私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
朝の陽射しに手を合わせて感謝していると同様に、
ひとりの方の遺(のこ)された言葉を人生のまよい、心の礼節など私が戸惑い感じる時など、
私の心の指針として、慈父のようにあがめ、教示を受けている人がいる。
多くの方たちに知られている亡くなわれた書家・詩人の相田みつを(あいだ・みつお)氏であり、
私なりに相田みつを氏に関しての深い思いは、このサイトにも数多い綴っている。
たとえば、昨年の2009年11月1日に於いては、
【 私なりの『自己顕示、自己嫌悪・・』の時は・・。 】
と題して投稿しているが、あえて再掲載をする。
【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
殆ど日の出と共に起床し、洗面した後は煎茶を淹れたりし、新聞を取り込んでいるが、
この後に真っ先にすることは、居間のビデオ・ケースの上に立てかけている
書家・詩人の相田みつをの『日めくり ひとりしずか』に向かうのである。
そして彼の綴られた本日の格言を、心の中で、呟(つぶや)いている。
たまたまある日には、
《・・
自己顕示
自己嫌悪
わたしの
こころ
うらおもて
みつを
・・》
このように氏の特有の書体で明記されたりしている。
私はこの相田みつを氏の遺(のこ)された名言を人生の生きた哲学のように、
ここ10数年を学んでいるひとりであるが、
私の独断と偏見の多い日頃の言動の多い中の人生の戒(いまし)めとして、日々教示されている。
私の生家は数多くの一般家庭にある曹洞宗であるが、
私は宗教にも関心がなく、ただ相田みつを氏の遺された名言を、何よりも親愛している。
私はこのサイトに心の発露を日々綴ったり、
日常の言動は、家内はもとより、ご近所の方たち、
そしてタクシー、バスを待機している時などで見知らぬ人と話したりしている。
ともかく明るく振舞い、よくしゃべるので、
家内はときおり、貴方少し静かにして下さい、と云われたりしている。
幼年期から小学生時代までの私は、兄ふたりは学校の成績も良く、
日頃の言動も明るくふるまった優等生があったが、私は何かといじけた無口の劣等生であった。
地元の中学を卒業し、兄ふたりの影響のない都心の私立高校の入学後から、
私は変貌したのである。
都心の中学を卒業した多くの同級生などに授業はもとより、興味ある分野に刺激されて、
私なりに読書が好きになり、文学に目覚めたり、
歴史も好きになり、現代史を学び、そして時事のことも深めたりした。
そして写真の風景画に魅了されたりした。
小学高学年から独りで映画館に通ったことだけは、相変わらず持続していた。
現役だった民間会社のサラリーマンの若き頃は、
上司から、ひとこと多いよ、人に対しお節介だよ、と注意されたくらいである。
私は何事も言ったり態度で示しないと、相手方に理解してもらえない
と信じているので、
定年退職後の今日まで余り変わらないのである。
しかし、ときおり自己主張が強すぎたかしら、このサイトで綴ることが行き過ぎたかしら、
或いは心を整理しないまま発言したり、幼い知識で平然と綴ったりし、
と後になって反省したりし、しばらくの間、心が落胆し沈黙する時もある。
こうしたことが幾たびか、私は重ねたりしている。
たとえば、心を整理しないまま発言したのは、
今年の夏に衆院選の投票をした時、初めてNHKの『出口調査』を受けたのである。
【・・
(略)
私は投票を終えて、中央道路の両側の樹木を眺めながら正門に出た時、
30代の男性が2人いて、この中の独りが私に近づいてきたのである・・。
『NHKですが・・『出口調査』をしていまして・・ご協力をお願いできますか?』
と目礼をしながら私に云った。
私は30代の男性の右手のNHK腕章を確認した後、
『いいですよ・・』
と私は云ったら、バインダーに載せられた『出口調査表』とポールペンを渡された。
投票された小選挙区の氏名、比例代表の党名、そして支持している党名、
投票した人の年代が羅列されて折、該当に○印を付けるだけであった。
私が○印を付けながら、
『大変ですね・・』
と私は労(ねぎら)いの言葉を30代の男性に云った。
『出口調査にご協力頂けまして・・助かります。
早々と投票をされていますね・・』
と30代の男性は私に微笑みながら云った。
『投票するのは・・国民のひとりとしての・・責任を果たしただけですよ』
と私はさりげなく30代の男性に云った。
『それはご立派なお考えで・・』
と30代の男性は真摯な表情て私に云った。
私は『出口調査表』の○印を終え、30代の男性に手渡し、
お互いに目礼した後、帰路に向った。
帰宅に向う途中の坂道を下る時、
『国民のひとりとしての・・責任を果たしただけですよ』
と私は云ったのは、間違いだったと気付いたのである。
『有権者のひとりとしての責務です』
と私は発言すべきだった、と後悔しながら自宅に向ったのである。
・・】
このように私はそそかしい悪い癖があり、少し心の整理をしないと、
こうしたようになり、恥ずかしながら事実ありままをこのサイトに投稿したのである。
古人の以来、ケガは治(なお)ってもクセは直(なお)らない、と名言があるが、
こうした名言の前に、齢ばかり重ねた65歳の私は、思わず微苦笑したりしている。
しかし、余り考えすぎると何事も発言もできなくなり、
或いは心の発露として、このサイトに綴れなく、書き綴っても平坦な散文になると思い、
相変わらず懲(こ)りない性格の私である。
・・】
この前の2009年8月2日に於いては、
【 改めて、亡き相田みつを氏を更に敬愛を深めて・・。】
と題して投稿していた。
【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であるが、
昨日、買い求めた相田みつを・著の『雨の日には雨の中を 風の日には風の中を』(角川文庫)を
午前中のひととき読みはじめた。
http
://www.kadokawa.co.jp/bunko/bk_detail.php?pcd=200805000464
《この文庫本は、1993年10月に文化出版局より刊行された『雨の日には・・』を改題して、
文庫化しました。》
と明記されたりしていたが、
私はこのお方の遺された言葉、そして特有の書体を拝見し、ひとつひとつとページを捲(めく)っていた・・。
いつものことながら、深く感じ、そして感銘を受けるのであるが、
何かしら余りに整然とし、完成度が高く、立派過ぎて感じたりしたのである。
もとより私は、亡き相田みつを氏を日頃から敬愛しているひとりである。
このことに関しては、こまのサイトで数多く綴っているが、
たとえば【 私が敬愛する、ひとりの方は・・♪ 】
と題して、昨年の5月13日も下記のように投稿している。
【・・
私は神や仏様にすがる気持ちは、日頃から持ち合わせてない63歳の男性であるが、
この方の言葉の前には、敬愛する余り神や仏様より高い存在となっている。
書家で詩人であった今は亡き相田みつを氏で、
彼の残された言葉を毎日、早朝のひととき居間で読んで、
私のつたない心をいまわしているのである。
居間にあるビデオケースの上に掲げて、本日のお言葉を読み、手を合わしたしている。
私は10年前頃、家内の両親と私達夫婦は、伊香保温泉に2泊3日で滞在した折、
ある民芸土産店で私はひとつの品に目がとまった・・。
ひとりしずか、と大きく題され、みつを
と署名されていた。
私は左下に相田みつを作品集、と読み、
著名なこのお方は名は知っていたのであるが、初めて接した言葉、そして書体であった・・。
無断であるが、転記させて頂く。
《
ただいるだけで
あなたがそこに
ただいるだけで
その場の空気が
あかるくなる
あなたがそこに
ただいるだけで
みんなのこころが
やすらぐ
そんな
あなたにわたしも
なりたい
みつを
》
この言葉が表紙を捲(めく)った後、最初のページに掲載されていたのである。
私は幾つになっても拙(つたな)い我が身を振り返り、
この日以来、私はこのお方を秘かな慈父のような人生の師と掲げたのである。
この作品集は、トイレ用日めくり、と明記されて折、
その日に応じたページに、さりげない教訓の言葉、そして特有な書体で書かれている。
その後、私は彼の残された『じぶんの花を』、『いのちいっぱい』の作品を拝読し、
ときには傲慢と独断、そして偏見の多い私をいまわしている。
尚、私は神社仏閣を観た時は、そぉっと手をあわせている程度の男である。
・・】
このような投稿文の一部であるが、
今回に限り、改めてこのお方のことをネットで調べたのである。
http
://sugano.web.infoseek.co.jp/mituo/index-2.htm#top
このサイトに於いては、遺された言葉、書体に圧倒され、
http
://mitsuo.diamond.co.jp/history.html
このサイトに於いて、相田みつを氏の略歴を見たりしていた。
《・・
1924年 栃木県足利市に生まれる。
1942年 旧制栃木県立足利中学校卒業年次に、歌人山下陸奥に師事する。
歌会で生涯の師となる曹洞宗高福寺の禅僧・武井哲応師と出会う。
1954年、第1回個展を足利市で開催。
以後、全国各地で「自分の言葉・自分の書」による展覧会を開催する。
第6回毎日書道展の漢字部門に入選、
その後、連続して墨象美術・近代詩文の部門に入選。
1973年ごろから各地で講演活動を行う。
1974年 在家の仏教活動として「円融会」をつくり、
「円融便り」を発行する(1991年までに76号を発行)。
1984年 『にんげんだもの』(文化出版局)出版、のちにミリオンセラーに。
1987年、『おかげさん』(ダイヤモンド社)出版。
1991年、『いのちいっぱい』(ダイヤモンド社)出版。
同年12月、脳内出血により逝去。享年67歳。
1994年 生誕70周年を記念して、「相田みつを展」が東京、大阪、名古屋、広島、札幌など全国8都市で開催される。
1996年9月、東京・銀座に「相田みつを美術館」開館。
対訳相田みつを作品集『いまここThe Here and Now』(ダイヤモンド社)出版。
1998年 『生きていてよかった』(ダイヤモンド社)出版。
「生きる喜び 相田みつを展」が札幌、仙台、大阪、福岡、沖縄など全国13都市で開催される。
2003年11月 丸の内・東京国際フォーラムに「相田みつを美術館」移転。
・・》
このように掲載されて折、
このお方が飛躍されたのはいつ頃のころかしら、と思ったのである。
この後、私はフリー百科事典と名高い『ウィキペディア(Wikipedia)』を読んだりした。
《・・
(略)
栃木県南西部の足利市に生まれる。
栃木県立足利中学校卒業後、歌人・山下陸奥に師事。
1942年に曹洞宗高福寺の武井哲応老師と出会い、在家しながら仏法を学ぶ。
1943年に書家である岩沢渓石に師事、全国各地で展覧会を開催。
1991年12月17日、足利市内の病院で、脳内出血により永眠する(満67歳没・享年68〈数え年〉)。
(略)
代表作
『にんげんだもの』(1984年)
『一生感動一生青春』(1990年)
『じぶんの花を』(2001年)
カレンダーと合わせ、800万部以上の売り上げを残している。
(略)
その他
相田みつをが専業の書家として独立できた背景には、
足利を代表する須永花火など数社を有する須永グループ代表の須永昇がパトロンとして
まだ無名だった相田の作品を、展覧会の度に購入して活動を支えていたことがある。
現在も須永家では相田の作品を数多く所蔵し、
一部は相田みつを美術館に寄贈、須永コレクションとして展示されている。
埼玉県加須市在住の書道家我峰(渡邉浅男)氏など、
懇意にしていた書道家仲間が多数存在している。
(略)
・・》
注)掲載の原文より、あえて改行を多くした。
私なりに相田みつを氏の軌跡がおぼろげに視(み)えてきたのは、
地元の中学校卒業後、歌人・山下陸奥に師事し、
1942年に曹洞宗高福寺の武井哲応老師と出会い、在家しながら仏法を学び、
更に1943年に書家である岩沢渓石に師事。
こうしたことで、たえず自己格闘をしながら、1954年、第1回個展を足利市で開催にたどりつけた、
と想像を重ねる。
そして何よりも当面として肝要なのは、
地元を代表する須永花火など数社を有する須永グループ代表の須永昇がパトロンとして
まだ無名だった相田の作品を、展覧会の度に購入して活動を支えていたことがある。
そして全国各地で「自分の言葉・自分の書」による展覧会を開催され、
この間はたえず自己格闘を重ねなれながら、
生きた言霊を発露されて、書体に具現したと思われる。
相田みつを氏は、飛躍するまでの期間だけであっても、
こうした人に支えながら、数多くの人々に賞賛された幸運な人でもある。
こうしたことは古今東西、点を遺された人には数多く散見できるので、
決して相田みつを氏の評価に左右されることはない。
私などはむしろ、こうした人々のお陰で、相田みつを氏
遺された言葉、書体に接することが出来たので、
無名な私の日常の心の励みとなっているのであり、こうした軌跡を新たにし、
かえって人間味を感じ、更に敬愛を深めているのである。
今回もとりとめなく亡き相田みつを氏を綴ったりし、
手にした『雨の日には雨の中を 風の日には風の中を』を一読し、
深くは読み込んでいないが、特に魅了された遺された言葉を掲載させていた頂く。
《
にんげんは
どんな人でも人それぞれに
悩みや苦しみを
いっぱい抱いて
生きているんだね
ほとけさまにもいえないような
悩みと苦しみをね
みつを
》
・・】
このような投稿文を私なりの相田みつを氏の思いを数多く綴り、
齢を重ねるたびに私は相田みつを氏の遺された言葉を深めている。
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