分寺崖の林の傾斜に寄り道をした。

そしては樹木の多い中で、孟宗竹の竹林が手入れされていなく密集ばかりし、下方に池があり、
池の近くで、独りの老人が難しいそうな顔して、池を見詰めていた。

『あの人が大人たちが噂している有名人かょ・・何か難しい顔しているが・・
だけど孟宗竹は生え放題・・孟宗竹のこと・・ぜんぜん解っていないなぁ』
と私は子供心に内心呟(つぶや)いた・・。

後年、高校生になった私は突然に読書に目覚めて、下校時に『仙川』駅の本屋に寄った時、
店内の壁面に色紙とひとりの老人の写真が掲げられていた。

そして、さりげなく《武者小路実篤》と明示されていたので、
私はあのお爺さんが・・武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)かょ、と気づかされたのである。
            

私の生家から徒歩で10分ばかりに、武者小路実篤さんが、
《 水のあるところに住みたいという子供の頃からの願いどおり、1955年〈昭和30年)、
70歳の時に仙川の地へ居をかまえ、90歳で亡くなるまでの20年間を過ごした 》
と伝えられている。

そして氏の亡くなわれた後、数々の遺品とともに、ご遺族より調布市に寄贈され、
できる限り実篤が暮らした当時のまま保存され、
晩年の20年間を過ごした邸宅(現:実篤公園)の隣接地に、調布市が設立と整備して、
1985年〈昭和60年)10月に『武者小路実篤記念館』が開館した、
と私は市報などで知ったりしていた。

私は25年前に一度だけ訪れたことがあるが、この後は付近を通っても、立ち寄ることはなかったが、
年金生活を始めた2004(平成16年)の晩秋から、四季折々訪れてきた。
            
          
あの当時も孟宗竹は鬱蒼とあり、このように整備されておらず、野趣の中、
あまた雑木の情景に思いを重ねたりした。
        
過ぎ去った60年近い歳月を思い浮かべても、整備された公園に雑木だけは歳月を超越して、
四季折々のうつろいを私に見せてくれる・・。
            
           
ぼんやりと私は眺めているが、毎年同じように季節は巡って来ているように思われるが、
年々歳々 花相似 年々歳々 人不同
という漢詩のひとつを心の中で呟(つぶ)やくように、私は反復したりした。
          
もとより中国の初唐時代の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が遺(のこ)された詩であるが、
私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の頃に、
小説家・阿川弘之(あがわ・ひろゆき)氏の作品から学んだひとつの詩である。

毎年たんたんと美しい花を咲くが、この花を観賞できる人は変っている・・

私はこのように解釈しながら、人生のはかなさを若き二十歳の時に、
この詩を学びだし、早くも50数年の歳月が流れている。

そして、果たして昨年、一昨年の今頃は、或いは来年の今頃は、と思い浮かべても、
せんなきことかしら、と微苦笑したりし、この公園を辞して、やがて仙川駅の方面を
あてどなく歩いたりした。
            

やがて『仙川』駅の商店街に近く、音楽専門学校の桐朋学園の隣接している路を歩いたりした。
            

そして本屋に立ち寄り、二冊ばかり買い求めた後、
家内のお気に入りのパン専門店『ANDERSEN(アンデルセン)』に寄り、
フランスパンを2本、そして家内のお土産としてケーキのような菓子パンを3つばかり買い求めて、帰宅した。

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