夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ときおり自身のブログの投稿文より、私は教えられて、独り微苦笑をして・・。

2020-08-28 11:45:25 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活のまもなく76歳の身であるが、
恥ずかしながらガラケーと称される家内の携帯電話を受信だけ体験し、
そしスマホと省略されているスマートフォンも使えない拙(つたな)い身である。

その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンにも無縁であり、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
せめてと思いながら、有線の据え置き型のパソコンとノートパソコンを利用している。

このように無線のモバイル情報機器に、遠い世界の出来事のような思いながら、
稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。




過ぎし年の2004年(平成16年)の秋に民間会社を定年退職後、多々の理由で年金生活を始め、
まもなくブログの世界を知り、国内旅行とか入院、パソコンの故障がない限り、毎日に一通は投稿し、
パソコンを日常の友のひとりとして、愛用している。  
        
私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、
そして年金生活の日々の心情を脚色もないありのままの思い、
真情を投稿文に認(したた)めたく、 あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。





こうした中で、60代の投稿文の内容は、やはり幼年期~現役サラリーマン時代の想いでが多く、
或いは年金生活を過ごす実情を脚色もせず、数多くの綴ってきたりした。

やがて70代になると、自身の体力の衰えを実感して、
健康、病気、介護、葬儀、家計などを学んだことに、
私の思いを前後に加味した投稿文に変貌した内容となり、
まるで餡子(あんこ)の入った『お饅頭(まんじゅう)』のような投稿文となり、独り微苦笑する時もある。  
                                     
従って、数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。
  

                       

こうした中で、一昨日に最寄り駅の近くにある眼科専門医院に通院し、
待合室で待機していた時、(この医院で)白内障の手術を受けたのは、
確か4年前の晩秋だったかしら、
と思いを馳せたりした・・。

しかしながら、過ぎ去った日々は忘れ去ることが多くなり、独り微苦笑をしてしまった・・。

やがて帰宅して昼食後のひととき、パソコンを開き、
自身のブログの投稿文で、白内障の手術を受けた頃を読んだりした・・。

そして2015年11月に白内障の手術を受け、8通ばかり投稿していた・・。

ひさびさに投稿文を読み返して、このような深情で綴っていたのか・・、
と思い重ねて、独り微苦笑をしてしまった。




ここ数年、物忘れが多くなり、溜息を重ねたりしているが、
確か私が小学3年生の頃、 亡き脚本家の菊田一夫(きくた・かずお)さんが
『・・忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ・・』と、
名作の『君の名は』で遺(のこ)された名言に、私は独り微苦笑したりしている。

そして昨今でも、新聞、ネットのニュースなどを読んだり、テレビでニュースを視聴したりすると、
やがて数日後には、忘れてしまうこともあり、つたない私の小さな悩は、 収容できずオバー・フローになり、
 忘れてしまうことで、悩が適度な記憶量に調整を図っている、 と無念ながら思ったりしている・・。




しかしながら時折、家内より『今からボケたら、困るわょ・・』、
と私は叱咤激励をされる時もある。
コメント
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