私は東京都の調布市の片隅みに住む年金生活の男性の71歳の身であるが、
先程、ネットでニュースを見ている中で、
【 阿川佐和子さん「50代“ゼロからのスタート”の面白さ」 [おとなスタイル] 】
と見出しを見て、遠い親戚の姪っ子ように長年思っている私は、クリックして精読してしまった・・。
この講談社の【JOSEISHI.NET 】に於いて、本日3月23日に配信されて、
原文は講談社からシニア女性向けライフスタイル誌『おとなスタイル』として、2015年8月25日創刊され、
この創刊号に阿川佐和子さんがインタビューに応じて、メッセージされた内容であった。
阿川佐和子さんが意気軒昂に明るく50代からの人生観を発露される中で、整然とした人生哲学あり、
つたない人生航路を歩んできた私でも、そうですよねぇ、と同意を深めたりした・・。
無断であるが転載させて頂く。

《・・“ゼロからのスタート”って、いくつになってもまだまだある。その喜びと刺激を味わって!
歳を取るとまぶたがどんどん垂れてくるし、お腹とか腰回りに肉はつくし、物理的に嫌なことは山のようにありますよ。
だけど、じゃあ若い頃に戻りたいかというと、いやいや、私は全然そうは思わない。
今の生活のほうが刺激的で面白いし、世間とつきあうのもずっと楽しくなりました。
いろんなことを積み重ねて、ある程度のことには慣れてきたはずなのに、
まるで“幼稚園児のような”状態に戻ることって、まだあるんですよ。
50歳の誕生日の1週間後にゴルフを始めたら、なんて楽しいんだろう、とハマっちゃって。
その日は160打近く叩いたし、右も左もわからなかったけど、それがまたうれしい。
「ナントカの手習い」ではないですが、“ゼロからのスタート”をまだ味わえる、その喜びったら!(笑)
以前、100歳を目前に控えた婦人解放運動家の故・加藤シヅエさんにインタビューしたことがあり、
いつまでも若い気持ちでいる秘訣を伺ったら、「一日10回、感情を動かすこと」とおっしゃったんです。
うれしいとか素敵というプラスの感情だけでなく、腹が立つとか悲しいというのも含めて、
心を10回動かすことが大切、と。
その言葉が、今でも記憶に残っています。
「世の中、大体こんなもんよ」って言い出したら、おしまい。
自分の常識と違うことは、世の中には、まだまだあるわけですから。
その10回を常に探しているほうが、人生、断然面白いよね。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年の秋、
大学を中退して、映画青年の真似事をした後、養成所の講師の知人のアドバイスに寄り、
文學青年の真似事をしたりした。
こうした中で、中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいであった
と思われる文学全集を読んだりした。
やがて講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた文学全集を購読し、
第15巻として『阿川弘之、有吉佐和子』が、1966年(昭和41年)7月に発刊された。
これ以前に、阿川弘之・著作は、確か新潮文庫であったと記憶しているが、
『春の城』(1953年)、『雲の墓標』(1954年)を二十歳過ぎの時に読んだりした。
特に『雲の墓標』は、阿川弘之氏が純文学月刊雑誌のひとつの『新潮』に、
1954年(昭和29年)に於いて、連載し発表された作品である、と学びながらも、
私はこの戦時中の時代の空気も描かれ、
鹿屋基地にある海軍海兵団の青少年の心情も深く表現されている作品に感銘を受けたひとりであった。
そして私は、《・・雲こそ吾が墓標、落暉よ碑銘をかざれ・・》の一節にも感銘させられて、
この小説は、私の人生観を揺さぶられたひとつの書物となっていた。
そして『われらの文学』に於いて、氏の未読だった作品を読んだりし、
氏の『文学的出発の頃』を読みながら、敗戦後の野間 宏さんなどの戦後派の作家の隆盛の中で、
清貧の生活の中で、氏の文学を確立されるまでの状況に圧倒的に感銘をさせられた。

やがて第三の新人と称される庄野潤三、遠藤周作、安岡章太郎、北 杜夫など各氏と共に、
氏の作品を読んだりしてきた。
そして漢詩のひとつ『年々歳々 花相似 年々歳々 人不同・・』、
中国の初唐時代の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が遺(のこ)された詩であるが、
私は阿川弘之氏の作品から学んだひとつの詩である。
或いは上記に明記された以外の作品でも、『舷燈』(1966年)、『故園黄葉』(1999年)、
『葭の髄から』(2000年)、『春風落月』( 2002年)、『大人の見識』( 2007年)
『天皇さんの涙 葭の髄から・完』( 2011年)などが愛読したりした。
私は氏の数多く小説、随筆を乱読してきたが、特に日本人として思考、中庸の大切さ、礼節など深く教示させられ、
私は小学2年時に父に病死された為か、氏には慈父のように敬愛を重ねてきた。

この間、阿川弘之、阿川佐和子・共著の『蛙の子は蛙の子 ~父と娘の往復書簡~』(ちくま文庫)は、
ここ10数年、再三に私は愛読している本でもある。
父は1920年(大正9年)、娘は1953年(昭和28年)生まれの社会背景の中、
父から娘、娘から父への想いが真摯に綴られている。
父の阿川弘之氏は、戦後の文学風潮の中、小説家としての自己の文学の悩みなど発露され、
敗戦後から平成の8年までの、単なる家族関係でなく、
社会風潮も根底に秘められ、私なりに学ぶことが多いのである。
或いは阿川弘之氏の数多くの随筆の中で、ご家族の状況を描かれ、
この中のひとりとして長女・佐和子さんも記載されていた。
このように私は、阿川弘之氏の愛読者のひとりであったので、長年読んだりすると、
佐和子さんの学生時代、その後のご様子も解り、
何かしら私にとっては、親戚の娘の姪っ子が10代から育つ情態が手に取るように、
氏の随筆から佐和子さんの軌跡を解ったりした。
たまたま2011年の10月初旬に、阿川佐和子さんは、
確かNHKのテレビの朝の番組【生活ほっとモーニング「この人にトキメキっ!】に於いて出演されていた。
《・・大学を卒業後、人生に彷徨(さまよい)いながら、
テレビの副司会者として起用されたのは、父上の阿川弘之氏からの親の七光り・・
その後は筑紫哲也氏などの番組の副司会者として出演でき、親の七光り・・ですから親の14光り、かしら ・・》
このような意味合いの言葉を発言されたりし、私はこの御方の感性に、瞬時に魅了されたりした。
もとより阿川佐和子さんは多くのエッセイ、小説を発表されているが、
初期の頃は父上の阿川弘之氏の文章の手ほどきを受けたりし、その後も文章を綴ることの労苦を味わっていたことを
阿川佐和子さんの初期のエッセイで、私は知ったりした。
この番組で、《・・父が母と子供4人を、筆1本で家族を養ったこと・・》
と感謝しながら発言された感覚に、
改めて私は阿川佐和子さんのこれまでの軌跡を思い重ね、
この方の言葉、笑顔、しぐさに私は魅了され増したりした・。

やがて2012月1月に、阿川佐和子さんは『聞く力 ~心をひらく35のヒント』(文春新書)を上梓され、
昨今の出版不況の中、100万部を超えるヒット作となった。
こうした中、総合月刊雑誌の『文藝春秋』(平成24年10月号)の定例コーナーの『日本の顔』に於いて、
阿川佐和子さんが取り上げられた・・。
そして阿川佐和子さんの日常生活が公開され、こうした中で父上の阿川弘之さんがご病気で、入院されて、
娘の佐和子さんが、お見舞いに訪れる情景の写真があった。
私は阿川弘之さんが90歳を過ぎ、やはり心身ご健在だった人でも、
御歳を召された、と悲しんだりした。
そして阿川弘之さんは、異例な寄稿文を綴り、父親がこの先の娘に案じる深い思いに、
私は読み終わった後、涙を浮かべたりした・・。
《90歳を過ぎてから、小生、身体のあちこちに故障が生じ、都内の某病院に入院、現在は、療養中です。
人と話すとひどく疲れるのでお見舞ひはすべて拝辞、勝手ながら「面会謝絶」といふことにしてをります。
失礼の段、どうぞお許しください。
それと併せてもう一つ、娘佐和子の件。
至らぬ者が今回、この欄に登場と決まり、望外の栄誉なれども、
親の立場としてはやはり若干の憂慮を抱かざるを得ません。
読書の皆さん、旧知の編集者諸賢、彼女が今後、どのやうな歩み方をするか、
厳しく、かつ、あたたかく行く末を見守ってやつて頂きたい。
(虫がいいけれど)くれぐれもよろしくとお願ひする次第です。》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
私は阿川弘之さんのご著書を愛読して、50数年になり、
阿川佐和子さんのご著書は、姪っこに対する心情のような思いで、ここ18年ばかり読んだりしている。
昨年の8月3日、阿川弘之さんは老衰のため逝去、と公表された5日の新聞で知り、
慈父ように敬愛してきた私は、ご冥福をお祈りした後、氏の遺(の)された数多くの作品を再読したりした・・。

私は若き日に映画・文学青年の真似事をしたが、やがて敗退して、
やむなく民間会社に中途入社できたのは、1970年(昭和45年)4月であった。
そして私は苦楽の激しい中小業の民間会社に35年近く奮戦して、何とか2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたが、
この間、幾たびかリストラがあったりしたが、何とかくぐり抜けたが、最後の5年半はリストラ烈風となる中、
出向となったりし、つたないサラリーマン時代を過ごしたりした。
そして定年退職後は多々の理由で年金生活を始めて、早や12年生となっている。
私は殆ど毎日、自宅から3キロ範囲にある遊歩道、小公園を独りで歩きながら、
過ぎ去った日々に愛惜をしたり、これから到来する未知の日々に希望を託して、
70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
こうした中で、私は母の遺伝を素直に受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。
或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

そして知的好奇心が衰えず、相変わらず随筆、ノンフィクション、近現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりしている時もある。
こうした中で、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
独りで歩き廻ったりして、 季節の移ろいを享受している。
このようにサラリーマンから卒業してから、何かと制約から解放されて、自由時間が多い中、
過ごしてきた為か、遅ればせながら私としては、「60代“ゼロからのスタート”の面白さ」を実感している。
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先程、ネットでニュースを見ている中で、
【 阿川佐和子さん「50代“ゼロからのスタート”の面白さ」 [おとなスタイル] 】
と見出しを見て、遠い親戚の姪っ子ように長年思っている私は、クリックして精読してしまった・・。
この講談社の【JOSEISHI.NET 】に於いて、本日3月23日に配信されて、
原文は講談社からシニア女性向けライフスタイル誌『おとなスタイル』として、2015年8月25日創刊され、
この創刊号に阿川佐和子さんがインタビューに応じて、メッセージされた内容であった。
阿川佐和子さんが意気軒昂に明るく50代からの人生観を発露される中で、整然とした人生哲学あり、
つたない人生航路を歩んできた私でも、そうですよねぇ、と同意を深めたりした・・。
無断であるが転載させて頂く。

《・・“ゼロからのスタート”って、いくつになってもまだまだある。その喜びと刺激を味わって!
歳を取るとまぶたがどんどん垂れてくるし、お腹とか腰回りに肉はつくし、物理的に嫌なことは山のようにありますよ。
だけど、じゃあ若い頃に戻りたいかというと、いやいや、私は全然そうは思わない。
今の生活のほうが刺激的で面白いし、世間とつきあうのもずっと楽しくなりました。
いろんなことを積み重ねて、ある程度のことには慣れてきたはずなのに、
まるで“幼稚園児のような”状態に戻ることって、まだあるんですよ。
50歳の誕生日の1週間後にゴルフを始めたら、なんて楽しいんだろう、とハマっちゃって。
その日は160打近く叩いたし、右も左もわからなかったけど、それがまたうれしい。
「ナントカの手習い」ではないですが、“ゼロからのスタート”をまだ味わえる、その喜びったら!(笑)
以前、100歳を目前に控えた婦人解放運動家の故・加藤シヅエさんにインタビューしたことがあり、
いつまでも若い気持ちでいる秘訣を伺ったら、「一日10回、感情を動かすこと」とおっしゃったんです。
うれしいとか素敵というプラスの感情だけでなく、腹が立つとか悲しいというのも含めて、
心を10回動かすことが大切、と。
その言葉が、今でも記憶に残っています。
「世の中、大体こんなもんよ」って言い出したら、おしまい。
自分の常識と違うことは、世の中には、まだまだあるわけですから。
その10回を常に探しているほうが、人生、断然面白いよね。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年の秋、
大学を中退して、映画青年の真似事をした後、養成所の講師の知人のアドバイスに寄り、
文學青年の真似事をしたりした。
こうした中で、中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいであった
と思われる文学全集を読んだりした。
やがて講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた文学全集を購読し、
第15巻として『阿川弘之、有吉佐和子』が、1966年(昭和41年)7月に発刊された。
これ以前に、阿川弘之・著作は、確か新潮文庫であったと記憶しているが、
『春の城』(1953年)、『雲の墓標』(1954年)を二十歳過ぎの時に読んだりした。
特に『雲の墓標』は、阿川弘之氏が純文学月刊雑誌のひとつの『新潮』に、
1954年(昭和29年)に於いて、連載し発表された作品である、と学びながらも、
私はこの戦時中の時代の空気も描かれ、
鹿屋基地にある海軍海兵団の青少年の心情も深く表現されている作品に感銘を受けたひとりであった。
そして私は、《・・雲こそ吾が墓標、落暉よ碑銘をかざれ・・》の一節にも感銘させられて、
この小説は、私の人生観を揺さぶられたひとつの書物となっていた。
そして『われらの文学』に於いて、氏の未読だった作品を読んだりし、
氏の『文学的出発の頃』を読みながら、敗戦後の野間 宏さんなどの戦後派の作家の隆盛の中で、
清貧の生活の中で、氏の文学を確立されるまでの状況に圧倒的に感銘をさせられた。

やがて第三の新人と称される庄野潤三、遠藤周作、安岡章太郎、北 杜夫など各氏と共に、
氏の作品を読んだりしてきた。
そして漢詩のひとつ『年々歳々 花相似 年々歳々 人不同・・』、
中国の初唐時代の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が遺(のこ)された詩であるが、
私は阿川弘之氏の作品から学んだひとつの詩である。
或いは上記に明記された以外の作品でも、『舷燈』(1966年)、『故園黄葉』(1999年)、
『葭の髄から』(2000年)、『春風落月』( 2002年)、『大人の見識』( 2007年)
『天皇さんの涙 葭の髄から・完』( 2011年)などが愛読したりした。
私は氏の数多く小説、随筆を乱読してきたが、特に日本人として思考、中庸の大切さ、礼節など深く教示させられ、
私は小学2年時に父に病死された為か、氏には慈父のように敬愛を重ねてきた。

この間、阿川弘之、阿川佐和子・共著の『蛙の子は蛙の子 ~父と娘の往復書簡~』(ちくま文庫)は、
ここ10数年、再三に私は愛読している本でもある。
父は1920年(大正9年)、娘は1953年(昭和28年)生まれの社会背景の中、
父から娘、娘から父への想いが真摯に綴られている。
父の阿川弘之氏は、戦後の文学風潮の中、小説家としての自己の文学の悩みなど発露され、
敗戦後から平成の8年までの、単なる家族関係でなく、
社会風潮も根底に秘められ、私なりに学ぶことが多いのである。
或いは阿川弘之氏の数多くの随筆の中で、ご家族の状況を描かれ、
この中のひとりとして長女・佐和子さんも記載されていた。
このように私は、阿川弘之氏の愛読者のひとりであったので、長年読んだりすると、
佐和子さんの学生時代、その後のご様子も解り、
何かしら私にとっては、親戚の娘の姪っ子が10代から育つ情態が手に取るように、
氏の随筆から佐和子さんの軌跡を解ったりした。

たまたま2011年の10月初旬に、阿川佐和子さんは、
確かNHKのテレビの朝の番組【生活ほっとモーニング「この人にトキメキっ!】に於いて出演されていた。
《・・大学を卒業後、人生に彷徨(さまよい)いながら、
テレビの副司会者として起用されたのは、父上の阿川弘之氏からの親の七光り・・
その後は筑紫哲也氏などの番組の副司会者として出演でき、親の七光り・・ですから親の14光り、かしら ・・》
このような意味合いの言葉を発言されたりし、私はこの御方の感性に、瞬時に魅了されたりした。
もとより阿川佐和子さんは多くのエッセイ、小説を発表されているが、
初期の頃は父上の阿川弘之氏の文章の手ほどきを受けたりし、その後も文章を綴ることの労苦を味わっていたことを
阿川佐和子さんの初期のエッセイで、私は知ったりした。
この番組で、《・・父が母と子供4人を、筆1本で家族を養ったこと・・》
と感謝しながら発言された感覚に、
改めて私は阿川佐和子さんのこれまでの軌跡を思い重ね、
この方の言葉、笑顔、しぐさに私は魅了され増したりした・。

やがて2012月1月に、阿川佐和子さんは『聞く力 ~心をひらく35のヒント』(文春新書)を上梓され、
昨今の出版不況の中、100万部を超えるヒット作となった。
こうした中、総合月刊雑誌の『文藝春秋』(平成24年10月号)の定例コーナーの『日本の顔』に於いて、
阿川佐和子さんが取り上げられた・・。
そして阿川佐和子さんの日常生活が公開され、こうした中で父上の阿川弘之さんがご病気で、入院されて、
娘の佐和子さんが、お見舞いに訪れる情景の写真があった。
私は阿川弘之さんが90歳を過ぎ、やはり心身ご健在だった人でも、
御歳を召された、と悲しんだりした。
そして阿川弘之さんは、異例な寄稿文を綴り、父親がこの先の娘に案じる深い思いに、
私は読み終わった後、涙を浮かべたりした・・。
《90歳を過ぎてから、小生、身体のあちこちに故障が生じ、都内の某病院に入院、現在は、療養中です。
人と話すとひどく疲れるのでお見舞ひはすべて拝辞、勝手ながら「面会謝絶」といふことにしてをります。
失礼の段、どうぞお許しください。
それと併せてもう一つ、娘佐和子の件。
至らぬ者が今回、この欄に登場と決まり、望外の栄誉なれども、
親の立場としてはやはり若干の憂慮を抱かざるを得ません。
読書の皆さん、旧知の編集者諸賢、彼女が今後、どのやうな歩み方をするか、
厳しく、かつ、あたたかく行く末を見守ってやつて頂きたい。
(虫がいいけれど)くれぐれもよろしくとお願ひする次第です。》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
私は阿川弘之さんのご著書を愛読して、50数年になり、
阿川佐和子さんのご著書は、姪っこに対する心情のような思いで、ここ18年ばかり読んだりしている。
昨年の8月3日、阿川弘之さんは老衰のため逝去、と公表された5日の新聞で知り、
慈父ように敬愛してきた私は、ご冥福をお祈りした後、氏の遺(の)された数多くの作品を再読したりした・・。

私は若き日に映画・文学青年の真似事をしたが、やがて敗退して、
やむなく民間会社に中途入社できたのは、1970年(昭和45年)4月であった。
そして私は苦楽の激しい中小業の民間会社に35年近く奮戦して、何とか2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたが、
この間、幾たびかリストラがあったりしたが、何とかくぐり抜けたが、最後の5年半はリストラ烈風となる中、
出向となったりし、つたないサラリーマン時代を過ごしたりした。
そして定年退職後は多々の理由で年金生活を始めて、早や12年生となっている。
私は殆ど毎日、自宅から3キロ範囲にある遊歩道、小公園を独りで歩きながら、
過ぎ去った日々に愛惜をしたり、これから到来する未知の日々に希望を託して、
70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
こうした中で、私は母の遺伝を素直に受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。
或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

そして知的好奇心が衰えず、相変わらず随筆、ノンフィクション、近現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりしている時もある。
こうした中で、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
独りで歩き廻ったりして、 季節の移ろいを享受している。
このようにサラリーマンから卒業してから、何かと制約から解放されて、自由時間が多い中、
過ごしてきた為か、遅ればせながら私としては、「60代“ゼロからのスタート”の面白さ」を実感している。
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