私は東京の調布市の片隅に住む年金生活しているまもなく満72歳を迎える身である。
昨日の深夜、ときおり愛読しているネットの『東洋経済オンライン』を見ている中、
【 多くの日本人が貧困に沈むのは、なぜなのか ~「6人に1人が貧困状態」という不都合な真実~ 】と見出しを見て、
どのような状況なの、と思いながら、クリックして記事を読んでしまった。
この記事は、東洋経済・記者の中島順一郎さんが綴られた記事で、
『東洋経済オンライン』に2015年4月5日に配信されていたが、
真摯に私は前半部を読み終わった後、涙を浮かべたりした・・。
無断であるが、記事の前半部、ある50代の男性サラリーマンの転落していく軌跡を、転載させて頂く。
《・・2012年の日本の相対的貧困率は、16.1%と過去最悪を更新した。
相対的貧困率とは、国民の所得分布の中央値の半分(2012年は122万円)未満である状態を示す。
相対的貧困率には所有する資産は考慮されていないが、
誤解を恐れずに単純化すると、日本人の6人に1人が貧困状態にあるということだ。
今年1月時点の生活保護受給者も217万人と過去最多に上る。
「貧困は自己責任」「本人の努力が足りない」――。
貧困世帯には、時として厳しい批判が飛ぶ。
だが本当にそうなのか。
病気、ケガ、介護、転職、失業・・誰にでも起こりうる事態をきっかけに、
人々は「安定」からいとも簡単に滑り落ちていくのだ。
☆年収1200万円の生活が一転
「まさかこんなことになるなんて……」
50代の男性はそう嘆く。
彼はかつて誰もがうらやむエリートビジネスマンだった。
外資系IT企業を渡り歩いてキャリアアップ。
ピーク時の年収は1200万円に上り、充実した生活を送っていた。
ところが、現在の年収は約300万円と4分の1に。
一時は生活保護の申請に足を運ぶなど、生活に困窮していた。
彼の身に一体何が起こったのか。
最初のきっかけは、病気だった。
2005年頃に、大手通信会社系企業に転職。
その後、スマートフォンの新商品発売に向けた連日の激務がたたり、脳の病気で倒れた。
3カ月で復帰すると、今度は職場でパワーハラスメントを受けた。
「いつ倒れるかもわからない人に、年収1000万円ものコストをかけたくないから、
早くやめさせたかったんじゃないか」
と男性は振り返る。
さらに不幸は、重なる。
しばらくして今後は、母親が心臓の病気で倒れた。
都内のマンションから東京郊外にある実家に戻り、看護をしながら通勤する生活に。
通勤時間は片道2時間半。
終電に間に合わず、週の半分は、サウナに寝泊まりしていたという。
それでも親の看護と仕事の両立は、簡単ではない。
自分が倒れたときに、有給休暇を使い切っており、欠勤扱いになる日が、増加。
2011年末に、会社を解雇されてしまった。
解雇と同じくして、母親は他界。
さらに父親にも、肺がんが見つかり、母の死から数カ月後になくなった。
精神的にはどん底だったが、それでも働かなければ生活できない。
実家暮らしで家賃負担はなかったが、希望の仕事を見つけるのは難しい。
コンビニのバイトを始めた。
生活保護の申請にも行ったが、持ち家と数十万円ほどの貯金があるから、
認められないと担当者は、にべにもなかった。
その後、家を300万円で売却。
友人たちの誘いなどもあり、貯金を元手に都心に戻ってきた。
現在はITの知識を生かして、フリーのコンサルタントとして生計を立てている。
だが病気などで、働けなくなったらどうなるのか、老後はどうするのかを考えると不安は募る。・・》
注)原文にあえて改行を多くした。
私は東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉秋、満二十歳となり大学2年の時に中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画、文学青年の真似事をしたが、やがて敗退した。
そして何とか大手の民間会社に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。
まもなく音楽事業本部のあるひとつの大きなレーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこの新設されたレコード会社に転籍させられ、
制作に直接かかわらないコンピュータを活用した情報畑を20年近く配属されたり、
経理畑、営業畑などで奮戦した。
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。
こうした中で、1998年(平成10年)に中小業の多い音楽業界全体の売上げピークとなり、
この少し前の年からリストラ烈風となり、やがて私も出向となり、
各レコード会社が委託している音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤めたりした。
そして遠方地に5年半ばかり通勤し、何とか2004年(平成16年)の秋に出向先で、
定年を迎えることができたので、敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。
今回のある50代の男性サラリーマンの転落していく軌跡を読みながら、
つたないサラリーマン航路を私は35年近く勤めた身であり、
この間に大病に遭遇したり、自分の敵は自分だ、と自身を叱咤激励しなければ、
現在の年金生活には、たどり着けなかった、と改めて思い深めたりした。
こうした心情を思い重ねると、この御方は外資系IT企業などでエリートビジネスマンだったが、
大病に遭遇した後は退社となり、そして転職後の会社では激務がたたり、脳の病気で倒れた。
そして3カ月で復帰すると、今度は職場でパワーハラスメントを受ける中、
実家に戻り、母親の看病、やがて死去、そして父親の病死を看取りながら、遠方に勤務先に通勤したが、
やがて解雇・・。
こうした転落していく軌跡を読むと、ある日突然に大病に遭遇したり、
ここ10数年、常時リストラ時代に解雇されて、再就職がままならずに困苦する御方、
私とは縁のないエリートビジネスマンでも、こうしたことはありえる、
と思いながら、この御方は余りにも不遇な連続に、私は涙を浮かべたりした・・。
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昨日の深夜、ときおり愛読しているネットの『東洋経済オンライン』を見ている中、
【 多くの日本人が貧困に沈むのは、なぜなのか ~「6人に1人が貧困状態」という不都合な真実~ 】と見出しを見て、
どのような状況なの、と思いながら、クリックして記事を読んでしまった。
この記事は、東洋経済・記者の中島順一郎さんが綴られた記事で、
『東洋経済オンライン』に2015年4月5日に配信されていたが、
真摯に私は前半部を読み終わった後、涙を浮かべたりした・・。
無断であるが、記事の前半部、ある50代の男性サラリーマンの転落していく軌跡を、転載させて頂く。
《・・2012年の日本の相対的貧困率は、16.1%と過去最悪を更新した。
相対的貧困率とは、国民の所得分布の中央値の半分(2012年は122万円)未満である状態を示す。
相対的貧困率には所有する資産は考慮されていないが、
誤解を恐れずに単純化すると、日本人の6人に1人が貧困状態にあるということだ。
今年1月時点の生活保護受給者も217万人と過去最多に上る。
「貧困は自己責任」「本人の努力が足りない」――。
貧困世帯には、時として厳しい批判が飛ぶ。
だが本当にそうなのか。
病気、ケガ、介護、転職、失業・・誰にでも起こりうる事態をきっかけに、
人々は「安定」からいとも簡単に滑り落ちていくのだ。
☆年収1200万円の生活が一転
「まさかこんなことになるなんて……」
50代の男性はそう嘆く。
彼はかつて誰もがうらやむエリートビジネスマンだった。
外資系IT企業を渡り歩いてキャリアアップ。
ピーク時の年収は1200万円に上り、充実した生活を送っていた。
ところが、現在の年収は約300万円と4分の1に。
一時は生活保護の申請に足を運ぶなど、生活に困窮していた。
彼の身に一体何が起こったのか。
最初のきっかけは、病気だった。
2005年頃に、大手通信会社系企業に転職。
その後、スマートフォンの新商品発売に向けた連日の激務がたたり、脳の病気で倒れた。
3カ月で復帰すると、今度は職場でパワーハラスメントを受けた。
「いつ倒れるかもわからない人に、年収1000万円ものコストをかけたくないから、
早くやめさせたかったんじゃないか」
と男性は振り返る。
さらに不幸は、重なる。
しばらくして今後は、母親が心臓の病気で倒れた。
都内のマンションから東京郊外にある実家に戻り、看護をしながら通勤する生活に。
通勤時間は片道2時間半。
終電に間に合わず、週の半分は、サウナに寝泊まりしていたという。
それでも親の看護と仕事の両立は、簡単ではない。
自分が倒れたときに、有給休暇を使い切っており、欠勤扱いになる日が、増加。
2011年末に、会社を解雇されてしまった。
解雇と同じくして、母親は他界。
さらに父親にも、肺がんが見つかり、母の死から数カ月後になくなった。
精神的にはどん底だったが、それでも働かなければ生活できない。
実家暮らしで家賃負担はなかったが、希望の仕事を見つけるのは難しい。
コンビニのバイトを始めた。
生活保護の申請にも行ったが、持ち家と数十万円ほどの貯金があるから、
認められないと担当者は、にべにもなかった。
その後、家を300万円で売却。
友人たちの誘いなどもあり、貯金を元手に都心に戻ってきた。
現在はITの知識を生かして、フリーのコンサルタントとして生計を立てている。
だが病気などで、働けなくなったらどうなるのか、老後はどうするのかを考えると不安は募る。・・》
注)原文にあえて改行を多くした。
私は東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉秋、満二十歳となり大学2年の時に中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画、文学青年の真似事をしたが、やがて敗退した。
そして何とか大手の民間会社に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。
まもなく音楽事業本部のあるひとつの大きなレーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこの新設されたレコード会社に転籍させられ、
制作に直接かかわらないコンピュータを活用した情報畑を20年近く配属されたり、
経理畑、営業畑などで奮戦した。
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。
こうした中で、1998年(平成10年)に中小業の多い音楽業界全体の売上げピークとなり、
この少し前の年からリストラ烈風となり、やがて私も出向となり、
各レコード会社が委託している音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤めたりした。
そして遠方地に5年半ばかり通勤し、何とか2004年(平成16年)の秋に出向先で、
定年を迎えることができたので、敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。
今回のある50代の男性サラリーマンの転落していく軌跡を読みながら、
つたないサラリーマン航路を私は35年近く勤めた身であり、
この間に大病に遭遇したり、自分の敵は自分だ、と自身を叱咤激励しなければ、
現在の年金生活には、たどり着けなかった、と改めて思い深めたりした。
こうした心情を思い重ねると、この御方は外資系IT企業などでエリートビジネスマンだったが、
大病に遭遇した後は退社となり、そして転職後の会社では激務がたたり、脳の病気で倒れた。
そして3カ月で復帰すると、今度は職場でパワーハラスメントを受ける中、
実家に戻り、母親の看病、やがて死去、そして父親の病死を看取りながら、遠方に勤務先に通勤したが、
やがて解雇・・。
こうした転落していく軌跡を読むと、ある日突然に大病に遭遇したり、
ここ10数年、常時リストラ時代に解雇されて、再就職がままならずに困苦する御方、
私とは縁のないエリートビジネスマンでも、こうしたことはありえる、
と思いながら、この御方は余りにも不遇な連続に、私は涙を浮かべたりした・・。
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