夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

東京郊外は、春の陽気から、ふたたび冬の寒さを向え・・。

2010-01-21 17:04:21 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
ここ数日は天上の気候の神々の恵(めぐみ)で、一昨日の19日は13度、
昨日は17度の春のような陽気となった。
大寒の時節なのに風もなく暖かく、桜の咲く頃かしら、と私は戸惑いながらも微笑んだのである。

今朝の朝の6時は10度の生暖かい朝を迎え、花曇りの日中となり、
昼下がりは18度となったが、この後は時折北風が吹きはじめたのである。

今宵の6時は8度前後が予測され、
明日の朝6時には1度前後となり、昼下がりも8度前後で冬晴れの日中が予測されている。

たった一日で10度前後の気温が下がり、春の陽気から冬の寒さに舞い戻り、
どうしてなの、と私は空を見つめている・・。


私は日中のひととき、昨夕に地元の税務署から郵送されてきた『所得税の確定申告書 用紙等』を、
年金生活の身ながら、対応した控除証明書等を揃え、
国税庁の申告用のホームページを開き、入力したのである。
結果としては、還付される税金は一万円を少し超えた程度である。
わずかな収入で、程ほどの保険等の支出であるので、この程度かしらと苦笑したのである。

私は相変わらず読書をし、年に一度だけの『所得税の確定申告書』の下書きをし、日中が終わり、
空が暗くなりはじめ、ときおり北風が強く吹いている情景をぼんやりと見つめたりしている。



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春のような陽気の中、思わずトワ・エ・モアの『虹と雪のバラード』の歌を唄いながら・・。

2010-01-21 10:40:03 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨日の昼下がり、数年ぶりに歯の治療を受ける為に、家を出た。

小田急線の『喜多見』駅の付近にある歯科医院に向かい、野川の遊歩道を歩き出したのである。
『大寒』の20日なのに、17度前後の春の陽気の中、
戸惑いなからも、暖かさのめぐみで心は高揚していたのである。

ウォーキング、散策している人たちも何かしら春のような陽気で、明るい笑顔を見たり、
遊歩道の小公園の草花を眺めながら歩いていたのであるが、
私は突然に小声でひとつの歌を唄いだした・・。

♪虹の地平を 歩み出て
 影たちが近づく 手をとりあって
 町ができる 美しい町が
 あふれる旗 叫び そして唄
 ぼくらは呼ぶ あふれる夢に
 
【『虹と雪のバラード』 作詞・河邨文一郎、作曲・村井邦彦、唄・トワ・エ・モワ 】

この後、私はどうして苦手なトワ・エ・モアの札幌冬季オリンピックの歌なの、
と私自身が戸惑ったのである。
しばらくして、最近のニュースのスポーツ・コーナーに於いて、
冬季オリンピックがカナダのバンクーバーで2月中旬より開催され、
日本の活躍されそうな選手の最新の状況を盛んに報じているので、
スポーツに興味のない私さえ、脳裏に残ってかしら、と微苦笑したのである。

私はこうした映像を視聴していると、アジアと日本で初めて開催された1964年(昭和39)年の秋の『東京オンンピック』に続き、
冬季オリンピックを『札幌』で開催させようという機運が高まったりした後、
政官財はもとより、多くの日本人が純粋に熱狂し開催できた最後のスポーツ祭典と思ったりしたのである。

その後のスポーツ祭典は、政官財と開催される自治体の思惑が感じられ、
一部の日本人は醒めた祭典となった、と私は思ったりしたのである。


この『札幌オリンピック』が開催された1972(昭和47)年の2月頃の私は、
1970(昭和45)年の春、25歳で民間会社に中途入社し、
遅ればせながら社会人となり、私なりに懸命に同世代の追いつこうと勤務に励んでいた時であった。

もとより私はスポーツ祭典に興味はなかったが、私はあるレコード会社の管理畑に勤め、
他社の東芝EMIからトワ・エ・モワの『虹と雪のバラード』が発売されていたが、
微苦笑を重ねながら、鼻歌を唄ったりした。

後年、1981(昭和56)年の夏、夏季休暇を活用して、
私達夫婦は北海道の道南地方を旅行した時、札幌の街並みを観光ハイヤーで観たり、郊外を周遊もした。
そして大倉山のジャンプ台の急斜面を観たり、
あのような急勾配のところ選手の方たち、怖くないのかなぁ、
と感じたしたのであった。


あの『札幌オリンピック』が開催された1972(昭和47)年の頃までは、
日本人の多くは政官財には信頼していたし、スポーツ祭典などに関しても、
何より多くの日本人が純粋に熱狂できた時代に、
今の私は愛惜を秘めたりしたのであった。

♪雪の炎 ゆらめいて
 影たちが飛び去る ナイフのように
 空がのこる まっ青な空が
 あれは夢? ちから? それとも恋
 ぼくらは書く いのちのかぎり
 いま太陽の 真下に
 生れかわる サッポロの地に
  
【『虹と雪のバラード』 作詞・河邨文一郎、作曲・村井邦彦、唄・トワ・エ・モワ 】

このような歌を小声で唄い、昨今の政官の一部の人は心の節度を失い、
国民から信頼されず、困った社会になった、と思いながら私は駅に向かい、急いだのである。



http://www.youtube.com/watch?v=RD3ucoODHLE
☆【『虹と雪のバラード』 作詞・河邨文一郎、作曲・村井邦彦、唄・トワ・エ・モワ 】☆



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恥ずかしながら、『雲外蒼天(うんがいそうてん)』の言葉を学び・・。

2010-01-20 10:00:42 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨日、春めいた暖かな昼過ぎに、最寄の郵便局に行った。

10年前に郵便年金の支払い手続きをしたのが、
支給希望開始日が到来したので、請求手続きをしたのである。

所定の書類を窓口で提出した後、しばらく時間がかかると思い、
待合の椅子に腰かけて、付近あるお客様用のショーケースから、ひとつの小冊誌を取り、
読みはじめたのである・・。

この中のひとつとして、《めでたさを意味する四字熟語》を何気なしに読んでいたのであるが、
『雲外蒼天』いう言葉に目が留まり、恥ずかしながら無知であったので、解説文を読んだりした。

《困難を乗り越え、努力して克服すれば快い蒼空が望める》
と明記されていたので、私は思わず微笑んだのである。

この後には、『寒梅大輪』と四字熟語もあり、解説文には、
《梅は寒さが厳しいほど綺麗な花を咲かせる・逆境を乗り越えるこそ大輪の花を咲かせる》
と明記されていて、私は苦笑したのである。


私は齢を重ねてばかりのつたない身であり、体力も衰え感性もボケてきたので、
大輪には遥かに遠い世界なのであり、せめて『雲外蒼天』の世界も高い目標となるが、
残された歳月を考えると最適な言葉かしら、と思ったのである。

私はたったひとつの歴然とした随筆を残すのが命題なので、
果たして、と日々思索しながら過ごしている。

このような意味からして、料理の世界からたとえるならば、『寒梅大輪』は主食の世界であり、
『雲外蒼天』は、山椒のような調味料の世界だ、と私は思いを重ねたのである。

この後、私は帰宅に向かいながら、『雲外蒼天』、と心の中で呟(つぶや)きながら、
住宅街の小道を歩いたのである。

尚、この掲載された小冊誌は、『かしこ ca.cl.co.』という雑誌で、東京法規出版より発刊され、
私が読んだのは昨年の11月号であり、表紙には《特集 うれしい年賀状》と明記されていた。


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天上の気候の神々、ときには『春』の恵(めぐみ)を誘(さそ)い・・。

2010-01-19 10:07:16 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
ここ一週間は朝の6時にはマイナス、昼下がりも8度前後の冬晴れとなり、
5日の『小寒』から20日の『大寒』のこの時節にふさわしいか、
と私は微苦笑を重ねてきた・・。

私の朝は、読売新聞を読んだり、NHKのニュース、天気情報を視聴した後、
ネットで最優先で確認することは、地元の天気情報である。


http://weather.yahoo.co.jp/weather/jp/13/4410/13208/1820004.html
☆ Yahoo! JAPAN 天気情報 調布市入間町 ☆


このように表示されたので、日中の最高気温が13度となっていたので、
二桁かょ、と私は呟(つぶや)きながら、平年の3月中旬の頃の陽気かしら、と思わず微笑んだりした。

そして明日の20日は16度、明後日の21日は17度と予測されて折、
桜の咲く頃かしら、と思ったりしたのである。

大寒の前なのに、どうしてなの、と戸惑いながら、私は澄み切った冬晴れの青空を眺めたりしたのである。

そして天上の気候の神々は、私の住む地域の富貧の差を問わず、平等な春の恵(みぐみ)をもたらす、
と無力な年金生活の私は微苦笑したのである。

そして家内がこの時節、
暖かさが何よりのご馳走です、
と来宅する人を迎える前に、各部屋を暖房しながら云っていることを私は思いだしたりしている。



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昼下がりのひととき、冬木立、早春の花に心を寄せて・・。

2010-01-18 17:39:36 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
私は買物を終えて自宅に戻った後、のんびりと自宅の近くに流れる野川を眺めながら、
この川の両端にある遊歩道を独りで歩くのが、この時節は多いのである。

冬晴れの陽射しの中、川の水辺の近くには、
鷺(サギ)、鴨(カモ)が数多く観られ、そして鶺鴒(セキレイ)、椋鳥(ムクドリ)も飛来してきているが、
私は興味がなく、陽射しを受けた川面、清冽な水の流れを見つめたり、
川辺の薄(すすき)などの冬枯れの情景に魅せられたりしている。

そして遊歩道を少し歩くと、小公園となり30本前後の落葉樹は冬木立の景観を見せている。
この地域に古くからあるクヌギ、コナラの樹木が中核となして、
ハクウンボク、ヒメシャラ、イヌシデ、ヤマボウシ、コブシなどの冬木立となして、
昼下がりの暖かな陽射しを受ける情景を見たりすると、
私は幼年期に農家の児として育てられたためか、心身和(なご)むのである。

私は足を止めて、木のベンチに座り、煙草を喫ながらしばらく見詰めていた・・。

そして付近の垣根の傍で赤い実の南天が陽射しを受け、
その脇に千両の赤い実も見られ、地表から福寿草の黄色の花が数輪が咲いていた。

帰宅後、玄関庭の外れにある白梅が10数輪が咲きはじめ、たわわな莟(つぼみ)が膨らみ、
近づくと早春の匂いを受けたりした。
この後、主庭のテラスに下り立つと、昨年の年末から咲きはじめた日本水仙(ニホン・スイセン)が数多く咲き、
藪椿(ヤブ・ツバキ)の朱紅色の花が咲く前の大きな莟(つぼみ)がたわわとなり、
白玉椿(シラタマ・ツバキ)が一輪ばかり咲きはじめている。

この時節の私は、こうした情景を眺めながら、
冬木立、早春の花に心を寄せたり、浄化させて頂いたりして、ここ数年を過ごすことが多い。



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どのような社会でも、女性に嫌われたならば、終わりである・・!?

2010-01-18 10:40:31 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたのであるが、
昨今、世の中を騒がしている民主党の小沢幹事長に関して、
第一面のトップニュースとして、

《「小沢幹事長辞任を」70%
          内閣支持急落45% 》

と見出しされた記事を精読した。

この記事の内容に関しては、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】でほぼ同一の記事が掲載されているので、
無断であるが転載させて頂く。


     小沢幹事長「辞任すべきだ」70%…読売調査  世論調査

小沢民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入を巡り、
元秘書の石川知裕衆院議員らが逮捕されたことを受け、
読売新聞社は16日夕から17日にかけて、緊急全国世論調査(電話方式)を実施した。

鳩山内閣の支持率は45%で、前回調査(8~10日)の56%から11ポイント急落し、
不支持率42%(前回34%)とほぼ同水準となった。
元秘書が逮捕された事件の責任を取って、
小沢氏は幹事長を辞任すべきだと思う人は70%に達し、「その必要はない」21%を大きく上回った。
小沢氏の「政治とカネ」の問題に対する国民の厳しい視線は、
18日召集の通常国会や今後の政局に影響を与えそうだ。

「小沢氏は幹事長を辞任すべきだ」と答えた人に限って、
小沢氏が衆院議員を辞職すべきかどうかを聞いたところ、「辞職すべきだ」70%、「その必要はない」25%だった。
全体の5割弱が議員辞職が必要だと考えていることになる。

小沢氏が国民に説明責任を果たしているとは思わない人は91%(同91%)を占め、
東京地検が求めている事情聴取に「応じるべきだ」との答えは88%に達した。

小沢氏に幹事長を続投させる考えを示した首相の判断については、
「適切だと思う」と答えた人は21%にとどまり、「そうは思わない」が68%に上った。
今回の事件が鳩山内閣の政権運営に与える影響を聞くと、
「非常にある」42%、「ある程度ある」43%となり、合わせて8割超が事件を深刻に受け止めていた。

「小沢問題」については、民主支持層に限って見ても、
「幹事長を辞任すべきだ」と思う人は過半数の53%、「東京地検の事情聴取に応じるべきだ」は83%に上った。

幹事長続投を容認した首相の判断についても、
適切だとは思わない人は51%、「適切だと思う」は37%で、批判が強かった。

政党支持率は民主が34%(前回39%)に下がり、
自民は20%(同16%)。支持政党のない無党派層は33%(同35%)だった。

今夏の参院比例選での投票先に関しては、
民主は28%(同35%)に後退し、自民は21%(同20%)で横ばいだった。

(2010年1月18日03時04分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100118-OYT1T00030.htm?from=top
☆ 【YOMIURI ONLINE】 小沢幹事長「辞任すべきだ」70%…読売調査 ☆ 

私は苦笑しながら、この後に第三面を見たら、

《小沢続投 世論は逆風
         女性 無党派 「鳩山離れ」》

と見出しされた記事を精読した。

この中の記事の中で、
《民主党副幹事長の一人は、
「私でも小沢氏の説明には納得いかなかった。
国民が納得するはずがない」
とこぼしていた。》
このような記事を読んでいた私は、不謹慎ながら笑い出してしまったのである。

そして《女性 無党派 「鳩山離れ」》が気になったので、私なりに精読した。

この記事の内容に関しても、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】でほぼ同一の記事が掲載されているので、
無断であるが転載させて頂く。


     女性、無党派層「鳩山離れ」一気に   世論調査

読売新聞社の緊急全国世論調査で、鳩山内閣支持率は45%に急落し、
国民の「鳩山離れ」が一気に進んだことが鮮明になった。

その要因の一つは女性の離反にある。
女性の支持率は41%(前回55%)に下落し、初めて不支持率43%(同32%)が上回った。
男性の支持率も57%から50%に下がったが、落ち込みは女性が著しい。

支持政党のない無党派層でも鳩山内閣への支持は大きく揺らいだ。
無党派層に限ってみると、内閣支持率は前回の38%が24%となり、
不支持率は55%(前回45%)で初めて過半数を占めた。
無党派層では「小沢氏は幹事長を辞任すべきだ」と思う人は73%(全体では70%)、
幹事長続投を認めた鳩山首相の判断を適切だとは思わない人は72%(同68%)と高く、
「小沢問題」が引き金になったようだ。

民主支持層を見ると、内閣支持率は90%と高水準を維持しているが、
今夏の参院比例選で民主党に投票すると答えた人は69%(前回76%)に減った。
小沢氏の幹事長続投や、これを容認した首相の判断への批判は民主支持層でも強く、
参院比例選での投票先にも影響したと言えそうだ。
(世論調査部 寉田知久)

(2010年1月18日08時09分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100118-OYT1T00041.htm?from=top
☆ 【YOMIURI ONLINE】 女性、無党派層「鳩山離れ」一気に ☆


私は年金生活の無力な身ながら、このサイトに苦手な政治分野のことを、
沈黙は黙認となるので、国民のひとりの責務として、やむえずときおり投稿してきた。
そして、小沢一郎氏のことも、10数通を投稿してきた。

たとえば、昨年の2009の衆議院議員選挙の前の8月18日に於いて、
【『小沢氏 どこに導くのか 日本を』・・。】
と題して、投稿したりしてきた。

もとより政治の世界は、怜悧で不思議な世界で、
無学な私には戸惑うことが多いが、つたない私でも確かなひとつのことは明言できる。


私は東京オンリピックが開催された1964(昭和39)年の秋、大学を中退した後、
アルバイト・契約社員をしながら映画・文学青年の真似事を4年ばかりしたことがある。
この中で、講師の契約した時事月刊雑誌の記事に於いて、
下働きとして取材をし、下書きなどをし、各分野の諸兄姉に言動を接してきた経験もある。

その後、民間会社に中途入社して35年ばかり勤め、数多くのサラリーマンと同様に、睡眠時間を削り奮闘して、
大波小波の苦楽の多い人生を過ごし、定年退職をした。

こうしたささやかな半生であったも、
どのような社会でも、女性に嫌われたならば、終わりである、
ということを心身学び、私なりの哲学のひとつとして、今でも自身の人生の教科書としている。

今回の小沢幹事長に関しては、政治の世界の百戦錬磨の小沢一郎氏であっても、
余りにも心の節度がないことを明白となり、多くの方に険悪された、と私は思っている。

まして政治の世界は、有権者の半数がある女性層のある程度支持がなければ、
もとより民主党も支持基盤を失い、壊滅的なことは園児でも判ることである。

このようなことを午前中のひととき、無力な私はぼんやりと感じたのである。



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年金生活の私、この世で一番贅沢なひとときを過ごし・・。

2010-01-17 19:05:23 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
少し風邪気味の為、風邪薬を飲むより何よりも布団の中で休んだ方がよい、
と思いながら、昼から寝室に行った。

冬晴れの陽射しが障子越しに暖かく、布団は電気毛布で暖かい中、
私は布団にもぐり、ほっとしながら、ひとつの雑誌を開いた・・。

過日、郵送されてきた国際政治経済情報の月刊誌『フォーサイト』(2月号)であるが、
読み残した記事を読んだり、気になった記事を再読したりした。

再読した記事は、吉野源太郎(よしの・げんたろう)氏の『デフレは市場からの警告だ』と題された寄稿文であり、
副題として、『貧しき「過剰生産大国」との決別は可能か』と付記されている。

そして、この横に概要として、
《価格破壊の震源である膨大な需要ギャップきはなぜ生まれたか。
産業の新陳代謝を妨げてきた日本の経済システムこそ見直すべきだ》
と明記されている。

私は氏の寄稿文は初めて拝読したのであるが、
ジャーナリストであり、日本経済研究センターの客員研究員であるが、
確かな視線で専門の分析と提示に、私は多々教示を受けたりした・・。

そして、日本経済は実態として果たしてデフレスパイラルが脱皮できるかしら、
と考えさせられ、
やがてまどろみながら、眠りについたのである。

そして目覚めれば、別の政治、経済問題の寄稿文を読んだり、
まどろんだりして、午後の4時半過ぎに起きだし、
玄関庭の軒下で夕陽を眺めながら、煙草を喫ったりしたのである。

私は大学中退後、アルバイト・契約社員をしながら映画・文学青年の真似事を4年ばかりした後、
民間会社の中小業に35年ばかり勤め、数多くのサラリーマンと同様に、睡眠時間を削り奮闘して、
大波小波の苦楽の多い人生を過ごしてきたので、
年金生活の今、寝たい時に眠れるひとときを甘受している。

そして家内がときおり私に、
働かなくとも生活できるのだから、という言葉をかみ締めている。



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『阪神大震災』、あの時、あなたは・・!?

2010-01-17 07:45:08 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞を読み、
《 阪神大震災 きょう15年 》
と見出しの記事を私は精読したりした・・。

もとより大都市の近代都市の神戸市を中核に大震災に襲われた阪神大震災は、
かけがいのない6434人の尊い犠牲を払ってきてから、
本日で丸15年の歳月が過ぎた・・。

被災された各地にお住まいの方達は、
東京の郊外に住む私が予想する以上に多くの犠牲を払い、
たゆまぬ努力をされて復興をされたと思っている。


私はあのときの朝、何時ものように都心の渋谷付近にある会社に出勤した。
まもなく神戸市と淡路島などで大地震で被害は甚大となっている、
と私達は業務の合間に話し合っていた。

私はレコード会社で管理畑に於いて、レコード販売店の債権管理をして折、
この一端として販売店の請求、回収業務などもしていた。

昼過ぎになると、営業本部より今月の『請求書』の郵送を留めて欲しい、と依頼を受けたが、
一部は送付済もあったりした。

震災地の各地には、多くの販売店があり、火災に遭われたり、倒壊したり、
或いは店内が大混雑したので営業は出来ない、
と余りにも不幸な報告を受けたりして、胸が痛んだりした。

被災された販売店の一覧表を営業本部より受領後、私は債権一覧表を作成したりした。

これから数ヶ月、大阪営業所に請求書に送付し、復興のメドを見守ったりした。

震災から3ヶ月を過ぎた頃、大手の販売チェーン店は営業の再開などの連絡を受けたりした。

ある小さな販売店は、さきの大戦の前の時代より、営業された老舗であったが、
倒壊の販売店を廃業された、と私達の大阪営業所から聞いた・・。

大手の販売チェーン店は再開でき、街中にある小さな販売店は、ほぼ廃業に追い込まれた、
悲しい連絡を受けたりした。

私の会社の社員の中に、人災は免れたが、5名の方達が家屋の被害を受けた。
中には、マンションを購入して一年足らず倒壊し、改めてマンションを買い改めた人もいた。
『何とかマンションを買ってローンを払っていたが、駄目になってしまい・・
改めてもう一軒を購入するとは予想もしなかったよ・・』
と彼は私と会った時に、苦笑しながら話してくれた。

私もサラリーマンで住宅ローンの返済の大変さは解かっていたので、
もう1軒分の住宅ローンが加わったら・・と想像したりした。


人災に遭われ、多くの肉親、知人にある日予告もなく人との別れをされ、
心の傷を受けられた人達の前では、言葉がないが、
あれから15年の歳月・・こうしたお方達にとっては重くも深い日々を過ごされきた、
と改めて振り返ったりしている。




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過ぎ去りし、定年後の私の1月15日の思いは・・。  【下】

2010-01-16 14:20:07 | 定年後の思い
2004年の秋、私は民間会社を定年退職して、まもなくブログの世界を偶然に知り、
若き青年時代に映画・文学青年の真似事をした時もあったので、
久々に散文に熱い思いで綴りはじめていたが、何を表現して綴ろうか、とまよいを重ねたりしていた。

翌年の2005年のこの日には、
【 映画の魅力について 】
と題して、数多くの方たちに読んでいただきたく、このような映画作品を羅列していたのである。

【・・
映画作品の多くは、私の自己形成上、色々な事を教えてくれた・・。
歴史、文化、風俗、信念・・といったような日常観のすべてを教えてくれた。

ここ数日前、購読している『週刊20世紀シネマ館』が配達されてきて、
今週は【1981~2000年の名画グラフィティ 20世紀のラストを飾った名画100選】が特集だった。

この中で、私が鑑賞した作品で、感じたことを採点のように表示する。
感銘した作品《☆☆☆》、ある程度感心作品《☆☆》、まあまあ程度《☆》、時間を無駄にした《★》、
と思った作品を列記します。

1981年【昭和56年】
☆『レイジング・ブル』
☆『エレファント・マン』
☆『レイダース 失われたアーク(聖櫃)』
☆『普通の人々』

1982年【昭和57年】
☆☆『黄昏(たそがれ)』
☆『炎のランナー』
☆『E.T.』

1983年【昭和58年】
☆☆『ガンジー』
☆『ソフィーの選択』
☆『フラッシュダンス』
★『ガープの世界』

1984年【昭和59年】
☆☆☆『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』
☆『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説球』

1985年【昭和60年】
☆☆『アマデウス』

1986年【昭和61年】
★『エイリアン2』

1987年【昭和62年】
☆☆☆『プラトーン』
☆☆☆『アンタッチャブル』
☆『トップガン』

1988年【昭和63年】
☆☆☆『ラストエンペラー』
☆☆『ウォール街』

1989年【平成元年】
☆☆『レインマン』
☆『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』
★『バットマン』

1990年【平成2年】
☆『7月4日に生まれて』

1991年【平成3年】
☆☆☆『羊たちの沈黙』
☆『ダンス・ウィズ・ウルブス』
★『ターミネーター2』

1992年【平成4年】
☆☆☆『JFK』
☆☆『氷の微笑』

1993年【平成5年】
☆☆☆『許されざる者』
☆『ラスト・オブ・モヒカン』

1994年【平成6年】
☆☆☆『ピアノ・レッスン』
☆『スピード』

1995年【平成7年】
☆☆『ブレイブハート』
☆『ダイ・ハード3』
☆『アポロ13』
★『フォレスト・ガンプ/一期一会』

1996年【平成8年】
残念ながら、該当するのは無。


1997年【平成9年】
☆☆☆『イングリッシュ・ペイシェント』
☆『シャイン』
☆『インデペンデンス・デイ』
★『秘密と嘘』

1998年【平成10年】
☆☆☆『L.A.コンフィデンシャル』
☆☆『プライベート・ライアン』
☆『タイタニック』

1999年【平成11年】
☆☆『エリザベス』
☆『ライフ・イズ・ビューティフル』
☆『恋におちたシェイクスピア』
★『マトリックス』
★『シックス・センス』

2000年【平成12年】
☆☆『スペース カウボーイ』
☆☆『グラディエーター』

この雑誌の100選から洩れていると思える作品も数多くあり、
たとえば、『インドへの道』、『ダイ・ハード』、『ゴッドファーザー Ⅲ』、『マディソン郡の橋』、『シン・レツド・ライン』等である。

いずれにしても、上記に羅列した作品には、圧倒されます。

採点方式を表示しますと、その人の人生観が解かる、と思います。

最近、年を重ねたせいか、映画館に足を運ぶ魅力作品がなくなった、
と思ったりしている。
・・】


このように私は1月15日時点を基軸に、
昨年の2008年から定年退職後の三ヶ月後の2005年まで遡(さかのぼ)ったのであるが、
果たして進化してきたか、或いは退廃してきたか、解からないのである。

私はこの後、何気なしに、

♪こっちを向いて涙をふいて

【『哀愁のシンフォニー』 作詞・なかにし礼、作曲・三木たかし、唄・キャンディーズ 】

と小声で唄い、キャンディーズかょ、と呟いたりしたのであった。


私の現役時代は、たまたまあるレコード会社に勤めていた習性か、
他社のCBSソニーの所属のキャンディーズの歌でも、何かと歌の一節を歌ったりしている。

そして『微笑がえし』のタイトルに変更しょうかと思ったりしたが、
しかし、齢を重ねた今、余り過去にこだわるより、もっと前向きにと思いながら、
心身爽快に、

♪雪が溶けて川になって 流れてゆきます
 つくしの子がはずかしげに 顔を出します
 もうすぐ春ですね ちょっと気取ってみませんか

【『春一番』 作詞、作曲・穂口雄右、唄・キャンディーズ 】

と小声で唄ったりしたのである。

この後、私は【YouTube】のお力をお借りして、キャンディーズの歌声で励まされていたのである。

http://www.youtube.com/watch?v=IneHykqdB_A
【『春一番』 作詞、作曲・穂口雄右、唄・キャンディーズ 】


このような歌を聴いたりすると、市販のビタミン剤などよりも、遥か百倍以上は確かに効くのである。



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過ぎ去りし、定年後の私の1月15日の思いは・・。  【中】

2010-01-16 12:48:53 | 定年後の思い
一昨年の2008年のこの日の朝の10時前に於いては、
【 私が愛用している日常のタオルは・・♪ 】
と題して、たわむれに楽しげに投稿していた。

【・・
我家で私が日頃使うタオルは、
国内旅行で宿泊先の観光ホテルで頂いたタオルを愛用している。

観光ホテルで宿泊する際、浴衣と袢纏、タオルがセットで置いたあり、
タオルは観光ホテル名が明記されている極く普通のタオルである。

タオルに関し、私は一晩でサヨナラをするのは、
もったいない、と感じて、我家に持ち帰ってくるのである。

そして私は、朝の洗面時、入浴の時、パジャマ姿の時は首周りなどで、
こよなく使用しているのである。

色合いは、白が多いが、ときには黄緑色、ピンクなどもある。

北海道だけでも層雲峡、網走、知床のウトロ、阿寒湖、帯広、定山渓、
函館等の周辺の観光ホテル名が入ったタオルがある。

『XXちゃん・・今宵は阿寒湖なの・・』
と私は家内に云いながら、私達が阿寒湖に訪れた時の思い出を家内に話しかけている。

家内に関しては、日頃からデパートで良質のタオルを使用して貰っている。
やはり女性の身なので、たかがタオルでもひとつの美麗となすので、
私はさりげなく厳命している。

尚、私が観光ホテルのタオルからデパートのタオルに昇格するのは、
我家に来宅するお客様の時に限っている。

そして私は年金生活の身であるので、こうした日常生活が相応しい、
と観光ホテルの名前の入っているタオルを見つめながら微笑んでいる。
・・】



この日の夜の6時過ぎには、
【 過ぎ去り日々は、はかなく懐かしく・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
私は定年退職後の年金生活をして4年生であるが、
読書は第一趣味であるが、文章を綴ることが好きである。

このような身なので、殆ど毎日、この時に思考したり感じたことを、
朝に一通、夕方に一通を投稿している。

そして、ときおり昨年の今頃は、どのような思いで過ごしていたのだろうか、
このサイトを読み返しているときもある。


先程も一昨年、昨年のこの時節の投稿を読んだりしていた・・。

昨年の今頃は、

1月12日【時は過ぎてゆく・・♪】

     【ときには、夢のひとときを・・♪】

1月13日【母の命日・・♪】

     【ときには、お墓参り・・♪】

1月14日【人生の教科書・・♪】

     【早春の淡い香りに・・♪】

     【炬燵の中で、読書そして昼寝・・♪】
 
1月15日【されど、イチゴ・・♪】

     【『世代を超えて、歌い継ぎたい歌』・・♪】

1月16日【『歌会始』を拝読して・・♪】

     【『千の風になって』・・♪】

1月17日【ときには、学友と語り合えば・・♪】

     【あの時、あなたは・・!?】

このように投稿していたのを読み返していたが、
読書、音楽、映画の選定と同じ様に、私なりの好み趣旨のことが多いが、
過ぎ去った日々は、はかなくも限りなく懐かしい、と想い返したりしている。
・・】



2007年のこの日の午後6時半過ぎには、
【 『世代を超えて、歌い継ぎたい歌』・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
昨夜、インターネットでニュースを検索していたら、
文化庁が《~親から子、子から孫へ~  親子が歌いつごう 日本の歌百選 》の結果ニュースを読んだりした。

私はこうした行事には無知であったが、
河合・文化庁長官(休職中)が、
少年犯罪の報道を見るたびに、世代間の断絶や人間関係の希薄化などの風潮を憂い、
発案されたらしい・・。

文化庁としては、この発案に適応し、世代を超えて歌い継ぎたい歌として、
国民から広く募集をした結果のニュースであった。

私は101選となった歌を思いうかべ、
日本語の美しさ、叙情、情緒を若い方達に学びとって欲しい、と切実に思っている。

こうした歌からは、古来の日本人のそれぞれの生活の営みが感じられ、
昨今の社会問題などは、ある一面に於いて解消させる力も秘めている・・。

私は選定された歌をときたま聴いたりしている。

昨年の今頃に聴いたりして、私はこのサイトに綴っている。

【 『冬景色』を聴くとき・・♪ 】
と題して、昨年の2006年1月26日に投稿していた。

【・・
私は、ときたま唱歌を聴くときがある。

冬の季節には、『冬景色』は私の好きな唱歌のひとつである。

作詞はどなたが創られたかは不明であるので、《文部省唱歌》となっている。

♪さ霧消ゆる みなとえの
 舟に白し 朝の霜
 ただ水鳥の 声はして
 いまださめず 岸の家

こうしたのを聴いたりすると、どなたが歌っても、私はときたま涙ぐんでしまう時がある・・。

遠い幼年期を想いださせるのか、
或いは失ってしまった純粋な心を甦(よみがえ)させようとする
もうひとりの自分に哀歓を寄せているのかは解からない。

何より、この作詞の日本語は、はかなく美しい。

私は詩の世界は理解する素養はないが、
声により唄いつながれて行く言葉の結晶である作詞の世界は解かるつもりである。
・・】


こうした綴りを昨年のこの時節に綴ったりしている。
今朝、たまたま読み返したが、
私なりにこうした名曲は、心の隅に何時も宿っている、と思ったりしている。
・・】



2006年のこの日の朝の8時過ぎに、
【 春めいた朝のひととき・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
東京の郊外は、昨日の昼の1時頃から本降りの雨となった。

このような本降りは、昨年の11月以来だった。
乾気につつまれた情景が、樹木、草花が洗い流されたかのように、
潤いを取り戻した・・。

数時間を過ぎると、しっとりした樹木の枝葉、そして地面は黒土を見せて、
私は小躍りしながら、庭先を見詰めた・・。

夜の八時過ぎには、雨は止んだが、微風が心地良い・・。


今朝、何時ものように六時に目覚め、薄暗い庭先に立った。
暖かな空気につつまれ、樹木を見詰めた後、
新聞を取り込み、居間に戻ると、温度計を見ると、8度を指していた。

その後、ガス・ファンヒーターを点けると、直ぐに居間は15度を超えた。

煎茶を呑みながら、新聞を読み終えた後、日の出の時間となったので、戸を開けた。

しばらくすると、朝陽が居間に差し込んできた。

私は家内に
『梅一輪の季節が、通り過ぎてしまったょ・・』
と私は微笑みながら家内に云ったりした。
・・】


この日の夕方の4時半過ぎには、
【 風は、甘く・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
朝の10時過ぎに、玄関庭の陽射しの中は、春めいて暖かさであった。
微風が少しあるが、風は甘く感じ、樹木の間を通り過ぎて行った・・。

風の甘さに、1972(昭和47)年の頃が想い出された。

この頃の私は、勤務場所が六本木で、同資本系の会社と、共同システムをしていたので、
打ち合わせに原宿にある会社に週三回、午後の時間を通っていた。

六本木から恵比寿を通り、原宿で降りて、表参道へ向うゆるい下りの大通りを歩いた。

確か3月の下旬頃だった。
風が微風であったが、春の季節であったので、風は甘く感じた・・。

都会の華やいだ洋装店が数多くあり、時折、洒落た喫茶店、個性ある料理店もあり、
歩いている人も春に相応しい容姿で、
華やいだ大通りとなっていた。

私のようなスーツ姿は少なく、フリーな洋装を男女問わず、身につけていた。

歩いている人は圧倒的に10代、20代であり、丸の内、神田のビジネス街とは一変していた。

私はレコード会社でコンピュータの専門職をし、独身の身であり、
時代の先端の空気を満喫していると、気負っていた・・。


今、煙草を喫いながら、思い返しているが、
恥ずかしくもなく、若き27歳前後の私に苦笑いを浮かべた・・。

門扉に近い椿が、春めいた暖かさで蕾が膨らんだように観えた・・。
・・】

                                《つづく》


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過ぎ去りし、定年後の私の1月15日の思いは・・。  【上】

2010-01-16 10:18:02 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
昨日はいつものように昼前後、買物にスーパーなどに二軒ばかり廻ったり、散策を相変わらずしている。
冬晴れの8度前後の中、冬の厚手のジャンパーにマフラーを巻いたぐらいで、手袋をするほどは寒くなく、
冬枯れの情景を眺めながら、心は高揚しながら歩いたりした。

そして夜のひとときは、音楽棚からビデオテープを出して、
NHKのBSが企画した2004年2月2日に放映された『さだまさし 30年生活集大成』を視聴したりした。
さだまさし氏の創られた名曲の数々を時代背景と共に、さだまさし氏の歌声を視聴したりしたのであるが、
多岐な分野に発露した数多くの曲は、改めて感動しながら聴いたりしていた。

昨日はこうした時を過ごしている間に、このサイトに2通ばかり投稿したり、
国際政治経済情報の月刊誌『フォーサイト』(2月号)を読んだりした。
この2月号に於いて、特に精読し、思索させられたのは、
朝日新聞社・台北支局長の野島剛(のじま・つよし)氏の『「蔣介石ブーム」が意味するもの』の寄稿である。

見出しには、
《欧米の研究者の間で「腐敗した独裁者」とみなされ、中国共産党からは「人民の公敵」と位置づけられた男。
その評価が、いま劇的に変わりつつある。
55年間、一日も欠かさずにつけられた日記をひもときながら、
世界中で沸き立つ再評価のうねりをレポートする。》
このように紹介された記事であるが、
つたないなりに歴史に興味があるひとりとして精読したのであるが、
歴史の明暗の深淵の中に放り出されたように、
圧倒的な感動に震えながら、考えさせられたのである。

このようにとりとめなく15日は過ぎ去ったのであるが、
今朝、ぼんやりと朝のまばゆい陽射しをながめながら、サラリーマンを卒業し定年退職後、
このサイトに投稿してきた1月15日の投稿文を読み返したのである・・。



昨年の2009年の朝9時過ぎには、
【 まもなく『大寒(だいかん)』の時節を迎え・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
東京郊外の調布市に住む私は、早朝にカレンダーを眺めていたら、
1月20日は【大寒】と明示されて、私は苦笑したのである。

古人より『大寒』の頃になれば、一年で最も寒い時期、と伝えられているが、
東京の郊外は、昨年の23日に雨が降ってから、今年も一度に降った程度で、
冬晴れの日が多く、乾ききった日々となっている。

私は年金生活の5年生の身であり、日頃は買物、散策をしたりしているが、
昨年の初冬以来、札幌に訪れた旅行以外、
マフラーをしていないことに気付いたのである。

今朝方、地元の天気情報を見ていたら、
朝の6時過ぎは2度、日中は6度前後の冬晴れとなるが、
ときおり北風が強く吹くので今年一番の寒さとなります、と報じていた。

私は散策などの場合は、冬のスポーツ・シャツに綿入れの外出用の袢纏(はんてん)、
冬用のズボン、そして足袋と下駄の容姿で出かけたりしている。
買物などで購入品が多い場合は、厚手のセーターと冬用のズボン、
そしてウォーキング・シューズとなったりしているが、いずれもマフラーはしなかったのである。

私は付近の遊歩道を歩いたりしていると、乾ききった状景を眺めたりしていると、
早く雪が降らないかしら、と待ち焦(こ)がれているひとりである。
公共交通機関の支障がない5センチ前後がベストよ、と心の中で祈願したりしているのである。


先ほどから、主庭、居間に朝のまばゆい陽射しを受けて折、
私はいつものように足袋を穿(は)き、下駄で主庭のテラスに下り立った。
煙草を喫いながら、霜柱を見つめたりしていたが、
陽射しを受けているので、まもなく消えうせてしまうので、
私ははかなさの美を感じたりしている。
・・】



この日の午後5時過ぎには、
【 されど、『イチゴの日』・・♪  】
と題して、楽しげに私は投稿していた。

【・・
我家の台所にある風物詩のあるカレンダーを見ていると、
『イチゴの日』とイチゴの絵も描かれて、可愛らしく表示されていた。

私はイチゴの生産か販売に携(たずさ)わる方たちが、
イチゴの消費拡大を目的として、この日はたまたま15日であり、
【一五(いちご)】の語呂(ごろ)あわせ、健気(けなげ)に制定した、と何かの本で読んだことがあった。

私は、イチゴかょ、と思い浮かべ、
少なからず私なりに思いでがあったので、恥ずかしながら綴ってみる。


私は2004年の秋に定年退職した後、日常の買い物を担当しているので、
スーパーの生鮮野菜コーナー、果物コーナーなどを見たりしている。

この時節、イチゴの赤く成熟した大粒が並んでいる。
家内は好きな果物のひとつであるので、買い求めたりしている。

1951(昭和26)年の頃は小学1年生であった私は、
祖父、父が健在で程々手広く農業をしていた。

叔母達も陽当たりの良い畑の一角で、草花を植えたり、イチゴなどの果物を植え込んでいた。
草花は仏様、お墓の墓前に供えたり、或いは室内の花瓶に生けたりしていた。

イチゴは5月頃になると、白い花をつけた後、結実し、初夏の頃に赤み帯びて成熟する。

私は幼年期であったので、
『まだ駄目・・!?』
と私は叔母に懇願するように云ったりした。

『まだ白さがあるでしょう・・もう少しね・・』
と叔母は云いながら、2坪ほどの広さのイチゴ畑の中で、
少し赤く色づい実を捜して、ひとつぶを私の口に入れてくれた。

口に入れて噛み砕いているうちに甘み拡がってきた・・。


1975(昭和50)年、家内と交際をはじめ後、1月の下旬だったと思うが、
東京駅で待ち合わせ、新幹線の『こだま』で清水駅まで利用し、
日本平付近の丘陵のイチゴ園に行った。
日当たりの良い丘陵でビニールハウスの中で養育されていた。
入り口でカップに入れたミルクを頂き、ハウス内のイチゴをもいで食べる方法であったが、
途中で家内に私のミルクを手渡して、私は外に出た。

ハウスの入り口から少し離れた所で、
私は煙草を喫いながら海辺の光景を観ていたが、ときたま微風を受けると寒さが感じられた。

私は3粒を頂いたが、初夏の果物がどうして・・と思ったりした。


1960(昭和35)年の高校生になると、季節を問わずショート・ケーキの上にイチゴが載せられたり、
日本の各地でビニールハウスの情景が見られたりした。
私が中途入社した1970(昭和45)年を過ぎると、会社の2月頃の旅行の折、イチゴ園に寄ったりした。

私は露地栽培の初夏、実がまばらな小粒で、淡い甘さが幼年期の想いでのためか、
昨今のイチゴには戸惑いを覚えている。


尚、私はお酒大好きな呑兵衛のひとり男であるので、
イチゴは婦女子の果物のひとつであると確信し、20数年過ぎている。
家内がこの時節も愛食しているが、
私は1年に2粒ぐらいお付き合いしている程度である。
・・】

                                   《つづく》




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小正月(こしょうがつ)を迎える頃になれば・・。

2010-01-15 15:06:02 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、カレンダーを見たりすると、小正月と赤い字で小さく明示されていたので、
私は微笑んだりしたのである。

新たな年を迎えた正月をご家族一同で過ごされ、仕事始めをされた後に『七草がゆ』を頂き、
そしてお供えの鏡餅を下ろし、鏡開きをされた後、ほっと家族でされるのが、
一月の中旬のこの頃である。

古来より日本の多くの人たちは、このように過ごされ、特にご婦人たちがゆっくりとした気持ちになれるので、
小正月は『女正月』とも称せられると思ったりしている。

ここ10数年は政治の混迷、経済の悪化が加わり、実質ご家族でゆっくりできるのは、
明日の16日、17日の土日の休日かしら、と無力な年金生活の私は感じている。

このようにぼんやりと昨年の今頃に私の投稿した綴りを読み返しをしたりした・・。


昨年の2009年の1月13日に於いて、
【 改めて、『どんと焼き』の想いで・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
ここ数日、NHKのニュースを視聴していると、
地方に於いて、『どんと焼き』の情景が放映されて折、私は懐かしげに見惚(みと)れていたのである・・。

私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
遠い昔、私の近くの実家は、祖父と父が健在だった頃、
農業を営(いとな)んで、程々の広さの田畑を耕し、雑木林もある農家であった・・。

そして、今頃の時節に、確かに『どんと焼き』をしていたと思い、
飯倉春武・編の『日本人のしきたり』(青春新書)を本棚から取り出して、読んだりしたのである。

この中で、《左義長(さぎちょう)》という項目で、
正月飾りを燃やす理由、と付記されて、明晰に解説されていた。

無断であるが、転載させて頂く。

《・・
小正月の1月15日の前後に行われる火祭りが『左義長』です。
『左義長』は『どんと焼き』、『どんと祭り』とも呼ばれ、
この日には、正月に飾った門松やしめ飾りを、神社や寺院の境内などに持ち寄って燃やしました。

いわば正月飾りの後始末の行事ですが、
燃やす時の煙に乗って、新年に訪れた年神様が、天上に帰っていくと信じられたのです。

そのとき同時に、棒の先に餅・芋・だんごなどを刺し、焼いて食べたりします。
地域によって違いはあるものの、
門松やしめ飾りなどを燃やした火で焼いて食べると、その年は無病息災であると信じられました。

なぜ『左義長』と呼ばれるかについては、
平安時代の宮中の儀式で、三毬杖(さぎちょう)と呼ばれる青竹を立てて、
正月の飾り物を燃やしたことに由来するという説や、
鳥追い行事の鷺鳥(さぎちょう)から来ているなどの説があります。
・・》

注)解説の原文をあえて改行を多くした。

私はこの解説を読みながら、『どんど焼き』に於いて、
遠い昔、どうして青竹を用いていたか、初めて理解したのである。


私は『どんど焼き』については、このサイトに於いて、
一昨年の2007年1月20日で
【その昔、小正月、そして20日正月・・♪】
と題して、投稿していたが、あえて再掲載をする。

【・・
私は東京の郊外に住んでいるが、私の幼年期の頃を想いだしていた・・。

1951(昭和26)年の頃は小学1年生であった私は、
祖父、父が健在で程々の広さの田畑を耕作していた農家の児であった。

お正月の三が日が終わると、七草がゆ、鏡開き、そしてどんと焼きをしていた。

この当時のこの地域に於いては、それぞれの旧家では、
その家なりに工夫して、『どんと焼き』を行っていたのである

私の実家に於いては、冬枯れの田んぼの外れに青竹を10数本ぐらい建てかけ主柱として、
稲の藁(わら)で覆(おお)いながら高い塔のように10メートル前後に作り上げた後、
旧年で使用していた注連縄(しめなわ)、御札(おふだ)、そして新年に彩(いろど)った輪飾りなどを清めた後、燃やしたりした。
そのまじかで、枝葉に幾つも付けた団子をこの燃え上がる火で焼いたりしていた。

このようなことを思い馳(はせ)たりしていた・・。


古人達は、20日正月と称していたので、先程調べていたら、
藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)に於いて、次のように述べられていた。

《・・
『20日正月』とは、正月の祝い納めをし、1月15日の『小正月』の飾り物などを片付ける日のことである。
つまり、元旦から始まった正月が、完全に終結する日を意味して折、
雪に閉ざされて、余り仕事もないこの季節を、少しでも明るく過ごそうととする心情が、
このような制度を作りだしたのではないだろうか。

小正月も20日正月も、今では地方にしか見られない風習になっているが、
かっての小正月は、それなりに重要な新年の行事だったのだ。

15日の朝、一年の健康を願う『小豆(あずき)がゆ』を食べる風習が各地で見られたり、
豊作を願って木に『繭玉(まゆだま)』を飾ったり、
若者が鬼の面をかぶって蓑(ミノ)を着け、家々を訪問して、怠け者を探し廻る儀礼などが行われたものだった。

今でも15日に、火を燃やして正月の飾りや書き初めなどを焼く『左義長(さぎちょう)』や、
『ドンド焼き』を、盛大に行う地方が少なくないらしい。
この火にあたると、1年間、風邪を退かないと云われてきたのである。

こうしてみると、小正月は健康と豊作などを祈る儀式だった訳であり、
20日正月は、そのお終(しま)いの日だったのだろう。
・・》

以上、無断であるが引用させて頂だいた。


私は遠い昔のことは、忘れかけていた。
『小豆がゆ』も確かに頂いたこともあったし、
どんど焼も子供心にも風邪を退かないようにと、火に近づいたりした。

枝葉につけた数多いの団子も食べたりしたが、
この枝葉は宅地の外れにあった雑木林の大きな樹木から採っていたのであるが、
何の樹木から採ったのかは・・想いだせないでいる。

・・】


このように綴っていたのであるが、
我家は私が小学2年3学期に父が病死し、そして祖父も小学三年の一学期に亡くなり、
男手の大黒柱を失った実家は没落しはじめ、『どんと焼き』も取りやめたのである。

そして、まもなく実家の周辺も住宅街に急速に変貌し、
私が小学校を卒業する頃になると、どの旧家でも『どんと焼き』をすることなく、
最寄の神社などに注連縄(しめなわ)、御札(おふだ)、輪飾りなどを持ち寄って、
神社の境内で共同の『どんと焼き』となったのである。

私は、その家なりの『どんと焼き』に愛惜を深めたためか、
神社で各家の持ち寄った『どんと焼き』には興味がなく、
これ以来、私が幼年期に体験した実家の『どんと焼き』が心の宝物と思い、
今日に至っているのである。
・・】

このように投稿していたのであるが、改めて読み返しても、
たがか『どんと焼き』、されど『どんと焼き』、と思いながら、
その昔、我が生家で行われた『どんと焼き』が懐かしく愛惜を深めているのは確かなことである。




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この時節、私の心の歌は、『冬景色』・・。

2010-01-15 09:42:22 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
いつもように日の出前の6時半過ぎに起床し、
パジャマを脱ぎ、素肌となった後、パンズと長袖の下着の上に、
防寒用の長ズボン、冬用の厚手のスポーツシャツ、そして足袋を穿(は)いて、半纏(はんてん)を羽織った・・。

この時節、私のいつものように家にいる時の衣服である。
今朝、着替えていたら、寒いじゃないの、と心の中で呟(つぶや)いたりしていた。

しばらくした後、地元の天気情報を眺めていたら、
朝の6時はマイナス3度、昨日のマイナス4度に続き、寒い朝となりました、
と報じていた。
そして、私は主庭のテラスに下駄を履いて下り立ち、冬木立の樹木を眺めたり、
庭の片隅の霜柱に見惚(みとれ)れていた。

この後、朝の陽射しが射し込んで、霜柱がキラキラと輝きを帯びて、
私は思わず、心の中でひとつの歌を唄ったりした。

♪さ霧(ぎり)消ゆる湊江(みなとえ)の
 舟に白し、朝の霜。
 ただ水鳥の声はして
 いまだ覚(さ)めず、岸の家。

【『冬景色』 作詞・作曲 不詳  文部省唱歌 】

私の幼年期、私の住む地域でもこの当時は、
田畑が広がり雑木林もある緑豊かな農家の児として育ち、私は心のふるさとの限りない情景として、
齢を重ねるたびに愛惜が深まっている。

このような心情があり、

♪烏(からす)啼(な)きて木に高く、
 人は畑(はた)に麦を踏む。
 げに小春日(こはるび)ののどけしや。
 かえり咲(ざき)の花も見ゆ。

【『冬景色』 作詞・作曲 不詳  文部省唱歌 】


作詞はどなたが創られた不明であるので、この創られた方に心を寄せたりし、
ときおりこの歌を聴いたりすると、どなたが歌っても、私は涙ぐんでしまう時が多い・・。

遠い幼年期を想いださせるのか、
或いは失ってしまった純粋な心を甦(よみがえ)させようとする
もうひとりの自分に哀歓を寄せているのかは解らない。

何より、この作詞の日本語は、はかなく美しい。

私は詩の世界は理解する素養はないが、
声により唄いつながれて行く言葉の結晶である作詞の世界は解るつもりである。


http://www.youtube.com/watch?v=2uMm3fJV2NA
【『冬景色』 作詞・作曲 不詳  唄・岩崎宏美 】



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ひとつの世代が終わり、そして私達の世代も過ぎさり・・。

2010-01-14 16:54:06 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳であり、
1944(昭和19)年の秋、東京郊外の農家の三男坊として生を受けた身である。

一昨年の秋頃から、私は長兄夫婦に逢う時、ごく内輪で母の13回忌を、
と話し合ったりしてきた。
そして、過日の11日の成人の日の祭日に、私の母の13回忌、次兄の33回忌の法事を行った。

この日の当日の朝は、どんよりとした曇り空で日中の最高気温も8度前後で、
ときおり風が吹く、寒い一日となった。
私の住む地域は、年末年始から冬晴れの日が続いていたので、
『これで雪が降ってきたら・・お母さんの日にふさわしい・・』
と私は玄関を出る前に、家内に微笑しながら云ったりしていた。

私の母の仮通夜の深夜から、この地域として珍しい15センチ前後の大雪となり、
翌日の通夜は風雪の中、公共交通機関の影響でたりし、
長兄宅で葬儀を行っていたので、ご近所の方たちに雪かきなどをして頂いたりした。
何よりも、通夜に参列して下さった方たちに、もとより私は恐縮で、戸惑ったりしていた。

このようなことがあり、私達夫婦はこの地域に雪が舞い降る情景を眺めたりすると、
亡くなった母のしぐさ、何気ない言葉を思い出すのである。

お寺の指定時間の30分前に私達夫婦は到着し、
まもなく寺院の控え室で父の妹の叔母の方たちに私は挨拶を交わしたりした。

亡くなった父は明治末期の生まれで、妹4人、そして亡くなった弟の6人兄妹であり、
妹と云っても93歳から75歳までの高齢者であったので、
この人たちの息子、娘に参列して下さったのである。

長兄夫婦、私達夫婦、妹夫婦、そして長兄の長男夫婦、次男夫婦、妹の長兄の長男夫婦、次男夫婦など、
この甥っ子の子供たちが加わってくれたのである。


このように法事、そして別会場のお清めの会食をしたりすると、
長兄、私にしろ高齢者の身であり、叔母たちは跡継ぎの人たちのメンバーとなり、
私にしてみれば甥っ子の35歳から40歳近い人たちから、
『叔父さん・・』と親しげに呼ばれても、
叔母の世代が終わり、そして長兄、私達の世代はひとつの役目が終った、と実感させられたのである。



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亡き母に捧ぐ~秘めたる私の母への思いは・・。 最終回

2010-01-13 15:43:22 | 定年後の思い
私は母の生前の時、お互いの死生観の思いを話し合ったことがあり、
2006年7月23日に於いて、
【 されど長寿、母と私の思い・・♪ 】
と題して投稿していたが、今回、母がラブホテルのような連れ込み旅館を一時経営していたことなど、
発露して加筆している。

【・・
   序章  長寿のお祝い

長年に生きられたお方に感謝して、敬(うやま)う行事として賀寿祝いと称し、
室町時代に於いて、武家礼式を取り入れた頃からある。

還暦(かんれき)・・60歳
「十二支」、「十干」が60歳でひと巡りし、生まれ年の干支に還ることから。

古希(こき)・・70歳
中国の詩人の杜甫の詩の中で、『人生七十、古来より稀なり』から。

喜寿(きじゅ)・・77歳
「喜」の草書体が「七十七」と分解されることから。

傘寿(さんじゅ)・・80歳
「傘」と略体字が「八十」と分解できることから。

米寿(べいじゅ)・・88歳
「米」という字が「八十八」と分解できることから。

卒寿(そつじゅ)・・90歳
「卒」の略体字「卆」が「九十」と分解できることから。

白寿(はくじゅ)・・99歳
「百」という字から「一」を引くと、100-1=99から。

これ以降は、茶寿(ちゃじゅ)108歳、皇寿(こうじゅ)111歳、珍寿(ちんじゅ)112歳以上、
と称されている。

日本では、高齢化社会を迎えている、と昨今、マスコミに騒がしているが、
果たしてと思ったりしている。


            
   第一章  母の思い

私の母が77歳を迎えるにあたって、私達兄妹は喜寿のお祝いをしょう、と話し合った。

母は農家に嫁つぎ、長兄、次兄、私、そして妹のふたりの五人の子供を生み、
私達の父は1953(昭和28)年の3月に死去され、そして祖父は翌年の1954(昭和29)年5月に亡くなった。

農家にとって肝要の大黒柱がふたつ欠けので、まもなく我が家は衰退し、
家計のやりくりも困窮した。
父の妹である未婚の叔母の手を借りながら、女手ひとつで私達5人を育て上げたので、
苦労が絶えない日々を送っていた。

祖父が亡くなった当時は長兄が中学2年で、一番下の妹は5歳であり、
子供には何かしらお金を要したので、
母は何とか世間並みの生活にと、田畑を売り、小田急沿線の最寄駅『狛江』の近くに、
アパートを建てて、我が家の生計の基盤としたのは、私が中学一年の時であった。

しかし、子供たちは中学、高校、そして大学が進むあいだ、
入学金や授業料はもとより、何よりも育ち盛りで家計が多くなり、
母はラブホテルのような旅館を小田急線とJRの南武線の交差する『登戸駅』の多摩川沿いに建て、
仲居さんのふたりの手を借りて、住み込み奮闘して働いたのが私が高校一年の時であった。

この当時の母は、里子として農家に貰われ、やがて跡取りの父と結婚し、
これといった技量といったものはなく、素人の範囲で何とか子供の五人を育ちあげようと、
なりふりかまわず連れ込み旅館を経営までするようになった、と後年の私は思ったりしたのである。
確かに母の念願したとおり、兄ふたりと私は大学を入学し、
妹ふたりは高校を出たあとは専門学校に学ぶことができたのである。

この間の母は、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、
子供たちを何とか世間並みの生活に、と働らいたくれた成果として、
ふつうの生活ができた上、私達五人の子供は成人したのである。

まもなく、この地域で10数件あったラブホテル、連れ込み旅館は、
世情が変貌して衰退する中、母もアパートに改築した。

そして私達はお互いに独立して、社会に巣立ち、
私も25歳で遅ればせながら、民間会社に中途入社した後、
結婚する前の3年足らず、母が住んでいるアパートの別棟に同居したりした。

この後、私は結婚して、千葉県の市川市の賃貸マンションで新婚生活を過ごした後、
実家の近くに一軒屋を建て、2年後に次兄は自営業に破綻して、自裁した。

私は次兄に声ばかりの支援で、私も多大のローンを抱えて、
具体的な金策の提案に立てられない中、突然の自裁に戸惑いながら、後悔をしたりした。
何よりも、親より先に絶つ次兄を母の動揺もあり、私なりに母を不憫に思ったした時でもあった。

そして特にこれ以降、私達夫婦は、毎週の土曜日に母と1時間以上電話で話し合っていた。

母は食事に関しては質素であっても、衣服は気にするタイプであったが、
古びたアパートの経営者では、ご自分が本当に欲しい衣服は高く買えなく、
程ほどの衣服を丸井の月賦と称せられたクレジットで購入していた。

私は民間会社のサラリーマンになって、賞与を頂くたびに、
母には衣服を買う時の足しにして、とある程度の額をお中元、お歳暮の時に手渡していた。


この頃、親戚の裕福のお方が、身体を壊して、入院されていたが、
母が見舞いに行った時は、植物人間のような状態であった、と教えられた。

『あたし・・嫌だわ・・そこまで生きたくないわ』
と母は私に言った。

母は寝たきりになった自身の身を想定し、
長兄の宅などで、下半身の世話をなるのは何よりも険悪して、
私が結婚前に同居していた時、何気なしに死生観のことを話し合ったりしていた。


容態が悪化して、病院に入院して、一週間ぐらいで死去できれば、
多くの人に迷惑が少なくて良いし、何よりも自身の心身の負担が少なくて・・
このようなことで母と私は、自分達の死生観は一致していたのである。

このことは母は、敗戦後の前、祖父の弟、父の弟の看病を数年ごとに看病し、
やがて死去された思い、
そして近日に植物人間のように病院で介護されている遠い親戚の方を見た思いが重なり、
このような考え方をされたのだろう、と私は思ったりしたのである。


やがて昭和の終わり頃、古びたモルタル造りとなったアパート経営をしていた母に、
世間のパプル経済を背景に、銀行からの積極的な融資の話に応じて、
賃貸マンションを新築することとなった。

平成元年を迎えた直後、賃貸マンションは完成した。
そして3ヶ月過ぎた頃、
『あたし、絹のブラウス・・買ってしまったわ・・少し贅沢かしら・・』
と母が明るい甲で私に言った。

『お母さんが・・ご自分の働きの成果で買われたのだから・・
少しも贅沢じゃないよ・・良かったじゃないの・・』
と私は心底からおもいながら、母に云ったりした。

この前後、母は周辺の気に入ったお友達とダンスのサークルに入会していたので、
何かと衣服を最優先に気にする母にとっては、初めて自身の欲しい衣服が買い求めることが出来たのは、
私は、良かったじゃないの・・いままでの苦労が結ばれて、と感じたりしていた。


母が婦人系のガンが発見されたのは、それから6年を過ぎた頃であった。
私達兄妹は、担当医師から教えられ、
当面、母には悪性の腫瘍があって・・ということにした、

それから1年に1ヶ月程の入院を繰り返していた。
日赤の広尾病院に入院していたが、
母の気に入った個室であって、都心の見晴らしが良かった。


1997(平成9)年の初春、母の喜寿を実家の長兄宅で行った。
親族、親戚を含めた40名程度であったが、
母は集いに関しては、なにかしら華やかなさを好んでいるので、
私達兄妹は出来うる限り応(こた)えた。

そして翌年の初春の頃、死去した。

母は最初に入院して、2回目の頃、
自分が婦人系のガンであったことは、自覚されたと推測される。
お互いに言葉にせず、時間が過ぎていった。
ご自分でトイレに行っている、と私が見舞いに行った時、看護婦さんから教えられた、
私は母の身も感じ、何よりも安堵したのである。


私達兄妹は、葬儀は実家の長兄宅で出来うる限り盛会で行った。

母は昭和の時代まで人一倍苦労され、
晩年の10年間は、ご自分の好きな趣味をして、ご自分の欲しい衣服を買われたのが、
せめての救いと思っている。


   第二章  そして私の思い

過日、21日の読売新聞の夕刊で、論説委員・穂高芳昭・氏が、

【長寿の称号どこまで】

という記事があり、興味を持って読んだりした。

一部、無断引用をさせて頂きます。

《・・
今の時代、還暦はもちろん、古希(70歳)の年齢では、と祝うとしても長寿祝いの雰囲気ではない。

先日公表された国勢調査の速報で、
高齢者(満65歳)の占める割合が21%に達し、イタリアを抜いて世界一になった。
90歳以上がなんと100万人超。

いまや70歳どころか卒寿(90歳)の年齢ですら、
『古来稀なり』と言えないのである。
・・》

以上、一部を引用させて頂いた。


一昨年の定年退職後のまもない晩秋、義姉とスーパー・マーケットで偶然にお逢いした時、
『お元気そうね・』
と義姉は私に言った。

『お陰さまで・・だけど、退職した今、
せめて10年間だけは五体満足で生かしてほしいが、
後は余生と思っている・・』
と私は言った。

『あらぁ・・そう・・あたしは平均年齢まで生きたいわ・・』
と義姉は言った。

私は年配のお方達が、心身健全が何よりであるが、
身体が多少不自由になっても、目の輝きは失ってほしくないと思っている。

高齢者の一部のお方で、いきがいをなくされた方をときたま見かけるが、
生きている価値はない、と思ったりしている。

高齢者のお方は、少なくとも若い人々から感謝され、
敬(うやま)うようにされて、初めてご年配者と尊ばれる。

惰性に歳月を送るなと思っている。

このようなことを夕食の時に、家内に話していたら、
『貴方のような捻(ひね)くれ者・・70歳は軽く超え、長生きするわ・・』
と皮肉を言われたりしている。

・・】


このように私は少し気負いながら綴っていたが、
高齢者の入門となっている65歳の私は、死生観、長生きするばかり良いとは限らない、
と思いは変わらないのである。

この【 亡き母に捧ぐ~秘めたる私の母への思いは・・。】に於いての特集は、
今回で八話となり、父が死去された後の母の男性との交際などを新たに発露したいが、
いずれ後日に綴ることとし、一端、最終としたい。

                             《最終》




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