夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

我が家の年末年始、恥ずかしながら齢を重ねるたびに、変貌して・・。

2019-12-27 14:17:59 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の75歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

こうした中で、御節(おせち)料理に関しては、
私の母が亡くなる1998年〈平成16年〉の生前までは、
家内が奮闘して、世間並みに御節(おせち)料理を三段重として、
素材の購入から料理までを一週間ぐらい要して、ふたセットを作ったりしていた。

こうした中、もとより祝い肴三種として、「数の子」、「黒豆」、「田作り」も、備えていた。
何かしら「田作り」は、カタクチイワシの稚魚を干したのを、
お醤油であめ炊きにしてつくるのよ、と私は家内から教えられたりした。

やがて独り住まいの私の母に、大晦日の日に私は届けた後、
家内の両親を我が家に迎えて、『お年取り』をした後、宿泊して頂き、
翌日の元旦に家内の両親は帰宅されたりした。

この翌日の2日には、私は三男坊の身であり、私の実家で私の長兄宅で、
私の母を中核に、私の兄妹、親戚一同で、華やかに『新年会』を行ってきた。

こうした行事が、私の母が亡くなるまで20数年続いたりした。



この後は、私の長兄宅での『新年会』は消滅し、
家内の両親を我が家に迎えて、『お年取り』をした後、共に新年を迎えることも消え去り、
私たち夫婦は、年末年始に初めて国内の旅路を重ねてきた。

やがて私が定年退職する2004年(平成16年)の秋の直前に家内の父が死去し、
家内の母は独り住まいとなったので、年末年始には我が家に来て貰っている。

そして私たち夫婦は、この時節の年末年始を共に3人で過ごすのが、
14年間続いたりした。

やがて昨年になると、介護・要となってしまった家内の母は、我が家に来るのも難儀となり、
私たち夫婦は15年ぶりに、ふたりだけの年末年始となったりした。



しかしながら、私は新年早々に心臓が悪化して、救急車で病院に搬送されて、
やがて緊急の応急手当を受けて、日帰りで帰宅した。

そして私は安静した状態で正月3が日を過ごすこととなり、
私たちは初めて静かなお正月を過ごすこととなるわねぇ・・と家内から言われたりした。

今回、やむなく生まれて初めて正月三が日は、安静の中、戸惑いながら過ごした・・。                       

お節料理の好みの単品を揃えてきたが、思いがけない病状に、何かとプラス思考の私でも、
失墜感で、うつろな状況で食べたりした。

或いは日本酒、ウィスキー、ビールを年末で準備完了であったが、
一滴も呑めない正月三が日は、二十歳以来初めての出来事となったりした。

やむなく日中のひとときは、寝室の布団の中で身も心も預けて、
本を読んだり、昼寝をして過ごした・・。

この後、3日の深夜、再び心臓の激しい痛みで、やむなく救急車で病院に搬送されて、
やがて8泊9日の入院生活を過ごした。



このような我が家の年末年始であり、恥ずかしながら齢を重ねるたびに、
大いに変貌している・・。

そして今年の年末年始、我が家で私たち夫婦は過ごすが

敗者復活戦のように、今年はすこやかに過ごしたいなぁ・・と微苦笑したりしている。

コメント
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