私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であり、
ときおり現役のサラリーマン時代を振り返る時、どなたも体験されたと思うが、
思いも寄らない人たちから、激励の言葉を受けたりしたことがある、と思ったりしている。
過ぎし東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、私は大学2年を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、先行きの見えないような彷徨(ほうこう)した4年を過ごし、
あえなく敗退した。
そして止(や)むえず、何とかして民間会社に中途入社したい為に、
あえて苦手な理工系のコンピュータの専門学校のソフト科に、
1年間ばかり学んだりした。
やがて1970年(昭和45年)4月、
この当時は音響・映像メーカーの大手のある民間会社に、
知人のご尽力もあり、何とか中途入社が出来たのは、25歳の時だった。
まもなく外資の要請で、レコード会社が新設され、
私は新たなレコード会社に転籍させられた。
そして音楽業界のレコード会社の中で、私は音楽に直接に携わる制作畑でなく、
裏方の商品、情報、経理、営業などに35年近く勤め、
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。
こうした中で、最後の5年間の職場が決まった時、
私なりの人生のターニング・ポイントのひとつと成った。
音楽業界の各レコード会社全般として、
1998年(平成10年)にCDを中核とする売上げのピークとなり、
この前後から違法な音楽配信、或いは社会の趣味の多様化の中、CDの売上も急速に下降した。
そしてこの前後は、各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
或いは資本による合併などが行われたりした。
これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われた・・。
私は1970年(昭和45年)の4月の中途入社であったが、
この当時のサラリーマンの風潮としては、定年の60歳まで勤め上げる、と数多くの方が念願していたし、
遅ればせながら社会人となった私でも、それなりに人生設計を持っていた。
そして音楽業界としては激動の1998年(平成10年)の前後、
私の勤めていた会社も先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、
早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。
その後、1999年(平成11年)の新春まもない時、
私は人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
《何で・・俺が・・》 と思いがあった。
この当時、周囲の人事異動が激しく行われていた時期であったので、
私はある程度の人事の異動が覚悟していたが、
出向とは予期していなかったのが、本音であった・・。
やがて私は出向を受け入れ、取引会社のひとつに勤めはじめた。
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
つたない私でも、屈辱と無念さが入り混じ、失墜感があった。
出向先は神奈川県の東名高速道路に隣接した所にある物流会社の本社であった。
この物流会社は全国の主要都市の基点に物流センターを配置し、
各メーカーより委託された音楽商品のレコード、カセット、CD等、
そして映像商品としてビデオテープ、DVD等を運営管理している。
そしてそれぞれの物流センターは、
販売店からの日毎の受注に応じた出荷や返品を含めた商品の出入り、
保管などの業務管理を行っている。
私はこの中のひとつの物流センターに勤めたが、
センター長をはじめ私も含めた正社員の5名の指示に基づいて、
若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。
それまでの私は、殆ど30年近く都心の本社勤めで、
色々な部門を異動してきたが、もとより男性社員はじめ、多くの女性正社員、契約社員と職場を共にしたが、
こうした物流センターの職場環境には、戸惑ったりした。
そして通勤時間帯も大幅に変貌したのである。
それまでの都心の本社は、9時半が始業時であり、私は8時過ぎに自宅を出て、
45分前後の通勤時間で出社していた。
物流センターは原則として9時の始業時であったが、
曜日によっては変動するが実質8時からであり、
その前の事前準備などを配慮すると7時半過ぎとなっていた。
そして退社できるのも曜日によって異なるが、大半は夜の7時前後であり、
私の通勤時間は少なくとも1時間半は要していた。
私の通勤の最寄り駅は、小田急線の『成城学園前』駅で、
自宅から始発のバスに乗り、この駅から下りの電車で『本厚木』駅まで利用した後、
路線バスに乗り継いで、各諸業種の物流倉庫が建ち並ぶ場所のある中、通ったりした。
このように都心の本社に通っていた時代からすれば、まさに都落ちの心情であった。
通勤を始めて3か月ぐらいは、センター長のご厚意で、私の出社は8時半となった。
最初の頃、現場を学ぶために、1万5千種類前後のある商品の倉庫の中を歩き、
商品配列を覚えたりした・・。
或いは、急ぎの商品を手配したり、移動させたりすると、
不慣れとそれまでの本社はデスク・ワークばかりしてきた私は、
退社後は疲労困憊となっていた・・。
こうした時、確か週末の金曜日、ときには土曜日になると、
明日は休みだ、と退社後に思いながら、やがて『本厚木』の駅近くのバス・ターミナルでバスを下車した後、
小田急線の『本厚木』の駅に向う途中に長いアーケード街を歩き、
この中のある居酒屋に寄ったりした。
確か物流センターに通い始めて、数週間過ぎた頃と記憶している・・。
一軒の小さな居酒屋に、私は独りで夜の9時過ぎに入っていたのであるが、
お客さんが2人の男性客が、差し向かいとなっているだけであった。
私は片隅の席に座り、注文に取りに若い女性に、
地酒の弐合とおつまみとして2品をお願いした。
やがて私は弐合徳利を傾け、ぐい呑みに注(そそ)ぎ、少し呑んだ後、
おつまみの焼き魚を食べたり、煙草を喫ったりした。
そして、心身共々の一週間の悪戦苦闘が終った、と疲労困憊となったりしていたが、
安堵したりした。
この後、私は通勤のアタシュ・ケースの中から、
持参しているCDアルバムの5枚から、1枚を選定した後、
CDウォークマンをセットし、聴きはじめた・・。
この後、私は弐合徳利のお代わりを注文し、
運ばれてきた若い女性から、
『何を聴いて・・いらしゃいますの?・・』
と私は訊(たず)ねられた。
私はイヤホーンを外して、
『ここ一年は「X-JAPAN」が多いけれど・・
「中島みゆき」さんの歌もよく聴くよ・・』
確かこのように私は言ったりし、
たまたまこの若い女性が、中島みゆきさんのファンであったので、
お客さんが少なかったせいか、私達は10分ぐらい談笑した・・。
この若い女性は、小田急沿線にある大学に通学され、
アルバイトとして、友人と共にこの居酒屋に週三回勤務している、と私は教えられた。
私の疲労困憊の疲れきった表情、そして落胆している表情も隠し切れず、
『都落ちで・・この本厚木も不慣れでねぇ・・』
とこのような意味合いのことを私は言ったりしたと思われる・・。
この後、終電の一時間前に私はこの居酒屋を辞して、
駅の改札口に向かい歩き出した・・。
この直後、後ろから、
『おじさ~ん・・イェ~イ!!』
と先程の女子大学生が友人と共に、右手を高く掲げて、私に大声で云った。
私は驚きながら、右手を少し振りかざして、応(こた)えた。
この後、この居酒屋は店じまいされて、新たな店となり、
ふたたびこの女子大学生とは、お逢いできることはなかった・・。
そして、このアーケードを通り過ぎると、ときおり私は励まされた大学生の女性の表情と
しぐさを思い出されることがあった。
そして確かな一期一会に、私は胸が熱くなったりした・・。
まもなく私は、自分の敵は自分だと、自身を叱咤激励したりする中、
この出向先の物流センターに順応しながら、精進し、
やがて物流センターで定年退職時の2004年(平成16年)の秋を迎えたりした。