私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活している身で、
年男でまもなく誕生日を迎えると満72歳を迎えるひとりである。
昨夜 愛読しているネットの『ダイヤモンド・オンライン』を見ている中、
【 人生を大切にしたいなら、日常を大切にしなければならない 】と見出しを見て、
私は瞬時に賛意して、クリックして記事を読んでしまった。
この記事は、『ダイヤモンド・オンライン』の中で、『ライフスタイル』分野があり、
昨今は『 フィンランド人が教えるほんとうのシンプル 』連載記事がある。
《・・この連載は、フィンランドで生まれ育った私が、日本のみなさんに「フィンランドのシンプル」をお伝えするものです。
私の最新作『フィンランド人が教えるほんとうのシンプル』(モニカ・ルーッコネン/ダイヤモンド社)より、
記事を厳選してお届けします。
フィンランドの人びとの考え方、生き方、そして少しでもフィンランドの風を感じてもらえたらうれしく思います。・・》
と明記されていた。
そして著作者・モニカ・ルーッコネンさんが綴られ、
今回は【第3回】として『人生を大切にしたいなら、日常を大切にしなければならない 』として、
2016年9月21日に配信され、無断ながら転載させて頂く。
《・・人生を大切にしたいなら、日常を大切にしなければならない
☆日常を通りすぎず、立ち止まる
私は、図書館の自習室で、この文章を書いています。
今朝は少々雨が降っていましたが、自転車で図書館まで5キロ走ってきました。
冷たい新鮮な空気。さわやかな夏の香りがしました。
仕事が終わって、家までサイクリングするときも、少しだけ立ち止まります。
勢いよく流れている川、川の表面に跳ね返るような雨粒。
これらの一瞬が私の大きな喜びです。
さて、「日常」とはなんでしょうか?
そんなこと考えたこともないかもしれませんね。
私にとって日常は「人生そのもの」です。
人によっては、日常というのはつまらない、ワクワクしないものかもしれません。
しかし、私はそうは思いません。
毎日を充実させることが、より素敵な未来をつくります。
ふつうのことであっても、そのふつうの日常を大切に思うことが、大切なのです。
「一度きりの人生だから、人生を大切にしよう」
と考える人であっても、毎日をなんとなく過ごしている人は、多くいます。
しかし、その大切な人生というのは、無数の日常で成り立っているのです。
よって、日常こそが大切なのです。
特別なことをする必要はありません。
より多くのモノや、より多くのお金も必要ありません。
ただ、この毎日を大切に思えばいいのです。
時間は「一瞬」から次の「一瞬」に流れていきます。
一瞬は一瞬ですが、その一瞬の集まりによって日常がかたちづくられ、人生が成り立っていきます。
毎回の食事、誰かとの会話、歩くときの一歩、呼吸さえも意識して
大切におこなうことができれば、毎日は豊かになり、素敵な人生につながるはずです。
なにげない日常において、ちょっとだけ立ち止まり、
世界の不可思議を楽しんでみるのは、どうでしょうか。
その一瞬一瞬を十分に満喫することは、きっとあなたの人生を豊かにするはずです。
☆財布を持たない、ぜいたく散歩
私は、一瞬を大切にするために「1円もかからないシンプルなこと」を楽しむようにしています。
人とは違った特別な体験や、大きくて豪華で新しいモノを手に入れることなど必要ありません。
そうではなく、お金のかからないもの、すでに持っているもの、すぐそこにあるものに価値と意味を見出しましょう。
生活の中のシンプルで、小さなことを楽しむ。
そこからワクワク感は、生まれます。
たとえば、仕事で新しい人とつながること、なにげない雑談がおもしろい会話に広がったりすること。
マグカップの中から、ただよう濃い紅茶の香り、仕事に行く途中の車の中で感じる一日の光の変化、四季の変化。
それから、夕方のウォーキングで見る木々、新鮮な空気の香り、海の音。
娘が前回よりも、うまくテニスのボールを打てたこと、
運転中に心に染み入るようなクラシックの音楽が流れてくること、
図書館でたくさんのおもしろそうな本に出合うこと・・・。
私は、建築が大好きです。豪華な家に住んでみたいということではありません。
いろいろな建築を見るのが、好きなのです。
通りを歩いていると、見とれてしまうような素敵な建築を見つけます。
光の反射のしかたで、建物のかたちやディテールが見えたりします。
いつもと違う道を歩いたとき、いままで見たこともなかった建物に出合い、びっくりすることもあります。
「誰が住んでいるのだろう? 」「どんなお仕事かしら? 」
「家の中はどんなだろうか? 」と考える時間が大好きです。
建築を見ながらぶらぶらすることは、私にとって、お金のかからない、財布もいらないぜいたくな散歩なのです。
人生の速度を緩めてまわりを見渡してみると、小さくてシンプルかもしれないけれど、
たくさんのおもしろいものが、見つかるはずです。・・》
注)原文にあえて改行を多くした。
私は民間会社の中小業に勤める中、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
定年前の6年前の頃からリストラ烈風となり、やがて私もあえなく出向となり、
何とか2004年(平成16年)の秋に定年を迎えることができたので、
敗残者のような七転八起の35年近くのサラリーマン航路を過ごした。
このように悪戦苦闘の多い中で、敗残者のような状況であったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活を始めた・・。
そして雑木の多い小庭の中で、古惚けた築後38年の一軒屋に、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
午前中の殆どは、平素の我が家の買物は、家内から依頼された品をスーパー、専門店で求め、
買物メール老ボーイとなっている。
この後、独りで自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などを歩いたりしている。
私は今住んでいる地域に、結婚前後の5年を除き、66年ばかり住み、
戦後から今日まで急速に変貌してことに、心を寄せたりして愛惜感もある。
そしてイギリスの湖畔詩人と称されたワーズワースは、湖水地方の緩やかな谷と丘が連なる道、
或いは小さな町の田舎道を、何十キロでも平気で歩いたと伝えられているが、
私も少しばかり真似事をして、歩き廻ったりし、季節のうつろいを享受している。
こうした時の大半は、帽子を被り、スポーツシャツとアウトドアの丈夫な長ズボン、
ウオーキング・シューズの容姿となっている。
そして紳士バックを園児に真似て、斜め掛けして、颯爽と歩いたりしていることが多いが、
大半はデジカメをネクタイのように首から掛けて、歩いている中で瞬時に魅了された状景を、
一期一会ねぇ、と思いながら撮ったりしている。
こうした根底には、定年前の私は、現役のサラリーマン時代は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた・・。
こうした家内のささやかな時間を壊すのは、天敵と私は確信して、
定年後の年金生活を始めた時から、私はこのような午前中の生活を過ごしている。
午後の大半は、私は随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
こうした中、家内は相変わらず料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
私はせめてと思いながら、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
何かと愚図な私でも、素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
帰宅後の午後の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
こうした生活は、小庭の手入れ、家内と共に都心に買物、冠婚葬祭、国内旅行などに出かけない限り、
大半はこのような日程で過ごして、まもなく年金生活を丸12年となる。
年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。
私たち夫婦は幸運にも、これまで大病に遭遇せずに、年金生活を過ごしてきた。
そして私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。
或いは駅前のスーパー、喫茶店、ファミリー・レストランなどで、
高齢者のご夫妻のしぐさ、会話が聴こえたりして、この人生の微笑みを感じたりしてきた。
こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
ときおり知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらく、と私は笑いながら逢ったりして、
日中はコーヒー、夕暮れからはビール、水割りのウィスキーを飲みながら、談笑をしたりしている。
或いは私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味のひとつであり、
観光ホテルなどの滞在する旅路が多く、こうした時に偶然に私たちと同世代、そして70代のご夫妻と、
ロピー、食事処で幾たびかお逢いすると、お互いに談笑したりして、私は多々学んだりしてきた。
こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
こうしたありふれた年金生活をしている中、日常生活が肝要、と思い深めて12年が過ぎ、
今回の記事を読みながら、瞬時に私は、そうですよねぇ、と賛意して、微笑みを重ねたりした・・。
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年男でまもなく誕生日を迎えると満72歳を迎えるひとりである。
昨夜 愛読しているネットの『ダイヤモンド・オンライン』を見ている中、
【 人生を大切にしたいなら、日常を大切にしなければならない 】と見出しを見て、
私は瞬時に賛意して、クリックして記事を読んでしまった。
この記事は、『ダイヤモンド・オンライン』の中で、『ライフスタイル』分野があり、
昨今は『 フィンランド人が教えるほんとうのシンプル 』連載記事がある。
《・・この連載は、フィンランドで生まれ育った私が、日本のみなさんに「フィンランドのシンプル」をお伝えするものです。
私の最新作『フィンランド人が教えるほんとうのシンプル』(モニカ・ルーッコネン/ダイヤモンド社)より、
記事を厳選してお届けします。
フィンランドの人びとの考え方、生き方、そして少しでもフィンランドの風を感じてもらえたらうれしく思います。・・》
と明記されていた。
そして著作者・モニカ・ルーッコネンさんが綴られ、
今回は【第3回】として『人生を大切にしたいなら、日常を大切にしなければならない 』として、
2016年9月21日に配信され、無断ながら転載させて頂く。
《・・人生を大切にしたいなら、日常を大切にしなければならない
☆日常を通りすぎず、立ち止まる
私は、図書館の自習室で、この文章を書いています。
今朝は少々雨が降っていましたが、自転車で図書館まで5キロ走ってきました。
冷たい新鮮な空気。さわやかな夏の香りがしました。
仕事が終わって、家までサイクリングするときも、少しだけ立ち止まります。
勢いよく流れている川、川の表面に跳ね返るような雨粒。
これらの一瞬が私の大きな喜びです。
さて、「日常」とはなんでしょうか?
そんなこと考えたこともないかもしれませんね。
私にとって日常は「人生そのもの」です。
人によっては、日常というのはつまらない、ワクワクしないものかもしれません。
しかし、私はそうは思いません。
毎日を充実させることが、より素敵な未来をつくります。
ふつうのことであっても、そのふつうの日常を大切に思うことが、大切なのです。
「一度きりの人生だから、人生を大切にしよう」
と考える人であっても、毎日をなんとなく過ごしている人は、多くいます。
しかし、その大切な人生というのは、無数の日常で成り立っているのです。
よって、日常こそが大切なのです。
特別なことをする必要はありません。
より多くのモノや、より多くのお金も必要ありません。
ただ、この毎日を大切に思えばいいのです。
時間は「一瞬」から次の「一瞬」に流れていきます。
一瞬は一瞬ですが、その一瞬の集まりによって日常がかたちづくられ、人生が成り立っていきます。
毎回の食事、誰かとの会話、歩くときの一歩、呼吸さえも意識して
大切におこなうことができれば、毎日は豊かになり、素敵な人生につながるはずです。
なにげない日常において、ちょっとだけ立ち止まり、
世界の不可思議を楽しんでみるのは、どうでしょうか。
その一瞬一瞬を十分に満喫することは、きっとあなたの人生を豊かにするはずです。
☆財布を持たない、ぜいたく散歩
私は、一瞬を大切にするために「1円もかからないシンプルなこと」を楽しむようにしています。
人とは違った特別な体験や、大きくて豪華で新しいモノを手に入れることなど必要ありません。
そうではなく、お金のかからないもの、すでに持っているもの、すぐそこにあるものに価値と意味を見出しましょう。
生活の中のシンプルで、小さなことを楽しむ。
そこからワクワク感は、生まれます。
たとえば、仕事で新しい人とつながること、なにげない雑談がおもしろい会話に広がったりすること。
マグカップの中から、ただよう濃い紅茶の香り、仕事に行く途中の車の中で感じる一日の光の変化、四季の変化。
それから、夕方のウォーキングで見る木々、新鮮な空気の香り、海の音。
娘が前回よりも、うまくテニスのボールを打てたこと、
運転中に心に染み入るようなクラシックの音楽が流れてくること、
図書館でたくさんのおもしろそうな本に出合うこと・・・。
私は、建築が大好きです。豪華な家に住んでみたいということではありません。
いろいろな建築を見るのが、好きなのです。
通りを歩いていると、見とれてしまうような素敵な建築を見つけます。
光の反射のしかたで、建物のかたちやディテールが見えたりします。
いつもと違う道を歩いたとき、いままで見たこともなかった建物に出合い、びっくりすることもあります。
「誰が住んでいるのだろう? 」「どんなお仕事かしら? 」
「家の中はどんなだろうか? 」と考える時間が大好きです。
建築を見ながらぶらぶらすることは、私にとって、お金のかからない、財布もいらないぜいたくな散歩なのです。
人生の速度を緩めてまわりを見渡してみると、小さくてシンプルかもしれないけれど、
たくさんのおもしろいものが、見つかるはずです。・・》
注)原文にあえて改行を多くした。
私は民間会社の中小業に勤める中、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
定年前の6年前の頃からリストラ烈風となり、やがて私もあえなく出向となり、
何とか2004年(平成16年)の秋に定年を迎えることができたので、
敗残者のような七転八起の35年近くのサラリーマン航路を過ごした。
このように悪戦苦闘の多い中で、敗残者のような状況であったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活を始めた・・。
そして雑木の多い小庭の中で、古惚けた築後38年の一軒屋に、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
午前中の殆どは、平素の我が家の買物は、家内から依頼された品をスーパー、専門店で求め、
買物メール老ボーイとなっている。
この後、独りで自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などを歩いたりしている。
私は今住んでいる地域に、結婚前後の5年を除き、66年ばかり住み、
戦後から今日まで急速に変貌してことに、心を寄せたりして愛惜感もある。
そしてイギリスの湖畔詩人と称されたワーズワースは、湖水地方の緩やかな谷と丘が連なる道、
或いは小さな町の田舎道を、何十キロでも平気で歩いたと伝えられているが、
私も少しばかり真似事をして、歩き廻ったりし、季節のうつろいを享受している。
こうした時の大半は、帽子を被り、スポーツシャツとアウトドアの丈夫な長ズボン、
ウオーキング・シューズの容姿となっている。
そして紳士バックを園児に真似て、斜め掛けして、颯爽と歩いたりしていることが多いが、
大半はデジカメをネクタイのように首から掛けて、歩いている中で瞬時に魅了された状景を、
一期一会ねぇ、と思いながら撮ったりしている。
こうした根底には、定年前の私は、現役のサラリーマン時代は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた・・。
こうした家内のささやかな時間を壊すのは、天敵と私は確信して、
定年後の年金生活を始めた時から、私はこのような午前中の生活を過ごしている。
午後の大半は、私は随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
こうした中、家内は相変わらず料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
私はせめてと思いながら、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
何かと愚図な私でも、素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
帰宅後の午後の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
こうした生活は、小庭の手入れ、家内と共に都心に買物、冠婚葬祭、国内旅行などに出かけない限り、
大半はこのような日程で過ごして、まもなく年金生活を丸12年となる。
年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。
私たち夫婦は幸運にも、これまで大病に遭遇せずに、年金生活を過ごしてきた。
そして私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。
或いは駅前のスーパー、喫茶店、ファミリー・レストランなどで、
高齢者のご夫妻のしぐさ、会話が聴こえたりして、この人生の微笑みを感じたりしてきた。
こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
ときおり知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらく、と私は笑いながら逢ったりして、
日中はコーヒー、夕暮れからはビール、水割りのウィスキーを飲みながら、談笑をしたりしている。
或いは私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味のひとつであり、
観光ホテルなどの滞在する旅路が多く、こうした時に偶然に私たちと同世代、そして70代のご夫妻と、
ロピー、食事処で幾たびかお逢いすると、お互いに談笑したりして、私は多々学んだりしてきた。
こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
こうしたありふれた年金生活をしている中、日常生活が肝要、と思い深めて12年が過ぎ、
今回の記事を読みながら、瞬時に私は、そうですよねぇ、と賛意して、微笑みを重ねたりした・・。
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