夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

軽減税率の導入、年収250万円の高齢夫婦(夫は65歳以上で無職、妻は60歳以上)の緩和額を学び・・。

2015-12-16 13:59:15 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の老ボーイの身であり、
政治にも疎(うと)いが、何かしら消費税率を低く抑える軽減税率を巡ることで、
特に最近一か月ぐらいニュースで報じられてきた・・。

何かしら昨年の2014年(平成26年)4月より消費税率を5%から8%への引き上げた時、
政府が想定した以上に、我ら国民が消費について大幅に低迷となったので、
今年の2015年(平成27年)10月より消費税率10%への引き上げ増税を1年半先送りし、
来たる2017年(平成29年)4月に消費税率10%への引き上げとなる。

これに伴い、消費税率10%の時は、せめて食品などを買い求める時に、少しでも痛みを緩和する為に、
軽減税率という新制度を設定する、と私は思ったりした

昨今、公明党が主張してきた対象品目を食品全般に広げることで、自民党は公明党に大幅譲歩し、
何かしら来夏の参院選で、公明党の協力を得たい自民党の思惑がある、と新聞記事を読み、私は苦笑したりした。

そして国民の生活の基盤である食品を政争の道具にされては・・と憂(うれ)いたり、
肝要の財源探しで、タバコの増税案も浮上し、
愛煙家の私は、山本リンダさんが唄われた『狙い撃ち』のようなことはヤメてねぇ、と思ったりしてきた。

このような心情で、軽減税率の導入に伴う状況を無力ながら思案したりしてきた・・。

昨日の午前中のひととき、配達された読売新聞・朝刊を読んでいた中で、【くらし/家庭】面に於いて、
《軽減税率の導入で、家計の負担はどれだけ和らぐか?》とモデル表が掲載されていた。
そして記事も精読した後、微苦笑させられた・・。
          

無断であるが、この記事を転記させて頂く。
《・・軽減税率の導入により、消費税率が10%に引き上げられても、低所得者を中心に、一定の負担緩和が図られることになった。

日本総合研究所の試算によると、年収250万円の高齢夫婦(夫は65歳以上で無職、妻は60歳以上)の例では、
消費税率が一律10%となる場合に比べ、軽減税率導入の方が、家計負担は年間1万2120円軽減される。

年収300万円の勤労者世帯(家族2人以上)は、年1万680円の負担減になるなど、軽減税率の恩恵は広範囲に及ぶ。

                                                            独り暮らしの
                ☆===勤労者世帯(家族2人以上)====☆     高齢夫婦     高齢者
                年収300万    500万    700万   1000万    250万    150万
食品の月間購入額(税抜き)4万4300  5万0200  5万7300  6万5500  5万0500  2万6300
税率が一律10%の場合と
比べた負担軽減額(年間) 1万0680  1万2000  1万3800  1万5720  1万2120    6360


軽減税率の導入に際し、その対象範囲が議論になった。
酒類と外食を除く食品全般に決まったが、〈1〉生鮮食品に限定〈2〉食品全般に加えて外食も対象に――なども検討された。

日本総研の試算では、食品全般の方が、他の二つよりも低所得者対策に効果的だったようだ。
生鮮食品のみの場合、高齢夫婦の負担減は年3360円となり、食品全般(年1万2120円)に比べ、
負担軽減効果が弱まる。
高齢者は生鮮食品を購入する割合が、小さいためだ。

外食も含める場合、高齢夫婦の負担軽減額は年1万3680円。
高齢者は外食も少ないことから、食品全般より軽減額が1560円増えるだけ。
          

一方、年収1000万円の勤労者世帯では、外食を含めた軽減額は年2万880円と、
食品全般(年1万5720円)より約5000円多くなる。

外食まで含めると高所得者の恩恵が大きくなり、「低所得者の税負担緩和」という意義が薄れる。
この点が、外食を対象範囲から外した一因になったと見られる。

軽減税率導入のための財源は未定で、財源確保のために社会保障費が削減される可能性もある。

日本総研調査部主任研究員の小方尚子さんは
「社会保障費が削減されれば、低所得者にとって本末転倒になりかねない。財源確保は慎重に議論してほしい」と話す。

また、軽減税率が導入されるといっても、食品は家計の一部でしかない。
消費税率が10%になれば、負担は確実に増す。
家計全体を見渡し、見直せる出費がないかの点検が必要となる。・・》
注)この記事にあえて改行を多くした。
          

もとより国の財政は厳しく、15年度一般会計予算では、歳入のうち税収は約6割弱の約54兆円で、
4割弱は将来世代の負担となる国債(国の借金)に頼っている。

そして消費税、所得税、法人税の基幹3税のうち、法人税は企業の国際競争力を後押しするため減税で、
安倍内閣は10%を超える消費増税は、封印する考えを鮮明にしている。

こうした中、15年度の社会保障費は31兆5297億円で、歳出の約3分の1を占め、
私たち夫婦は高齢者で、幸運にも介護を受ける世界は未知となっているが、
確かに日常生活費の基盤である年金、そして医療などは受けている。

そして今後3年間で社会保障費は、1・5兆円程度の伸びに抑制するという目標を掲げているが、
数多くの高齢者の反発が強まる恐れがあり難題、と私は思ったりしている。
          

このような心情を重ねてきた私は、今回の軽減税率の導入は、特に高齢夫婦所帯には配慮された制度、
と思いながら微苦笑したりしている。

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忘年会、老ボーイの私は齢を重ねるたびに減り、ここ数年はわずか2つとなり果てて・・。

2015-12-15 12:23:52 | ささやかな古稀からの思い
私は昨夕、高校時代のひとりと忘年会の真似事をする為に、『吉祥寺』に向かった・・。

私は1962年(昭和37年)の当時は高校3年生で、私は彼の実家に50回ぐらいは泊まったり、
彼も私の実家に少なくとも20回は泊まったりし、もとよりお互いの家族とも懇親していた。

こうした間柄でも、私が20歳を誕生日を迎えた時に、私は大学を中退して映画・文学青年の真似事に邁進する中、
疎遠になったりし、その後は彼の結婚式の披露宴に列席したぐらいとなった。

そして私が民間会社で35年近く奮戦して、2004年(平成16年)の秋に定年退職後になるまでは、
お互いに年賀状を交わす程度で、数年毎に電話をする程度となった。

やがて私が定年後に多々の理由で年金生活を始めて以来、毎年一回ぐらいはこの時節に、
お互いの住まいの中間点の『吉祥寺』の居酒屋で、懇親を重ね丸11年が過ぎ、12年目となっている。


私は東京郊外の調布市に住む年金生活の71歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たったふたりだけの家庭である。

この時節、世の中で働いて下さる現役の諸兄諸姉は、ボーナスシーズンも過ぎて、
多忙の中のひととき、忘年会を会社の同じ部署の人たち、或いは同僚たち、そして友人たち、
それぞれ懇親を深め12月中旬になると思われるが、
何かしら遠い世界の出来事のように感じたりしている。
          

私の50代の前半の頃は、現役サラリーマンの時代であり、私なりに奮闘し、
この12月は部内はもとより、同世代、悪友たちと、何かと忘年会と称して懇親会を重ねてきた。

やがて50代の半(なか)ばに、リストラ烈風の中、組織の統廃合により人事異動が熾烈となり、
或いは早期退職優遇制度の名目で先輩、同僚、後輩たちが退職されたり、
そして私のように出向となったりした。

そして私が定年退職するまで、年に数回は互いに連絡して、東京に残った人たちと懇親会を重ねてきた。

やがて私の定年後になる頃は、病気で通院しているの・・、親御の介護で・・、親が亡くなったので・・、
メンバーが次第に欠落した・・。
そして、この時節になると、忘年会は2月頃に有志で集まって懇親会すれば、と敬愛してきている先輩だった人から云われたりすると、
そうですよねぇ、と私は応(こた)えたりしてきた。

このように私は、この時節の忘年会と称した懇親会は、無念ながら消滅したのである。
               

昨今は、多くの退職された方たちも同様と思われるが、退職10年も過ぎれば、
かっての会社時代の先輩、同僚、後輩たちの集いより、
家族の団欒はもとより、親族、親戚関係の冠婚葬祭が優先となっている。

そして私は少し寂しい心情となり、6年前の65歳の頃まで、近くに住む地元の小、中学の同級生の有志と、
最寄駅の居酒屋、食事処で逢い、懇親を深めたりした。
こうした時は、同級生の女性から、XXクン、と私は呼ばれたり、
悪友たちとは、お互いに苗字を呼び捨てにし、この世の一番気楽なグループ、と微苦笑したりしてきた。

しかしながら私の会社時代の忘年会と同様に、
当人が病気で通院、親御の介護、
そしてここ20数年は共稼ぎが加速される中、息子、娘の代わりに孫を世話している・・などで消滅してしまった・・。


私は昨夕、5時過ぎに『吉祥寺』の居酒屋で、高校時代で知り合った親友か悪友、友人か解らないが、
お互いに包み隠せず話し合える貴重な友と談笑した。

こうした時は、お互いの好きな単品を数多く注文し、彼はビール、私は地酒を呑みながら、話し合った。
家族のこと、そして昨今の世情を憂いた後、
昭和妻の専業主婦、或いは居候のようなことが許された良き時代だったことなどが、
たまたま話題となり、話が尽きないのである。

結果として10時半過ぎに散会とした。

私は亡き母から素直に受け継いだ為か、男の癖におしゃべりで、
71歳の男同志が、酒を呑みながら料理を食べて、5時間半ばかり談笑するは、毎年のこととなっているが、
仲居さんたちは、あきれ果てているかなぁ、と私は微苦笑したりした。
          

或いは家内と駅前で買物して夕暮れになった時、夕食を食事処で思案している時など、
何かしら居酒屋チェーンのネオンが数多く観えた時、
私は家内を誘い、忘年会の代わりの懇親会の真似事をしたりしてきた・・。

こうした中で、たまたま私はサラリーマン時代を含めて長年に愛用してきた居酒屋の変貌を話題にしたり、
或いはリストラ烈風で私の出向時代の心情、やがて同僚たちの動向を話題となったりしている。

そして苦節の時代があったが、今こうして大病もすることなく年金生活を過ごせるのは何よりだ、
と私は微苦笑を重ねて、家内に言ったりした。

このように忘年会に関しては、老ボーイの私としては齢を重ねるたびに減り、
ここ数年は忘年会の真似事を高校時代からの親友、そして家内と、恥ずかしながら2つとなっている。

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老人漂流社会の時代の中、働いて下さる諸兄諸姉も、人生設計を大幅に変動が余儀なくされ・・。

2015-12-14 13:52:03 | ささやかな古稀からの思い
私は中小企業の会社に35年近く勤めて、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職し、
定年退職後、多々の理由で年金生活を始めて、丸11年が過ぎ、早や12年生の身である。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後37年の古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
       
年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

こうした中で、私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりする時もある。
           

昨年9月頃に、NHKスペシャル番組『老人漂流社会~“老後破産”の現実~』を私は視聴して、
高齢者の一部の悲惨な実態に、動震させられたりした。

この番組をプロデュースされた板垣淑子(いたがき・よしこ)さんの言葉をお借りすれば、
《・・長生きをするお年寄りが安心して暮らせないばかりか、長寿を呪いながら生きなければならない過酷な現実。
今、老後に漠然とした不安を抱いている人は少なくない。
しかし、本当に自分の親や身近な人が「老後破産」に陥りかねないことを想像できるだろうか。
「こんな老後になるとは思わなかった・・」

そしてそして「老後破産」に陥った高齢者が同じように口にする言葉――。
「生きていてもしかたない。死んでしまいたい」・・》

こうした中で、《・・「年金は毎月16万円もらっていますが、出費は16万円を超えるのです。
それでも贅沢しているわけではありません。
医療や介護を節約すれば、私の場合、死しかありません」(70代男性)・・》

そしてプロデュースされた板垣淑子さんは、《・・「老後破産」はもはや対岸の火事ではない。誰の未来にも起こり得る現実だ。
老後にどう備えればいいのか――それを考えるためにも、まず現実を直視することから始めて欲しい。
そして取材をまとめた『老後破産―長寿という悪夢―』に描かれた現実は、私たちのすぐそばで起きている日常なのだ。・・》
と提示されていた。


過ぎし2011年(平成23年)の7月下旬のある日、
いつものように午前中のひとときに、駅前のスーパーに向かい買物に行った。

その後はいつものように本屋に立ち寄った時、過日の読売新聞の出版広告で、
たまたま中央公論新社の新書本の案内のひとつで、
西垣千春・著作の『老後の生活破綻 ~身近に潜むリスクと解決策~』を知り、
いずれは読んでおきたいと感じたりしたことを思い出して、本書を手に取ったのである。
            

そして解説文を読んだりした・・。
《・・認知症、病気、詐欺、事故、子どもの失業――老後の生活にはさまざまなリスクが潜んでいる。
そして一度問題が生じると、周囲に気づかれないまま生活が破綻してしまうことも、
現代の日本社会では少なくない。
高齢者を助けるサービスはたくさんあるのに、なぜ十分に活用されないのか。
苦しむ高齢者を一人でも減らすため、また、自分や家族がそうした事態に陥らないために、何が必要なのか。
豊富な実例とともに考える。・・》

そして私は帰宅後、最優先に読み終えた後は、
長い老後を安らかに生きる為の教科書のひとつだ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

本書の中では、《高齢社会の現実》の章に於いては、《高齢化の特徴》、《健康》、《血縁と地縁》、《家計》、
《事例で見る生活破綻》の章に於いては、《判断力の低下》、《健康状態の変化》、《予期せぬ事故・災害》など、
或いは《高齢者特有のリスク》の章に於いては、《生活破綻の実態》、《セルフマネジメント能力の低下》、《人間関係の変化》など、
そして終章の《高齢者の生活破綻を防ぐために》に於いては、多々実例を記載されている。

こうした本書は、齢を重ねた高齢者にとっては、誰しもが避けて通れない切実な難題が明記されている。
                    

私たち夫婦は、幸運にも大病に遭遇せずに今日まで至っている。
医院にお世話になったのは、私たち夫婦はお互いに歯が劣化して、
歯科医院に幾たびか治療を受けてきたぐらいである。

或いは私が2010年〈平成22年〉の秋の健康診断で糖尿病と明示されて以来、
食事の内容はもとより、ひたすら歩き廻ったりして大幅に改善されている。
そして11月には、私は白内障で両眼を手術して、鮮やかな視界に戸惑いながらも幸運を深めたりしている。

このように年金生活で、生活破綻だけは回避致したく注意してきた・・。
           

私は昨夜のひととき、私が愛読している新潮社の基幹サイトのひとつの【ディリー新潮】を見たりし、
《 30~40代での住宅ローン返済計画が「老後破産」を招く!  
             激増する「老後破産」(1) 》と見出しを見て、
どのようなことですか・・と思いながらクリックして、 精読した・・。

この原文は『週刊新潮』の2015年9月19日号に掲載された記事であり、
無断ながら記事を転載させて頂く。
               
《・・少子高齢化が叫ばれはじめてからというもの、われわれの人生設計に、前例がまったく適用できなくなってしまった。
たとえば、20年ほど前までは、会社員が定年まで勤め上げれば、退職金と年金で、まずまずの老後をすごすことができ、
そのことが働き手にとってのインセンティブになっていた。

ところが、年功序列で増え続けるはずだった給与も賞与も伸び悩んだ挙句、退職金も雀の涙。
年金も支給開始年齢を引き上げられたうえ、思ったほどの金額を受け取れない――と、
そんな“残酷物語”こそが“一般的”になっているのだ。

いや、それでも、つましい暮らしを維持できればいいが……。
『老後破産 長寿という悪夢』(新潮社刊)という本が今、話題を呼んでいるが、
事実、昨日まで豊かに暮らしていた人が“破産”同様に追い込まれ、
“悪夢”としか言いようがない老後を送るケースが、もはや珍しくないのである。
           

■住宅ローンの返済計画が破綻

その要因について、「年金の受給額が年々減っていることが大きい」
と解説するのは、ファイナンシャル・プランナーの紀平正幸氏である。

「夫婦2人の場合、20年前の受給額は平均して年金300万円だったのが、現在は220万円になったと言われる。
つまり、3割近く減ったのです。
ところが生活費は、ここ20年ほど年間300万円で変わっていません。
つまり、普通に生活するだけで、1年で80万円の赤字になってしまいます。
60歳の夫婦が90歳まで生きれば、2400万円の赤字が確定するんです」

むろん、赤字を補える資産があればいい。だが、それが十分でない場合は、
「退職金で補填することになりますが、サラリーマンの退職金は平均して2200万円ほど。
すでに200万円不足しているわけですから、潜在的な老後破産予備軍は、かなりの数に上ると考えられます」

そして、そのすべてを注ぎ込んでも、今や老後の最低限の生活を補うには至らないとはいえ、
退職金は、「手をつけてはいけない老後の命綱」なのだから、
「住宅ローンの返済に充ててしまったら、その分だけ命綱がやせ細り、老後破産が近づいてしまいます」と紀平氏。

あえてそう指摘するからには、退職金をローンの返済に充てなければ、首が回らない人が、それだけ多いのだ。
住宅ローン問題支援ネットの高橋愛子代表も、こう語る。

「今、相談が多いのは、バブル崩壊後にローンを組んだ方が、老後まで返済を引きずってしまい、どうしようかというケースです。
若いときに何とかなると思って、70歳や75歳まで支払いが続く、
30年や35年のローンを安易に組んでしまった方が少なくありません。

特にバブル崩壊後は低金利になり、不動産価格も下がったので、
まさかこんなに景気が悪くなるとは思わずに、今しか買えないと飛びついた人が多い」

そこで退職金を充てれば、ローンはなくなっても、今度は生活ができないという。

「1992~98年に、30代から40代でローンを組んだ人が、今ちょうど60歳前後で、
多くの場合、残債が1000万円以上あり、300万か400万、多い人は1000万円を超える債務超過になっています。
すると借り換えも、家を売ることもできず、競売しかない、自己破産しかない、と考えてしまうのです」

とまれ、実際に追い詰められた人の例を参照するに如くはないだろう。
           

■夫婦のどちらかが病気に

「大学卒業後、大阪のインテリアの会社に入り、東京に転勤になりまして」
と語り出した下山芳樹さん(65)=仮名=は、上司が立ち上げた新会社に転籍した際、
世田谷区の借り上げ社宅を出て、埼玉県東部に移ったという。

「埼玉でも家賃補助を受けましたが、社長が辞める際に転職した。
もう家賃補助は期待できず、ちょうど消費税が3%から5%に上がる直前でもあり、
家を買うなら今しかないと、同じ市内に、敷地30坪ほどの建売住宅を3800万円で買いました。

実家の土地を処分して頭金500万円を作り、残り3300万円を、月額16万円の35年ローンで支払うことにしました」

このとき下山さんは46歳。転職先の月給は手取り30万円強だが、
看護師の妻の収入も加えれば、支払いに支障はなかったという。

だが、「貯蓄に回す余裕はないまま、10年ほど前、妻が重い喘息を患いました。
毎年春と秋に10~20日、長いときは1カ月以上入院するようになり、1回の入院代も30万~80万円に。

医療保険にも入っておらず、妻が働けない分、収入も減りました。
そのうえ、6年前に私が会社の営業車で事故を起こし、給料から5万円が天引きされるようになってから、ローンの遅延が生じるようになりました。

翌月や翌々月にまとめて払うことを繰り返し、ついに一昨年、住宅金融支援機構からローンの支払い停止を告げられ、
自宅の任意売却を勧められて、今年4月、ついに1200万円で売りました」

家賃10万円の賃貸住宅に移ったが、売却した家の残債がなお1800万円あり、現在、自己破産の手続き申請を検討中だという。

「私は現在、医療関係の配達業に携わり、月収が手取り25万円ほどあり、
パートで看護師を続けている女房の収入と合わせると、45万円ほどになります。

しかし、ローンを支払うと貯蓄する余裕はまったくなく、
私が病気になったり、また事故を起こしたりしたら、生活は破綻する。生活保護も視野に入れています」

事故、病気――。誰もが襲われかねないのに、多くの人が想定しない不慮の事態に見舞われたときには、すでに引き返せないのだ。
           

■これから住宅ローンを組む人は注意

恐ろしいのは、これから住宅ローンを組む人こそが、こうした陥穽にハマる危険性が高いということだ。
ファイナンシャル・プランナーの深野康彦氏が言う。

「昨今、給料のピークが若年化し、昔は定年間際が一番高かったのが、最近は50代前半から40代に移っている。
2年前の法改正で、社員が働きたいと希望すれば、会社は65歳まで雇わなければならなくなりましたが、
会社は生涯賃金の総額は変えずに、65歳までにならす賃金体系に変えています。

その結果、毎年の年収は減るので、20年で完済するローンは組みにくい。
そこで月々の返済額を減らそうと、70歳や75歳までのローンを組んでしまいがちですが、
退職金も右肩下がりで下がっているので、返すに返せません」

老後破産予備軍は、さらに増え続けかねないことを示唆するのである。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
           

今回の記事を読み、《・・バブル崩壊後にローンを組んだ方が、老後まで返済を引きずってしまい、どうしようかというケースです。
若いときに何とかなると思って、70歳や75歳まで支払いが続く、
30年や35年のローンを安易に組んでしまった方が少なくありません。

特にバブル崩壊後は低金利になり、不動産価格も下がったので、
まさかこんなに景気が悪くなるとは思わずに、今しか買えないと飛びついた人が多い」

そこで退職金を充てれば、ローンはなくなっても、今度は生活ができないという。

「1992~98年に、30代から40代でローンを組んだ人が、今ちょうど60歳前後で、
多くの場合、残債が1000万円以上あり、300万か400万、多い人は1000万円を超える債務超過になっています。
すると借り換えも、家を売ることもできず、競売しかない、自己破産しかない、と考えてしまうのです」・・》
と時代に翻弄されて、家を買い求めて、悲惨な実態を学んだりしてた・・。
           

私は30代の初め、結婚し、賃貸マンションで2年ばかり新婚生活を過ごした後、
私は生家の近くに一戸建てをして、土地、住宅建築まで多大な経費となり、
その上に何かと単細胞の私は、若さの勢いで家屋の中に茶室を設けたりした。

こうした根底には、家内は中学生から茶事を学んできたので、どうせ借入をするのだから、
多少多くなっても大勢に影響がないと、高揚しながら、
住宅金融公庫を根底とし、幾つかの金融機関からローンを設定したりした。

こうした関係もあり、このローンが50代の初めの頃まで、
月々の返済はもとより、ボーナス時期に若い時は30%前後、その後の40代は25%前後を返済していた。

この中で最初の2年間は、何かと家廻りの出費が多く家計は赤字となり、
私は蒼色吐息のような孤軍奮闘していたが、
結婚してから専業主婦だった家内は、状況を察して、デパートの和服売り場で契約社員として働き、
我が家の2年間の家計に、多大に貢献してくれたことも事実であった。

こうした私としては困窮してしまった2年間であり、
住宅に関する購入は、普通のサラリーマンの身としては、人生で一番高い買物かしら、
と心身実感させられた時代であった。

50代の初め、遅ればせながらローンの一括返済をした後、
老後の人生設計の基礎となす資金の為、貯蓄を大半し、定年退職を迎えた。

そして世の中の多く人たちから、人生の3大支出は教育資金、住宅資金、老後資金と教示されたが、
私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれなく、「教育資金」は不要となったので、
50代の初め、住宅に関するローンの返済を終わり、そして程ほどの預貯金ができ、
定年した直後から年金生活を開始ができたのも確かなことである。
           

今回の記事で、《・・「昨今、給料のピークが若年化し、昔は定年間際が一番高かったのが、最近は50代前半から40代に移っている。
2年前の法改正で、社員が働きたいと希望すれば、会社は65歳まで雇わなければならなくなりましたが、
会社は生涯賃金の総額は変えずに、65歳までにならす賃金体系に変えています。

その結果、毎年の年収は減るので、20年で完済するローンは組みにくい。
そこで月々の返済額を減らそうと、70歳や75歳までのローンを組んでしまいがちですが、
退職金も右肩下がりで下がっているので、返すに返せません」・・》


私は中小業が多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤めて、
2004年(平成16年)の秋に定年退職となった身であり、
外資系でも年功序列が少し残る中、給与は年齢給と成果給で構成され、成果給の比率は多かったが、
同僚たちと驚くほどは差異がなかった時代であった。

しかしながら幾たびリストラに遭遇し人員整理されたり、或いはレコード会社の統廃合などあったりし、
最後の5年半は、リストラ烈風の中、はかなくも出向となったりした。

こうした中で、レコード会社の先輩、同僚、後輩の一部は、やむなく退職を余儀なくされ、
私は何とか2004年(平成16年)秋に定年退職を迎えることができたが、
敗残者のようなサラリーマン航路を過ごした。

ここ10数年、短期に成果が問われ加速され、常時リストラ時代の過酷の中、
たとえ正社員でも年収が大幅に差異がある、と学んだりしてきた。
たとえば同年齢であっても、ひとりが1000万円以上、残りの4人は400万円前後と知り、
一強四弱の熾烈なサラリーマン時代、と私は強く感じながら、無力ながら憂いたりしてきた。

こうした中、定年は65歳と政府は民間会社に奨励している昨今、
《・・会社は生涯賃金の総額は変えずに、65歳までにならす賃金体系・・》に、
サラリーマン諸兄諸姉は、教育資金、住宅資金、老後資金などの人生設計を大幅に変動が余儀なくされることに、
無力ながらも慟哭させられた・・。
           

私たち夫婦は38年寝食を共にしてきた結婚生活の中で、幾重かの人生の荒波を乗り越えてきたが、
ここ10年の年金生活は安楽の日々を過ごしている。

しかしながら、いつの日にか私たちのいずれかが難病に遭遇したり、或いは認知症になり、
晩年期は大きく人生航路を変更を余儀なくされる・・。
或いは私か家内が死去し、残された方がどのような難題に遭遇するかもしれない。

今回の記事を読み終わった後、不意にアクシデントに遭遇され、悲惨な生活実態に私は悲嘆を重ねたり、
働いて下さるサラリーマン諸兄諸姉の人生設計が、大幅に変動が余儀なくされることに、慟哭させられたりした・・。

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健康長寿の新常識“座り過ぎ生活”は、寿命を縮めると学び、老ボーイ71歳の私は微苦笑を重ねて・・。

2015-12-13 18:00:04 | ささやかな古稀からの思い
私は、昼下がりのひととき、私が愛読している新潮社の基幹サイトのひとつの【ディリー新潮】を見たりし、
《 喫煙よりも寿命を縮める!? デスクワークは死亡リスク1.4倍! 
             全米ベストセラー作家の健康長寿の新常識「座らない! 》と見出しを見て、
どのようなことなのょ・・と思いながらクリックして、 精読した・・。

やがて読み終わった私は、“座り過ぎ生活”と睡眠不足は寿命を縮めると、多々教示されたりした・・。

この原文は『週刊新潮』の2015年9月24日号に掲載された記事であり、
私は “座り過ぎ生活”は寿命を縮めると、初めて学び、この部分を無断ながら記事を転載させて頂く。
               

《・・(略)長い人類の歴史を振り返れば、命懸けで野生動物を追い掛け回したり、
天災に怯えながら田畑を耕してきた時代が大半を占めることは言うまでもない。

だが、ここ1世紀足らずの技術革新によって、我々は日の出と共に目覚め、日没に合わせて眠ることはおろか、
進化を決定づけた“直立二足歩行”すら忘れつつある。

冷暖房の効いた職場でのデスクワークが終われば、居酒屋で長っ尻し、
帰宅後はソファーで寛ぎながら深夜までテレビやネット観賞に耽る――。
そんな現代人にとって当たり前の生活が、知らず知らずのうちに我々の身体を蝕み続けていたのだ。

人類が直面する新たな“病根”について警鐘を鳴らすのは、アメリカ在住のノンフィクションライター、トム・ラス氏。
全世界で累計600万部以上の著作を売り上げたベストセラー作家の最新刊は、
その名も『座らない!』(新潮社刊)である。

彼は16歳の時、がん抑制遺伝子が機能しない遺伝性疾患と診断された。
放っておけばがん細胞が増殖する体質と向き合い、様々な医学論文を読み漁りながら、健康習慣に関する取材を続けてきたという。
その集大成に当たる本作には、日本人サラリーマンにとって耳の痛い指摘が溢れている。

なかでも特筆すべきは、これまで我々がほとんど注意を払わなかった「座ること」、
そして「眠らないこと」がもたらす健康リスクを大々的に取り上げた点だ。
               

まず、彼が“健康にとって最大の敵”と言って憚らないのは、座ることが人体に及ぼす害悪である。

ラス氏は作中でこう述べている。
〈平均すると、私たちは1日9・3時間も座っています。
眠っている時間よりも座っている時間のほうが長いのです。
人間の体はこのような環境に適応するようにつくられていません。

結果として多くの人が肥満体になり、糖尿病を患うなど深刻な健康問題を引き起こしています。
たとえ食事に気を付けて1日30分運動するのを日課にしても、毎日9時間以上の座位に伴う悪影響を相殺できません〉

つまり、ただ座っているだけで、我々の体には多大な負担が蓄積し続け、
食生活の改善や適度な運動程度では、リカバーできないというわけだ。

徹夜残業をはじめ、長時間の座り仕事が当たり前という向きには、俄かに信じ難い指摘だが、
「座り過ぎによる弊害は2000年以降、急速に注目を集めている研究分野です。
これまでの調査から、“座り過ぎ生活”が、想像以上に健康を害することが分かってきました」

そう語るのは、早稲田大学スポーツ科学学術院の岡浩一朗教授である。
               

■喫煙よりも寿命を縮める

たとえば、オーストラリアで行われた、45歳以上の男女22万人を対象にした大規模な調査の結果はこうだ。
1日の剤時間が“4時間未満”“4~8時間”“8~11時間”、そして“11時間以上”の4グループに分けて追跡調査したところ、

「“11時間以上”のグループが2・8年以内に死亡するリスクは、“4時間未満”のグループと比べて実に40%も高かった。
しかも、週に300分以上の運動を心掛けても、死亡リスクは全く軽減されません。

これまでの多くの調査をまとめた結果、
長時間座っている人は、そうでない人よりも糖尿病に罹るリスクが1・91倍、がんで死亡するリスクも1・17倍となった。
こうした調査結果を受けて多くの研究者は“Sitting is killing you”、
すなわち“座ることがあなたを殺す”と注意を喚起しているのです」(同)

すでにイギリスやオーストラリアでは、健康に関するガイドラインに、
「長時間のデスクワークは避けるべきだ」との文言が入るようになったという。

“座る”というごくありふれた行動が、病気や死に直結する。
そうした認識は、世界の常識となりつつあるのだ。

先のラス氏はこうも綴っている。
〈座るという行為は、現代社会で最も見過ごされがちな健康リスクです。
これは目に見えにくい疫病と同じであり、私たちの健康をむしばんでいます。
世界的に見ると、(座り過ぎによる)運動不足で死ぬ人は、喫煙で死ぬ人よりも多いのです〉

過去にイギリスの著名な医学誌は、「タバコを1本吸うと寿命が11分縮む」という記事を掲載した。
しかし、“座り過ぎ症候群”には、それ以上の懸念が取り沙汰されているのだ。
               

「25歳以上の成人が、椅子に腰かけてテレビを1日にⅠ時間見ると、
平均余命が22分間も短くなるという研究結果があります。

とりわけ、日本人は先進20カ国の中で最も座っている時間が長い。
1日に10時間以上働くフルタイムの男性雇用者の割合は、2011年の時点で43・7%に上っています。
デスクワークを済ませて、居酒屋で飲んだり、自宅で寛ぐ時間を合わせれば11時間以上座っている人も珍しくありません」(前出・岡教授)

では、なぜ“座る”だけで、人体にそれほど大きな被害が及ぶのか。

そのメカニズムについてはまだ不明な点も少なくないが、
「座った状態では下肢、特に人間の体で最も大きい筋肉である大腿四頭筋をほとんど動かしません。

この筋肉が停止状態になると、糖代謝に関わるGLUT4という蛋白や、
血中の中性脂肪を分解するリポ蛋白リパーゼという酵素の働きが悪くなり、
糖尿病や肥満になりやすくなると考えられています」(同)

加えて、下半身の血流が悪化すると、命の危険を伴う病気すら引き起こしかねない。
エコノミークラス症候群の予防ガイドライン作成に携わった、美術館北通り診療所(香川県高松市)の瀬尾憲正院長によれば、

「本来はふくらはぎがポンプの役割を果たして、血液を心臓へと送り込みますが、
長時間座り続けると血流がスムーズに巡りません。

それどころか、股関節の血管が圧迫されて血流が滞ってしまう。
その結果、血液がドロドロになって、静脈に血栓が生じやすくなるのです。
血栓が剥がれて肺動脈に詰まれば、俗にエコノミークラス症候群と呼ばれる肺血栓塞栓症を招きます。
そうなると、心臓まで血液が届かず命に関わることもある」
               

同じ原理で、脳卒中や心筋梗塞といった重篤な病気を発症することもある。

また、こんな悪条件が重なれば危険度はさらに増す。

「高血圧や糖尿病といった生活習慣病で血管が傷んでいる人は、尚更、血管疾患のリスクが高い。
前夜に深酒をした状態で、長丁場のデスクワークに臨むのも危険です。
アルコールや、エアコンによる乾燥は血液の濃度を高めますからね。

さらに、ストレスも血液をドロドロにする原因です。人間は身の危険を察知すると強いストレスを感じます。
そうなると生存本能が働いて、大量出血を防ぐために血液を濃くしてしまう」(同)

長時間のデスクワークを強いられ、失敗の許されない商談や会合が目白押しの管理職は、常にこうしたリスクと隣り合わせ。
さらに、上司から“明日までに仕上げろよ!”とプレッシャーをかけられながら、
徹夜の座り仕事に追われるのは、人間の心身にとって最悪の状況だという。

それでは、座るという“疫病”に効果的な対策はあるのか。

先の岡教授は自身の研究室に改造を施した。

「立ったまま仕事ができるようオフィスにスタンディングデスクやワークステーションを導入して、職場だけでも座らない時間を増やしています。
アフターファイブには立ち飲み屋がお勧め。腰を落ち着かせないので長居をしなくなりますし、
上司に付き合わされる時間が減るためストレスも軽減できます」

それでも長時間のデスクワークが必要な際には、
「貧乏ゆすりでも構わないので下肢を動かし、1時間にⅠ度は立ち上がって体を伸ばす。
そして、血液を薄める効果があるポカリスエットなど、イオン飲料で水分補給をすることも重要」(瀬尾氏)・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
               

私は中小企業の会社に35年近く勤めて、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職し、
定年退職後、多々の理由で年金生活を始めて、丸11年が過ぎ、早や12年生の身である。

そして私は年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受したり、或いは認知症は勘弁してょ、願いながら歩いたりしている。
          
午後からの大半は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりしているが、こうして椅子とかソファに座ったりしている。

こうしていると殆ど9時間ぐらいは、座ったりしていることが多い。
               

例外としては、家内が最寄のホームセンター、スーパーなどに買物に行く時は、
私は殆どボディガード兼お供となり、荷物持ちの責務を果たしている。
 
或いは私がときおり小庭の手入れをする時、ときおり国内旅行もしたりし、
冠婚葬祭とか懇親会ぐらいとなっている。

今回の記事を読み終わった時、“座り過ぎ生活”は寿命を縮めると学び、戸惑いを受けたりした。
私は定年後の年金生活の生きがいの中核は、読書、映画、音楽などの知的好奇心であるが、
80歳を迎えたければ、少し読書の過ごす時間を減らそうかしら、と微苦笑を重ねたりしている。

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お歳暮の時節、私に取っては36年に及び慈父のような御方だった人に、愛惜を秘めながら思い馳せて・・。

2015-12-12 14:58:37 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
過ぎし3週間ぐらい前の頃から、新聞の折込チラシで、ときおりデパートなどの『お歳暮』の広告が入っている。

今朝のひととき、ぼんやりと私は見たりすると、私の現役時代だったサラリーマンの時代には、
私はボーナスを頂いた週末には、ある御方のご自宅を訪問したことが、思いだされたりした・・。

私の現役時代は、お中元、お歳暮などの社交辞令は苦手であったので、なるべく避けていた。

しかしながら苦手な私でも、人生の岐路にたたされた時、或いは救いの手を差しのべて下さった方には感謝して、
年賀状を送信し、お中元、お歳暮の時は、ご自宅に訪問させて頂いた。

私の就職、結婚の時は、特にご尽力を頂いて、感謝している御方であった。
               

私が大学を中退し、アルバイトや契約社員などをして映画・文学青年の真似事しはじめたのは、
東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年であった。

その後、あえなく敗退して、やむなくサラリーマンに転身する為に、
コンピュータの専門学校を一年ばかり学び、安定した大手の民間会社に中途入社を希望していた。

こうした中、私の生家の遠い親戚の資産家の御方から、
この当時は大手の映像・音響メーカーの首脳陣のひとりの御方を紹介して頂いた。

そして、この首脳陣の御方のご尽力もあり、
私はこの大手の映像・音響メーカーに中途入社できたのは、1970年(昭和45年)の春であった。

入社してまもなく音楽部門のひとつの大手レーベルが、レコード会社として独立し新設され、私も異籍させられ、
中小業であるレコード会社に35年近く勤めて、2004〈平成16〉年の秋に定年退職となった。
                         

この間、この首脳陣の御方のご自宅に、少なくともお中元、お歳暮のたびに訪問した時、
温かなまなざしで私に応対してくれた。
そして奥様もさりげなくつつみこんで下さり、このご夫婦から高潔さを私は教示されたりした。

その後、私が結婚する時に、ある格式ある式場を懇願して紹介して頂いたので、
ご夫妻に披露宴に参列して頂いたりし、私たち夫婦は何かとお世話になった。

このような形を25年過ぎれば、私も齢を重ねたが、
この御方、奥様からはお逢いし話すたびに、さりげない礼節、そして茶事、庭、絵画、音楽なども素養が格段違う、
と私たち夫婦は実感させられ、多々教示されたりした。

そして私はつたないなりに、大人の階段である礼節を学んだのは、
ひとえにこの御方、奥様からのさりげない言葉、しくざであった・・。

私の定年退職の時、私の日常生活ではとても口に出来ない美酒を頂戴した後、
まもなくこの御方は、ご高齢の94歳で、亡くなわれた・・。
               

そして告別式に私たち夫婦は参列した時、改めて高潔なお人であった、
と思いを深めたりした。

しかし、民間会社の大手の首脳まで栄達された御方であったから、
もとより怜悧な力量もあったと思われるが、
私たち夫婦はこの御方の限りなく優しいプライベートの面しか接してこなかったのも、事実でもある・・。

しかしながら私にとっては、小学2年の時に父に病死されたこともあり、
慈父のような人と秘かに36年ばかり思い続けた御方であり、私は感謝しながら敬愛した人であった。


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ブログを殆ど毎日綴る12年生の私は、何かと知的好奇心にあふれて、日々を過ごしたりして・・。

2015-12-11 13:49:45 | ささやかな古稀からの思い
私は民間会社の中小業に35年近く奮戦して、2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めた。

そしてネットの世界は殆ど無知な癖に、この当時にIBMなどからホームページ作成素材のソフトを買い求めて、
漠然としながら『ホームページ』を立ち上げて、
自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを出来うる限り随筆風の散文を綴り、
公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、無名の私が開設・運営した所で果たして、と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。              
          
ブログの世界は、多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
それぞれのお方が自由に私生活の出来事から、政治、外交、軍事、経済などの分野まで表現でき、
日本でも2002年(平成14年)の頃から急速に普及し、誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来している。

この少し前の時代は、それぞれの専門知識のある有識者が、雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の身は、新聞・雑誌などの読者コーナーで、記事を投書できる範囲であり、
もとより掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。

こうした結果として、私は自在に私の生活のことから、政治、社会などに専門知識がない私でも、
私なりの思いを発露でき、何よりブログはホームページより手軽に開設、運営できると感じ、
ブログに加入しょうと決意した。
                  
        
そして2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)1月19日に加入した。

しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり【gooブログ】を中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    
       
このような軌跡で、ブログの世界を知って丸11年が過ぎて、早や12年生に進級した。
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
                                      
私は年金生活を過ごしている中で、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          
こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。
    
私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、あますことのないように綴ってきた。
          

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切にしているひとりである。
       
そして数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。    
                                                
こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは2年半前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。
                    
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
恥ずかしながら筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省することが多い。
          
        
       
私は自身の投稿文も大切であるが、ここ11年数多くの御方の投稿文を読ませて頂いたりした。

こうした中で、セカンドライフを過ごされる数多くの諸兄諸姉のブログの投稿文を読ませて頂き、
このように日常はお過ごしされている、或いはこのような思いを秘めている・・
多々教示させられ、ときには私が励まされるようなこともあったりしている。
          
何よりもこの広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、めぐり逢えたこと、
数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、心の財産となっている。
          
このような思いがあり、私はブログの投稿文を今日まで継続できたりしている。
          
          
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後37年の古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
       
私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしてきた・・。

世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、
何かと安堵しながら、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズ、
と知人、友人、知人からの便りを受けたりしてきた・・。

年金生活を始めた当初から、私は自主的に平素の買物専任者となり、
毎日のように家内から依頼された品を買い求めに、独りでスーパー、専門店に行ったりし、
ときおり本屋に寄ったりしている。

その後は、自宅の周辺にある数キロ以内にある遊歩道、小公園などを散策して、
季節のうつろいを享受している。
                 

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書をすることが多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯など専業主婦の責務を継続してくれるので、
せめてと思いながら、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、
日に5回前後は茶坊主の真似事をしている。

こうした中で時折、我が家の小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内と国内旅行を5泊6日前後の旅路を幾たびか遊学したりしている。
       

年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。

そして私は定年後の年金生活を10年間の60代を過ごしてきたが、
私たち夫婦は幸いにも、お互いに大病で入院することもなく、
歯がお互いに老化して、歯科医院で幾たびか治療を受けてきたぐらいであった。
                          

私はブログを丸11年ばかり日々綴ったりしてきたが、ときおり過ぎし日の投稿文を読み返したりし、
おぼつかいな年金生活の当初の私の心情に、独り微苦笑したり、
或いはたった一台のバソコンが突然に故障して、困苦しながらやむなく買い改めたり、
苦渋の日々に微苦笑したりすることもある。

こうしたことを読み返したりし、日々ブログを綴れば、その年のその日の私の心情が発露されているので、
過ぎ去った60代の年金生活に、愛惜を重ねたりして、微苦笑したりしている。
                 

そして70代となれば、体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

このように学んできた私は、これからの70代の年金生活は、しなやかに過ごせば、
何とかなる、と何かと単細胞でプラス思考の私は、微笑んだりしている。

過ぎし2004年(平成16年)の定年退職までの半生は、何かと悪戦苦闘が多かったので、
定年後の年金生活の丸11年が過ぎている今、我が人生として最も安楽な期間を享受できたりしてきた。

そして70代の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
       
こうした中で、私は母の遺伝を受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人さまと話し合ったりすることが多い。

或いは、知的好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
          

半年前の頃、ネットでニュース記事を読んだりしている中、
【脳を育てるには「好奇心」と「集中力」が大事。この2つを簡単にアップする方法とは?】
と見出しを見て、齢ばかり重ねた私でも好奇心に負けてしまい、クリックした。

そして提供したサイト元が『OurAge 』と私が知らないサイトであったので、
こっそりと調べたら、《・・集英社の雑誌MyAgeのオンラインメディア、「OurAge」のサイトです。
OurAgeは、女性の美と健康を応援します。》と記載されていた。

そして私は、麗(うるわ)しき女性の向けであったので、老ボーイの私でも、
恥ずかしながらも、「好奇心」と「集中力」が大切ですよねぇ、と瞬時に同意したりした。
                       

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年金生活の最大のボーナスは、程々な自由時間を過ごせること、と老ボーイの私は微苦笑して・・。

2015-12-10 14:28:07 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の老ボーイの身であるが、
先程、ぼんやりとテレビのニュースを視聴していたら、
国家公務員に冬のボーナスが支給され、管理職を除く行政職職員(平均年齢36.4歳)の平均支給額は
平均65万8600円と報じられていた。

そして私は国の重責に日々奮戦され、ご苦労さまでした、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

過ぎし2週間前の頃から新聞の折込みチラシなどで、お歳暮の商品、クリスマスの贈り物、御節料理など、
掲載されているので、早くも歳末に向っている、と私は教示されたりしている。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
          
       
一週間前の頃、こうした折込みチラシを家内が見ていた時、
『世の中はまもなく、冬ボーナスの時期時かしら・・』
と家内は私に言った。

『そうだょねぇ・・僕の現役時代は5日だったし・・
確か官公庁の方たちも10日だった、と記憶しているょ』
と私は苦笑しながら家内に応〈こた〉えたりした。

『私たち、この時節にボーナスもなく・・少し寂しいわねぇ』
と家内は私に言ったりした。

『でもねぇ・・こうして過ごせるのだから』
と私は苦笑しなが家内に言ったりした。

『そうよねぇ・・働らなくとも・・何とか生活できるのだから・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりした。
       

先ほど、ぼんやりとベランダに下り立つと、
年金生活11年が過ぎ、12年生となった昨今は、曜日の感覚も定まらいが、
やがて私がサラリーマンで奮闘していた時、ボーナスを頂いた時が想いだされた・・。
          

私は20代の頃の独身時代は、スーツ、ワイシャツ、ネクタイ、通勤靴、通勤バックなどを買い揃えて、
母に幾ばくかを手渡し、そして呑み屋さんに通っても、程々の貯金が出来たりした。

やがて30代の初め、結婚し、賃貸マンションに入居するまで、
何かと無知な私でも、新婚生活を始めるまでは結構お金を要すると実感させられ、
やむえなく生家の長兄から、ある程度の額を借用したので、ボーナスを頂くたびに返済した。
そして賃貸マンションで私たち夫婦の新婚時代を2年間過ごしたが、返済していても多少の貯蓄は出来たりした。

この後、私は生家の近くに一戸建てをして、土地、住宅建築まで多大な経費となり、
その上に何かと単細胞の私は、若さの勢いで家屋の中に茶室を設けたりした。

こうした根底には、家内は中学生から茶事を学んできたので、どうせ借入をするのだから、
多少多くなっても大勢に影響がないと、高揚しながら、
住宅金融公庫を根底とし、幾つかの金融機関からローンを設定したりした。

こうした関係もあり、このローンが50代の初めの頃まで、
ボーナスを頂く度に若い時は30%前後、その後の40代は25%前後を返済していた。

この最初の2年間は、何かと家廻りの出費が多く家計は赤字となり、
私は蒼色吐息のような孤軍奮闘していたが、
結婚してから専業主婦だった家内は、状況を察して、デパートの和服売り場で契約社員として働き、
我が家の2年間の家計に、多大に貢献してくれたことも事実であった。

こうした私としては困窮してしまった2年間であり、
住宅に関する購入は、普通のサラリーマンの身としては、人生で一番高い買物かしら、
と心身実感させられた時代であった。

50代の初め、遅ればせながらローンの一括返済をした後、
老後の人生設計の基礎となす資金の為、貯蓄を大半し、定年退職を迎えた。

こうした中、ボーナスを頂だした週末の土曜日には、お世話になった知人、
私の母宅などに、お歳暮廻りをしたりしていた。

このようなボーナスを頂くたびの軌跡であったが、
どなたも同じと思われるが、サラリーマンの現役時代には大波、小波に遭遇し、
家内と共に何とか乗り切り、私は家内を戦友と思いながら、今日を迎えている・・。

私は築後37年の古惚けた家に住み、程々の広さの小庭で樹木を眺めながら、
あんな時代もあった、と思いを馳(は)せたりしている。
                  

私は中小企業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤めて、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。

しかしながら最後の5年間はリストラ烈風の中、30年間奮戦してきた本社から放り出されて、出向となり、
つたない私なりに失墜感にさいなまわれたりした。

そして出向先は、各レコード会社がCD、DVDなどの音楽商品を委託している物流会社で、
不馴れな職場で、自分の敵は自分です、と自身を叱咤激励して奮闘し、出向先で定年を迎えた。
        
私はサラリーマンの身として、年収1千万円台で何とか卒業できたが、
大企業で栄進された方、或いは官公庁の上層部のように高額所得地位にも成れず、
程ほどの年収、退職金、金融資産となったりした。

もとより日本は長年、大企業数は1%で、中小企業数は99%の実態の中で、
大企業と中小企業の企業間格差について『7・5・3』があり、
大企業に対し中小企業は、月給が7割、賞与5割、退職金は3割、と一般的にそれぐらいの差がある、
と伝えられきた・・。

私は中小業の外資系会社に勤めて、この間に幾たびのリストラの中、
何とか障害レースを乗り越えて、定年を迎えることができたので、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。

私の現役時代の財産といえば、その時代と共に過ごした名曲の数多くが心に残り、
そして上司、同僚、後輩と共に音楽業界の空気を共にできたことである。

こうした中、OBの懇親会などの会合の時なので、流行(はや)った曲名でその時代を表現し、
そうだったよね、とお互いにうなづいたりしている・・。
                  

定年退職後、多々の理由で年金生活を始めて、近くの遊歩道などを散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下がりのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりする。

そして私は年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。
          

こうした私の根底には、定年前のサラリーマン時代の私は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は長らく専業主婦をしてきたので、家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。
         
そして定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなく、
午前中の殆どは、買物専任者とか散策で外出したりしている。

午後からの大半は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりする時間を確保したく、積極的に買物メール老ボーイとなった。

そして私は家内が外出する時は、殆どボディガード兼お供となり、
最寄のホームセンター、スーパーなどに買物に行く時、荷物持ちの責務を果たしている。
 
或いは私がときおり小庭の手入れをする時、年に4回ぐらい家内が手助けをしてくれる。

こうした中、せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

このような年金生活を過ごしてきた私は、
年金生活の最大のボーナスは、程々な自由時間を過ごせること、と思い深めて微苦笑したりしている。
          
                            
そして年に4回ぐらい私たち夫婦は、人の多い都心に買い物に行ったり、
或いは最寄の駅前などで、働いて下さる現役の諸兄諸姉の溌剌な姿を見たりする時は、
何かと短期で成果を問われる今日、常時リストラ時代、といわれたりして過酷な時代になっている、
と深く憂いたりしている。

私は何かと働いて下さる現役の諸兄諸姉に注視するのは、
もとより日本の社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用は、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えている現実からでもある。

ときおり私たち夫婦は、共通趣味の国内旅行に行く時、東京駅とか羽田空港の待合所で、
やはり働いて下さる現役の諸兄諸姉の多忙なしぐさ、会話を聞いたりすると、
こうして私たちが、のんびりと旅行するのに申し訳ないと思ったりしていることが多い。

このような心情を秘めている私は、民間会社のボーナス到来シーズンを漠然と思い馳せると、
業績が反映された額とはいえ、会社は剰余金も肝要であるが、働いている諸兄諸姉に多くだしてょ、
と無力ながら願ったしている。

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セカンドライフの三種の神器は、生きがい、健康、程ほどのお金、と年金生活12年生の私は思い深めて・・。

2015-12-09 16:38:41 | ささやかな古稀からの思い
今朝、ぼんやりと目覚めて、寝室の二階の窓と雨戸を開けると、屋根に薄らと霜(しも)が見えたので、
初冬の訪(おとず)れかょ、と思ったりした。

私の住む地域は、平年ならば、11月3日の『文化の日』の頃から、
あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染め始め、
やがて11月23日の『勤労感謝の日』の頃になると、
周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染められる錦繍(きんしゅう)の情景となる。

そして12月初旬になると、公孫樹(イチョウ)は黄色に染められる中、
あまたの朱色、紅色、黄色の葉が舞い散り、まもなく公孫樹(イチョウ)も落葉すると初冬の時節を迎える。
          

朝食の時、家内は独り住まいの母宅に介護に行っているので、
私は『おひとりさま』となり、話し相手もいなく、やむなくテレビの天気情報を視聴しながら、
いつものように前菜はタマネギをスライスし、生ワカメとあえて、
そしてミッカンぽん酢とお醤油をかけて、大きな皿に盛大に食べたりした。

やがて十六穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
コブの佃煮、福神漬け、カブの醤油漬け、カブの葉の塩漬け、そしてシャケの瓶づめを頂いたりした。

こうした根底には、私は幼年期に農家の児として育ったので、齢ばかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の代表とされる『一汁三菜』の真似事をし、
これが飽(あ)きたら日本人はやめるょ、と心の中で呟(つぶや)いたりしている。

こうした中で、本日はぬくもり感がある陽射しに恵まれて、11度前後の暖かな日中となります、
と報じられていた。

そして私は青空を見上げると、平素の買物は明日にして、
健康寿命を維持するには、歩くことが何よりも肝要だ、と思いながら、
自宅から歩いて10分ぐらいにある遊歩道を歩いたりした・・。
          

錦繍(きんしゅう)の終わり始めた、数多くの落葉樹の欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、モミジなど雑木を眺めながら、
デジカメで撮ったりしていると、前方にいた60代と思われる女性が足を止めた。

やがて女性が私に小声で、小鳥を撮っていらしたんですか、と私に声をかけてきた。
私は雑木の季節のうつろう情景が好きで、たまたまクヌギ、コナラなどを撮っていました・・、
このような話を見知らぬ女性と立ち話を始めた・・。

まもなく年金生活を始めて3年過ぎましたと話して下さり、
私は丸11年が過ぎて71歳になりまして・・と私は言ったりすると、
あらぁ、お若いわ、と社交辞令のお世辞を頂き、私は少し照れたりした。

やがて5分ぐらい年金生活の日常実態を楽しげに談笑したりした後、
やはり年金生活を過ごすには、『生きがい』が最優先、次に『健康』、そして程ほどの『お金』と、
私は思いを深めてきました、と私は女性に言ったりした。

そして女性は私に微笑みながら、貴重なお話ができて嬉しいひとときが過ごせましたわ、と私は言われたりして、
まもなく私たちは別れ、私は2時間前後ゆっくりと景観に見惚(みと)れながら歩き廻り帰宅した。
          

私は民間会社のこの当時は大手企業に何とかし中途入社できたのは、1970年(昭和45年)の春であり、
まもなく分離独立した外資系の会社が設立され、私は転属させられて、
この中小業の会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職した身である。

そして最後の5年半はリストラ烈風の中、あえなく出向となり、やがて出向先で定年を迎えた。

日本は長年、大手企業数は1%で、中小企業数は99%の実態の中で、
大手企業と中小企業の企業間格差について『7・5・3』があり、
大手企業に対し中小企業は、月給が7割、賞与5割、退職金は3割、と一般的にそれぐらいの差がある、
と伝えられきた・・。

私は中小業の会社に勤めて、この間に幾たびのリストラの中、
何とか障害レースを乗り越えて、定年を迎えることができたので、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。

このように悪戦苦闘の多い中で、敗残者のような状況であったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活を始めた・・。
                               

そして60代の10年間の年金生活を過ごして、
一昨年の9月に古稀と称される70歳となり、何とか70代の入門が許されて71歳である。

ときおり60代の10年間の年金生活を振り返る時は、
ここ7年前の頃から、世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、何かと安堵しながら、
セカンド・ライフに於いて、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。

そして私も過ぎ去った60代の年金生活の10年間の日々は、私の人生の中で何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受してきた・・。

こうした中で、セカンドライフの三種の神器と問われれば、
やはり『生きがい』、『健康』、そして程ほどの『お金』と思いながら、確信を深めたりしている。
                    
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住み、私たち夫婦はお互いの趣味を尊重して過ごしている。
            
         
『生きがい』は、何よりの最優先課題である。

過ぎし年の1989年(平成元年)の頃に、評論家・樋口恵子さんが、
定年後に家でゴロゴロしていて、地域活動なとで忙しい妻に、まとわりつく夫の社会風潮を憂い。
掃いてもへばり付いてくる状態をたとえて、『濡れ落ち葉』と的言された。

或いは過ぎし年の2007年(平成19年)1月下旬の頃、私は読売新聞の新刊本の広告を偶然に見て、
小川有里さんの著作の『定年オヤジのしつけ方』(講談社 定価1470円)の広告記事は、
定年直後の男性の一部の人達にとっては、この世で最も恐い本のひとつ、と確信を深めながら、
微苦笑したことがあったりした。

《・・ああ、うっとうしい! 毎日家にいる夫。
   家庭内2007年問題を解決する痛快エッセイ!

   「定年迷子」をかかえた妻たちよ。 今立ち上がれ!

【定年オヤジの特徴!】
①テレビがお友達
②お昼は作ってくれるものと思っている
③毎日、ごろごろ居間にいる ・・》

このように綴られていて、定年後の迷子のような心が定まらない男性を正鵠に把握していると思い、
微笑んだり、苦笑したりしてきた。

セカンドライフを過ごされる男性は、それぞれの趣味を深めて過ごされれば、
目に輝きがあり、溌剌と過ごしている方が多い。

そして不幸にも、たとえ最愛の妻に先立たれて、おひとりさまになっても『生きがい』があれば、
その後の人生も溌剌と生きられる、と私は思ったりしている。
                                                  

『健康』
私は現役サラリーマンの当時、懇親会でOBの先輩から、定年後の生活で、病気に遭遇して病院に医療費を支払うか、
好きな趣味でお金を使うか、天と地の差だからねぇ、と教示して下さったりした。

私たち夫婦は幸いにも、大病に遭遇せずに過ごせてきた。
そしてお互いに歯の老化で、幾たびか歯科医院で治療を受けたりしたが、
こればかりは齢に勝てない、と程々の治療を支払い、税務署より医療費の控除を少し受けたりしてきた。

或いは過ぎし5年前の前の66歳の時に、私は健康診断で糖尿病と診断され、青色吐息となる中、
この後は、食事の改善とひたすら歩いて、やがて半年後には何とか克服してきた。

そして前月の11月には、私は白内障となり、左眼と右眼の手術を受けて、
酷い近眼だった私は、現在はメガネも不要となり、0.8ぐらいの視力になり、
鮮やかな視界となり、戸惑いながらも喜んだりしている。
                     

『お金』
私は定年退職する数年前の頃、経済にも疎(うと)く、
信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読んだりした。

こうした中で、デフレ経済の蔓延している中、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をし、
預貯金が3000万円あれば、少しづつ取り崩して生活すれば、少しはゆとりのある年金生活ができる、
と学んだりした。

そして世の中の多く人たちから、人生の3大支出は教育資金、住宅資金、老後資金と教示されたが、
私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれなく、「教育資金」は不要となったので、
少しばかり多めの預貯金ができ、定年した直後から年金生活を開始ができたのも確かなことである。

しかしながら我が家は乗用車、スマホも所有できず、家内が遅ればせながら携帯電話を半年前に覚え、
時代遅れの国民となっている。
まして海外旅行は、英語を思いだすように単語を並べる程度しか言えない私は、遠い異国の世界である。

更に世界の有数なクルーズ航路、別荘、ヨットなどは、遥かに遠い彼方のことであり、
せめてと思いながら国内旅行をして、各地の四季折々の旅路を幾たびか遊学している。
                    

このように年金生活を過ごしているが、『生きがい』、『健康』、そして程ほどの『お金』と思いながら、
年金生活を享受している。

そして今後、大病、やがて介護を恐れて、私は自宅の周辺3キロぐらいの範囲にある
遊歩道、小公園など季節のうつろう情景を眺めて、ひたすら歩いたりしている。

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予算別「入りたい老人ホーム」ベスト100を学び、いつの日にかと思いながらも、改めて思案を重ねて・・。 

2015-12-08 12:47:43 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
住宅街が広がる中で、少しばかり広い雑木の多い小庭の中、築後37年ばかりの戸建てに住んでいる。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いの趣味を尊重して過ごしている。

私は71歳の身であり、私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私たち夫婦は年金生活を過ごして、丸11年が過ぎて早や12年目になっているが、
幸いにもお互いに大病に遭遇せず、過ごしてきた。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないことが多く、
私たち夫婦は38年寝食を共にしてきた結婚生活の中で、幾重かの人生の荒波を乗り越えて、
お互いに戦友と思いながらも、年金生活のセカンドライフは、ささやかながら安楽の日々を過ごしている。

そして私たち夫婦の最大の難題は、いつの日にか介護を必要とされる時期である。

私は漠然としながらも、 老人ホームについては注視したりしている。
          

しかしながらファイナンシャルプランナーの有田美津子さんによると、
有料老人ホームの相場(家賃や食費などの月額)は地方では15万円程度。
東京都内ではそれが25万~30万円ほどに跳ね上がり、23区内ともなると40万円ほどにもなる・・》
と教示され、私も切実な難題である。
          
私たち夫婦のどちらかが、要支援になった時は、『特別養護老人ホーム(特養)』は、
介護に要する負担金は少なく済むので、 少なくとも52万人の待機者いて、
国からの公費が1人あたり年間180万円程度多くかかるともされ、
財政的に『特別養護老人ホーム(特養)』を増やし続けることは難しい、と新聞などで読んだりしてきた。

その上、原則的として要介護2以下の人は、入居は困難である。
          

『サービス付き高齢者住宅』に関しては、入居条件は60歳以上であることだけで、
要介護度に関係なく誰でも入れる上に、要介護・要支援認定を受けていれば、60歳未満でも入居が可能。

そして 館内および部屋はバリアフリーで、日中は館内にケアの専門家の職員が常駐して、
安否確認と生活相談のサービスを提供する。

ただし、サービス付き高齢者住宅は、介護や食事、健康管理などのサポートはセットではなく、
あくまで高齢者向けの賃貸住宅である、と学んだりしてきた。


そして民間の『有料老人ホーム』に関しては、
少なくとも入所一時金は1000万円、そして毎月は最低として利用料金は20万円が要し、
更に手厚い介護を受ければ高額となり、私は溜息を重ねたりしてきた。

その上に昨今、民間の『有料老人ホーム』でも倒産が多くなったと知り、
要介護となった時の身を思い馳せると、住まいの迷子は勘弁してほしい、と思ったりした。
          

このように迷い果てると、私たち夫婦はいつの日にか要支援になった時は、
『サービス付き高齢者住宅』が妥当かしら、と思ったりしている。

同じような世代、似通った要支援が多い身であるので、平素の生活環境、礼儀など、
そして維持管理なども共通認識の礼節もある、と思ったりしてきたが、
私たち夫婦のどちらかが、要介護になった時は、やはり民間の『有料老人ホーム』に頼るしかない、
と思ったりしている。
          

このような心情を秘めている私は、昨夜のひととき、
私が愛読している講談社の基幹サイトのひとつの【現代ビジネス 】を見たりし、
《 【永久保存版】予算別「入りたい老人ホーム」ベスト100 これでもう迷わない!
               施設、食事、サービスを徹底比較 》と見出しを見て、
どのようなことなのょ・・と思いながらクリックして、 精読した・・。

やがて読み終わった私は、老人ホームについて、改めて多々教示されたりした・・。
この原文は『週刊現代』の2015年12月5日号に掲載された記事であり、
無断ながら記事を転載させて頂く。

《・・「終の棲家」探しは、人生最後の大きな選択だ。
本当にいい環境で充実したサービスを受けられる施設はどこか?専門家らの意見をもとに、予算別に100軒のホームを厳選する。

☆地域社会と交流がある楽しさ

午後3時。賑やかで楽しい時間の始まりだ。
次々と近所の子供たちが小遣いをもってやって来ては、わくわくしながら駄菓子を選んでいる。

ここは東京都足立区にあるサービス付き高齢者向け住宅(サ高住)「銀木犀」の一角にある駄菓子屋だ。
毎日午後3時から5時までオープンするが、多い時は50人くらいの子供たちが訪れる。

店番に立つのは會川和男さん(84歳)。今年5月に大腿骨を骨折してから、この施設に入居している。
認知症も患っており、入居時の要介護度は最も重い5。
当初は車椅子での移動がやっとだったが、駄菓子屋の店番を任されてから、めきめきと回復したという。

同施設を運営するシルバーウッド代表取締役の下河原忠道氏が語る。
「いまでは店が開く時間になると、補助杖を持ったまま歩いてくるほどで、杖の意味がないくらいです。
早く店に立ちたいから、自分の足で歩く。
それがなによりのリハビリになっています。
認知症ですから、なかなかコミュニケーションが難しい面もありますが、
意外に子供たちとはうまく交流できるんですよ」

銀木犀の建物は、木材の温かみが感じられる北欧風のテイストに、障子など和の要素を取り入れた心地よいデザインだ。
しかし意外なことに入居費用は、決して高くない。
家賃、共益費、食費、生活支援サービス込みの価格で、一番安い部屋が月13万9800円〜。
入居時には敷金、礼金、手数料など一切かからない。

低コスト施設にありがちな安っぽさや寒々しさとは無縁なのは、同施設の経営方針と関係しているのだろう。

「ここは高齢者施設ではありません。あくまで入居者たちに自由に楽しんでもらう賃貸住宅なのです。
私たちは必要以上のケアはしませんし、自立支援以外はやりません。24時間出入りも自由です」(下河原氏)

自由で温かみがあり、しかも値段が安い——現実には銀木犀のような施設を探すのは、なかなか難しい。
          

老人ホームにはいくつか種類があるが、入居待ちが解消されない特別養護老人ホームを除くと、
大分してサ高住と有料老人ホームがある。

サ高住とは介護サービスを外部委託する賃貸住宅で、入居一時金が必要ないなど低コスト。
国から建設補助金が出るため、近年乱立気味で、その数はすでに18万戸以上だ。

一方、有料老人ホームは公的補助がなく、高額になりがちだが、価格が高いものは充実したサービスや設備が期待できる。
施設数は9500以上。

そこで本誌は、老人ホームの事情に詳しいコンサルタントやアドバイザーの意見をもとに、
現在、日本で最も安心のおけるサービスを受けられる「究極の老人ホーム100軒」を選出した。

選考の過程において心がけたのは、「予算別」であること。
できるだけ低めの価格帯から高めのものまで5段階に分けた。

入居一時金のある施設については5年入居した場合の月額に換算し、価格が一目瞭然になるようにした。
対象としたのはサ高住と有料老人ホーム(介護付き・住宅型)。
入居難易度の高い特別養護老人ホームなどは扱わない。
          

☆ほどほどのサービスの良さ

いうまでもなく、高齢者施設に入るのにかかる費用はまちまちで、その格差は10倍以上ある。
価格が高くなれば、よりよい環境とサービスが提供される可能性は高まるが、
必ずしも安い施設のすべてがお粗末なわけではないし、その逆もまた然りである。

ホーム選びの基本について、シニアの暮らし研究所の岡本弘子氏はこう語る。
「人件費が、ホームの価格差を生む一つの大きな要因になっています。
まずはホームの案内書を見て、介護を含めて施設のスタッフが何人いるのか確かめましょう。

ただスタッフのスキルや性格などは価格の高低とは関係がありません。
この見極めは難しいのですが、一つはホームの実績をチェックすることです。サービスは経験値がものをいいます。
何年くらい事業をやっているのか、どれくらいのホーム数を経営しているのかを見れば、その施設の安定性が見えてきます」


長年、高齢者施設で働いた経験から、自分の理想の施設を作り出したのが、千葉県松戸市のイハナハウスを経営する稲田幾子氏だ。
「私は2ヵ所の有料老人ホームで13年の間、施設長を務めた経験があります。
そして『こういう点がイヤだ』と思ったことをすべて排除して、‘06年にイハナハウスを立ち上げたのです。

例えば、有料老人ホームには高いお金を払っているからといって、
なんでも施設の人に頼りがちになってしまう人がいました。
しかし、自分でできることを、しないようになると心や体が弱りやすい。

ですから、うちの施設ではできるだけプライベートを大切にしながら、
困ったときだけ24時間体制でサポートするようにしています。入居一時金もいただきません」

この施設は普通のマンションのような構造で、顔を合わせたくなければ、各居室から誰にも会わずに出入りできる。
食事やイベントなどで使う共用スペースもあるが、そこを利用するかどうかは各人の自由だ。

食事も朝食540円、昼食324円、夕食864円で食べられるものの、
外食や自炊がしたければ自由にできる。32㎡の部屋で朝夕食事サービスを利用すると、月額約20万円くらいになる。

なるほど、高いお金を払って豪華な施設に入るのは快適かもしれないが、
それなりの価格で健康状態に見合った最低限のサービスだけを受けながら、
自立した人生を歩んだほうが健やかで幸せな晩年を送れる可能性もある。


もちろん、有料老人ホームには有料老人ホームの良さがある。
高齢者施設のコンサルティングを行うタムラプランニング&オペレーティングの代表取締役・田村明孝氏が語る。

「介護付き有料老人ホームの平均額は、月額24万円です(5年入居時)。
このクラスで安心できるブランドとなると『ゆうゆうの里』『まどか』『みのり』『チャーム』『クラーチ』などですね。
月額20万円以下になってくると、いろいろと怪しい施設も出てきますので要注意です。

『クラーチ』はサービスの質を良くしようという意欲が高いですね。
食事とか介護、医療をどうすればより良くできるか考えている。
もともとは医療の立て直しをやるファンド系の会社でしたが、最近では自分たちでホームを開設しています。

『クラーチ・ファミリア佐倉』は高齢者住宅の経営者たちが選ぶ『リビング・オブ・ザ・イヤー2015』のファイナリストにも選出されました」
          

☆最高品質の「睡眠」を提供する

実際に、クラーチ・ファミリア佐倉(千葉県佐倉市)を訪れてみた。
最初に目についたのは、高齢者施設らしからぬお洒落なイタリア風カフェだ。
ここではバリスタによるエスプレッソ講習を受けたスタッフが本格的なコーヒーを淹れてくれる。

同ホーム長の福井光彦氏が語る。
「入居者の方のいちばんの楽しみは、やはり食事ですので、かなりこだわっています。
ご飯は炊飯器ではなく、釜で炊いていますし、パンはフランスからパン生地を直輸入して焼き立てを召し上がっていただけます。
調理する側がルーティンの作業にならないように、常に調理スタッフには改善を求めるようにしています。

美味しいコーヒーを提供するのも、ご家族の方にまた来たいと思ってほしいからです。
人の出入りが多く、いろいろな方の目に触れることでスタッフにもいい緊張感が生まれますから」

もう一つこだわりの設備が、パラマウントベッドの最先端医療福祉機器「眠りスキャン」だ。
これはベッドのマットレスの下にセンサーを敷き、心拍数や脈、睡眠・覚醒のリズムを把握する装置だ。
睡眠時の健康状態を細かく観察することで生活リズムの改善や、薬の処方の参考にするのだという。

一番狭い部屋で入居一時金が380万円。5年入居した場合の平均月額は23・8万円だ。
東京都心からの距離を考えると立地の不便さはあるものの、これだけのサービスを受けられることを考えれば
リーズナブルな価格設定だと言えよう。

さらに価格帯の高い施設になれば、ハード面はますます充実する。
横浜駅から18分。センター南駅から歩いて3分の駅近に「グッドタイムリビング センター南」はある。
駅からの道には一切の段差がなく、施設と歩道の境目もすべてフラットになっている。
          

☆24時間の安心見守りシステム

9階建ての建物のなかでも特筆すべきは、「スペシャルケア・フロア」と呼ばれる2階の設備だ。
ここには施設を運営するオリックス・リビングが、
自社の研究所「オリックス・リビング・イノベーションセンター」や他社と共同で開発した最新設備が導入されている。

例えば壁収納型のリフト「スウィングリフト_ココロ」。
ベッドの枕元にアームで動くリフト(椅子のような形状)が収納されており、それに腰かけると自分の力で立ち上がれない人でも、
ベッドから洗面台やトイレに移動できるという優れものだ。
使用時以外はコンパクトに収納できるので、室内が狭くなるということもない。

他には次世代予測型見守りシステムの「ネオスケア」。
これは赤外線カメラでベッドの様子を撮影するもので、24時間、看護スタッフの一人一人がタブレットで映像を確認でき、
ベッドからの起き上がり時の転倒リスクを回避してくれる。
入居者のプライバシーを保護するために、映像はシルエット画像になっている。

「このシステムは、ご本人の希望をうかがい、家族の方の同意もいただいた上で利用しています。
最近では、老人ホームでの虐待がニュースになることも多いので、
ご家族の方からも『録画してもらっていることで、逆に安心できる』という声をいただいております」(同施設広報担当者)


高価格帯の施設だけに、食にもこだわっている。
通常食の他に、季節ごとの特別食が提供され、お造りから茶碗蒸し、天ぷらまで蟹尽くしで供される会席料理の日もある。
「日本の郷土料理の旅」と銘打って、1年かけて全国の味めぐりを楽しむ企画もあった。

入居者には知的好奇心の高い層が多く、カルチャー・プログラムのレベルも高い。
11月には外部から講師を呼んで「坂本龍馬」や「モネと印象派」についての講座が開かれた。

以上のように、価格帯によって受けられるサービスや施設のレベルはそれぞれだ。
ただ、今回紹介した100軒はどこも、その価格なりの充実したサービスを提供していると評判の施設ばかり。
幸福なセカンドライフを送るための舞台選びに活用してもらいたい。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/46617?page=5
☆講談社の基幹サイトのひとつの【現代ビジネス 】==>【賢者の知恵】===>
===>『週刊現代』の2015年12月5日号===>《 【永久保存版】予算別「入りたい老人ホーム」ベスト100 これでもう迷わない!》
注意)5ページから7ページに於いて予算別「入りたい老人ホーム」ベスト100が図表されている。

今回、私はこの記事で瞬時に同意できたのは、《・・有料老人ホームには高いお金を払っているからといって、
なんでも施設の人に頼りがちになってしまう人がいました。
しかし、自分でできることを、しないようになると心や体が弱りやすい。・・》
          

こうしたことは、過ぎし8年前の頃、作家・曾野綾子さんの随筆を読み、
足首を骨折していた時も、自助努力で入浴、調理などをされていた・・、
或いは将来に有料老人ホームに入居した時、上げ膳据え膳は良くなく、自身が出来る限りする・・、
そして施設内の草むしりぐらいはする・・、このような意味合いの言葉を綴られ、私は多々教示されたりしてきたので、
同意を深めたりした・・。

そして今回の《「入りたい老人ホーム」ベスト100》を見たりして、
良き処、と感じたりすると、少し高いなぁ・・、とため息をしたりしている。

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ときには相田みつを氏の遺(の)こされた書物を見ながら、とりとめなく思い馳せて・・・。

2015-12-07 14:57:34 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
家内が独り住まいの家内の母宅に3泊4日で介護に行く為に、門扉の近くで見送ったのは、朝6時であった。
そして私は、また『おひとりさま』の生活になってしまったか、と心の中で呟(つぶや)きながら、微苦笑したりした。

この後、いつもの朝の定例行事になっている居間にあるビデオ棚の上に向かって、
心の中で呟(つぶや)いたりした後、苦笑してしまった・・。
         

私は曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつを氏の『日めくり ひとりしずか』に毎朝向って、
何かと気弱な癖に、ときには傲慢と独断、そして偏見の多い私を戒(いまし)めている。
     
世の中で著名な『相田みつを』氏を遅ればせながら学んだのは、
過ぎし1999〈平成11〉年の5月中旬、私たち夫婦は家内の両親と、
伊香保温泉に2泊3日で滞在した時、 ある民芸土産店で私はひとつの品に目がとまった・・。
               
『ひとりしずか』、と大きく題され、みつを、と署名されていた。

そして私は手に取り、ページを捲(めく)ると、
著名なこのお方の名は知っていたのであるが、遅ればせながら初めて接した書物の言葉、そして書体であった・・。
               

この言葉を読み終わった後、瞬時に圧倒的に魅了された・・。
               
私は幾つになっても拙(つたな)い我が身を振り返り、
私の父は、無念ながら私が小学2年の時に病死された体験もあり、
私はこの『トイレ用日めくり』を買い求めた後、その日に応じたページに、
さりげなく深い人生の教訓の言葉を特有な平坦の書体で書かれ、
この日以来、私はこのお方を秘かに慈父のように人生の師と掲げたした。


私は定年退職するまで長年サラリーマン生活を過ごす中、障害レースのように幾たびかリストラに遭遇して、
何とか乗り越え定年退職を迎えことが出来るまで、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

そして何かと気弱な癖に、ときには自己顕示欲が強く、やがて反省しながら自己嫌悪となったりしたが、
幾たびも繰り返してきた人生航路であったりした・・。
          

その後、私は氏の遺(のこ)された『じぶんの花を』、『いのちいっぱい』、
『雨の日には雨の中を 風の日には風の中を』などの作品を拝読し、
ときには傲慢と独断、そして偏見の多い私を戒(いまし)めている。
                    

私は本日の午前中のひととき、ぼんやりと本棚を眺めて、一冊の本を取り出して、
三年ぶりかしら、と本を開き、読みだしたりした・・。
          

この本は、相田みつを・著作の『いのちいっぱい』で、1991年(平成3年)3月にダイヤモンド社から発刊され、
ケース入りで本書の表と裏は布張りされた豪華本となり、定価は3200円と明記されていたが、
たまたま私は2005年(平成17年)秋に、古本屋で半額で買い求めることができた本であった。

今回、久々に読みだしている中、過ぎし読売新聞の朝刊の2012(平成24)年8月23日に於いて、
定例特集のひとつの『先人を訪ねて』に於いて、《 心癒やす にんげんだもの 》と大きく明記され、
この日には《 相田みつを (栃木県足利市)》と記載されていた記事を思い馳せたりした・・。


読売新聞の地方部の木引美穂・記者の綴られた記事であるが、無断ながら少し転記させて頂く。
《・・相田みつをが終生、生まれ故郷の栃木県足利市で、創作していたことはあまり知られていない。

みつをは足利市の中心部を南北に分ける渡良瀬川の北にある旧市街地で生まれ、
歴史的な建造物のそばを遊び場にして育った。

書道では優れた腕前を持ちながらも、独自の書体で、平易な言葉での表現にこだわった。
当時は世間に受けいられず、書道教室を開くなどをして、糊口(ここう)をしのいだ。

東京の書家から「弟子にならないか」と誘いも受けたが、断った。

結婚後は渡良瀬川の南の借宿町に移り住んだ。
みつをの長男で「相田みつを美術館」館長の相田一人さんは、
「父の作品は、足利で生活していたらこそ、生まれた」と言い切る。
「父は自然の中で自分を見つめ、人間を詠んだ詩を書いていた。
東京の喧噪の中では、同じように創作はできなかっただろう」と話す。

創作となれば、アトリエにこもりきりになるが、
息抜きをするときは、決まって釣竿を手に渡良瀬川に向った。
酒もたばこもやらず、「浮きを眺めているだけで集中できる」と一人さんに話したという。
(略)
初作品集『にんげんだもの』が1984〈昭和59〉年に出版されると、次第に作品の評判が広まり、
ロングセラーに。
それから7年後、脳内出血のために67歳で死去したが、残された多くの作品がファンをひきつけてやまない。
(略)
みつをが釣り糸を垂らした川のほとりに立つと、豊かな流れが涼しい風を運んでくるのを感じた。
川の流れのように、みつをの言葉は時代を超えても変わらずに、 人びとを癒やし、励ましつづけている。
・・》
このように綴られて、多々学んだ。
                    
          ☆相田みつを・著作の『いのちいっぱい』一部☆

これまで氏の足跡は、私は多くの書物から学んできた。

1924(大正13)年、栃木県足利市に生まれ、
生家は名刹と知られている鑁阿寺(ばんなじ)の東に位置していた。
そして旧制栃木県立足利中学校在学中に於いて書や短歌、絵に親しんだが、
喫煙の濡れ衣をきせられ、軍事教練の教官に嫌われたために、進学を断念。

卒業後は歌人・山下陸奥に師事した。
1942〈昭和17〉年、歌会で生涯の師となる曹洞宗高福寺の武井哲応と出会い、在家しながら禅を学んだ。
そして1943(昭和18)年、書家を志して岩沢渓石に師事して、本格的に書の修行を積み、
1953(昭和28)年、関東短期大学夜間部国文科卒。

その後、書の最高峰のひとつとされる毎日書道展に於いて、
1954(昭和28)年から7年連続入選し、技巧派の書家として出発した。

しかしながら1947〈昭和22〉年の「鄭文公碑臨書」で古典的な書における実力を示す一方、
1950(昭和25)年に栃木県芸術祭書道中央展に出品した「宿命」では、
伝統的な書道界に対する複雑な思いを詩文書の形で吐露し、
専門家でなければ理解しにくい書のあり方に疑問を抱き、「書」と「詩」の高次元での融合を目指すようになった。

そして30歳の頃、独特の書体で、短く平易な自らの言葉を書く作風を確立。
1954(昭和29)年、最初の個展を足利市で開催し、その後も足利市などで毎年開催されるようになった。
こうした中で、翌年の1955(昭和30)年ろうけつ染めを学び、
書道教師ではなく、ろうけつ染めや地元商店からデザインを請け負うなどして生計を立てたりした。

その後、1974(昭和49)年、紀野一義のベストセラー『生きるのが下手な人へ』で紹介され、
さらに1984(昭和59)年に詩集『にんげんだもの』出版が契機となり、広く知られるようになった。

そして『にんげんだもの』は、その後ミリオンセラーとなり、
つづく第2詩集の『おかげさん』(1987年)が発刊され、約25万部のベストセラーとなり地位を確立した。

1991(平成3)年、道でころんで足を骨折し、足利市内の整形外科に入院したが、
脳内出血と診断され、それが原因となり急逝。
最期まで仕事への意欲は衰えず、「一文字を書いた大作だけを集めた展覧会を開きたい」というのが、
長男の一人さんとの最期の会話になった、と伝えられている。
          
          ☆相田みつを・著作の『いのちいっぱい』一部☆

偶然に読売新聞の地方部の木引美穂・記者の綴られた記事に私は導かれ、
人は誰しも人生で苦楽する深淵を、氏はあえて平易な詩で発露され、
その上に独特の平坦な書体で書き遺(のこ)した根源に、ふるさとが歴然とあったことに、
私は最初に読んだ時は驚きながらも、そうでしたか、と深く教示されたりした。
          
このようなことを私は、とりとめなく思い馳せたりした・・。

そして相田みつを氏の作品は、文学や書の分野に於いては評論されることが少ないと、学んだりしてきた。
こうした中には、否定的な批評をされる方もいる。

たとえばフランス文学者の奥本大三郎は「素直に言ってこの相田みつをと言う人の、わざと下手に書いて、
人に阿(おもね)るような字も、それを紙に書きつけた、
人の心の底の劣等感をごまかすような文句も、私は嫌いである。
上手に書ける字をわざと、下手に書く人には何か魂胆がある、と警戒したくなる」などと厳しく批評をされている。

或いは評価される方のひとりとして、作家の立松和平は相田を「思想の語り部」と評し、
「難しい言葉を一つも語らないで、仏教の根本的な哲理のようなものを語ってしまう。
そして、それを読んだ人に『なにかが残る』んですね。
残る――ということは、その先の世界があるということです」と語った、と何かの書物で、私は読んだりしてきたが、
私は立松和平さんの批評に賛意する。

          
          ☆相田みつを・著作の『いのちいっぱい』一部☆

そして私は氏の遺(のこ)された名言を、人生の生きた哲学のように学び、
私の独断と偏見の多い日頃の言動の多い中、人生の戒(いまし)めとして、日々教示されている。

私は神や仏様にすがる気持ちは、日頃から持ち合わせてないが、
ときおり神社仏閣を観た時は、そぉっと手をあわせている程度の男である。

しかしながら、相田みつを氏の遺(のこ)された言葉の前には敬愛する余り、
神や仏様より高い存在といっても過言ではない、と深く敬愛しているひとりである
        

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老ボーイの私でも、年金生活12年の中で、幾たびか家内の前で、床に伏して詫びたりして・・。

2015-12-06 15:24:11 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
住宅街が広がる中で、少しばかり広い雑木の多い小庭の中、築後37年ばかりの戸建てに住んでいる。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いの趣味を尊重して過ごしている。

今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受け、
小学4年の頃から独りで映画館に行き、邦画に魅せられて、中学からは洋画にも魅了され、
これ以降は映画の愛好者のひとりなった・・。

やがて映画専門誌の『キネマ旬報』なども愛読し、シナリオにも関心をもち始めて、
映画の脚本家になりたくて、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋に大学を中退した。

まもなく養成所の演出コースに入所して、アルバイトをしながら映画青年の真似事をしたりした。
その後は講師の知人の新劇のある長老のアドバイスにより、
契約社員をしながら、小説を書き始めて、文学青年の真似事をした。

そして、習作に励んだりし、純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。
          

その後は、何とか大手の企業に中途入社する為に、あえて苦手な理数系であるコンピュータの専門学校に一年通った後、
1970年〈昭和45年〉の春、この当時としては大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部のあるひとつの大きなレーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられ、やがてこのレコード会社で、制作に直接かかわらない情報畑、
経理畑、営業畑などで奮戦した。

そして幾たびリストラを遭遇したり、レコード会社の統廃合などあったりした後、
最後の5年半は、リストラ烈風の中、はかなくも出向となったりした。

出向先は、各レコード会社がCD、DVDなどの音楽商品を委託している物流会社で、
不馴れな職場で、自分の敵は自分です、と自身を叱咤激励したりした。

こうした中で、レコード会社の先輩、同僚、後輩の一部は、やむなく退職を余儀なくされ、
私は何とか2004年(平成16年)秋に定年退職を迎えることができたが、
敗残者のようなサラリーマン航路を過ごした。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、
一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などで、38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、
私は遥かに遠い存在である。

私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。
          

そして私は年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。
                            
こうした私の根底には、定年前のサラリーマン時代の私は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。
         
そして定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなく、
平素の買物専任者を自主宣言したりした。
          

私は年金生活の中で、日中の午後からの大半は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりする時間を確保したく、積極的に買物メール老ボーイとなった。

こうした中で、家内は料理、掃除、洗濯などを従来通りしてくれるので、
せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

そして私は家内が外出する時は、殆どボディガード兼お供となり、
最寄のホームセンター、スーパーなどに買物に行く時、荷物持ちの責務を果たしている。
 
或いは私がときおり小庭の手入れをする時、年に4回ぐらい家内が手助けをしてくれる。

こうした私たち夫婦の年金生活を、ご近所の方の奥様たちが見かけて、
あなたたちは仲良し恋しねぇ、或いはあなたたちお若いわ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。
                     

我が家の日常生活の実情は、私は家内のことを婚約する前の頃から、
『XXちゃん・・』と呼んだりしている。

家内は日頃の多くは、私のことを『あなた・・』と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで、『XXクン・・』と苗字で呼ぶこともある。


過ぎし年の2004年(平成16年)の秋、年金生活を始めてまもない頃、
私は家内から依頼された買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』
と家内は笑いながら、私に言ったりした。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。
          
こうした時、私は現役サラリーマン時代の50代後半期に、年収は1000万円を少し超え奮戦していたが、
年金生活の中は、もとより大幅に生活は変貌となり、形無(かたな)しだよなぁ、
と心の中で呟(つぶや)きながら、苦笑したりした。

こうした中で、私たち夫婦の共通趣味のひとつは国内旅行であり、幾たびか各地を旅路を重ねてきた。
          
                    
或いは私は『おひとりさま』の生活を時折している。

我が家の両親は、無念ながら家内の母だけとなり、独り住まいをしているが、
家内の母は自身の身の周りは出来ても、長女の家内は季節の変わるたびに、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどで、
7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っているのが、ここ11年の恒例のようになっている。

そしてここ半年、膝(ひざ)、腰も悪化して、家内は介護で行く時もあり、
この間、私は我が家で『おひとりさま』の生活をしてきた・・。
          
私は家内より先に、あの世に行くことは漠然としながらも深めているが、
この世の中は、まさかの予期せぬ出来事に遭遇することがあり、
私を残して家内が先き立たつことも考えられるので、
『おひとりさま』の特別演習だ、と自身を叱咤激励して過ごしている。
                   

私は71歳の身であり、私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私たち夫婦は年金生活を過ごして、丸11年が過ぎて早や12年目になっているが、
幸いにもお互いに大病に遭遇せず、過ごしてきた。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないことが多く、
私たち夫婦は38年寝食を共にしてきた結婚生活の中で、幾重かの人生の荒波を乗り越えて、
年金生活のセカンドライフは、ささやかながら安楽の日々を過ごしてきた。

そして人だれしも長所、短所はあるが、私は幾つになっても短所の方が多いので、
家内の短所には目をつぶり、長所を伸ばそうと心がけてきた・・。

家内は料理、洗濯、掃除などを積極果敢にする専業主婦の優等生であるが、
血液型A型となっている。
          

そして我が家では年金生活12年の中で、私はB型、家内はA型の為か、ボタンの掛け違いのように差異が発生し、
険悪になることもある。

やがて私は、文学、映画、音楽に関しての粗雑なコメント以外は、私たち夫婦の人生に大勢に影響がないと判断して、
いつまでも心のわだかまりを残すことは、夫婦としてよくないと思いながら、15分以内に妥協して、
『ボクが悪かった・・XXちゃんのおしゃる通りです!!』
と家内の前で、私は床に伏して詫びたりしている。

このように我が家は家内安全となり、離婚などは無縁である、と私は微苦笑したりしている。
                 
これからの日々は、お互いに体力の衰えを増すことを実感しながら、
やがていつの日にか、どちらかが不運にも大病になったり、
最悪の場合は死別して、おひとりさまとなったりする。

こうしたことは自助努力も必要であるが、こればかりは天上の神々の采配に寄る。
         
このように思案している私は、こうして過ごしている昨今こそが、
いつまで続くか解らないが、私たち夫婦にとっては最良の日々、と私は感じ深めている。

そして先程、たまたまデコチィン、と家内から私は言われても、
家内の日頃のストレスの解消になれば、たやすいこと、と幾たびリストラを遭遇した私は微苦笑したりしている。


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都心の郊外の晩秋の情景に心を寄せて、私は幸せなことを改めて実感させられて・・。

2015-12-05 15:41:09 | ささやかな古稀からの思い
昨日の午前中のひととき、白内障の伴い、11月17日に左眼、24日には右眼の手術を受けた私は、
手術の後の精密検査の結果、手術して下さった医院長より、本日より眼を保護するメガネ、そして顔を直接に洗っても、
髪の毛を洗っても大丈夫です、と了承を得た。

私は最初に手術する一週間前の10日に精密検査した後、医院長より、
◎眼帯
術後一週間、就眠時は眼帯を使用して眼を保護し、術眼を上にして寝て下さい。
◎洗顔
濡らしたタオルをしぼって丁重に清拭する。ただし術眼のまわりは避ける。
◎洗髪
術後一週間は自分でしないで、美容室、理容室で、 頭を上仰向けで行うことはできます。
このようなことを厳守するように、私は言われたした。

そして手術する前日に、私たち夫婦は平素2階の寝室で寝ているが、
家内のアドバイスにより、階段を踏み外したら危ないわ、と言われたりして、
1階の和室に布団を敷き、臨時の私専用の寝室としてきた。

そして洗顔は、瞬間湯沸かしの湯で、特選おしぼりで、顔を丁重にふき、
首回り、耳周辺を拭いたりしてきた。
入浴は手術後の三日後に、肩から下を入浴したりしてきた。

或いは洗髪は、家内の指示で、美容院で生まれて初めて私は体験し、
やがて6回ばかり利用したので、老ボーイの私でも、お得意様のひとりとなったりした。
       

このような平素と大幅に変貌した生活してきた私は、昨日は眼科医院から帰宅後、
やがて夕食前に、いつもように浴室で、髭(ひげ)を剃ったり、髪の毛を丁重に洗ったりした。

まもなく夕食の時に、濃い水割りのウィスキーを飲みながら、夕食を頂いたが、
『お風呂でゆったりとしたは18日ぶりだょ・・ウィスキーもねぇ・・」
と私は家内に微笑みながら言ったりした。


本日の朝食後、家内の指示で、1階の和室の私専用の臨時とした寝室を撤収して、
平素の2階の寝室に布団を移動した。

そして1階の和室の臨時とした周囲に、CDラジカセ、そしてCDを30枚ぐらい、
或いは単行本、文庫本が5冊ばかりあり、やがて居間にある、本棚、音楽棚に戻りしたりした。

やがて私は、長兄宅にお歳暮の品を買い求める為に、最寄駅まで歩いたりした・・。
       

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
住宅街が広がる中で、少しばかり広い雑木の多い小庭の中、築後37年ばかりの戸建てに住んでいる。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

我が家の最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。
或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
或いは私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれの最寄駅までの路線バスの利便性は良い所で、たとえば都心の新宿のデパートに買物に行っても、
電車を利用すれば、我が家よりデパートの店内に45分ぐらい、
或いは東京駅でも我が家から一時間前後となっている。

しかしながら我が家の周辺は、それぞれ住宅が密集している住宅街となっている。
       


本日は小田急線の『狛江』駅前にめざしたが、いつもように路線バスの利便性には頼らなく、
住宅街の中にある遊歩道を歩いたりした・・。

私は健康寿命を保つには、ひたすら歩くことが肝要である、と思っていたからである。

私の住む地域では、平年ならば、11月3日の『文化の日』の頃から、
あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染め始め、
やがて11月23日の『勤労感謝の日』の頃になると、
周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染められる錦繍(きんしゅう)の情景となる。

こうした中、私は毎年スキップしたくなるような心情で、公園、遊歩道などを散策をしてきたが、
今年に限り、私は白内障の伴い、11月17日に左眼、24日には右眼の手術を受け、
手術の前の精密検査、手術の後の通院で精密検査を受診してきたので、
錦繍(きんしゅう)に心を寄せる深情は少しばかりで、何かと慌ただしく過ごしたりしてきた・・。

そして晩秋の時節、遊歩道を歩けば、数多くの落葉樹の欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、モミジなど雑木が、
錦繍(きんしゅう)の終わりの情景として、めぐり逢えるかしら、と秘かな願望を秘めていた。

私は幼年期に農家の児として育った為か、
木の芽時(このめどき)から幼いあまたの葉を広げて、萌黄(もえぎ)色に染められる初春、
そして錦繍(きんしゅう)に染められる晩秋、或いは陽射しを受けた冬木立の情景などが、
こうした季節のうつろいを眺めるのが、この世で最も好きな情景のひとつとなっている。
       

やがて11月中旬ぐらい暖かな陽射しの中、遊歩道を歩くと、クヌギ、コナラなど落葉樹を眺めたりした・・。
       

こうした時、たまたま私は白内障の手術を受けて、平年と大幅に変貌した為か、
いつもように買物したり、散策できることは、改めて幸せなことを実感させられた・・。
       

その後、足早に駅前にめざして歩いた。

やがて駅前の専門店が集約されているビルに入った。
     
私が専門店で買い求める品は、和菓子にも拙〈つたな〉い知識しかない私が、
ここ10数年、新年、春のお彼岸、お中元、夏のお盆、秋のお彼岸、お歳暮などの時、
実家、知人宅に選定している和菓子であった。

恥ずかしながら告白すれば、文明堂の三笠山であり、この詰め合わせを愛用している。

三笠山を中核に、ゆず、白桃、あんず、抹茶、栗などの風味の品が、
それぞれの季節に応じてあるので、私なりに調和して詰め合わせにして、進呈しているのが、
ここ10数年の習わしのようになっている。

もとより味覚も良く、色合いも良く、そして日持ちも良いのである。
その上、高齢者から幼年者まで、どなたでも賞味できるので、
我が家が愛用している品のひとつとなっている。

こうした中で、今回は文明堂の店の角には、クリスマス・セールの華美ではなく、ささやかな装飾に瞬時に魅了され、
私は文明堂の販売員さんに、懇願して記念写真を撮ったりした。
       

やがて私は長兄宅用の『お歳暮』を買い求めて、長兄宅に向かったは午前11時過ぎであった。

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酷(ひど)い近眼の私は、55年近くメガネを愛用して、昨今メガネに愛惜を重ねながら別れを告げて・・。

2015-12-04 16:12:03 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
午前中のひととき、白内障の伴い、11月17日に左眼、24日には右眼の手術を受けた私は、
手術の後の精密検査で、眼科医院に通院した。

いつもように幾つか精密検査を受診した後、手術して下さった医院長の問診で、
私の名前が呼ばれて、私は医院長がいる診察室に入った。

そして3種類の検診を受けた私は、
『順調ですょ・・本日より就眠時の保護メガネは不要です。
そして顔を洗っても、髪の毛を洗っても大丈夫ですから・・2週間後に来院して下さい』
と医院長は微笑みながら私に言ったりした。

『私は髪の毛を洗う時、浴室でシャンプーを付けて洗っていましたが、万一シャンプーが眼に入ったら、大丈夫ですか?』
と私は最も心配していることを医院長に言ったりした。

『顔を洗う時とか髪の毛を洗う時、両眼を開けて、わざわざ洗いませんよねぇ・・
万一シャンプーとか水が眼に入ったら、あとで3種類の『点眼薬』を付けて下さい。
そして一日4回の『点眼薬』は、本日より3回にして下さい』
と医院長は微笑みながら私に言ったりした。

私は医院長に御礼の言葉を重ねて退室した。
          

私は6年前に総合病院で健康診断を受診した後、白内障の症状が少しみられます、と診断されたりした。

翌年からの健康診断は、我が家から近い内科専門医院で受診してきたが、
眼科に関する検査はなく、いずれ眼科専門医院で検査すればよい、と私は放置してきた。

過ぎし半年前の頃から、朝のひととき小庭にあるテラスに降り立ち遠方を眺めると、
少し擦(かす)れた状景を見たりし、やがて数分後には鮮明な景観となったりしてきた。

或いは平素の買物専任老ボーイの私が、家内から依頼された品を求めて、
スーパーに向い前方の状景を眺めたりして歩いている時、
少し擦(かす)れた状景を見たりし、やがて数分後には鮮明な景観となったりしてきた。

こうした時、高齢者は白内障になる人も多い、と学んだりしてきたので、
私も白内障になってしまったかしら、と思ったりしてきた。
          

やがて今年の8月に、家内は私の身を案じて、最寄駅の近くにある眼科専門医院で、
私は検査を受けたりした・・。

私は酷(ひど)い近眼で0.03ぐらいの視力で、メガネを掛けて0.7の視力となっているが、
何かしら齢を重ねるたびに、視力の低下しているように感じてきた。

検査の結果、まぎれなく白内障です、と副医院長から、私たち夫婦は言われたりした。

そして私たちは白内障の手術に関して、副医院長から多々教示され、
家内の母の介護も配慮して、私は11月には白内障の手術を受けよう、
と私たち夫婦は話し合ったりした。

やがて9月29日に、手術を担当される医院長が診察日で、
私の眼の精密検査を受けて、白内障の手術は可能範囲です、と医院長から告げられた。

そして白内障の状況、当院の手術方法、手術前後の注意事項を、懇切丁寧に説明をして下さった。
こうした後、
この中で、眼内レンズについて『単焦点』と『多焦点』をパンフレットを提示しながら、
長所、短所、そして概算費用などを説明を受けた後、私は『多焦点』を要望した。

やがて手術の一週間前の11月10日には、
最終診察を受診した後、左眼の手術の時間確定が確定した。


そして私は左眼は11月17日、一週間後の24日に右眼の手術を受けた。
いずれも手術した翌日、三日目、そして一週間後には、手術後の精密検査を受けたりしてきた。
          

こうした中で、洗髪は当面として、美容院か理容店で、頭を上仰向けで行うことはできるが自分でしないこと、
と医院長の注意事項に基づき、私は生れて初めて美容室で洗髪し、昨日まで4回ばかり依頼し、
恥ずかしながら老ボーイの私でも、ある美容室のお得意様のひとりとなっている。

或いは保護メガネを掛け、洗面所で歯を磨いたり、入浴の時は首から下を洗い清めたり、温かい浴槽に身をゆだねたりし、
平素の買物、通院する時、少し黄色く視(み)えるいサングラスのような保護メガネを愛用している。

そして就眠時は眼をこすったり場合が怖いで、この保護メガネのテンプルを外して、
ヘッドバンドにして、私は布団の中にもぐりこんできた。


本日、通院して視力検査をしても、今回の多焦点眼内レンズの効力で、
左眼と右眼は0・8も視(み)え、メガネが不必要となっている。

私は長年酷い近眼で、メガネに苦渋してきたので、何かしら解放感のようになっている・・。
          

私は1960年(昭和35年)の中学3年の終りの頃、
職員室に担任の先生から呼ばれ、
『XXくん・・あなた眼・・悪いわね・・0.3って・・』
と先生は、健康診断書を見ながら、私に言ったりした・・。

『・・どうして・・今まで黙っていたの・・メガネを掛けないと・・
黒板の字も視(み)えないでしょう・・』
と先生は私に言った。

私は教室の後部に座って、黒板の字もかすれていたが、
同級生もこのようにと思い、信じていたのである。

このような根底としては、兄ふたり、妹ふたりもメガネをしていないので、
それなりに思い込んだりしていたのであった。

帰宅後、亡き父の妹であるこの当時は未婚だった叔母に、
『・・今日、先生から言われたのだけれど・・眼が悪いので・・
メガネを掛けなさい・・と言われたの・・』
と私は言った。

私の母はこの当時は少し遠方に住み、私たち兄妹の為に孤軍奮戦していたので、
未婚の叔母に私達の兄妹は、料理、洗濯、掃除などで、甘え、育ってきた時代のあった。
          

やがて私は、高校の入学から、私は生まれて初めて、メガネを掛けたのである。

そして生家の宅地の丘の外れから、遠望の丹沢の山並み、富士山を観た時、
くっきりとした景観が観え、行く先々の情景も余りにも明確に見えて、私は驚き、ため息をした・・。

確か中学に入学し、野球部の練習に明け暮れていた時だった。
私はレフト付近に3人で守備位置に付いて、外野フライのノックを受けていたのであるが、
何かしら私だけが、打球の判断がのろいのである。

私は運動神経が悪く、練習すれば、打球の飛んで来る判断も良くなると、
思っていたのであった。
                     

やがて高校時代は、授業時間以外は、メガネを掛けるのが恥ずかしく、
通学バックに仕舞い込んでいた。

まもなく文学と歴史に興味を持った私は、文庫本などを読み耽り、
映画を観るために、盛んに映画館に通いつめたりした。

そして布団の中で、こっそりと好色本も読んだりしたせいか、
近眼の度数が悪化した・・。
          

私は東京オリンピックの頃、大学を中退し、アルバイトをしながら、映画・文学青年の真似事をしていた。
この頃は、近眼の度数も一番上の検査表がやっと見える0.1となり、
布団に入る時以外は、メガネを付けていた。

このようなある日、自動車の普通車免許があれば、
何かと便利、将来に食べられなくなった時は、タクシーの運転手になればよい、
と安易な思いで、自動車の教習所に通ったりした。

やがて教習所の教習課程を終え、試験所で本免許の受験する為に、
教習所のマイクロバスで私達受験生10名は、送って貰ったりした。

周知のように、普通免許の場合は、視力は0.7以上は必要であったが、
私はメガネを掛けた上でも、視力試験で落ちてしまった・・。
そして私だけが、とぼとぼと試験場から去ったりした。
                    

後日、1.0が確実に視(み)得るメガネを新調したが、
レンズは厚くなり、それなりに私は気になったした。

この後、敗者復活戦のような思いで、試験場で合格し、
まもなく次兄や友人に助手席に座って貰い、指導を受けした後、
やがて私なりに一人前のドライバーとなった。

しかし心の奥底として、この先は一体どこまで近眼が進むのかと、恐怖に慄いたりした。

後年、作家の曽野綾子さんの随筆で、
盲目になりかけ、何とか手術で救われた、と読んだ時、私は深く共感できたりした。
                              

私は25歳で、遅ればせながら民間会社に何とか中途入社し、
年収の割合から背伸びし、メガネだけは程々高価な品を買い続けた・・。

近眼が酷く、レンズも厚いので、なるべく厚さの目立たない加工したレンズ、
そして厚さをカバーするフレームを限定して、選定してきたりした。


こうして通勤用は0.7程度で、運転用には1.0前後の2つのメガネを所有していたが、
幸いに視力の低下は、20代の終りの頃、0.07程度で横ばいとなり、安堵したりした。

そして50代のなかば頃からは、少し老眼を感じたが、
20代の近眼進度の悪化した時の思いを考えれば、それなりに受け入れ微笑さえできたりした。
                     

家内は結婚当初、視力は2.0と抜群に良かったが、
50代の初めに老眼となり、メガネに馴れていないので、落ち着かないようすが、しばしばである・・。
そして、ときおり老眼鏡を掛け、新聞、旅行雑誌などを読んだりしている。

この後、家内はどこかに置き忘れて探す時もあり、私は微笑みながら、共に探したしてきた。
          

このように私は酷い近眼であり、それなりに苦労し、メガネの選定に多少のこだわりの半生でもあった。

そして、新たなメガネのフレーム選定の時、数多くの国産、ローデンストックなどの海外品を愛用してきた。


私は年金生活の丸11年を過ぎた今、メガネは3つばかり、そして度入りのサングラスを、
その時、場所に応じて愛用してきた・・。

メガネが不要となった今、長年共にしてきたメガネは、私に取っては身体の一部であり、
そして愛(いと)おしむように、居間にある扉の付いたDVDなどが入っている映画棚の片隅に置いたりした。


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年金生活の我が家の今年、三大出来事を恥ずかしながら、披露すれば・・。

2015-12-03 13:19:44 | ささやかな古稀からの思い
昨夕の4時過ぎ、里帰りしていた家内が、疲れた表情で帰宅した。

やがて夕食を頂いている時、
『今年もいろいろとあったわねぇ・・』
と家内は私に微苦笑しながら言ったりした・・。

『そうだったよねぇ・・特に今年はねぇ・・』
と私は家内に応(こた)えたりした。

まもなく私は、今年の我が家のさまざまな出来事を思い馳せて、微苦笑を重ねたりした。
そして昨年まで丸11年ばかり年金生活を過ごしてきたが、今年は大きく変貌した出来事などを思い改めて、
三つぐらいあったよなぁ、と思ったりした。
          

①私たち夫婦は大病に遭遇せずに、12年目の年金生活を迎えられたことである。

私は民間会社に35年近く奮闘して2004年(平成16年)秋に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めた・・。

私たち夫婦は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
住宅街が広がる中で、少しばかり広い雑木の多い小庭の中、築後37年ばかりの戸建てに住んでいる。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
家内は私より5歳若く、お互いの趣味を尊重し、
お互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂き、程ほど貯金を取り崩しながら、ささやかに過ごしている。

そして私の生家も近くにあるので、私自身としてはこの地域に住んで、早や65年が過ぎている。
       
こうした中、 日常の殆どは私が年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、買物メール老ボーイとなっている。

そして最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。
          

こうした中で、過ぎし5年前の前の66歳の時に、健康診断で糖尿病と診断され、青色吐息となる中、
この後は、食事の改善とひたすら歩いて、やがて半年後には何とか克服してきた。

これ以来、糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
自宅付近から3キロ範囲にある遊歩道、小公園などをひたすら歩くことが多くなっている。

私は歩きながら、うつろう情景に心を寄せ、
過ぎ去った日々に愛惜を深めたり、本日もこうした風景にめぐり逢えたことに感謝をしたり、
季節の移ろいを享受している。
          

こうした中で、私たち夫婦は人命に影響する大病に遭遇せずに、何とか12年目の年金生活を迎えられ感謝している。
私の同世代の友人、知人には、本人が病死されたり、或いは奥様が亡くされて、
やむなく『おひとりさま』の生活をされている御方が5人がいる。

こうしたこと深く思い重ねると、やはり寝食を共にし、この世で一番気軽るに談笑できる相手がいなくなることは、
亡き人に思いでは美化されていく・・などと格言があっても、信愛できる人が身近にいることは、貴重と改めて実感されている。

もとより仲良し夫婦であっても、こればかりは永遠に続くことなく、いつの日にか、
どちらかが先立ち、冷厳なことがあるからこそ、現世の今こそ、夫婦ふたりの生活を私は大切としている。
          

②ときおり私が『おひとりさま』の生活が増加している。

我が家の両親は、私の父は私が小学2年の時に病死され、母は私が54歳の時に病死し、
家内の父は私が定年退職時の2004年〈平成16年〉の秋の少し前に、病死されたので、
家内の母だけとなっている。

独り住まいとなった家内の母は、我が家より2時間は要する千葉県の八千代市に戸建てに住み続けて、
年金を頼りに程ほどの貯金を崩しながら、おひとりさまの生活ををされて、早や12年目となっている・・。

  
こうした中で、家内の母は自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っているのが、
ここ11年の恒例のようになっている。

そして家内は殆ど毎夜、家内の母の本日の出来事と安否状況を確認する為、
電話連絡をしている。
          

こうした上 家内の母は、80歳過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、まもなく杖(つえ)を突く身となって、
『要支援2』となっている。

こうした中、整形外科、内科、眼科に通院している中、
過ぎし6月頃から膝(ひざ)と腰に激痛が感じ、
少し遠い大学病院で検査、そして入院、退院後の検査、治療が加わり、昨今はリハビリ設備が良い病院に転院したりしてきた。
そして家内は付き添う為に、家内の母宅で駐在することが多くなっている。

昨今は家内の妹も支援に加わって頂き、
以前のような7泊8日前後から短めの駐在期間を幾たびかなってきたが、
この間、私は我が家で『おひとりさま』の生活をしてきた・・。
          

私は家内より先に、あの世に行くことは漠然としながらも深めているが、
この世の中は、まさかの予期せぬ出来事に遭遇することがあり、
私を残して家内が先き立たつことも考えられるので、
『おひとりさま』の特別演習だ、と自身を叱咤激励して過ごしている。
        
しかしなが平素の私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行っているが、
食事、掃除、洗濯の手抜き簡略などに関しては、
このサイトで幾たびか記載してきたので、今回は省略する。
          

③私が白内障で、11月17日に左眼の手術、そして24日は右眼の手術を受け、視力は鮮明となる。

私は眼の白内障の手術は生れて初めてであり、やはり眼の手術は小心者の私は怖く、
緊張感で最初の左眼の手術を受けたが、痛みもなく15分ばかりで終えて、
一週間後の右眼の手術は、気楽に受けることができたりした・・。

手術の前の私は、酷い近眼で裸眼0・03、メガネを掛けても0・7弱であった私は、
更にここ半年前の頃から、ときおり視界が擦(かす)れたような状景となり、
やむなく白内障の手術を受けた。

そして24日は右眼の手術を終えて3日後の診察で、視力は今回の多焦点眼内レンズの効力で、
左眼は1・0、右眼は0・6前後であり、メガネが不必要となっている。

やがて時が過ぎれば、眼を制御する幾重かの神経が安定すれば、
少しは均等の視力になると思われ、私の生家は曹洞宗なので、ひたすら仏様に感謝したり、
或いは神棚もあるので、神様にも感謝したりしている。

こうした中で、洗髪は当面として、美容院か理容店で、頭を上仰向けで行うことはできるが自分でしないこと、
と医院長の注意事項に基づき、私は生れて初めて美容室で洗髪し、昨日まで4回ばかり依頼し、
恥ずかしながら老ボーイの私でも、ある美容室のお得意様のひとりとなっている。

或いは保護メガネを掛け、洗面所で歯を磨いたり、入浴の時は首から下を洗い清めたり、温かい浴槽に身をゆだねたりし、
平素の買物、通院する時、少し黄色く視(み)えるいサングラスのような保護メガネを愛用している。

そして就眠時は眼をこすったり場合が怖いで、この保護メガネのテンプルを外して、
ヘッドバンドにして、私は布団の中にもぐりこんでいる。
                    

このようなことが、平年の年金生活から大幅に変貌し、私は戸惑いながら師走のひとときを迎えて、
あんなことあったよねぇ・・と微苦笑したりしている。

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読売新聞の2015年【日本】10大ニュースの候補を読み、心痛な思いが多く・・。

2015-12-02 15:53:40 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
今朝、配達された読売新聞の朝刊を読んだりしていた中、やがて12、13ページで、
毎年恒例の『あなたが選ぶ 2015年 10大ニュース』と題され、
今年に起きたニュースとして【日本】は65件、そして【海外】は51件が掲載されていた。

そして毎年、読者が【日本】と【海外】別に、候補ニュースから選定して、応募した結果、
やがて読売新聞の『あなたが選ぶ 2015年 10大ニュース』として紙上に公表されている。

このような形態となっているが、たまたま私は【日本】で今年に起きたニュース65件を読んだりした・・。
無断であるが転記させて頂くと、下記の通りである。
          

☆1月

1。箱根駅伝、青学大が初優勝

2。マクドナルドなどで食品に異物混入

3。「イスラム国」が日本人2人を拘束、殺害映像を公開

4。横綱白鵬が史上最多優勝

5。スカイマーク、民事再生法適用を申請


☆2月

6。川崎市で中1男子殺害


☆3月

7。群馬大病院の術後死で大学側が謝罪

8。東洋ゴム、免震ゴムでデータ改ざん

9。北陸新幹線、長野―金沢間が開業

10。原発計5基の廃炉決定

11。人間国宝の桂米朝さん死去

12。大塚家具の経営巡り父娘対立


☆4月

13。天皇、皇后両陛下、慰霊でパラオ初訪問

14。日経平均株価、15年ぶりに2万円台回復

15。統一地方選の知事選全て現職勝利

16。首相官邸に「ドローン」落下

17。新たな日米防衛協力指針に合意

18。安倍首相、米議会で初演説

19。シベリア以外の抑留死、名簿初公表


☆5月

20。東芝で不適切会計が発覚

21。「大阪都構想」、住民投票で反対多数

22。川崎市の簡易宿泊所で火災、11人死亡

23。列島各地で火山活動活発化


☆6月

24。年金機構にサイバー攻撃、個人情報流出

25。2016年の「伊勢志摩サミット」決定

26。18歳選挙権、来夏参院選から

27。東海道新幹線で焼身自殺
          

☆7月

28。「軍艦島」など世界文化遺産に

29。なでしこ、サッカーW杯で準優勝

30。岩手県で中2男子がいじめ苦に自殺

31。芥川賞に又吉直樹さん

32。新国立競技場の建設計画を白紙撤回

33。東京都調布市の住宅地に小型機墜落

34。来夏の参院選で2合区、改正公選法成立


☆8月

35。「ビットコイン」巨額消失、運営会社社長を逮捕

36。川内原発1号機が再稼働、原発ゼロ解消

37。戦後70年、安倍首相が談話発表

38。大阪府寝屋川市の中1男女殺害


☆9月

39。東京五輪エンブレムを撤回、再公募に

40。福島県楢葉町の避難指示が解除

41。明大教授が司法試験問題漏えい

42。関東・東北豪雨、茨城などで8人死亡

43。日本生命が三井生命の買収を発表

44。埼玉県熊谷市で6人殺害

45。安全保障関連法が成立

46。安倍首相、自民党総裁に無投票で再選

47。東京五輪追加種目に5競技提案


☆10月

48。ノーベル賞に大村、梶田両氏

49。TPP、日米など12か国で大筋合意

50。マイナンバー制度がスタート

51。「南京大虐殺の文書」、世界記憶遺産に

52。ラグビーW杯、日本は3勝の歴史的快挙

53。辺野古移設巡り、国と沖縄県の対立激化

54。横浜市でマンション傾斜、基礎工事のデータ改ざん

55。訪日客が急増、過去最多更新

56。世界体操、日本男子が37年ぶり金

57。ソフトバンクが日本シリーズ連覇


☆11月

58。3年半ぶり日韓首脳会談

59。郵政3社が上場

60。巨人3投手が野球賭博関与

61。国産初のジェット旅客機、初飛行成功

62。もんじゅ運営、「別組織で」と勧告

63。元横綱・北の湖敏満さん死去

64。伝説の女優・原節子さん死去

65。漫画家・水木しげるさん死去
          

こうしたニュースを思い浮かべると、最も心痛な思いで、動顛させられたのは、
『6。川崎市で中1男子殺害』である。

2月に《・・川崎市川崎区の多摩川河川敷で20日、区内の中学1年の男子生徒が遺体で見つかった。
神奈川県警は27日、知り合いの少年3人を殺人容疑で逮捕した。
横浜地検は5月、リーダー格の18歳少年を殺人罪、別の少年2人を傷害致死罪で起訴した。・・》

と解説されている通り、私は加害者の言動に震撼させられ、被害者の悲惨な実態に、
今でも心の片隅で心痛な思いで残っている・・。

これ以外は、私が関心あるニユースとか注視しているニュースである。
『45。安全保障関連法が成立』
『49。TPP、日米など12か国で大筋合意』
『53。辺野古移設巡り、国と沖縄県の対立激化』

或いは驚嘆させられたのは、
『32。新国立競技場の建設計画を白紙撤回』

このような思いでニュースを思い馳せたりしたが、少しボケたかしら、と私は感じたりしている。

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