夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

東日本大震災5年、あの時あなたは・・、無力な私はご冥福を祈った後、やがて・・。

2016-03-11 13:06:31 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
今朝6時半過ぎ洗面した後、玄関の軒下に下り立ち、北の東北地方の太平洋沿岸に向い、襟を正して黙祷した・・。

もとより5年前のこの日、東日本大震災と称される東北地方の太平洋沿岸を中核に、
1万8000人を超える死者・行方不明者の御方に、無力な私はご冥福を祈ったりした・・。
            

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む身であるが、
この日、私は家内と共に最寄の駅前で買物と散策を5時間ばかりして帰宅した後、
まもなく我が家は大揺れとなった。

私たち夫婦は居間にいたが、地震、と気付いたが、長らく揺れた。

この後、本棚が本が床に落ちたり、2階の寝室のテレビが畳の上に落下し、
或いは浴室のタイル壁にひび割れが一部あったりし、
このような強い地震は、我が家としては35年近くでは、初めての体験であった。

やがてテレビでNHKニュースを視聴し、各地域で多大な災害に驚嘆した。
この後、千葉県に住む家内の母宅、私の妹宅に電話連絡をしたり、
お互いの被害状況を確認したりした。

この後の私は、我が家は東京ガスであるので、
ガス供給は自動的に遮断されたので、家屋の外れにあるガス供給元装置で、
添付さている東京ガスの指示マニアルカードを見ながら、復旧させたりした。

そして、この後も余震が続いたりし、不安げにNHKニュースを視聴したりしている。
宮城県北部で震度7に伴い大津波警報となり、仙台で10m大津波が観測され、
岩手や宮城で数多く家屋が流されるいる、と報じられ、私は震撼させられた・・。
            

翌朝、昨日に発生した観測史上最大の地震の東日本巨大地震、
これに伴う大津波などに寄る大惨事に関するニュースを、
読売新聞で読んだり、テレビでNHKニュースを視聴し、各地域で甚大な災害に驚嘆した・・。

私は数多くの記事を読みながら、私は実態を学べば改めて動顚させられたり、涙ぐんだりした・・。
この中のひとつには、【振り返ったら、大津波「防風林越えやってきた」】を無断ながら、転記させて頂く。

《・・「ゴーともザーともつかない、聞いたことのない音がして、
振り返ったら、波が防風林を越えて、こっちへ押し寄せてきた」

7・3メートル以上の津波が押し寄せた福島県相馬市。
同市大迎の会社員荒一志さん(51)は、恐怖をそう振り返った。

大迎地区は海岸から約2・5キロ。
津波は防波堤と防風林、沿岸の集落すべてを押し流し、地区のすぐ手前まで迫ってきた。

「車が数台、波に追われるように必死でこちらへ逃げて来るのが見えた。
いつ津波が来るかわからず、家に戻れない」。
同地区の高台で疲れた様子で語った。

この地区では、瓦が家の中を埋め尽くしていた。
地区の高台からは、住宅街が見渡せるはずだったのに、
今は一面に海水が広がり、取り残された住宅や防風林の残骸が、ぽつぽつと見えるだけだ。

自宅の様子を見に戻って来た若い女性2人は
「なんにもなくなった・・」と、肩を落とした。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私はこの記事を読みながら、平素は温暖なこの地域が、
突然の大地震に寄り、大津波が発生して、海岸から約2・5キロ離れたこの地域に於いて、
防風林をのり越えて、襲来した大津波を思い浮かべると、動顚した。

そして大津波が一時的に去った後は、
《・・一面に海水が広がり、取り残された住宅や防風林の残骸が、ぽつぽつと見えるだけだ・・》
私は読みながら、涙を浮かべた。

この後、《・・自宅の様子を見に戻って来た若い女性2人は
「なんにもなくなった……」・・》
私は読みながら、涙が頬に流れた。

日常はたおやかに過ごされ、生活の糧(かて)である田畑など、
そして肝要の住まいの家は、瓦が家の中を埋め尽くされたり、
或いは流されて跡形もない状況に思いを重ねたりしたのである。

余りにも過酷であり、悲惨である。
            

そして読売新聞の朝刊の一面には、《 東日本 巨大地震 》、《 M8.8 死者・不明多数 》、
《 宮城震度7 10メートル大津波と火災 》と一面に大きく見出しされ、
そして【各地の震度】という図説を私は長らく見つめた・・。

《 震源地 M8.8(14時46分) 》が宮城県の仙台市の遥か海上で、
《 震源地 M7.4(15時15分) 》が茨城県の水戸市の遥か海上で、
《 震源地 M6.6(16時29分) 》が宮城県の栗原市周辺の海上で、

このような図説を見ながら、私は身震いしながら、見つめたりした。


この後、3、4面に於いては、《 観測史上最大 浅い震源 津波強大化 》、《 数百キロ断層動く 》、
《 内陸部 未曾有の被害 》、《 阪神の180倍エネルギー 》
と見出しされた記事を、動顚しながら読んだりした。

この後、私はテレビでNHKニュースを視聴し、各地域で多大な災害に驚嘆し、
特に避難されている各施設に於いて、
停電で電気もない暗い中で、ガスの供給も遮断され寒い中、水や食料もままならない悲惨な状況を、
涙を浮かべながら視聴していた。

そして余りにも悲惨な多くの人たちが未曾有の壊滅的な災害に遭遇し、
特に亡くなわれた多くの人に、無力な私は、ただご冥福の言葉を重ねたりした。

こうした中で、都心のお勤めの方たちが、都心の公共交通機関が止まり、
帰宅がままならない状況を見つめていたりしていた・・。

この間、ときおり我が家も余震があり、深夜に寝室の布団にもぐりこんだが、
不安な心情で寝付いたりした。
            

私は今日まで、東日本大震災と称される東北地方の太平洋沿岸の地震に伴う大津波は天災であるが、
福島原発には人災と思案してきたひとりである。

私は無力な身であり、不幸にも亡くなわれた方に、改めてご冥福を祈ったりした・・。


私は今朝、読売新聞の読んだりした中で、特に精読した記事があった。
12ページに【想う2016】の定例記事があり、
今回は【震災5年「あの日」を 見つめ続けて】と題された記事であった。

《・・東日本を襲った未曽有の災禍から5年、日本はいまだ復興途上にある。
被災地・釜石で人々の命と暮らしを見つめ続ける俳人、そして政府の福島第一原発事故調査・検証委員長を務めた工学者に
「あの日」から5年の想おもいを聞いた・・》と主旨であった。

そして私は企画委員・知野恵子さんが、インタビューされた元政府原発事故調査委員長・畑村洋太郎さんの論説であった。

畑村洋太郎さんは、私は未知の人であったで、略歴を読んだりし、
《・・東大名誉教授。消費者庁消費者安全調査委員会委員長。政府の福島第一原発事故調査・検証委員会委員長も務めた。
専門は失敗学など。失敗や事故を分析し、知識を有効活用する活動を続けている。NPO失敗学会会長。75歳。・・》
と初めて知ったりした。

私は多々教示され、多くの人に共有を求めたく、無断ながら記事を転記させて頂く。
            

《・・「見たくないものは見えない。見たいものが見える」。
東日本大震災が日本に突きつけたのは、そうした人間の心理や行動の問題点だ。

大地震、大津波、東京電力福島第一原子力発電所事故を巡って、「想定外」という言葉が盛んに使われた。
だが、本当にそうか。実際は見ようとしなかっただけではないか。

例えば、福島県沖を震源とする大規模な地震や津波の可能性を指摘する知見が増えていた。
しかし、それに注目しなかった。

三陸海岸や福島第一原発の地域は、過去に大津波に襲われているが、その体験を生かせなかった。


政府や電力会社は、原発事故は、起こらないと言い続けた。
一般の人も同様だ。
原発は安全だ、事故は絶対に起きない、などと言われると、そうなんだろうなと思って、それ以上考えようとしないところがあった。

皆、自分の都合の良いように考え、見たいものだけを見て、見たくないものは見なかった。
そのつけが回ったのが東日本大震災だ。
            

今、日本列島では地震、津波、火山噴火、豪雨など災害が多発している。
いずれ東海・東南海・南海の3連動地震が起きて、大きな被害をもたらす恐れがある。

大災害は、発生の間隔が長い。30年あいたら世代が変わる。
経験した知識を生かせるのは、せいぜい60年だ。

それ以上になると、社会から災害の記憶が消える。
東日本大震災で起きたことや教訓を生かす対策を、次世代に引き継ぐことが今の世代の役割だ。

            

☆想定外の自然

頭にたたき込まねばならないのは、人間が考えることには、限界があることだ。
いくら想定をしても、自然は、それに拘束されない。

人間が気づかない領域が残り、災害時に牙をむく。
自然災害でも原発でも、絶対安全などありえない。
その意味では完全な防災は無理だ。

社会全体のお金や労力にも、限りがある。
何にどう振り分けるか。被害の程度をできるだけ小さくする「減災」に向け、皆で知恵を絞る必要がある。

そうしたことを理解した上で、様々なリスク対策を考えないといけない。

例えば、津波対策として防潮堤の高さを巡る議論が戦わされている。
10メートルにしようとか、いや15メートルは必要だとかだ。

しかし、防潮堤がありさえすれば、津波を防げるわけではない。
防潮堤の大事な役割は、津波の到達を遅らせ、人々が逃げる時間を少しでも多く稼ぐことだ。

だから、15メートルのものを作れるところは作ればいいし、作れないなら10メートルでいい。
ただ、同時に住民が逃げる訓練や演習をすべきだ。
それによって生命を守るには、まだ何が足りないかわかる。

リスクを自覚した上で使うなら、原発はエネルギー供給源として欠かせない。
政府、電力会社は、現在の知識や技術では、解決できない点もあると宣言すべきだ。

しかし「なら、もっとちゃんとやれ」と言われるのを恐れている。
その結果、不可能なのに可能であるかのような、幻想に身をゆだねてきた。
それを打ち破らないと、東日本大震災から学んだことにならない。
            

私は福島第一原発事故に関する政府の調査・検証委員会の委員長を務めた。最終報告書の所感で七つの知見を示した。
「見たくないものは、見えない」のほかに、「形を作っただけでは、機能しない」などを挙げた。

だが、まだどれも改善したようには見えない。
この七つは原発事故だけでなく、ほかのことにも共通する。
膨大な借金を抱える政府、少子高齢化と年金問題、安全保障を取り巻く環境の変化など、
今の日本で起きている様々な問題を考える際に役立つはずだ。

◎委員長の七つの知見

 〈1〉あり得ることは起こる。あり得ないと思うことも起こる
 〈2〉見たくないものは、見えない。見たいものが見える
 〈3〉可能な限りの想定と十分な準備をする
 〈4〉形を作っただけでは、機能しない
 〈5〉変化に柔軟に対応する
 〈6〉危険の存在を認め、議論できる文化を作る
 〈7〉自分の目で見て考え、判断・行動する・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

このようにたえず謙虚さを念頭にした上で、反省をして、それぞれの前向きに言動しなさい、と私は解釈した。

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