夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

雑談は一番良く脳を使うと学び、男の癖におしゃべりな私は、微笑み返し・・。

2023-03-19 07:56:00 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。
 
こうした中、確か7年前の頃、居間で家内と共にテレビを視聴していた時、
脳学者として名高い茂木健一郎(もぎ・けんいちろう)さんが、
雑談は、一番良く脳を使う・・と発言され、私は驚いたりした・・。

『XXちゃんさぁ・・聴いていた?
脳学者の第一人者の御方が・・雑談は一番良く脳を使うだって・・
そうだったら、おしゃべりな僕は、ボケなくて長生きするかなぁ・・』
と私は家内に言ったりした。

『あなたは・・男の癖におしゃべりで・・ときには煩(うるさ)いくらいょ・・』
と家内に微苦笑しながら私に言った。

『だけど・・前にも幾度も言った通り・・昔は無口だったんだょ・・』
と私は苦笑しながらに家内に言ったりした。

            

私は今住んでいる近くに生家があり、
1944年〈昭和19年〉の秋に、農家の三男坊として生を受けた。


そして私は長兄、次兄に続いて生まれた三男坊であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

やがて1953年(昭和28年)の3月になると、
前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、

42歳の若さで亡くなった。

そして祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に亡くなった。


どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたりの叔母、
そして長兄は中学1年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。

こうした中、私たち子供は母と叔母に支(ささ)えられ、
そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった。

                      

この当時も義務教育は中学校までであったが、PTA(授業料)の会費は有償であり、
確か教科書も有償の時代であった。

祖父が亡くなって後、私は担任の先生から母あてに一通の手紙を渡された・・。

帰宅後の私は母に手渡した後、
『PTA会費・・当分・・免除するって・・』
と母は呟(つぶや)くように小声で言っていた。

そばにいた小学5年の次兄は、母の小声の内容を知り、
『いくら貧乏していても・・PTAの会費ぐらいは・・払おうよ・・』
と次兄は怒ったような声で母に言ったりした。

次兄は翌日から下校した後、手入れが余り行き届かない生家の畑で農作物を採り、
程近くに広い敷地にある国際電電公社(現・KDDI)の数多くの社宅に売りに行ったりした。

このお陰で、何とか私は人並みにPTAの会費を支払うことができた。

長兄は旧家の跡取りであったので、
亡き父の願い、祖父の遺言もあり、国立大学付属の中学校を通学する中、

たとえ没落しても、冠婚葬祭などは中学生の身であっても、
主(あるじ)の役割として、参列したりしていた。
               
このした中で、兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生で、
通信簿を学期末に頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生が溜息まじりに言われたりしていた。

そして私は、学校に行くのが苦手な児となった・・。
        
この当時の私は、クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けていた。

何かと平素は無口の癖、ときたま怒り出し、周囲の多くの同級生が困惑し、
伊豆七島のひとつの大島は、幾10数年ごとに爆発する活火山の由来だった。

                      
        
やがて小学6年生の頃になると、突然に人前でおしゃべりをすることが大好きと変貌して、
見知らぬ小父さん、小母さんと私の方から話すようになり、
母、兄妹、そして父の妹でこの当時未婚だった叔母も驚いていた・・。

これ以来、私はお調子者のひとりとなって、学生時代、社会人のサラリーマンの中、
ときにはトンボのように自由にふるまったり、おだてられると高揚しながら奮闘したりしてきた。

定年後、多々の理由で年金生活を始めると、
家内はもとより、ご近所の奥様、ご主人など談笑をしたりしている。

そして旅先で、食事処、ロビーなどて隣席した見知らぬ方でも、
私は話しかけて談笑したりしている。
            


私が恥ずかしながら男の癖におしゃべりなのは、
亡き母から色濃く素直に受け継いだ、と確信を深めたりしている。


長兄と妹ふたりと談笑する時、何故かしら私が七割ぐらい話すことが多く、

後で微苦笑したりしている。

世の中には、沈黙は金、という名言があるが、
私に取っては死語だょ、と思ったりしている・・。

コメント (6)
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