夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

されど、『節分の日』・・♪

2008-02-03 16:26:00 | 定年後の思い
東京の郊外の調布市に住む私は、
今朝、スーパーのチラシを見て、少し驚いている。

『恵方巻』
今年の恵方は南南東。
恵方に向かってまるかぶり!

『節分いわし』
古来よりいわしの頭を焼いて、ひいらぎのとげやいわしの焼けた臭気で、
邪気が家に入るのを防ぐといわれています。

『節分そば』
旧暦では立春から年が明けるといわれ、
前日の節分にそばを食べて身を清め、
晴々しい気持ちで立春を迎える風習があったといわれている。

『節分豆』
豆まきに使う大豆は、
一説では鬼の目に打つ【魔目=まめ】、
魔を減ずる【魔滅=まめ】に通じるといわれています。


私の幼少時代、東京の郊外では『恵方巻』の習慣がなく、
西日本の文化のひとつの食べ物から、と思ったりしている。

『節分いわし』には、記憶がないが、
祖父の晩酌の時にニシン、イワシ、アジなどの大衆魚を食べていたので、
断言できるほど自信がない。

ひいらぎに関しては、この樹木は実家に多くあったので、
多分、父が神棚か、玄関脇に飾っていたかもしれない。

私は前日、このスーパーで一合枡に入った『節分豆』を購入してきたので、
ささやかに『鬼は外、福は内』と呟(つぶや)き、
私の晩酌の友に加わり、家内と適度に頂く程度である。

尚、このスーパーでは、
『節分サラダ』と称して、節分豆でトッピングしたサラダが掲載されて折、
家内と笑ったりしていた。

そして何より感心したのは、
老田酒造店 飛騨自慢『鬼ごろし』(辛口)であった。
《720ml 1、000円 数量限定》

このように掲載されて折、鬼退治には最適な呑み物かしら、
と私は微笑んだりしていた。

尚、『鬼ごろし』は、飛騨地方をはじめ、全国の各地それぞれにあり、
呑兵衛の私は旅行先などで愛飲している地酒のひとつである。

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『節分の日』豆まきの想いで・・♪

2008-02-03 11:59:00 | 定年後の思い
私は昭和19年に東京の郊外で農家の子として生を受けたが、
私の幼年時代の頃は、『節分の日』には最寄の神社の高台で、豆まきをしていた。

神社といっても、村の住民で維持管理されている小さな神社で、
この時節も殆ど人影のないところであった。

それぞれの家長が一升枡の中で半紙敷いて、
自宅にある大豆を軽く炒った豆を三割方入れ、
夕暮れになると、大声で、
『ふくわう~ち!!・・おにはそ~と!!・・』
と叫んでいた。

私の住んでいた家から、少なくとも300メートルは離れていたが、
家の中で居ても充分に聴こえたのである。

『お父さん・・あの声・・XXさんの小父さんだね・・』
と私は父に確認したりした。

『だけど・・あの小父さん・・去年より・・豆まきをはじめる時間・・少し早いね・・』
と私は得意げで父に云ったりしていた。

我家でも、祖父が神社に行き、豆まきをして帰宅する頃は戸締りが終わっていた。

夜の七時ごろには、戸をすべて開け放ち、
『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と父は平素より遥かに大きい声で、外に向かって言っていた。

そして、戸をすべて閉め終わった後、私は次兄と妹たちとで、
部屋の畳の上、縁側の廊下にまかれた豆を拾い集めたりしていた。

そして、五合枡に入れた豆を、
『齢の数だけ・・食べてもいいわよ・・』
と叔母が私達に云った。

私は、7つだけか、と云いながら、
兄達の手には私より多くあったので、
おまけと云いながら、こっそりとひとつ余計にとった。

このような祖父、父達に囲まれて、楽しげな年であったが、
翌年の早春に父、晩春に祖父に死去され、我家は没落をしはじめた・・。

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東京の郊外は、雪の朝を迎えて・・♪

2008-02-03 06:48:00 | 定年後の思い
私の住む調布市では、雪が舞い降りている朝を迎えている。

私は6時に目覚め、窓を開けたら、雪景色となっていた。

庭の樹木の枝葉は雪化粧で、地上は数センチで、
空から絶え間なく雪が舞い降りてくる。

日中は霙(みぞれ)、ひととき雨、そして霙、夕暮れから雪となり、
10センチ前後の積雪が予測されている。

今年、2度めの雪景色になるが、
私の秘かな願いとしては、日中も雪が舞い続け、
積雪は15センチ程度が理想と身勝手なことを思っている。

節分の日を迎えているが、
雪の舞い降る中、鬼さんに寒くて大変だなぁ、
と余計なことを思ったりしている。

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『朝・・有ったのに・・どうして・・ないの・・!?』

2008-02-02 15:06:00 | 定年後の思い
我家の艇惜は、朝、?E⇒爾板?E?E悗里茲Δ法?br>小鳥が飛来してく?E?br>
私は雀(スズ?Eは判?E♤¬槐?Eメジ?E、四十雀(シジュウカ?E、ヒヨドリが来てい?E蕕靴∮?br>ときお?E汎發剖気┐凸磴辰討い?E♤召阿頬困?E討靴泙Δ里任△?E?br>
今の時節、餌(えさ)不足のせいか、
白梅、紫木蓮(シモク?E?Eの莟(つぼみ)を?Eつい)ばんで、
?E鯒和臠梢④戮蕕?E屬蕕④呂犬瓩榛△蓮?br>おかしな花模様となっていた。

私は半分ぐらいは止む得ないと思ってい?E♤?br>『全部は食べないで・・』
と飛来のたびに、懇願してい?E?br>
今年から家内も対策として、付近のモミジなど樹木に、
ミカンを輪切りしたのを毎?E泙弔个㎠蝓⊂翩廚併淦茲房佑靴討い?E?br>
こうして朝に飛来し、既績の声を挙げながら?E个漾?br>?E宛紊砲癲▲瓮献隼廚?E?E?E擦?E个鵑任い燭♤?br>ミカンは地上に李脆したりしてい?E?br>
その後、遅?E討④疹擦蓮▲皀潺犬了泙㎠藥泙飽椶辰晋紂?br>『朝あったのに・・どうして・・ないの・・』
といったように小首をかしげていた。

偶然に私達は見ていたが、
家内も微笑み、私は笑ってしまった。


塀の近くに白玉椿(シラタマ・ツバキ)の純白な花が咲き初めてい?E♤?br>この花の密を吸おうと小鳥が柔らかな枝に
止まっていた。

枝葉は微かに揺?E董⊂擦呂擦辰㎠量④㎠蚓イ?E泙い函?br>しがみついて身体を反転していた。

私はこの純白で気品のあ?E魘鳴悗蓮?br>こよなく好きであ?E♤∋澆狷世覆い犯?E个靴燭蠅靴討い?E?br>

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初めて『都電』に乗った想いで・・♪

2008-02-02 12:07:00 | 定年後の思い
若い世代の人には、都電と綴ってもお解りにならないと思うが、
東京の都心で昭和30年代は路面電車が隈(くま)なく走っていた・・。


私が小学6年の昭和32年の時、
次兄から有楽町で洋画のロードショーを観に行こう、と誘われた。

私は最寄駅から新宿のデパートなどは行ったことがあったが、
乗り物に酔いやすい少年であった。

新宿まで京王線で30分前後で到着したが、
何となく気分が悪かったのである。

新宿より数寄屋橋まで都電を利用する為に乗車した。
電車賃は終点の築地まで乗っても、確か13円と記憶している。

都電は一両編成で、大通りを走ったが、
自動車も両脇に走って折、繁華街、ビル街が車窓から観え、
その上、都電は揺れるので、気分が悪くなった。

私は次兄に、
『まだ・・遠いいの・・』
と私は云った。

『もうちょっと・・我慢・・13円だから・・』
と次兄は云った。

一区間が13円で降りたら、もう1度支払う必要があると、
次兄から乗車前に聴いていた。

私は皇居のお堀が観えた頃、
『もう無理だから・・降りよう・・』
と私は次兄に懇願した。

結果として、目指した数寄屋橋のひとつ手前の日比谷で降りた。

私は青白い顔で次兄に謝(あやま)り、
とぼとぼとお堀端を歩き、数寄屋橋の映画館に到着した。

映画は『朝な夕なに』であったが、
綺麗な白人女性の教師とトランペットを吹く生徒が心に残った。

後年になると、私としては洋画の初めてのロードショーであり、
綺麗な女性はルート・ロイベリックで、
映画の主題歌は『真夜中のブルース』が流行した、
と判明した。


私は都電を観るたびに、苦手意識を持っていたが、
その後、高校の新宿から中野までの通学は都電を利用し、
この区間の沿線に美術短期大学、女子高校等が三校あり、
車内で数多くの綺麗なお姉さんに気を取られ、
乗り物酔いなどは忘れ去ってしまった。

私が卒業する頃は、この区間の都電は廃線となり、
地下鉄に変貌した。

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私が初めて文章を綴ったのは・・♪

2008-02-02 08:52:00 | 定年後の思い
私は昭和19年に、東京の郊外の農家の三男坊と生を受けた。

初めて文字を書いたのは、小学校に入学したからだった・・。
この頃は、私の住む村では幼稚園が出来たのは、私が小学校3年頃だったと思う。

私は最寄の託児所で2年ばかり通い、小学校に入学したが、
託児所は、文字などは教えることのない時代で、礼儀作法、お遊戯で過ごしていた。

小学校に入学すると、『こくご』の授業で初めて、文字を覚え、
真っ先にひらがなで、私の名前を升目の大きなノートに書いたりしていた。

そして、ひらがな、カナ字、そして漢字を学び、
3年生頃から『さくぶん』の授業で、今の時代で云うと粗雑な藁半紙で書かされたのである。

この頃に家にある本と云えば、
農協の発刊する『家の光』ぐらい記憶していなかったので、
小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
書棚に本が並んでいたを見たときは、
子供心でも眩暈(めまい)を感じたのである。

夏休みには、宿題として作文があったが、苦手な私は苦心惨憺で綴ったのは、
今でもほろ苦く覚えている。

私が都心にある高校に入学してから、
突然に読書に目覚めて、高校二年の夏に小説の真似事の原稿用紙に習作をした。

東京オリンピックの直前に、私は大学を中退し、
映画青年、文学青年の真似事を4年ばかり過ごした。

養成所の講師から、ある月刊誌の記事の取材、下書きを分けて貰い、
ノンフェクション・ライター気取りで取材し、指定された原稿用紙に綴り、
講師に手渡し、幾ばくかの金銭を受けたりしていた。

確固たる根拠もなく、シナリオとか小説の習作していたが、
お彼岸に親戚の小父さんから、
『30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤され、私は自身のつたない才能に自信を失くした。

この後、大手の企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に一年通った後、サラリーマンの一員となった。



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夕暮れの時、ときおり唄う歌は『異国の丘』・・♪

2008-02-01 17:48:00 | 定年後の思い
私は年金生活の4年生の身であるが、
夕暮れの時、ときおり口ずさむ歌がある。


♪今日も暮れゆく 異国の丘に
 友よ辛かろ 切なかろ

【『異国の丘』 作詞・増田幸治 補詞・佐伯孝夫 】


私は中小業の民間会社を35年間勤め定年退職をした身であるが、
退職の10年前頃から業界全体が縮小し、それぞれの会社が再構築がよぎなくされ、
リストラなども行われた。

組織の見直しによる人事配置転換の人事異動、出向、
そして早期退職優遇制度による退職、
このような形で同じ時代の空気を共にした上司、同僚、後輩などと別離があり、
中には業界から去った人も数多くあった。

私自身も55歳で出向となり、出向先で定年退職を迎えたのである。

この間、本社に残った人達と年に数回、親睦会で交流したりしていたが、
早期退職などで、少しづつ欠けていった・・。
この中には、何とか定年退職もされて、
地方で生活を営まれ、過ごしている人も多い。

こうして昨今は、お互いに葉書の挨拶程度となり、
あの人はあの人なりに過ごされている、
と安堵したりしている。


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『きさらぎ』を迎えて・・♪

2008-02-01 08:16:00 | 定年後の思い
昨夜、カレンダーを一枚破ると、『如月』と大きく明示され、
過ぎ去った正月以来が早かったと改めて無感じたりした。

2月は、古人から『衣更着』とも表示され、
寒さが厳しい折、更に重ね着をされるので、
このよう表現になったと思われる。

別名称としては、梅見月、雪消月、木芽月とも綴られることもあるが、
私はこの時節は、梅見月が好きである。

早春のひととき、遊歩道、公園、付近の住宅街、旧街道を散策し、
冬木立、早春の花を誉(ほ)めながら歩き、
今年も花、芽吹きに巡り逢えた、という実感が好きなのである。

東京の郊外は、早朝はマイナス1度程度で、澄み切った青空となって折、
風もなく朝の陽射しをまぶしげに受けている。

日中は8度の陽気に恵まれ、
私は買物、散策で早春の陽射しにつつまれて、
あの椿(ツバキ)は、梅の莟(つぼみ)は、
と季節のうつろいを観るのに私なりに忙しいのである。

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