夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

亡き母に捧ぐ~秘めたる私の母への思いは・・。 ⑦

2010-01-13 08:49:23 | 定年後の思い
私は小学生の4、5年の時、我が家の困窮していた家計状況期であったが、
母に懇願して百円をねだり、独りで映画館に通い、
今から振り返ると、余りにも私は身勝手な時期のことを綴る。

【 私が映画を観はじめた頃・・♪ 】
と題して、2007年8月23日に投稿している。

【・・
私は東京の郊外の調布市で、昭和19年に農家の三男坊として生を受けた。

祖父、父が長兄、次兄と生まれたので、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
私の数年後に妹が生まれ、溺愛した様子を私なりに見たりし、
幼児の私は何となくいじけた可愛いげのない子であった。

私のおぼろげな記憶をたどれば、
私が最初に映画を観たのは、小学校の入学前、『長崎の鐘』だった、
と思い返している・・。

この頃は、ラジオからこの主題歌が流れていて、
私の幼児なりに、物悲しさを感じ、涙を浮かべたりしていた。

近所のお寺の境内で、隅にスクリーンが張られ、夜のひとときを上映してくれた。
私は母に連れられ、近所の方達と共に立ちすくんで観た。
この当時の私の住む地域に於いては、娯楽が少なく、こうした映画を無料で観られるのは、
稀(まれ)であったので、盛会だったと記憶に残っている。

帰宅の途中、母に手を引かれて歩いていた時、
夜空の銀河の天の川が綺麗であり、
年を重ねた62歳の今の私でも、あのような満天の煌(きらめ)いた星空は一期一会であった。

これ以前に観た映像作品は、祖父が自宅で近所の人達を集めて、
幻灯機で『母をたずねて三千里』を観たのが、幼児なりに記憶があった。

この後、私が小学2年に父が病死し、その後まもなく祖父も死去したので、
農家の大黒柱のふたりがいなくなり、我が家は衰退し、生活に困窮した。


私が小学校の四年頃になると、
映画館にひとりで行き、東映の時代劇の3本立ちをたびたび通いはじめた・・。
『里見八犬伝』、『笛吹童子』、『紅孔雀』等であった。

母に100円を懇願して頂き、子供の入場料が40円で、電車の往復で10円であり、
帰路の街の中華店でラーメンが35円だったのでたびたび食べたりした。
そして、映画館の売店で残りの15円で都こんぶ等を買えたりした。

この映画館は翌週になると大映映画を放映していたので、予告編も上映されていた。

山本富士子、京 マチ子は大人の人すぎて興味がなかったが、
若尾文子、川上康子、八潮悠子を観たりすると、
都会の綺麗なお姉さんと感じたり、まばゆい文化にふれて、子供心にため息をしたりした・・。

そして特に若尾文子には、色っぽいなお姉さん、と私の人生で最初にときめいた人である。

このような映画に熱中しはじめ、
やがて私は大学を中退し、映画青年の真似事まで一時的に過ごしたりした。
・・】

このように我が家が家計が苦しい中、
私は映画観たさに母に百円を懇願したのであるが、母が私の身勝手なことに、
よくぞ百円を出してくれた、と後年の二十歳過ぎ、
恥ずかしく思ったりしながら、母に感謝をしたのであった。


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亡き母に捧ぐ~秘めたる私の母への思いは・・。 ⑥

2010-01-12 15:48:33 | 定年後の思い
妹が小学生の時、母が無理しながらピアノを購入した思いでを、
【 私の小学生時代の愛唱歌・・♪  】
と題して、2007年10月19日に投稿している。

【・・
私が小学校に入学したのは、1951(昭和26)年の春だった。
東京の郊外の調布市であるが、この頃は田畑、雑木林が圧倒的に多く、
緑豊かな町村であった。

私は農家の児として長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。

兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに云われたりしていた。


音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。

結果として、通信簿『2』であった。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、或いは家の留守番をしている時は、


♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし

【 『越後獅子の唄』 作詞・西條八十  】


私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。

そして、私が気分が良い時は、
私は街の子、田舎の子・・、
と勝手に『私は街の子』を変更して、唄ったりしていた。

小学校の後年になると、映画の【ビルマの竪琴】で『埴生の宿』、
【二等兵物語】』で『ふるさと』を知り、
これこそ私が望んでいた音楽だ、と感動しなから、深く感銘を受けたりした。

しかし、この名曲の2曲は人前で唄うことはなく、
クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けていた。
普段無口の癖、ときたま怒り出すので、活火山の由来だった。


私が小学5年になる頃、小学校の音楽室にピアノが導入されて、
何かしら女の子の児童はピアノに触れることが、羨望の的となっていた。

我が家でも妹の2人が小学5年、3年で私が中学1年になったばかりの時、
妹達は先生にほめられた、と母は聴いて、有頂天になり、無理してピアノを購入した。

小学校の音楽の成績は、兄2人と妹2人は通信簿『5』であり、
何故かしら私だけが『2』の劣等生であった。


私が25歳を過ぎた時、民間会社に中途入社し、たまたまレコード部門に配置されて数年後、
妹のひとりが母の前で、
『お兄ちゃんがレコード会社で・・
家にいる時はモーツァルトを聴いているなんて・・想像できる・・
信じられないわ・・』
と云ったらしく、私は苦笑していた。


今の兄妹は、日常は音楽から遠ざかった普通の人々で、
日常生活で最も音楽をこよなく愛聴しているのは私だけである。

尚、母が苦労して購入したピアノは、10数年後、埃(ほこり)を被(かぶ)り、
中古業者に引き取られた。
・・】


あの当時の1958(昭和33)年頃は、東京郊外に於いて、
サラリーマンなどの女の子のいる家庭では、
ピアノの練習曲のバイエルなどを習い、少しばかり誉められると、
親は無理しながら、秘かに子供に期待し、ピアノを購入した宅が多かったのである。
このようなことを思い浮かべ、私は微苦笑したりしている。



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亡き母に捧ぐ~秘めたる私の母への思いは・・。 ⑤

2010-01-12 15:19:47 | 定年後の思い
私の幼年期、母の実家から妹に贈られてきた『雛人形(ひなにぎょう)』を観て、私は幼児なりの思いで綴っている。

題して、【 幼年期、『ひな祭り』の想いで・・♪ 】
2008年3月2日に投稿している。

【・・
私は昭和19年に東京郊外で、農家の三男坊として生を受けた。

祖父、父が中心となって、程ほどの広さの田畑を耕していた。

長兄、次兄の後に私は生まれきたが、祖父、父が何かしら女の子を期待していたらしく、
私の後に生まれた妹を溺愛した。

幼年期の私はこうした情景を見たしていると、
期待されないように感じ取り、いじけた可愛げのない児であった。


早春の2月の下旬になると、母の実家から贈られたひな人形を
父が蔵から出してきて、母や未婚の叔母に手渡していた。

10畳の一角にひな壇を設け、ひな人形の五段飾りを設置し、
この前に桃の花、ひし形の白色、桃色、薄緑色のひし餅を置いたりしていた。

ひし餅は、父が餅米を精米所に持ち込んだ後、
我家で臼(うす)で餅にしたものであった。

そして桃の花は、宅地の外れにある陽当たり良い所に3分咲きを活(い)け、
何かしら華やぎ、かぐわしい香りがしていた。


こんな情景を私は、ぼんやりと眺めていたが、
華やかな桃の花、3色のひし餅、そして絢爛(けんらん)な17人の人形を見つめていた。

そして、私はため息を吐(つ)きながら、
『女の子はいいよなぁ・・皆に大事にされるから・・』
といじけた私は思ったりしていた。

そして、人形の中のひとつ、護衛のようになっている人形を見つめ、
あのように綺麗な格好でいられたらいいよなぁ、
と眺めたりしていた。

このような思いを抱いた後、櫻の咲いた頃、私は小学校に入学した。


尚、『桃の節句』が終り、翌日になると母は五段飾りを撤去し、
蔵に仕舞う準備をしていた。

私はせっかく飾ったのだから、せめて櫻の咲く頃まで、
このままにして置けばよいのではないか、と幼年心に感じていた。

・・】


古今東西、齢を重ね少しボケても昔のことは鮮明に覚えていて、最近の出来事は忘れていく、
と名言があるが、私の幼年期の出来事がときおり夢に出てくるので、
やはり高齢者のひとりになったかと、微苦笑している昨今である。




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亡き母に捧ぐ~秘めたる私の母への思いは・・。 ④

2010-01-12 13:04:24 | 定年後の思い
私達夫婦は私の実家のお墓参りは、母の命日、春のお彼岸、夏のお盆、そして秋のお彼岸と、
少なくとも毎年4回はお墓参りをしている。

一昨年の夏のお盆の際、2008年8月1日に於いて、
【 蝉しぐれ中、お墓参り・・。 】
と題して、投稿している。

【・・
東京郊外の調布市に住む私は、この付近の1部の地域では、お盆の日である。

家内と私の実家に行き、外出する長兄と玄関先で立ち話しした。

この後、仏前にお線香を挙げた後、
義姉と世間話をしていた時、叔母が来宅した。
そして私の少年期まで何かと叔母に世話になったので、この頃の時代の話を私はしたりした。


長兄宅を辞した後、曇り空の中、家内とお墓参りに行く。
そして生前の母が好きだったお花とお線香、お米を持ち、お寺に着いた。

境内は広く、大きな樹木が数多くある上、平日だったので、尚一層に静寂だった。
そして外気は、暑さを樹木がさえぎっているので、幾分涼しげだった・・。

ときおり、蝉の声が境内と墓地の間の大きな樹木から聞こえる程度だった。


お墓参りはもとより生者の慰めと知っているが、亡くなった父と母、そして祖父に守られ、
こうして私は生きてこられてきたのであるので、
私は感謝の一心で、ときおりお墓参りをしている。

生前の母と家内は、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、
私は家内、母に秘かに、今でも感謝している。


お墓に行き、墓石を水で清め、お花を挿して、お米を備えた。
そして、お線香を奉げる。

お参りをすると、母のおもかげがよぎっていった。

私の場合は、父が私の小学校の2年の時、その数ヵ月後に祖父も死去されたので、
何かと母の存在が多かった。

このためか、ときたま生前の母のちょっとしたしぐさ、
言葉づかいが想いだされる。

晴れ間になり、お線香の煙が芳香を残して、青空の中、立ち昇りながら消えていった・・。


その後、水屋の周辺の大木の樹木の中、
蝉の鳴き声が響きかせながら、盛大に聴こえてきた・・。

・・】


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亡き母に捧ぐ~秘めたる私の母への思いは・・。 ③

2010-01-12 12:16:04 | 定年後の思い
母の死去された後、1周忌の時の思いは、
【 『私を忘れないで・・』・・!? 】
と題して、一昨年の2008年1月10日に投稿している。

【・・
東京の郊外は、週末の12日の土曜日、雨のち雪、と天気予報が報じられているので、
私は少し驚いている。

平成10年1月13日の深夜の1時過ぎに母は、広尾にある赤十字の病院で亡くなった後、
私の実家の長兄宅の一室に母の遺体を安置した後、
葬儀は私の実家の長兄宅で行うことを長兄と私、親戚の叔父さんなどで取り決めた。

仮通夜はどんよりとした曇り空の寒い一日となり、
翌日のお通夜の日の朝から、この地域としては珍しく15センチ前後の風まじりの大雪となった。
公共の交通機関も支障が出たり、
ご近所のお方の尽力で、実家、周辺の雪かきをして頂いたりした。

そして、翌日の告別式は積雪10センチ前後の晴れ渡った中で行われた後、
火葬場に向う車窓から、除雪された雪がまぶしく私は感じられたのである。


翌年の1周忌の法事の日には、
粉雪が舞い、私達兄妹は、親戚、知人の方達には来て頂くことに、心配したりしていた。

お墓のあるお寺で法事が終り、ふるまいの会場に向かう時、
相変わらず粉雪が舞い降りていた・・。

叔母と妹の2人で私は歩いていたが、
『お母さん・・私を忘れないで・・と降っているのかしら・・』
と私は不謹慎ながら云った。

『そうよねぇ・・義姉(ねえ)さん・・苦労が多かったから・・
天上の神様・・覚えていたのよ・・』
と叔母は私に微笑んだ。

私と妹は微苦笑し、粉雪舞降る空を見上げ、そして会場に急いだ。
・・】

このような思いで、私は母の1周忌の法事の時の思い、情景を今でも鮮明な覚えている。






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亡き母に捧ぐ~秘めたる私の母への思いは・・。 ②

2010-01-12 08:47:18 | 定年後の思い
昨年の2009年1月11日に於いて、
【 私達は、天上の母に守られて、早や10数年・・。】
と題して、投稿している。

【・・
私の母の命日が近づくと、私達夫婦と妹の2人で、
この時節に4人でお墓参りをしているのが、ここ4年ばかり続いている。

長兄は自身の子供の家族のこともあり、別にお墓参りをしているが、
昨年に私は長兄夫婦と買物の時に偶然逢った時、
『お母さん・・13回忌の時は・・親族、親戚一同の再会みたいに・・』
と私は長兄夫婦に微笑みながら云ったりした。


今朝、東京郊外は冬晴れで、風もなく、まばゆい朝の陽射しを受けている。
私達夫婦は、昼前に妹2人と駅前で待ち合わせ、お墓参りを予定しているのである。

昨夜、私はこのサイトに綴ったのを読み返していた・・。
そして、私達は天上の母に守られて、早や10数年の時が過ぎてきた、
と改めて想いだしていた。


1昨年の2007年1月13日に私はこのサイトに於いて、
【 母の命日・・♪ 】
と題して投稿しているが、再掲載する。

【・・
私の母は、入退院を三年ばかり繰り返した後、深夜に亡くなった。

1998(平成10)年1月13日のことであった。

年末に体調が悪化して、救急車で入退院をしていた赤十字の広尾の病院に運び込まれた。
年始を過ぎると、医師より危篤状態が続いていると聴いていたので、
会社に於いて勤務していた時は、少し緊張気味で覚悟はしていた。

こうして12日に帰宅し、家内と夜の9時過ぎに食事し、少し呑んだりしていた。

長兄より連絡があったのは、10時過ぎであり、
長兄夫婦、私達夫婦が長兄の自動車でかけつけた。

母は少し息苦しいそうであったが、穏やかな表情をして折、何よりの慰めと思った。

長兄の甥の二人も到着後、真夜中の1時過ぎに、母は他界した。

・・】



そして、この後は昨年の2008年に於いては、
【 寒気のつつまれ、お墓参り・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
東京の郊外は、曇り空で風が吹いて、体感としては今年一番の寒さである。

日中は快晴となるが、6度前後であるが、北風が1日吹くと予測されて折、
やはり大寒に向かう時節なので、寒の内と心身受け止めている。

昼時、妹の2人と私達夫婦は、お墓に近い駅で待ち合わせ、
母の命日であるので、墓参し、昼食をする。

ここ4年ばかり恒例となっているが、お互いに勤めていたので、
命日の前の休日が多かった。

私達はお互いに60前後の身となっているが、
亡くなった母に見守られて、今日に至っている。

私達はお互いに幼年期より『ちゃん』付けで呼び合っているので、
ワインなどを呑みながら昼食を頂き、
『XXちゃん・・あの時は・・』
と話しかけたりしているのである。

・・】



そしてこの後は、
【 過去は、懐(なつ)かしく、そして愛(いと)おしく・・♪】
と題して、このように投稿していた。

【・・
母の命日に私達夫婦と妹2人で、お墓参りした後、
駅前に近いイタリア料理店で昼食とした。

このレストランは、末妹が偶然見つけた料理店で、
私達は気に入り、ほぼ毎年利用している。

ある程度の赤、白のワインを呑みながら、コース料理を頂くのだが、
気心知れた私達4人は、
一年に一回のささやかに母を偲(しの)ぶ集(つど)いであるので、
話題は生前の母のエピソードが多かった・・。


私は1944(昭和19)年に農家の三男として生を受けたが、
小学2年に父に死去され、まもなく祖父も亡くなり、
技量の必要とされた農家は没落しはじめた・・。

母は嫁ぐ前の叔母2人とで、私達兄妹を何とか世間並みに願いながら育ててくれたが、
困窮した生活は隠せる状況ではなかったのである。

こうして私の小学生時代は、母、叔母達に見守られながら過ごした・・。


私は亡き母と生前のある日、母が心身元気だった時、
たまたま死生観について話し合ったりしたことがあったので、
この話を妹たちに話していた時、ふと祖父の妹の方を想いだした・・。

私達が最も生活に困窮した時、あの頃、
このお方は頻繁に来宅し、私と妹の2人に何かと面倒を見てくれたのである。

このような話題になると、
あの叔母さんには特にお世話になった、と私達は話し合った。

私達は多くのお方に見守れながら、
今は世間並みの生活を送ることが出来ているが、
過ぎ去った困窮した時代は、懐かしく、愛(いと)おしくも感じられ、
お互いに、あの時は、と話し込んだりした。

・・】


このように綴っていたのを読み返していたのである。
私の母の仮通夜の日、雪が降りはじめ、
翌日の通夜の日は、東京の郊外としては稀(まれ)なほど、15センチ前後の積雪となった。

私はこの時節になると、雪を舞い降る状景を見つめると、
『私を忘れないでね・・』
と母の声が聴こえたように思い、
私は心の中で『おかあさん・・』と呟(つぶや)いたりしている。

・・】


このように投稿していたのであるが、齢を重ねた高齢者の65歳の身であるが、
幾つになっても人生で迷ったりするたびに、
お母さんだったら・・どう対処したの、と思ったりしている。




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亡き母に捧ぐ~秘めたる私の母への思いは・・。 ①

2010-01-11 06:37:12 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
たまたま本日は私の母の13回忌、次兄の33回忌の法事があるので、
私達夫婦が朝の9時過ぎに出かける。

私は東京郊外の農家の三男坊として生を受け、
父は私が小学2年の時に病死したので、私達兄妹は母や父の妹である叔母に育てられたので、
私は母の波乱万丈の人生を思い馳せる時、この上もなく愛惜を深める。

このサイトに数多く母についてを投稿してきたが、
今回、改めて母に敬意を重ねながら、特集として再掲載をする。


第1回として、母の生い立ち、私の生家である実家などについては、
【 改めて幼年期、心に秘めた歌は『水色のワルツ』と『芸者ワルツ』・・。】
と題して、2009年9月17日に投稿している。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
今朝、歯を磨き、顔を洗い終えた後、何気なしに鼻歌を唄っていた・・。


♪君に逢ううれしさの 胸に深く
 水色のハンカチを ひそめる習慣(ならわし)が

【 『水色のワルツ』 作詞・藤浦 洸、作曲・高木東六、唄・二葉あき子 】


このような歌を唄いながら、居間に戻り、初秋の朝のやわらかな陽射しを見つめていたら、
亡くなった母のことを想い出した・・。


10年少し前に亡くなったのであるが、私の幼年期の昭和27年の小学2年なる秋の頃、
母は家の裏にある井戸のポンプを手でこぎながら、バケツに満たそうとしていた。
風呂桶に入れるために、つるべ落としのたそがれ時だった。


♪あなたのリードで 島田もゆれる
 チーク・ダンスの なやましさ
 みだれる裾も はずかしうれし
 芸者ワルツは 思い出ワルツ

【 『芸者ワルツ』 作詞・西條 八十、作曲・古賀政男、唄・神楽坂はん子 】


母が小声で唄っていた。

私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしく、
この頃の私は何かしら期待されていないように幼年心で感じて折、
可愛げのない屈折した子供であった。

母の唄っている歌を聴きながら、華やかさの中に悲しみも感じていたが、
♪みだれる裾も はずかしうれし、
聴いたりすると子供心に色っぽい感じをしたりしていた。


母の実家は、明治の中頃、国内有数のある企業の創設に関わった都心に住む富豪であるが、
跡継ぎの肝要のこの家の長兄が結婚前に遊び果てていた時、
ある人気のではじめた芸者との交遊との結果、母が生まれた。

この頃の風潮として当然ながらある程度の富豪の家としては、
家柄の名誉に関わる問題となったので、母は里子に出された。

親戚の家をワンクッションして戸籍の経路を薄れさせた後、
私の実家に貰われてきたのは、一歳前で大正10年であった。

私の祖父は、農家を程々手広くしていて、使用人、小作人を使って折、
男4人、女も4人の子を設けていた。


母は祖父の子供と一緒に幼年期、少女期を過ごした。

母の実家からは、いくばくかの金銭、品物が絶えず送られてきて折、
祖父としても母を粗末には出来なかったが、
母の級友の何人かは上級の中等高校に行ったのに、母は家の何かと便利のように手伝いとして使われた。

今の歳で云うと、13歳であり、祖父は村役場の要職を兼ねていたので、
書生のようなことも手伝い、田畑も駆りだされていた。


後年、私が高校生になった時、感じたのであるが生前の母の筆跡は綺麗な部類に入っている。

この時、母の級友であったひとりが都会議員となった折、
『あの方・・あたしの小学校の同級生なの・・
家柄も良かったけど・・大学まで行けたのだから、幸せな方・・』
と母は私に言った。

私は母が上級の学校、少なくとも中等高校、希望が叶えられたら大学の勉学をしたかった、
と私は母の思いが初めて解かった。

母の尋常小学校の卒業しかない学歴を私達子供の前で、
ため息をついたのを私は忘れない・・。


母は祖父の子供達に負い目とひけ目の中で過ごされたと思うが、
祖父からしてみれば、母の実家から多くの金銭の贈り物で田畑、金融資産を増やしたことも事実である。

こうした環境の中で、祖父の子供の跡取りの長兄と母が17歳になった時、結婚した。
母は義理の弟、妹と共に家の屋根の下で生活を共にするのだから、
何かと大変だった、と私は後年になると思ったりした。

後年、母は看病の末、亡くなった父の弟、父の妹の婚姻などで、冠婚葬祭は色々あって、
親族、親戚の交際は、何かと気配りが・・と私に語ったことがある。


昭和28年になると、前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。

祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、
二ヵ月後に亡くなった。

どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたり、そして長兄は小学6年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。


このような時、春のお彼岸の近い日に、母の実家の方が心配をされて家に来た・・。

母からしてみれば、実の父の正規な奥方になった人であり、
家柄も気品を秘めた人柄であったが、思いやりのある人であった。
この方が実の父の妹を同行してきた。

このうら若き方は映画スターのようなツーピース姿でハイヒール、帽子と容姿で、
私は小学3年の身であったが、まぶしかった。
そして、あれが東京のお嬢さんかよ、と子供心でも直感した。

この人は、幼稚園の頃から、人力車、その後は自動車でお手伝いさんが同行し、
送り迎えをされてきたと聞いたいたからである。

私は子供心に困窮した家庭を身に染み付いていたので、
何かしら差し上げるものとして、母に懇願して、
日本水仙を10本前後を取ってきて、母に手渡した。

『何も差し上げられなく・・御免なさい・・』
と母は義理にあたる妹に言った。
『お義姉(ねえ)さん・・悪いわ・・』
とこの人は言った。

そして『この子・・センスが良いわ・・素敵よ・・ありがとう』
と私に言った。

私は汚れきった格好であったので、恥ずかしさが先にたち、
地面を見つめていた。

私にとっては、このお方を想いだすたびに、
『水色のワルツ』の都会風のうら若き女性の心情を思い浮かべる。

母は結婚後の労苦の時、鼻歌を唄いながらその時を過ごされたのだろう、
と思ったりした。

『水色のワルツ』も母にとって、よく唄った歌のひとつであるが、


♪みだれる裾も はずかしうれし

【 『芸者ワルツ』 作詞・西條 八十、作曲・古賀政男、唄・神楽坂はん子 】


私にとっては色っぽさもさることながら、少し物悲しく聴こえたのも確かである。

この歌のふたつは、私にとっては血は水より濃い、と古人より云われているが、
切り離せない心に秘めたひとつの歌となっている。


私は亡くなった母をときおり想いだす時、
何故かしら『水色のワルツ』が心の片隅に蘇(よみが)り、心の中で唄ったりしている。

♪月影の細路(ほそみち)を 歩きながら
 水色のハンカチに 包んだ囁(ささや)きが
 いつのまにか 夜露(つゆ)にぬれて
 心の窓をとじて 忍び泣くのよ

【 『水色のワルツ』 作詞・藤浦 洸、作曲・高木東六、唄・二葉あき子 】


私は心の中で唄いながら、年齢を重ねた64歳の身でありながら、
いつも胸が熱くなったりている・・。



http://www.youtube.com/watch?v=SbnQK7XPclo
【 『水色のワルツ』 作詞・藤浦 洸、作曲・高木東六、唄・二葉あき子 】


http://www.youtube.com/watch?v=zODbc1zfnHA
【 『芸者ワルツ』 作詞・西條 八十、作曲・古賀政男、唄・神楽坂はん子 】

・・】


尚、このように実家にまつわる余すところなく書くことは、
もとより書きづらいこともあり、私はこのサイトに投稿して五年目で、
初めて発露したのである。
何より人の人生を見つめる時、たとえ母親、実家であろうとも園児のお遊戯のように、
いつも美麗な時だけ描くのは、的確ではないのである。





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作家・川上未映子さんに寄る荒川洋治・著の『文学の門』の書評文を読みながら・・。

2010-01-10 13:43:28 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいて、何よりも魅了されたのは、
日曜日に於いて掲載される【本よみうり堂】の中のある書評のひとつであった。

荒川洋治・著の『文学の門』(みすず書房、2500円)を作家・川上未映子さんの書評文であった。

無断であるが、この書評文を書き写させて頂く。


「散文は、社会的なもの、社会的責任をおうものであり、
個人のことばは、だらだら無反省に書きつける場ではない。
疑問をもつたり検証したり反省することは、面倒なことだが、その面倒なことに耐えるから、
表現も、書く人も信頼された。
そのことが次第に忘れられてきた」。

古今東西の詩や小説や批評はもとより、
プロ野球やバライティ番組、電車の中で偶然に耳した会話から漢語からウクライナ短編集まで、
日常に見え隠れする言葉とのふれあいを通じて、
散文とはいったい何か、
現在において読み書きするとはどういった意味と可能性をもつのかについて、
とても丁寧に考えせられたエッセイ集である。

ネットが広く普及して、誰もが自分のことを快感だけを頼りに綴り、
またそれを読む機会が増えた。
表現は、自分が特別だと思いこむ自意識の慰めのためにあるのではなく、
他者を想像し、認め、思いやるための発明であり運動であったという事実が、
本書を読み進めるうちにゆっくりと恢復してくる。

ときおり紹介される詩や小説の一節は、
どれもそんな本質に触れるようなもので光り、胸を打たれる。

日々のくらしの中で自分はどんな言葉を使い、どんな言葉を読んでいるか。
いま世の中に満ちてある散文について考え、またそれを問うことは、
じつは正しく自分に、そして生活に向き合うことと地続きにあるのだと思う。

しかしどんな文章でもどんな話も
「どこかをめざしている。
沈んでいいものは、ひとつもない」。
ただ易しいのではなく、読者に語りかけるような「あたたかい」散文で書かれたこの魅力的な作品は、
それじたいが文学批評の構造をもっている。
生きているかぎり言葉に関係しない人はいない。

誰もがたくさんの「門」をくぐりぬけている最中で、
その奥になにがあるのかを自分の言葉で見つめ、考えるときがやってきた。

注)記事の原文にあえて改行を多くした。


http://www.msz.co.jp/book/detail/07501.html
☆ 荒川洋治・著作 『文学の門』(みすず書房) ☆


齢ばかり重ねた私は恥ずかしい限りであるが、著作者の詩人・荒川洋治、書評された作家・川上未映子、
両氏の作品を読んだことがない。

私は遅ればせながら、高校時代に読書にめざめ、
映画・文学青年の真似事をしたく、大学を中退し、アルバイトや契約社員をしながら4年ばかり彷徨(さまよ)い続けた時期がある。

あえなく挫折後、人生の設計をやり直すためにサラリーマンの世界に入り、
民間会社に何とか中途入社でき、
あるレコード会社の管理畑で35年ばかり勤めた後、定年退職後は年金生活に甘んじている。

しかし言葉による力は、写真、映画、音楽などよりも遥かに力を秘めた世界であると信じて、
かたくなに50年近く思い続けているひとりである。

私は小説、随筆、ノンフィクション、歴史書などの読書を最優先しているが、
退職後のまもない時、たまたまブログの世界を知り、
久々に書くことに苦楽を体験をしながら、サイトに投稿文を旅行の不在でない限り、投稿して六年目を迎えている。

もとよりブログの世界は、新聞の投稿欄、総合雑誌の投稿欄などを含めて編集権がないので、
ある程度の自身に節度があれば、自在に投稿でき、公表できる世界である。

私は定年退職後の身過ぎ世過ぎの年金生活をして、
日々に感じたこと、思考したことを心の発露として綴っているが、
心で思うこと、考えていることを文章化にする時、ただちに言葉をつむぐことは稀(ま)れであり、
つたない私は苦心惨澹とすることが多いのである。

文章修行の未熟かしら、と思いながら綴っているのが本音であり、
こればかりは年齢に寄る体験とは、関係はなく、
文才に乏しい私は、ひたすら努力の結晶と思いながら、悪戦苦闘しながら投稿文を綴っている。

こうした思いがあるので、偶然に読んだ荒川洋治・著の『文学の門』の作家・川上未映子さんに寄る書評文を
深く精読しながら教示され、魅了されたのである。


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とめとめなく過ぎる朝のひとときは・・。

2010-01-10 09:19:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
いつものように日の出前のこの時節は6時に起床し、洗面した後は煎茶を淹れたりし、新聞を取り込んだりしている。

そして、居間のビデオ・ケースの上に立てかけている
書家・詩人の相田みつを氏の『日めくり ひとりしずか』の言葉を読みながら、
つたない私なりに自身の戒(いか)しめとしている。

この後、NHKのニュースを見ながら、読売新聞の朝刊を読んでいる間、
日の出の6時半過ぎとなり、雨戸を開けたりしている。

そして快晴であれば、庭のテラスに下り立ち、朝の陽射しを見つめながら思わず手を合わせて感謝している。
この後は、冬枯れの庭を眺めながら、煙草の喫ったりしている。

こうしたことが殆どの毎日で、私の朝のひとときである。

そして、昨夜たまたま観たNHKのBS特集『反骨の映画監督 マイケル・ムーア』を思い出したりしている。


NHKの解説の言葉を借りれば、
《反骨のドキュメンタリスト・マイケル・ムーア監督、
最新作をひっさげ初来日を果たしたムーア監督の映画にかける想いと
知られざる素顔に迫るインタビュー・スペシャル!》
という番組であった。

私は無念ながら、マイケル・ムーア監督の作品を観ていないが、
何かと作品内容が話題となったので、少し知っている程度であった。

氏は行き過ぎた資本主義を批判し、アメリカのたった1%の富裕層が95%の民衆の生活圏まで脅(おびや)かしている、
と明言し、かってのアメリカは中流層が大半を占めて健全な社会だった、
と発言していた。

そして氏は来日された時、渋谷、銀座の繁華街を歩かれたのであるが、
銀座の高級品のブランド店の立ち並ぶ状況を観て、
『ニューヨークでも・・このような店街はない・・
まるで資本主義のディズニー・ランドだ・・』

このように氏は発言された、と少しボケた私は受け止めたのである。

もとより日本は憲法は与えられ、軍事、政治、外交も実権もなくアメリカにゆだね、
経済だけで邁進し、教育から文化までもアメリカの影響が多く、
真の国家として大人になりきれない敗戦後の日本の現状を、
的確に集約した発言として、と私は感じながら、
うすぺらでチグハグな風潮に、無力な私さえ、日本人のひとりとして恥じたのである。

このようにぼんやりと妄想を重ねながら、まばゆい陽射しを眺めたのが、
今朝の7時半過ぎであった。


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改めて、『昭和の記憶 ’60、’70年代』をネットで学べば・・。

2010-01-09 17:11:32 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
先程、時事通信社の基幹ネットの【時事ドットコム】に於いて、
写真集の『昭和の記憶 ’60年代』と『昭和の記憶 ’70年代』を偶然に見て、
しばらく私は見惚(みと)れていたのである・・。

http://www.jiji.com/jc/v?p=syowa_60s
☆【時事ドットコム】 昭和の記憶 '60 ☆

http://www.jiji.com/jc/v?p=syowa_70s
☆【時事ドットコム】 昭和の記憶 '70 ☆


私は東京郊外の農家の児として生を受けたのは、1944(昭和26)年9月であり、
1960(昭和35)年の春に地元の中学校を卒業し、都心の高校に入学した時でもあった。

そして1963(昭和38)年の春に高校を卒業し、大学に入学し、
1964(昭和39)年の秋、東京オリンピックが開催される頃に大学を中退し、
アルバイトや契約社員をしながら映画・文学青年の真似事をし、4年後に挫折した後、
コンピュータの専門学校に一年ほど学び、
ある大手の民間会社に何とか中途入社できたのは1970(昭和45)年の春であった。

そして私は、あるレコード会社に勤め情報畑に勤務し、
1976(昭和51)年の春に結婚して、2年後に一軒屋を構えて、
私にとっては多大ローンを抱えながら、奮闘しながら1980(昭和56)年を迎えた時代であった。

私の人生のなかば、波乱万丈の苦楽をまともに心身受け止めた時代でもあったので、
この時代の出来事の写真を見ながら、
あの時は・・と出来事に重ねて、その頃の私を思いだし、微苦笑したりしている。



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つたなく無力な私にとって、『相田みつを』氏の存在は・・。

2010-01-09 08:41:54 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
朝の陽射しに手を合わせて感謝していると同様に、
ひとりの方の遺(のこ)された言葉を人生のまよい、心の礼節など私が戸惑い感じる時など、
私の心の指針として、慈父のようにあがめ、教示を受けている人がいる。

多くの方たちに知られている亡くなわれた書家・詩人の相田みつを(あいだ・みつお)氏であり、
私なりに相田みつを氏に関しての深い思いは、このサイトにも数多い綴っている。


たとえば、昨年の2009年11月1日に於いては、
【 私なりの『自己顕示、自己嫌悪・・』の時は・・。 】
と題して投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
殆ど日の出と共に起床し、洗面した後は煎茶を淹れたりし、新聞を取り込んでいるが、
この後に真っ先にすることは、居間のビデオ・ケースの上に立てかけている
書家・詩人の相田みつをの『日めくり ひとりしずか』に向かうのである。

そして彼の綴られた本日の格言を、心の中で、呟(つぶや)いている。

たまたまある日には、
《・・
   自己顕示
   
   自己嫌悪
   
   わたしの

    こころ

     うらおもて

             みつを
・・》
このように氏の特有の書体で明記されたりしている。

私はこの相田みつを氏の遺(のこ)された名言を人生の生きた哲学のように、
ここ10数年を学んでいるひとりであるが、
私の独断と偏見の多い日頃の言動の多い中の人生の戒(いまし)めとして、日々教示されている。

私の生家は数多くの一般家庭にある曹洞宗であるが、
私は宗教にも関心がなく、ただ相田みつを氏の遺された名言を、何よりも親愛している。

私はこのサイトに心の発露を日々綴ったり、
日常の言動は、家内はもとより、ご近所の方たち、
そしてタクシー、バスを待機している時などで見知らぬ人と話したりしている。

ともかく明るく振舞い、よくしゃべるので、
家内はときおり、貴方少し静かにして下さい、と云われたりしている。


幼年期から小学生時代までの私は、兄ふたりは学校の成績も良く、
日頃の言動も明るくふるまった優等生があったが、私は何かといじけた無口の劣等生であった。

地元の中学を卒業し、兄ふたりの影響のない都心の私立高校の入学後から、
私は変貌したのである。
都心の中学を卒業した多くの同級生などに授業はもとより、興味ある分野に刺激されて、
私なりに読書が好きになり、文学に目覚めたり、
歴史も好きになり、現代史を学び、そして時事のことも深めたりした。
そして写真の風景画に魅了されたりした。
小学高学年から独りで映画館に通ったことだけは、相変わらず持続していた。


現役だった民間会社のサラリーマンの若き頃は、
上司から、ひとこと多いよ、人に対しお節介だよ、と注意されたくらいである。

私は何事も言ったり態度で示しないと、相手方に理解してもらえない
と信じているので、
定年退職後の今日まで余り変わらないのである。

しかし、ときおり自己主張が強すぎたかしら、このサイトで綴ることが行き過ぎたかしら、
或いは心を整理しないまま発言したり、幼い知識で平然と綴ったりし、
と後になって反省したりし、しばらくの間、心が落胆し沈黙する時もある。

こうしたことが幾たびか、私は重ねたりしている。

たとえば、心を整理しないまま発言したのは、
今年の夏に衆院選の投票をした時、初めてNHKの『出口調査』を受けたのである。

【・・
(略)
私は投票を終えて、中央道路の両側の樹木を眺めながら正門に出た時、
30代の男性が2人いて、この中の独りが私に近づいてきたのである・・。

『NHKですが・・『出口調査』をしていまして・・ご協力をお願いできますか?』
と目礼をしながら私に云った。

私は30代の男性の右手のNHK腕章を確認した後、
『いいですよ・・』
と私は云ったら、バインダーに載せられた『出口調査表』とポールペンを渡された。

投票された小選挙区の氏名、比例代表の党名、そして支持している党名、
投票した人の年代が羅列されて折、該当に○印を付けるだけであった。

私が○印を付けながら、
『大変ですね・・』
と私は労(ねぎら)いの言葉を30代の男性に云った。

『出口調査にご協力頂けまして・・助かります。
早々と投票をされていますね・・』
と30代の男性は私に微笑みながら云った。

『投票するのは・・国民のひとりとしての・・責任を果たしただけですよ』
と私はさりげなく30代の男性に云った。

『それはご立派なお考えで・・』
と30代の男性は真摯な表情て私に云った。

私は『出口調査表』の○印を終え、30代の男性に手渡し、
お互いに目礼した後、帰路に向った。

帰宅に向う途中の坂道を下る時、
『国民のひとりとしての・・責任を果たしただけですよ』
と私は云ったのは、間違いだったと気付いたのである。

『有権者のひとりとしての責務です』
と私は発言すべきだった、と後悔しながら自宅に向ったのである。
・・】

このように私はそそかしい悪い癖があり、少し心の整理をしないと、
こうしたようになり、恥ずかしながら事実ありままをこのサイトに投稿したのである。

古人の以来、ケガは治(なお)ってもクセは直(なお)らない、と名言があるが、
こうした名言の前に、齢ばかり重ねた65歳の私は、思わず微苦笑したりしている。

しかし、余り考えすぎると何事も発言もできなくなり、
或いは心の発露として、このサイトに綴れなく、書き綴っても平坦な散文になると思い、
相変わらず懲(こ)りない性格の私である。
・・】



この前の2009年8月2日に於いては、
【 改めて、亡き相田みつを氏を更に敬愛を深めて・・。】
と題して投稿していた。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であるが、
昨日、買い求めた相田みつを・著の『雨の日には雨の中を 風の日には風の中を』(角川文庫)を
午前中のひととき読みはじめた。

http://www.kadokawa.co.jp/bunko/bk_detail.php?pcd=200805000464

《この文庫本は、1993年10月に文化出版局より刊行された『雨の日には・・』を改題して、
文庫化しました。》
と明記されたりしていたが、
私はこのお方の遺された言葉、そして特有の書体を拝見し、ひとつひとつとページを捲(めく)っていた・・。

いつものことながら、深く感じ、そして感銘を受けるのであるが、
何かしら余りに整然とし、完成度が高く、立派過ぎて感じたりしたのである。

もとより私は、亡き相田みつを氏を日頃から敬愛しているひとりである。
このことに関しては、こまのサイトで数多く綴っているが、
たとえば【 私が敬愛する、ひとりの方は・・♪ 】
と題して、昨年の5月13日も下記のように投稿している。

【・・
私は神や仏様にすがる気持ちは、日頃から持ち合わせてない63歳の男性であるが、
この方の言葉の前には、敬愛する余り神や仏様より高い存在となっている。

書家で詩人であった今は亡き相田みつを氏で、
彼の残された言葉を毎日、早朝のひととき居間で読んで、
私のつたない心をいまわしているのである。

居間にあるビデオケースの上に掲げて、本日のお言葉を読み、手を合わしたしている。


私は10年前頃、家内の両親と私達夫婦は、伊香保温泉に2泊3日で滞在した折、
ある民芸土産店で私はひとつの品に目がとまった・・。

ひとりしずか、と大きく題され、みつを
と署名されていた。

私は左下に相田みつを作品集、と読み、
著名なこのお方は名は知っていたのであるが、初めて接した言葉、そして書体であった・・。

無断であるが、転記させて頂く。


   ただいるだけで


   あなたがそこに
   ただいるだけで
   その場の空気が
   あかるくなる

  あなたがそこに
  ただいるだけで
  みんなのこころが
  やすらぐ

    そんな
    あなたにわたしも
    なりたい

               みつを


この言葉が表紙を捲(めく)った後、最初のページに掲載されていたのである。


私は幾つになっても拙(つたな)い我が身を振り返り、
この日以来、私はこのお方を秘かな慈父のような人生の師と掲げたのである。

この作品集は、トイレ用日めくり、と明記されて折、
その日に応じたページに、さりげない教訓の言葉、そして特有な書体で書かれている。

その後、私は彼の残された『じぶんの花を』、『いのちいっぱい』の作品を拝読し、
ときには傲慢と独断、そして偏見の多い私をいまわしている。

尚、私は神社仏閣を観た時は、そぉっと手をあわせている程度の男である。

・・】

このような投稿文の一部であるが、
今回に限り、改めてこのお方のことをネットで調べたのである。

http://sugano.web.infoseek.co.jp/mituo/index-2.htm#top

このサイトに於いては、遺された言葉、書体に圧倒され、

http://mitsuo.diamond.co.jp/history.html

このサイトに於いて、相田みつを氏の略歴を見たりしていた。
《・・
1924年 栃木県足利市に生まれる。

1942年 旧制栃木県立足利中学校卒業年次に、歌人山下陸奥に師事する。
      歌会で生涯の師となる曹洞宗高福寺の禅僧・武井哲応師と出会う。
1954年、第1回個展を足利市で開催。
      以後、全国各地で「自分の言葉・自分の書」による展覧会を開催する。
      第6回毎日書道展の漢字部門に入選、
      その後、連続して墨象美術・近代詩文の部門に入選。

1973年ごろから各地で講演活動を行う。

1974年 在家の仏教活動として「円融会」をつくり、
     「円融便り」を発行する(1991年までに76号を発行)。

1984年 『にんげんだもの』(文化出版局)出版、のちにミリオンセラーに。
1987年、『おかげさん』(ダイヤモンド社)出版。
1991年、『いのちいっぱい』(ダイヤモンド社)出版。
       同年12月、脳内出血により逝去。享年67歳。


1994年 生誕70周年を記念して、「相田みつを展」が東京、大阪、名古屋、広島、札幌など全国8都市で開催される。


1996年9月、東京・銀座に「相田みつを美術館」開館。
        対訳相田みつを作品集『いまここThe Here and Now』(ダイヤモンド社)出版。


1998年 『生きていてよかった』(ダイヤモンド社)出版。
      「生きる喜び 相田みつを展」が札幌、仙台、大阪、福岡、沖縄など全国13都市で開催される。


2003年11月 丸の内・東京国際フォーラムに「相田みつを美術館」移転。
・・》

このように掲載されて折、
このお方が飛躍されたのはいつ頃のころかしら、と思ったのである。

この後、私はフリー百科事典と名高い『ウィキペディア(Wikipedia)』を読んだりした。
《・・
(略)
栃木県南西部の足利市に生まれる。
栃木県立足利中学校卒業後、歌人・山下陸奥に師事。
1942年に曹洞宗高福寺の武井哲応老師と出会い、在家しながら仏法を学ぶ。
1943年に書家である岩沢渓石に師事、全国各地で展覧会を開催。
1991年12月17日、足利市内の病院で、脳内出血により永眠する(満67歳没・享年68〈数え年〉)。

(略)

代表作
『にんげんだもの』(1984年)
『一生感動一生青春』(1990年)
『じぶんの花を』(2001年)
カレンダーと合わせ、800万部以上の売り上げを残している。

(略)

その他
相田みつをが専業の書家として独立できた背景には、
足利を代表する須永花火など数社を有する須永グループ代表の須永昇がパトロンとして
まだ無名だった相田の作品を、展覧会の度に購入して活動を支えていたことがある。
現在も須永家では相田の作品を数多く所蔵し、
一部は相田みつを美術館に寄贈、須永コレクションとして展示されている。

埼玉県加須市在住の書道家我峰(渡邉浅男)氏など、
懇意にしていた書道家仲間が多数存在している。

(略)
・・》
注)掲載の原文より、あえて改行を多くした。


私なりに相田みつを氏の軌跡がおぼろげに視(み)えてきたのは、
地元の中学校卒業後、歌人・山下陸奥に師事し、
1942年に曹洞宗高福寺の武井哲応老師と出会い、在家しながら仏法を学び、
更に1943年に書家である岩沢渓石に師事。
こうしたことで、たえず自己格闘をしながら、1954年、第1回個展を足利市で開催にたどりつけた、
と想像を重ねる。

そして何よりも当面として肝要なのは、
地元を代表する須永花火など数社を有する須永グループ代表の須永昇がパトロンとして
まだ無名だった相田の作品を、展覧会の度に購入して活動を支えていたことがある。

そして全国各地で「自分の言葉・自分の書」による展覧会を開催され、
この間はたえず自己格闘を重ねなれながら、
生きた言霊を発露されて、書体に具現したと思われる。

相田みつを氏は、飛躍するまでの期間だけであっても、
こうした人に支えながら、数多くの人々に賞賛された幸運な人でもある。
こうしたことは古今東西、点を遺された人には数多く散見できるので、
決して相田みつを氏の評価に左右されることはない。

私などはむしろ、こうした人々のお陰で、相田みつを氏
遺された言葉、書体に接することが出来たので、
無名な私の日常の心の励みとなっているのであり、こうした軌跡を新たにし、
かえって人間味を感じ、更に敬愛を深めているのである。

今回もとりとめなく亡き相田みつを氏を綴ったりし、
手にした『雨の日には雨の中を 風の日には風の中を』を一読し、
深くは読み込んでいないが、特に魅了された遺された言葉を掲載させていた頂く。


      にんげんは
   どんな人でも人それぞれに
  悩みや苦しみを
いっぱい抱いて
生きているんだね
ほとけさまにもいえないような
 悩みと苦しみをね

            みつを



・・】


このような投稿文を私なりの相田みつを氏の思いを数多く綴り、
齢を重ねるたびに私は相田みつを氏の遺された言葉を深めている。





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遅ればせながら、上野千鶴子・著の『男おひとりさま道』を読書中・・。

2010-01-08 18:29:17 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
ここ数日、ひとつの本にまるで雷を打たれたように読んでいる・・。

上野千鶴子(うえの・ちずこ)氏・著作の『男おひとりさま道』(法研)であり、
話題となった『おひとりさまの老後』の続編である。

http://www.sociohealth.co.jp/book/db1/data.cfm?code=5890753
☆ 上野千鶴子・著作 『男おひとりさま道』(法研) ☆

前作の『おひとりさまの老後』に関しては、
何かと話題になり、私は色々な本、ネットで概要は学んだりしていた。

私達夫婦は、子供も恵まれず、たった2人の家族であり、
いずれは片割れとなるが、私は煙草を喫うし、お酒が大好き、そして運動不足の日々を過ごしているので、
私の方が先に死ぬことの確立は圧倒的に高い、と思ったりしている。

しかし、こればかりは予期できなく、家内に先立たれた思いは、このサイトに綴っているので、省略するが、
老後設計の再チエックとして買い求めたのである。


このような思いで、ここ数日、読んだりして、私は齢ばかり重ね無知なことが多く、
唖然としながら、多々教示を受けている・・。

たとえば、第2章の『下り坂を降りるスキル』に於いて、
この中のひとつに『男の定年、女の定年』があり、
私の考えていた《女の定年》とは全く予想外だったので、この後しばらく考えさせられたのである。

このように男性諸氏の定年後の確かな人生の教科書に、
私はページをめくるたびに、ため息をしたりしているので、八割方を読んだりしているが、
最後のページには道なかばである。



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明日より、世間の多く人は、『三連休』となり・・!?

2010-01-08 07:30:13 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
今朝、いつもの通り日の出前に起床し、読売新聞の朝刊で、
本日は2010(平成22)年1月8日・・金曜日・・花金か、
と心の中で呟(つぶや)いたのである・・。

働いて下さる現役の諸兄姉には申し訳ないが、私は年金生活を半年ぐらい過ぎると曜日の感覚が薄れて、
たびたび戸惑うことが多いのである。

この後、折込のチラシを見て、明日より世間の多くの人は三連休か、
と知ったのである。

《 1/9(土)・10(日)・11(月・祝)
         三連休スペシャルセール 》

と大きく明示されたデパートのひとつ『伊勢丹』の週末特別号であり、
伊勢丹全館 冬のクリアランスセールと明記されて、
思わず私は微苦笑したのである。


世間の多くの人は、年末年始の休暇を終えて、新たなる仕事始めをして、
ほっと一息して、三連休を迎えるのが本心かしら、
と民間会社に35年ばかり勤めた私は思ったりした。

そして、私の住む地域は、幸いにも冬晴れの日が恵まれるので、
経済の先行きの見えない昨今、ご家族でゆっくりお過ごしになれれば、
と現役の諸兄姉のご家庭を思ったりしたのである。

そして、年金生活の我が家は、冬のクリアランスセールと云われても、
年に4回ぐらいデパート、専門店で買物をするくらいであるので、
折込チラシは殆ど見ないののが実情である。


先程、地元の天気情報を見たら、
朝の6時過ぎは1度、日中の昼下がりは10度前後、夜の6時過ぎには7度前後が予測され、
穏やかな冬晴れの日中を迎えている・・。
この後の三連休も同じよう、表示されている。

我が家の予定は特にないが、11日の月曜日の祝日に於いて、
私の母の13回忌、次兄の33回忌の法事があり、私達夫婦が参列するので、
久々に喪服の着用となり、
本日は風通しの良い場所に干すぐらいである。



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我が家は、『七草粥(ななくさがゆ)』の代わりに、春菊のゴマ和(あ)え・・。

2010-01-07 19:15:19 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
古来より正月の7日の朝食には、七草粥を食べる習慣の家が多いが、
今朝の我が家の朝食は世の中の時流に逆らっているのかしら、
と私は朝食の時、家内を見ながら、微苦笑したのである。

白米のご飯、ワカメの味噌汁、春菊のゴマ和え、カブの葉の醤油漬、コブの佃煮、海苔(ノリ)が五枚・・
家内の方は食パンとオムレツと野菜・・そしてコーヒーであり、
私達夫婦の食卓はこれだけなのである。

私はメタポに近いが、心身絶好調のである。

私は朝食を頂いた後、私の夫婦のご飯茶碗をよく見たら、少し欠けている処があったが、
いずれは私達夫婦は片割れになるが、
割れそうなヒビでも入ってなければ良い、と私は苦笑したのである。

我が家は、私の定年後は、七草粥は無念ながら食べたことがないのである。


私の『七草粥』の思いは、昨年の2009年の1月7日のこの日、
【 七草粥(ななくさがゆ)は、遠い思い出となり・・♪ 】
と題して投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
私は年金生活の5年生で64歳の身であるが、
昼のひととき、冬晴れの風もなく中、最寄のスーパーに買物に行った。
野菜売り場のコーナーで、『春の七草』のセット品が50前後があり、
私は立ち止まり眺めていたのである。

このスーパーは、4日の日曜日から、『春の七草セット』が販売されて折、
チラシには、
《・・
       七草がゆ
1月7日7日正月、七草正月とも言われ、
早春の若草を粥に入れて、春の訪れを楽しむ日です。
7日の朝に、春の七草を入れた粥を食べると万病がさけられると言われ、
今年一年の家族の健康を願います。
中国から伝わり江戸時代に広まった習慣のようです。
・・》
と優しく明記されていたのである。

私は昨日の朝、NHKのテレビの『生活ほっと』の番組の中で、
春の七草の摘み取りを放映されていたのを思い出したり、
不幸にして、昨夜まで『春の七草セット』を買いそびれて、
今朝の朝食に七草粥を頂くことなく、
この品の前で思案している30、40代の奥様たちのしぐさを複雑な思いで眺めたりしていたのである。

そして、この『春の七草セット』は、神奈川県産で、
新春を祝う、健康来福と朱記されている。
そして、1パック398円(税込)と大きく棚の所に明記されていたのである。

私はここ10数年、七草粥の祝い事には興味がなく、
私が幼年期だった頃、叔母に教えて貰い、七草の数種類を摘んだことを思い馳せたりしたのである。


これらに関しては、昨年の1月6日に於いて、
【昼のひととき、散策そして買物・・♪】と題して投稿しているので、
再掲載をする。

【・・
東京の郊外は、日中は早春の陽気となった。

遅い朝食後、私は散策に出かけた。

冬のスポーツ・シャツに綿入れの外出用の袢纏(はんてん)、
マフラーにせず、冬用のズボン、そして足袋と下駄の容姿で家を後にした・・。

川沿いの遊歩道を歩いたが、のどかな陽気で、
日曜日であり、ときおり家族連れが見かける程度で、殆ど平日の同じ様だった。


駅前の本屋に寄ったが、これといった本が見当たらなかったが、
何とか一冊の興味のある本を見つけたのである。

飯倉晴武・編の『日本人のしきたり』(青春新書)であり、
四季を重んじ、人生の節目を大切にする和のこころ、伝統の原点、
と帯に明示された本である。

正月行事、年中行事、結婚、懐妊・出産、祝い事、贈答、手紙、葬式、縁起のしきたりが、
細分化した解説されている。

私が購入した動機は、最終章に『しきたりに関することわざ』があり、
無知なことが多かったからである。


例えば、縁起のことわざ、などのひとつとして、

【吉凶は人によりて、日によらず】
人は成功したり、失敗したりするのは、
時や日によるのではなく、その人の行いによって決まる。
たとえ凶の日であっても、きちんとした行いをしていれば心配ない、
ということ。


私は立ち読みしていて、思わず襟をただし、
齢を重ねた63歳の私は、世の中の常識なことに無知が多く、恥ずかしく思い、
今から学んで人生遅くないかしら、
とため息をしながら、購入したのである。

帰路は住宅街を通り過ぎて、自宅の最寄のスーパーに寄った。

家内からは、野菜とパンなど、と厳命されていたので、キャベツ、ホウレン草の選定に少し時間を要した。

付近の棚には七草がパックになった品、
一番驚いたのは七草サラダと称し、七草がスライスされパック状、
それぞれが山積みとなっている。

私は現実主義なので、遠い昔は何かと冬の時節は野菜不足であったので、
新春のひととき七草粥(ななくさがゆ)を召し上がったのであり、
現世はキャベツ、レタス、セロリ、ホウレン草、ダイコン、カブ等が多品種にあるので、
私達夫婦は七草粥には興味がないのである。

私は幼年期の時代、叔母と兄の後を追いながら、
我家の田畑の畦道で七草を採った体験があり、
子供心にお気に召さない食べ物であり、
食べすぎで、大人になっても敬遠している食べ物のひとつなのが本音である。

そして日本人の古来からの行事のひとつの食べ物と、
私達夫婦は和事に関心は多いが、ときには矛盾することもある。


結果として、いつもの野菜物、バンを選定し終え、帰宅した。

歩き回ったのが4キロ前後で、早春の陽射しにつつまれて、
2時間ばかり外出となった。

私の散策と買物は、殆どこのような形で廻っていることが多いのである。

・・】



一昨年の時には、
【早春の若菜摘(つ)みの想いで・・♪】と題して、
少し感傷的に綴ったりしているが、再掲載をする。

【・・
旧暦の一月七日は『春の七草』と古人より伝えられている。

先日の4日の時にスーパーに買い物に私が行った時、生鮮野菜売り場のひとつのコーナーを設けて、
『春の七草』の可愛らしいパックがうず高く積み上げられていた。

セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベ、ホトケグサ、スズナ、スズシロが詰め込まれている。
スズナは野菜のカブであり、スズシロはダイコンであることは多くのお方に知られている。

私はこの七草を見て、遠い日の幼年期の頃が想いだされた・・。


東京の郊外の農家の子として生を受け、昭和26年の小学一年生の頃は、
祖父、父が健在で、程々の広さの田畑を耕していた。

旧暦の1月7日は、今の暦では2月中旬頃であるので、
田んぼのあぜ道、畑の小道の外れに色々な野草が数多くあった。

叔母の二人は、未婚であり、ノビルやヨモギを取り、私達にも食べさせてくれた。

ノビルは今でいうとラツキョの小型の形をしており、真っ白な小玉が先端にあり、
さっとお湯をとおした後、味噌に砂糖を加えた甘味噌を付けて口に含んだりした。
早春の頃は、カブ、ダイコン、ホウレンソウ、ネギ等の野菜の中、
子供心にもノビルは春の香りを感じたりしていた。

ノモギも叔母達が摘んで、撞(つ)きたての餅などに入れ、私達も香りと歯ごたえを共にした。

ナズナはペンペングサと呼んでいたが兎を兄達が飼っていたので、餌としていたと思われる。

この他の七草は多分生えていたと思われるが、幼年期であったので、記憶が定かでない。

私の住む地域では、昭和30年を過ぎた頃から田畑は消えうせ、急激に住宅地に変貌した。

私はあの時代に口にした早春の食べ物として、主庭の一角にフキを植えている。
二月の初旬頃にフキノトウとして、頂いている。

現役時代、激務の業務を終え、休みの昼下り庭に下り立つと、
フキノトウを見かけると、十幾つかは摘めるので、
家内に手渡しする。

水洗いをした後、フキノトウに味噌を少しつけ、アルムホイルに包んで火であぶる。

私も台所の一角の簡易テーブルで、弐合徳利とぐい呑みで待機する。

フキノトウの苦味、香り、歯ごたえを味わい、ぬるめの辛口の純米酒を呑むと、
春が来た、と思っている。
庭先を観れば、白梅は莟(つぼみ)か数輪の花が見られる時期である。

退職後の今は、原則として日中のお酒は自粛しているので、
夕食前に味わうが、特にフキノトウに関しては昼前、昼下りのひとときは、味は倍増すると確信している。

待ち焦がれた早春、フキノトウを摘みながら、今年も・・と感動しながら味合うので、
実感もさることなから余情を増すのかしら、と呑べいのひとりとして思っている。

・・】


このように綴ったりしてきたが、
私にとっては春の七草などの早春の里の食べ物は、
幼年期の思いと重なることが多く、宝物のひとつ、と思いながら愛惜の情景となっている。

このような私の心情なので、我が家は七草粥は食卓に載らないのである。




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長渕剛 (ながぶち・つよし)氏の『昭和』を聴きながら、昭和天皇に愛惜を重ね・・。 最終

2010-01-07 17:25:00 | 定年後の思い
私は東京郊外の農家の児として、1944(昭和19)年の9月に生を受け、
昭和天皇に関しては、多くの日本人と同じように複雑な思いで、
何かと敗戦後から今日まで、つたない身であるが、注視してきた。

私もこのサイトに於いて、昭和天皇に関し、投稿してきた。

【 私なりの『マッカーサー元帥』の想いは・・。 ② 】
と題し、昨年の2009年10月19日に於いて、
敗戦の一年近くの頃の昭和天皇に関して、ふれている。

【・・
小学校の高学年になると、1葉の写真を見た時は、その夜は子供ながら、浅い眠りとなった。

この写真は、天皇陛下の横で悠然とたたずむマッカーサー元帥の姿であった。

そして私の生を受けた9月27日の1年後であったので、
なおさら印象深く、私の心に残った。

読売新聞の『編集手帳』に綴られていたこともあるので、無断であるが引用させて頂く。

《・・
昭和天皇が東京・赤坂の米国大使館にマッカーサー元帥を訪問したのは、
1945年(昭和20年)9月27日であった。

2日後に新聞各紙に写真が残った。
モーニング姿で直立する陛下の隣で、開襟シャツの元帥が腰に両の手を当てて悠然とたたずむ。
勝者と敗者の違いを伝えて、余すところがない。
・・》


私は小学校より、アメリカに対して複雑な思いで昭和50年を迎えた。

この頃までは、敗戦の間際にソ連が北海道占領プランがあった、
とおぼろげながら何かの本で読んだりしていた。

昭和50年のなかば、一冊の本に出会った。
『ドキュメント昭和史』(平凡社・発行)の全8巻を購入し、読み耽っていた。

この中で、第6巻目に《占領時代》を読み、この敗戦直後の状況を教示してくれた。

《・・
日本分割占領案が歴然と存在していた。
各国の国益をかけた外交が行なわれ、最終的にはアメリカのトルーマン大統領の国益の基に、
アメリカ人の連合国司令官の下で統治された。
・・》

この書物のお陰で、アメリカを静観した形で、アメリカを見ることが出来た。

あの敗戦の1年後に近い9月27日は、
陛下と元帥の写真を蘇るたびに、勝者から観た歴史の背景を知り、より一層鮮明な日の想いとなった。


このことと同時に敗戦後の日本の状況が鮮明に、私なりに理解できたのである。

日本の敗戦の1945(昭和20年)年8月15日は、もとより『敗戦記念日』であるが、
国土の大半は戦禍にまみれ、食料、衣料、住宅が国民の大半は困窮していた。

日本は国連軍の名の基にアメリカ軍隊の下で、占領された。
そして、占領軍は連合国最高司令官総司令部(GHQ)の指令に基づいて、
現行公布されている日本国憲法をはじめ、
農地改革、財閥の解体、要人の追放、言論の弾圧などが実施された。
そして、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の最高責任者はマッカーサー元帥である。

このような占領軍の最高責任者ともなれば、
アメリカ大統領の意向、そしてアメリカ議会の状況、アメリカ国民の世論さえ配慮すれば、
敗戦国の日本などは自在に裁量できる帝王のような存在である。

こうした日本の中の動乱期の折、
米ソの冷戦、中華人民共和国の建国、そして朝鮮戦争の勃発、と各国の怜悧な国益に基づき、歴史は動いた。

このした中で、『対日講和条約』により占領下から独立でき、
朝鮮戦争の特需も含め日本の経済躍動のはじまりが、『対日講和条約』と私は思っている。

『対日講和条約』に関しては、知識人の藤野邦夫氏の言葉を借りれば、
《・・
第二次大戦の末期、日本が降伏勧告の宣言である『ポツダム宣言』を受け入れたのは、
1945(昭和20年)年8月14日。
これによって戦争は終結したが、この宣言には、幾つかの条件と共に、
日本が民主的で平和な政府が出来れば、
直(ただ)ちに占領軍は引き上げるという条項が明記された。

しかしそのあと、アメリカと旧・ソヴィエト連邦の対立が激しくなり、
またアメリカ国内にも、軍事的な目的から占領状態の継続を望む国防省のような勢力があって、
対日講和は進展しなかった。

ところが、1950(昭和25年)年6月に『朝鮮戦争』が勃発。
アメリカは日本を西側の陣営の一員として再建する為、講和条約を早く結ぶ方針の転換した。

こうして1951(昭和26年)年9月8日、
サンフランシスコで、連合国と日本の間の戦争状態の終結を意味する『講和条約』に署名が行われ、
翌年の1952(昭和27年)年4月28日に発効した。

この時の当事国は、45ヶ国。
幾つかの国とは、個別に講和条約が結ばれた。

これは結局、西側諸国を中心とした講和条約であり、
また連合国との協定によってアメリカ軍が駐留を続けたので、
その後の日本の国際的位置が決定づけられた。
・・》

このような日本が激動する中、朝鮮半島は冷戦の大国の怜悧な国益に基づき、
過酷で悲惨な朝鮮戦争が行われていた。

私は高校生の時から好きで、教科書、雑誌、歴史書などで学び、
同じ民族の北朝鮮と韓国がお互いの半島地域を戦場を大国のもくろみで、
ローラーように南進したり、北進したりする戦争状況を過酷過ぎると思ったりしていたのである。

もとより韓国の強い背景となったのは、国連軍と称したアメリカ軍であり、
最高司令官に任命されたのはマッカーサーである。

そして中華人民共和国の大軍が半島になだれ込み、
結果として劣勢になったマッカーサーは中華人民共和国の本土に原子爆弾を落とす決意をするのであるが、
時のアメリカ大統領からマッカーサーは解任される。

こうしたことは高校生で学んだのであるが、
私は何よりも太平洋戦争のフィリンピンの統治下で日本軍の襲来で撤退、
そして日本の敗戦後の占領軍として、その後の朝鮮戦争の原子爆弾を落とす決意など含め、
マッカーサー自身の軌跡、思い、周辺の状況を知りたくて、
数多くの本を読んだりして、今日に至っている。
・・】



そして、かの大戦で敗戦となり、これらの私なりの心情を、
【 64回目の『敗戦記念日』に際して・・。 】
と題して、投稿している。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して黙祷したのは早朝の5時過ぎであった。

私は昭和19年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
敗戦となった8月15日からは、ほぼ一年前になるが、
少なくとも沖縄戦が事実上集結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そしてこの8月15日は、
たった一枚の赤紙と称せられた召集令状で徴兵され、戦場で亡くなわれたお方達、
そして戦時下、空襲などで亡くなわれた多くの人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。


そして、私はここ3年に於いては、
都心の千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑の碑に刻まれた両陛下の詠まれた歌を重ねたりしている。


   国のため いのちささげし
      人々の ことを思えば 胸せまりくる         

                       昭和天皇

   戦なき 世を歩みきて
      思ひ出づ かの難き日を 生きし人々

                       平成天皇


私はこの歌を深く拝読するたびに、思わず胸が熱くし、
その時代の歳月に思いを馳せ、鎮魂曲のような感じている。

この昭和天皇の歌の思いは、
靖国神社から程近い所にある千鳥ケ淵戦没者墓苑は、
訪れる人も少なく、この季節は蝉時雨が響き渡る情景の中、
詠まれた伝えられている。

平成天皇の歌は、戦後60年の年の歌会始の儀で詠まれた、
と報じられていた。

そして昭和天皇の御製の碑と向き合う形で、
2005年(平成17)年の9月に平成天皇の御製の碑が完成した、
と何かの新聞で読んだりし、私はつたない身ながら学び、思いを馳せたりしているのである。


私は毎年、『全国戦没者追悼式』が執り行われている中、
私はテレビを見ていて『黙祷・・!』の声を聴くと、
思わず襟を正し、黙祷をした後、しばらくするとこのふたつの歌を思い重ねている。


尚、私は8月15日は、『終戦記念日』と、どなたが名付けたかは無知であるが、
国際間の怜悧な視線からは、まぎれなく敗戦であり、
都合よく『終戦』と命名された方たちは、
国際各国から観た場合は、国家としての信義にかかわることなのである。

そして、命名された方たちは、余りにも恥知らずと思ったりしながら、
私は無念ながら『敗戦記念日』と思っているひとりである。
・・】

このように私なりの昭和天皇に関しての思いなどが、多々あるのである。

                         《最終》


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