ビートルズの数多くの名曲の中に、『イエスタディー』がある。
確か1966年(昭和41年)の初めの頃だったと思われるが、
1948年〈昭和23年〉生まれの妹がビートルズに熱愛して、数多くのレコードを買い求めて、盛んに聴いていたので、
たまたま私はこの曲を知った・・。

この頃の私は、大学を中退し、映画、文学青年の真似事をしていて、
食寝を忘れるくらいに映画作品を映画館で観たり、 小説の数多くの作品を読みふけっていたので、
音楽を聴く余裕もなかった時だった。
ときおり妹が、生家の応接間にあるステレオで、ビートルズを大きな音量で聴いていても、
私はうるさいと感じながら、騒音のような音楽としか聴こえてこなかった。
こうした中のある時、メロディー・ラインが良く、英語の詩も良い、と直感した曲が、
この後に、妹から曲名を教えて貰ったのが『イエスタディー』であった。
その後、妹はビートルズが1966年(昭和41年)の6月下旬に来日公演の時、
学校では禁止されていたが、無視して何とか日本武道館に行って、
公演には満足した、と私に言ったりしていた。
このように妹は、団塊世代でこの当時は高校の初めの頃であったから、
何事も一番感化されやすい時であるので、音楽面はたまたまビートルズに熱中した、と思われる。
この当時の私は二十歳を過ぎたせいか、或いは映画・文学に熱愛していたので、
音楽を聴く余裕もない時でもあり、ビートルズからは音楽の影響は受けなかった。

その後、私が1970年(昭和45年)にある民間会社に中途入社した前後は、
音楽のポピュラーとして影響を受けたのは、
サイモン&ガーファンクルの『スカボロー・フェア』、『明日に架ける橋』等の一連であった。
私は音楽に関しては、楽譜も読めない素人であり、つたない感性を頼りに聴いたりしているが、
もとよりメロディーも大切であるが、このアーティストは、何を伝えたいのか、という命題を重要視するので、
作詞を優先するひとりである。
まもなくして、私はシャンソンの世界にに魅せられ、百枚程度のアルバムを買い求めたりし、聴き込んだりしていたが、
特にシャルル・アズナヴールには、魅了させられた。
ある程度の大人の年齢になり、若き日の青年時代の愛惜を秘めた『帰り来ぬ青春』(1964年)、
そして『遠い想い出』(1971年)は、私は友人たちに絶賛したりした。
このような時に、ビートルズの『イエスタディー』(1965年)が甦(よみがえ)ってきた。
そしてビートルズのメンバーが、あの若い時に《青春時代》を凝縮させた表現出来たのは、
天才という言葉以外は見つからず、唖然とさせられながら、絶賛した。
この『イエスタディー』の曲は、世界の著名の歌手に多く歌われ、
日本に於いても名のある歌手も多く取り上げていた。
私は、少なくとも10人以上の歌い手のレコード、カセット、その後はCDで聴いて、今日に至っている。

こうした間に、映画の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984年)に於いて、
ロバート・デ・ニーロが扮する主人公が駅構内で過去を回想するシーンに、この曲が流れた・・。
私はこの感性には思わずうなり、そして瞬時に魅了された。
映画の音楽は、このように使うと映画の画面が引き立ち、効果のある見本でもある。
このことは、監督・脚本のセルジオ・レオーネ、そして音楽のエンニオ・モリコーネの功績であるのは、いうまでもない。
私はビートルズからは影響は受けてはいないが、このたった一曲の『イエスタディー』の曲だけは、
最初に聴いてから、突出した青春の日々の愛惜歌である、とここ50年絶賛しているひとりである。

昨夜、ビートルズ育てた音楽プロデューサーのジョージ・マーティンさんの逝去を知った。
たまたま私は音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
管理畑、情報畑、営業畑などを勤務し、音楽の制作に携わらなかった私でも、
ビートルズ育てた伝説の人、音楽プロデューサーのジョージ・マーティンさんの知名は知っていた。
そして日本にビートルズを普及された御方は、私が勤めた他社の高嶋弘之さんであるが、
少なくとも業界の常識であった。
このように心情を秘めてきた私が、高嶋弘之さんがジョージ・マーティンさんの逝去に伴い、
どのようなコメントをされるか、私は知的な好奇心があったりした・・。
たまたま今朝の読売新聞を読んでいたら、文化面の記事のひとつに、
【 ジョージ・マーティンさんを悼む ビートルズ育てた柔軟性・・・高嶋弘之 】
と題した記事が掲載され、私は精読し、改めてジョージ・マーティンさんに敬意を重ねた。
無断であるが、この記事を転記させて頂く。

《・・2014年2月に私がプロデュースしている音楽グループ「1966カルテット」のレコーディングで
ロンドンにあるアビイ・ロード・スタジオを訪れました。
私は日本のレコード会社でビートルズの担当ディレクターをしていたので、ジョージ・マーティンさんが、会いに来てくださったんです。
紳士的で、物腰もやわらか。
「これからのプロデューサーはレコーディングだけではなくて、
コンサートも含め、アーティストの動き全体を仕切らないといけない」と話していました。
90歳近いのに、音楽界のこれからの展望を考えていたんですね。
ビートルズのメンバーは、すごい才能を持っていました。
けれど、彼らをまとめあげたマネジャーのブライアン・エプスタインさんとマーティンさんがいなかったら、
ここまでの成功を収めていないと思います。
別のオーディションでは、落とされた彼らとの契約を決め、レコードデビューさせたんですから。
まだまだ未知数の彼らの才能を見抜いたわけです。

マーティンさんは、クラシックの知識やそれまでのプロデューサーとしての経験があったから、音楽的なアイデアも豊富。
「イエスタデイ」に弦楽四重奏を加えるなど、編曲のセンスも素晴らしい。
弦楽四重奏を使うなんて、当時のロックバンドとしては画期的です。
ビートルズは初期のシンプルなサウンドから、サイケデリックロック、インド風など次々と新しいスタイルを取り入れていきました。
それまでの音楽的な常識を打ち破ろうとする4人の若者。
そして柔軟な考え方のできるプロデューサー。
この組み合わせが最高だった。
自分のやり方を押しつけるタイプだったら、ここまで自由にできない。
アーティストの才能を引き出し、一緒に考え、伸ばした。
彼の貢献があってこそ、プロデューサーの地位も上がったと思います。
今年は1966年のビートルズ来日から、ちょうど50年です。
いろいろ聞きたいこともあって、また、おじゃましたいと思っていただけに本当に残念です。(高嶋音楽事務所社長、談)・・》
このように高嶋弘之さんは、ジョージ・マーティンの功績を讃えている。

この後、確かスポーツ新聞に掲載されていた記事を私は読み、微笑んだ記事があった。
《・・ポール・マッカートニーはこの日、自身のホームページで追悼。
「僕にとって第二の父のような存在だった。ジョージこそ、5人目のビートルズだ」と断言した。
クラシック出身のマーティンさんとの思い出は「Yesterday」制作時のエピソードを挙げた。
「僕がギターを弾いて、ソロで歌ったらどうかと提案したら、ジョージは『弦楽器の四重奏を入れたい』と。
僕はロックンローラーなんだから、ダメだって答えたんだ」。
だが、実際にレコーディングするとマーティンさんのアイディアが正しかったことが分かり
「何週間も興奮したよ。結局、この曲はフランク・シナトラ、エルビス・プレスリーらがカバーし、
史上最もレコーディングされた曲の一つになったんだからね」とその手腕をたたえた。・・》

余談であるが、ジョージ・マーティンさんの略歴は、
1926年1月3日、ロンドン生まれ。オーボエ奏者として活動後に音楽プロデューサーに就任。
ビートルズのほか、ジェフ・ベックら700枚以上のレコードをプロデュースした。
94年に「ザ・フー」の「ロック・オペラ“トミー”」のミュージカル版のアルバムでグラミー賞受賞。96年にはナイトの爵位が授与。
97年のダイアナ妃の葬儀ではエルトン・ジョンが披露した「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」の制作に携わり、
02年にエリザベス女王即位50周年コンサートの総監督を務めた。
そして今回、キャメロン英首相も「音楽の巨人だった。
ビートルズと共に世界で最も不朽のポップ音楽を創り出した」と、追悼のコメントを出した。
このように突出した足跡を遺こされた御方であり、つたない私でもご冥福を祈ったりした・・。
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確か1966年(昭和41年)の初めの頃だったと思われるが、
1948年〈昭和23年〉生まれの妹がビートルズに熱愛して、数多くのレコードを買い求めて、盛んに聴いていたので、
たまたま私はこの曲を知った・・。

この頃の私は、大学を中退し、映画、文学青年の真似事をしていて、
食寝を忘れるくらいに映画作品を映画館で観たり、 小説の数多くの作品を読みふけっていたので、
音楽を聴く余裕もなかった時だった。
ときおり妹が、生家の応接間にあるステレオで、ビートルズを大きな音量で聴いていても、
私はうるさいと感じながら、騒音のような音楽としか聴こえてこなかった。
こうした中のある時、メロディー・ラインが良く、英語の詩も良い、と直感した曲が、
この後に、妹から曲名を教えて貰ったのが『イエスタディー』であった。
その後、妹はビートルズが1966年(昭和41年)の6月下旬に来日公演の時、
学校では禁止されていたが、無視して何とか日本武道館に行って、
公演には満足した、と私に言ったりしていた。
このように妹は、団塊世代でこの当時は高校の初めの頃であったから、
何事も一番感化されやすい時であるので、音楽面はたまたまビートルズに熱中した、と思われる。
この当時の私は二十歳を過ぎたせいか、或いは映画・文学に熱愛していたので、
音楽を聴く余裕もない時でもあり、ビートルズからは音楽の影響は受けなかった。

その後、私が1970年(昭和45年)にある民間会社に中途入社した前後は、
音楽のポピュラーとして影響を受けたのは、
サイモン&ガーファンクルの『スカボロー・フェア』、『明日に架ける橋』等の一連であった。
私は音楽に関しては、楽譜も読めない素人であり、つたない感性を頼りに聴いたりしているが、
もとよりメロディーも大切であるが、このアーティストは、何を伝えたいのか、という命題を重要視するので、
作詞を優先するひとりである。
まもなくして、私はシャンソンの世界にに魅せられ、百枚程度のアルバムを買い求めたりし、聴き込んだりしていたが、
特にシャルル・アズナヴールには、魅了させられた。
ある程度の大人の年齢になり、若き日の青年時代の愛惜を秘めた『帰り来ぬ青春』(1964年)、
そして『遠い想い出』(1971年)は、私は友人たちに絶賛したりした。
このような時に、ビートルズの『イエスタディー』(1965年)が甦(よみがえ)ってきた。
そしてビートルズのメンバーが、あの若い時に《青春時代》を凝縮させた表現出来たのは、
天才という言葉以外は見つからず、唖然とさせられながら、絶賛した。
この『イエスタディー』の曲は、世界の著名の歌手に多く歌われ、
日本に於いても名のある歌手も多く取り上げていた。
私は、少なくとも10人以上の歌い手のレコード、カセット、その後はCDで聴いて、今日に至っている。

こうした間に、映画の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984年)に於いて、
ロバート・デ・ニーロが扮する主人公が駅構内で過去を回想するシーンに、この曲が流れた・・。
私はこの感性には思わずうなり、そして瞬時に魅了された。
映画の音楽は、このように使うと映画の画面が引き立ち、効果のある見本でもある。
このことは、監督・脚本のセルジオ・レオーネ、そして音楽のエンニオ・モリコーネの功績であるのは、いうまでもない。
私はビートルズからは影響は受けてはいないが、このたった一曲の『イエスタディー』の曲だけは、
最初に聴いてから、突出した青春の日々の愛惜歌である、とここ50年絶賛しているひとりである。

昨夜、ビートルズ育てた音楽プロデューサーのジョージ・マーティンさんの逝去を知った。
たまたま私は音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
管理畑、情報畑、営業畑などを勤務し、音楽の制作に携わらなかった私でも、
ビートルズ育てた伝説の人、音楽プロデューサーのジョージ・マーティンさんの知名は知っていた。
そして日本にビートルズを普及された御方は、私が勤めた他社の高嶋弘之さんであるが、
少なくとも業界の常識であった。
このように心情を秘めてきた私が、高嶋弘之さんがジョージ・マーティンさんの逝去に伴い、
どのようなコメントをされるか、私は知的な好奇心があったりした・・。
たまたま今朝の読売新聞を読んでいたら、文化面の記事のひとつに、
【 ジョージ・マーティンさんを悼む ビートルズ育てた柔軟性・・・高嶋弘之 】
と題した記事が掲載され、私は精読し、改めてジョージ・マーティンさんに敬意を重ねた。
無断であるが、この記事を転記させて頂く。

《・・2014年2月に私がプロデュースしている音楽グループ「1966カルテット」のレコーディングで
ロンドンにあるアビイ・ロード・スタジオを訪れました。
私は日本のレコード会社でビートルズの担当ディレクターをしていたので、ジョージ・マーティンさんが、会いに来てくださったんです。
紳士的で、物腰もやわらか。
「これからのプロデューサーはレコーディングだけではなくて、
コンサートも含め、アーティストの動き全体を仕切らないといけない」と話していました。
90歳近いのに、音楽界のこれからの展望を考えていたんですね。
ビートルズのメンバーは、すごい才能を持っていました。
けれど、彼らをまとめあげたマネジャーのブライアン・エプスタインさんとマーティンさんがいなかったら、
ここまでの成功を収めていないと思います。
別のオーディションでは、落とされた彼らとの契約を決め、レコードデビューさせたんですから。
まだまだ未知数の彼らの才能を見抜いたわけです。

マーティンさんは、クラシックの知識やそれまでのプロデューサーとしての経験があったから、音楽的なアイデアも豊富。
「イエスタデイ」に弦楽四重奏を加えるなど、編曲のセンスも素晴らしい。
弦楽四重奏を使うなんて、当時のロックバンドとしては画期的です。
ビートルズは初期のシンプルなサウンドから、サイケデリックロック、インド風など次々と新しいスタイルを取り入れていきました。
それまでの音楽的な常識を打ち破ろうとする4人の若者。
そして柔軟な考え方のできるプロデューサー。
この組み合わせが最高だった。
自分のやり方を押しつけるタイプだったら、ここまで自由にできない。
アーティストの才能を引き出し、一緒に考え、伸ばした。
彼の貢献があってこそ、プロデューサーの地位も上がったと思います。
今年は1966年のビートルズ来日から、ちょうど50年です。
いろいろ聞きたいこともあって、また、おじゃましたいと思っていただけに本当に残念です。(高嶋音楽事務所社長、談)・・》
このように高嶋弘之さんは、ジョージ・マーティンの功績を讃えている。

この後、確かスポーツ新聞に掲載されていた記事を私は読み、微笑んだ記事があった。
《・・ポール・マッカートニーはこの日、自身のホームページで追悼。
「僕にとって第二の父のような存在だった。ジョージこそ、5人目のビートルズだ」と断言した。
クラシック出身のマーティンさんとの思い出は「Yesterday」制作時のエピソードを挙げた。
「僕がギターを弾いて、ソロで歌ったらどうかと提案したら、ジョージは『弦楽器の四重奏を入れたい』と。
僕はロックンローラーなんだから、ダメだって答えたんだ」。
だが、実際にレコーディングするとマーティンさんのアイディアが正しかったことが分かり
「何週間も興奮したよ。結局、この曲はフランク・シナトラ、エルビス・プレスリーらがカバーし、
史上最もレコーディングされた曲の一つになったんだからね」とその手腕をたたえた。・・》

余談であるが、ジョージ・マーティンさんの略歴は、
1926年1月3日、ロンドン生まれ。オーボエ奏者として活動後に音楽プロデューサーに就任。
ビートルズのほか、ジェフ・ベックら700枚以上のレコードをプロデュースした。
94年に「ザ・フー」の「ロック・オペラ“トミー”」のミュージカル版のアルバムでグラミー賞受賞。96年にはナイトの爵位が授与。
97年のダイアナ妃の葬儀ではエルトン・ジョンが披露した「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」の制作に携わり、
02年にエリザベス女王即位50周年コンサートの総監督を務めた。
そして今回、キャメロン英首相も「音楽の巨人だった。
ビートルズと共に世界で最も不朽のポップ音楽を創り出した」と、追悼のコメントを出した。
このように突出した足跡を遺こされた御方であり、つたない私でもご冥福を祈ったりした・・。
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