私は東京の調布市に住む78歳の年金生活の身であるが、
たまたま昨夜は、日本と中国の試合をテレビ観戦をした。
こうした中、家内は試合開始する前、
どちらが勝つのかしら、
と私に問いかけたりした。
私は昨年は大谷選手、ダルビッシュ選手の活躍に誘惑されて、
彼らの中継された試合を10試合前後、テレビ観戦した程度であるが、
『当然、日本は8対1程度で、勝つょ・・』、
と私は断言してしまった。
たまたま結果として、当たってしまったので、
今宵の韓国戦・・テレビ観戦する前、
日本は6対5で接戦を制す、と私は予感したりした。
さて、結果は・・・。
春の訪れを感じる、二十四節気「啓蟄」の豆知識

春の訪れを感じる、二十四節気の「啓蟄(けいちつ)」
今年の啓蟄の時期や意味、知っておきたい豆知識をご紹介します。
2023年の啓蟄はいつ?

啓蟄は二十四節気のひとつ。
2023年啓蟄は、3月6日から3月20日です。
二十四節気は、季節の移り変わりを知るためのもので、
約15日間ごとに、24に分けられています。
啓蟄は、毎年3月6日頃~3月20日頃にあたりますが、
日付が固定されているわけではありません。
二十四節気は、1年を太陽の動きに合わせて24等分して決められるので、
1日程度前後することがあるからです。
2023年の啓蟄は、3月6日から3月20日です。

さまざまな生き物が、活動しはじめる時期。
テントウムシの姿もみられるようになります
啓蟄の読み方、意味は?
啓蟄は「けいちつ」と読みます。啓蟄とは、「冬ごもりをしていた虫たちが、土の中から出てくる頃」という意味で、
春の気配を感じて、冬ごもりをしていた虫たちが活動を開始する頃を表しています。
「けいちつ」という言葉の響きや意味が印象的ということもあり、
啓蟄は春の季語としても人気です。
二十四節気では、啓蟄の前は、雪から雨へと変わり雪氷が
とけ始める頃という意味の「雨水」、
啓蟄の次は、昼夜の長さがほぼ同じになる「春分」となります。
●白露前後の二十四節気の移り変わり
雨水 → 啓蟄 → 春分
啓蟄の初侯・次侯・末侯
二十四節気をさらに3つに分けた七十二侯は、啓蟄の間にこのように移り変わります。
■初侯:蟄虫啓戸(すごもりのむしとをひらく)3月6日頃
啓蟄を詳しく表したもので、冬ごもりをしていた虫たちが
戸を開いて顔を出したような表現です。
虫に限らず、様々な生き物が目覚める頃です。
↓
■次侯:桃始笑(ももはじめてさく)3月11日頃
桃の蕾がほころび、花が咲き始める頃。
昔は花が咲くことを「笑う」「笑む」と表現していました。
花も人も笑うと周囲が明るくなって良いですね。

季節感たっぷりの桃の花と菜の花。
春ですね♪
■末侯:菜虫化蝶(なむしちょうとなる)3月16日頃
青虫が羽化して、紋白蝶になる頃。
菜虫とは、菜を食べる虫ということで、紋白蝶の幼虫である青虫をさしています。
紋白蝶のほかにも、いろいろな種類の蝶が舞い始める季節です。

まさに、菜虫化蝶。
紋白蝶には菜の花が似合います
啓蟄の風物詩
啓蟄の期間に、「お水取り」と呼ばれて親しまれている東大寺二月堂の修二会が行われます(3月1日~14日)。
奈良時代から続く行事で、終わる頃には、冬が明けるので、
春を告げる行事として有名です。
大きな松明から落ちる火の粉をあびると、無病息災で過ごせるといわれています。
冬の間、寒気や雪、害虫などから樹木を守っていた「菰(こも)巻き」を外すのも、
啓蟄の頃が多く、春の風物詩となっています。
また、立春(2月4日頃)を過ぎて、
初めて鳴る初雷(はつかみなり/はつらい)は、啓蟄の頃によく鳴るため、
「虫出しの雷」とも呼ばれています。
春を知らせ、冬眠中の虫を穴から誘い出す雷という意味で、
昔の人は、虫たちは、その雷の音に驚いて、土の中から出てくるととらえました。
想像してみると、なんとも微笑ましいものですね。・・ 》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
今回も、敬愛している『暮らしの歳時記』を担当されている三浦康子さんより、
多々学んだりしてきた・・。
こうした中、この頃の生家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
もとより農家の場合、田畑の農作物は二十四節を主軸に順応されているので、
めぐる月日は、身も心も共に過ごしてきたが、
やがて私は都心に勤めるサラリーマンとして、私なりに奮闘した生活になると、
ともすれば季節感が乏しくなり、ときおり独り微苦笑したりしてきた・・。
やがて年金生活をしている中、せめて四季折々の季節を心の友として、
過ごしたいなぁ・・念願しながら過ごしている。
多々学んだりしてきた・・。
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
生家も近く、結婚前後の5年を除き、私としてこの地域に73年ばかり住んできた為か、
調布の里っ児、或いは原住民かしら、と思ったりすることもある。
過ぎし1944年 (昭和19年)に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家で、
兄ふたりの三男坊として生を受け、妹ふたりの中で農家の児として育てられたりした。
兄ふたりの三男坊として生を受け、妹ふたりの中で農家の児として育てられたりした。
私が地元の小学校に入学した1951年 (昭和26年)の春の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった御方の手助けを借りて、
程ほど広い田畑を耕していた。
祖父、父が中心となって、小作人だった御方の手助けを借りて、
程ほど広い田畑を耕していた。
そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
或いは母屋の宅地のはずれに土蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。


こうした中、この頃の生家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。
その後、私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、やがて没落しはじめた・・。
そして1955年 (昭和30年) の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年 (昭和32年) であるが、
この頃になるとベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。


もとより農家の場合、田畑の農作物は二十四節を主軸に順応されているので、
めぐる月日は、身も心も共に過ごしてきたが、
やがて私は都心に勤めるサラリーマンとして、私なりに奮闘した生活になると、
ともすれば季節感が乏しくなり、ときおり独り微苦笑したりしてきた・・。
やがて年金生活をしている中、せめて四季折々の季節を心の友として、
過ごしたいなぁ・・念願しながら過ごしている。